《『宮沢賢治と法華経について』(田口昭典著、でくのぼう出版)の表紙》
では今回は〝教典について〟という節である。
周知のように、「雨ニモマケズ手帳」には曼荼羅の他に経典の引用も目立つ。このことについて田口氏は、例えば、
病気療養中に賢治の脳裏に去来したのは、法華経への帰依であったことと思わせる。この手帳の第一頁が妙法蓮華経如来神力品代二十一に由来していることでも、そのことがしれる。
〈『宮沢賢治と法華経について』(田口昭典著、でくのぼう出版)195p~〉と論じていた。実際には同手帳には次のように書かれていて、
【Fig.1 一頁~二頁】
この右側一頁に書かれている経文は、
当知是処
即是道場
諸仏於此
得三菩提
<『校本宮澤賢治全集 資料第五(復元版雨ニモマケズ手帳)』(筑摩書房)>この右側一頁に書かれている経文は、
当知是処
即是道場
諸仏於此
得三菩提
であるという。
そしてこの件に関しては、以前投稿〝〔当知是処〕〟で触れたように、宮下氏の次のような解説もある。
これは、国柱会会員必携の『妙行正軌』の巻頭にある句で、法華経の「如来神力品第二十一」からの引用である。訓み下すと、次のようになる。
まさに知るべし、この処は、
すなわちこれ道場にして
諸仏はここにおいて
三菩提を得 (岩波文庫『法華経 下』参考)
〈『イーハトーブと満州国』(宮下隆二著、PHP)21p〉まさに知るべし、この処は、
すなわちこれ道場にして
諸仏はここにおいて
三菩提を得 (岩波文庫『法華経 下』参考)
そして宮下氏は、賢治がこの手帳の冒頭にこの句を記した意図を、
賢治はこの手帳をつねに持ち歩くことで、賢治にとって、日常生活のすべてが修行の場となり、宗教生活の場となったのである。
〈同22p〉と推測していた。
なお小倉豊文によれば、こ続きは三頁に続いており、
【Fig.2 三頁~四頁】
<『校本宮澤賢治全集 資料第五(復元版雨ニモマケズ手帳)』(筑摩書房)> 諸仏於此 諸仏ここにおいて、
転於法輪 法輪を転じ、
諸仏於此 諸仏ここにおいて
而般涅槃 般涅槃したもう
この「道場観」は賢治が一九二〇(大正九)年十一月頃入会して法華経信仰団「国柱会」の会員必携の経本「妙行正軌」の巻頭第一に掲げた重要な聖句、「真読訓読どちらでもよい。一方をえらび至心念誦する」と註釈してあり、会員が本尊奉安の仏壇前に正座合掌して開扉前に「至心念誦」することになっているのである。
〈『「雨ニモマケズ手帳」新考』(小倉豊文著、東京創元社)50p〉転於法輪 法輪を転じ、
諸仏於此 諸仏ここにおいて
而般涅槃 般涅槃したもう
この「道場観」は賢治が一九二〇(大正九)年十一月頃入会して法華経信仰団「国柱会」の会員必携の経本「妙行正軌」の巻頭第一に掲げた重要な聖句、「真読訓読どちらでもよい。一方をえらび至心念誦する」と註釈してあり、会員が本尊奉安の仏壇前に正座合掌して開扉前に「至心念誦」することになっているのである。
という。
また田口氏も、
この三十二文字(投稿者註註:「当知是処……而般涅槃」のこと)を賢治が手帳に記したのは、賢治が大正九年に入会し、最後まで会員であった国柱会の会員が必ずもっている経本「妙行正軌」の巻頭第一に掲げてあったものだから、頭に叩きこもれていたか、手元に「妙行正軌」があったのであろう。…(投稿者略)…賢治は病床を法華経を修業する道場と考えたに違いない。
〈『宮沢賢治と法華経について』(田口昭典著、でくのぼう出版)196p~〉と推察していた。
それから田口氏は、同手帳では
・27~28p
・81p
・82p
等でも経文が引用されていると指摘し、その経文の解説をしていた。
なお田口氏は、手帳で「妙行正軌」から引用した偈にいくつか誤記があるが、それは賢治がそれらを暗記していたからであり、このことに基づいて、賢治は国柱会と深い縁がこの当時もあったと推測していた(同202p)。なるほど。
続きへ。
前へ 。
“〝『宮沢賢治と法華経について』より〟の目次”へ。
“岩手の野づら”のトップに戻る。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます