岩手の野づら

『みちのくの山野草』から引っ越し

大乗仏教の対応と『法華経』の成立

2018-05-10 09:00:00 | 賢治と法華経
《『100分de名著『法華経』』(植木雅俊著、NHK出版)の表紙》

 では次は「大乗仏教の対応『法華経』の成立」という節に入るのだが、それは「そうした状況の中で、大乗仏教が興ります」で始まり、「小乗教団の内部から、改革派として興ったとする説が有力です」という。そして次のように解説は続く。
 大乗仏教はまず「菩薩」をあらゆる人に開放しました。…(投稿者略)…しかし、彼らはそこに二つだけ例外を作りました。「声聞」と「独覚」の二つ(二乗)です。「声聞」とは師についてその教えを聞いて学ぶ人のことで、もともとは仏弟子一般を表す言葉でした。ところが小乗仏教では、これを小乗仏教では、これを小乗仏教の男性出家者に限定したことから、大乗仏教では小乗仏教を批判する言葉として用いるようになります。「独覚」とは師につかず単独で覚りを目指す(または開いた)出家者のことです。大乗仏教では、これらの小乗の出家者は仏になれないとしました(二乗不作仏)。これは、大乗の差別思想でした。
             〈『100分de名著『法華経』』(植木雅俊著、NHK出版)20p〉
 そういえば、小倉豊文は論考「声聞縁覚録(十三)」のタイトルとして用い、理崎 啓氏は『塔建つるもの-宮沢賢治の信仰』(理崎 啓著、哲山堂)の中において言及していたっけ、と「声聞」のことを思い出しながら、私は今まで「声聞」という言葉をいい加減に聞き流してきたことを恥じた。
 話を元に戻す。このテキストの著者植木氏は次のように解説を続けていた。
 このように、小乗には小乗の、大乗には大乗の差別思想がありました。両者の差別思想と対立を克服し、普遍的平等思想を打ち出すという課題を受けて成立したのが『法華経』です。…(投稿者略)…
 そして何より、『法華経』に一貫しているのは「原始仏教の原点に還れ」という主張です。
             〈『100分de名著『法華経』』(植木雅俊著、NHK出版)21p〉
このことに関しては、既に〝小乗と大乗の止揚が『法華経』〟において、
紀元一~三世紀頃、小乗と大乗の対立を止揚する、対立を対立のままで終わらせず、両者を融合させてすべてを救うことをことを主張するお経が成立します。
と植木氏から教わって目から鱗が落ちたところであり、改めてはそのようなことはないが、やはりアウフヘーベンする際の方法論として「原点に還る」ということはとても有力・有効な手段なのかなと思った。そしてそれはある意味、賢治研究の世界においても時代から今要請されているのかもしれない、と直感した。

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