以下は前章の続きである。
たとえば、第一次近衛内閣の昭和12年(1937)7月7日に、支那事変のきっかけとなった盧溝橋事件が起こるわけですが、その12年の秋から翌年1月のはじめにかけて、駐華ドイツ大使のオスカー・トラウトマンが支那事変を収束させるため和平調停に乗り出したのに、なぜ近衛内閣はつぶしてしまったのか。
渡部
国民軍に武器、戦略のすべてを提供していたドイツが調停に入ろうというのだから、蒋介石も承知したはずです。
ところが、近衛が蒋介石に対して、「爾後国民政府を対手にせず」という有名な声明を出しましたね。
長谷川さんもご本でその点を指摘していましたが、戦争のいちばんの責任者である陸軍参謀本部が和平の機会を逃すべきではない、なんとかトラウトマン調停をのんでくれと主張しているにもかかわらず、戦争継続を決めた。
本当に、いまおっしゃった四人組はわけがわかりません。
そのときの力関係はどうなっていたのか。
長谷川
戦前に三度にわたり海軍大臣を、一度は総理をした米内光政は戦後、海軍の良識派、平和派のように言われ、プラスの印象を持たれていますが、このとき和平を主張する陸軍参謀本部側を会議の場で「政府を信用しないのか」と難詰しています。
結果的に、尾崎秀実を喜ばせる支那事変泥沼化、そしてさらに対米英開戦への道に踏み込んだことは日本史上の大きな悲劇だったと思います。
この稿続く。