映画と自然主義 労働者は奴隷ではない.生産者でない者は、全て泥棒と思え

自身の、先入観に囚われてはならない
社会の、既成概念に囚われてはならない
周りの言うことに、惑わされてはならない

【映画】こころ (日活 市川崑 夏目漱石原作)

2017年03月13日 22時01分39秒 | 邦画その他
『こころ』
日活 公開1955年8月31日 122分

監督    市川崑
製作    高木雅行
原作    夏目漱石
脚本    猪俣勝人
      長谷部慶治
撮影    伊藤武夫
      藤岡粂信
美術    小池一美
編集    辻井正則
音楽    大木正夫
助監督   舛田利雄

出演
先生.......森雅之
奥さん......新珠三千代
梶........三橋達也
日置.......安井昌二
未亡人......田村秋子
日置の父.....鶴丸睦彦
日置の母.....北林谷栄
日置の兄.....下元勉
旅の僧......久松晃
周旋屋......下絛正巳
先生の叔父....山田禅二
梶の父......伊丹慶治





『人間の愚かさを、内に秘めたまま秘密にすれば悲劇を生み、公にして皆で話し合えば喜劇になる』

1.『K』も『先生』も、二人共に最高学府で学業を究めた自分自身を、高潔な人間であり精神的にも完成された人間であると思い込んでいた.あるいは、そうした人間でありたいと望んでいたと言ってよいであろう.
その傾向は、『K』の方が強くあったようだ.『K』は伊豆の旅で出会った僧侶に、食ってかかるように話しかけて宗教の議論をしたが、僧侶が言葉に詰まると、一方的に『人間が出来ていない』と罵倒してしまった.

2.『先生』から結婚の申し込みを受けた後日、未だその話を『先生』が『K』にしていないことを知って、母親は怪訝な顔をした.
一つ屋根の下に、年頃の男二人と女一人が暮していたら、どの様な結果になるか容易に想像のつくことであり、それがため母親は『K』が下宿することを、初めは反対したのだった.
母親にしてみれば、『K』も『先生』も、二人共に娘を好きなのは分りきった事であったので、親友同士ならば二人でその点に対して決着をつけた上で、『先生』が結婚の申し込みに来たと考えたはずである.

3.これが、結論になります.
『先生』は学生に、自分の愚かさを詳細に書き記した遺書の手紙を書いたが、学生が受け取ったときには『先生』は死んでいた.
しかし本来は、『先生』は学生に直接会って話をするつもりでいたのであって、そうすれば『先生』は死ぬことは無かったと言える.
『皆で話し合えば喜劇になる』と先に書いたのですが、『先生』と学生が直接会って話をしていれば、少なくとも悲劇は避けられたのです.

4.『K』は『先生』も、お嬢さんを好いていることを知った上で、『先生』に対して、お嬢さんを好きなことを告白した.難しく考えることは止しますが、卑怯なことは『先生』も『K』も、何ら変わりはしなかったのであり、さらに言えば、『先生』の卑怯は目に見える卑怯であったのに対して、『K』の卑怯は心の中の格闘として存在する、目に見えない卑怯であって、相手の心を知った上でその裏をかく、悪辣な行為であったと言わなければなりません.

5.『K』は『先生』の、見え見えの卑怯な行為によって、自分の行った目に見えない卑怯な行為を、よりいっそう許されない行為として自覚することになったのでしょうか.その結果、『K』は綺麗事を並べた遺書を残して自殺してしまったのですが、つまりは、自分の卑怯な行為を秘密にしたまま死んでしまったと言えます.
『俺は、貴様の卑怯な行為によって、自分が行った卑怯な行為を自覚することになった』、もし『K』が『先生』にこのように話をしていれば、二人共卑怯な愚かな人間であったので、互いに理解し許しあうことが出来たはずなのですが.


人間は誰でも、自分が高潔でありたいと思い、自分の愚かさを話すことは容易なことではない.
なぜ、妻が不幸にならなければならなかったのか?
言い換えれば、どうすれば、妻の不幸を避けることが出来たのか、と考えると、

『人間の愚かさを、内に秘めたまま秘密にすれば悲劇を生み、公にして皆で話し合えば喜劇になる』








最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。