映画と自然主義 労働者は奴隷ではない.生産者でない者は、全て泥棒と思え

自身の、先入観に囚われてはならない
社会の、既成概念に囚われてはならない
周りの言うことに、惑わされてはならない

ドイツ零年 (ロベルト・ロッセリーニ 1948年 75分 イタリア)

2014年06月05日 07時28分05秒 | ロベルト・ロッセリーニ
『ドイツ零年』 (1948年 75分 イタリア)
監督  ロベルト・ロッセリーニ
製作  ロベルト・ロッセリーニ
脚本  ロベルト・ロッセリーニ
    カルロ・リッツァーニ
    マックス・コルペ
撮影  ロベール・ジュイヤール
音楽  レンツォ・ロッセリーニ

出演  エドムント・メシュケ
    エルンスト・ピットシャウ
    バーバラ・ヒンツ


子供の人権擁護
廃虚と化したベルリンの街、貧困にあえぎ、ぎりぎりの生活を強いられ、意欲も信仰も失った市民.廃墟は街並みだけではない、そこに住む市民の心も廃墟と言ってよく、戦後二年のベルリン、絶望と、戦争の傷跡から逃れることのできないすさんだ心が、一人の少年の心をむしばんで行く.

皆貧困にあえいでいることを知りながら、職泥棒と子供を追い払おうとする大人たち.
借家人を追い払おうとする家主.軍人だったことを知れるのを恐れ隠れ住むエドムントの兄.
ナチの残党を想わせる得体の知れない一味、その配下の教師、更にその配下の孤児を含む窃盗団.
自身に希望を見出すことのできない病身の父親.そして、米兵から貰うタバコを売る、そのわずかな収入を頼りに、希望を捨てずにフィアンセの帰りを待ち続ける姉ではあるけれど、夜毎出かける姉の姿は、誤解であったにしても、やはりエドムントの心を歪めて行ってしまったのでしょう.

ロッセリーニは戦争終結間際、無防備都市ではイタリア人民の団結を、そして戦火のかなたにおいては、アメリカ(外国)を頼りにしないことを訴えました.団結して自分達の力で国家を再建することの大切さを訴えたのです.
そして、前二作に続くこの映画では、描かれた通り、ロッセリーニの言葉にあるとおり、子供の人権についての認識を高めること、つまりは、戦争が終わっても未だに戦争の傷跡を引きずり続ける現実から、子供の心を守ること、明日をになう子供を育てること、子供の心の擁護が何よりも大切と考えたのだと想います.

ドイツに対する非難でも擁護でもない.それは当然なこと.イタリアにおいても現実はドイツとたいして違いはしない.が、自分自身のことは分かりにくい、からこそ、イタリアよりも悲惨な惨状のベルリンを舞台に描き、観せる事によって、子供の心を戦争の傷跡から引き離す必要性を説いたのでしょう.

独りぼっちになったエドムント、教師からも追い払われ、窃盗団からも追い払われ、そして、子供たちのボール遊びに加わろうとしたけれど、子供たちからも嫌われた.12,3の子供に戻ろうとしてもできなかったのです.なぜ、この様なことに、そう考えるとき、その要因は全て、戦争の傷跡を引きずっているためなのです.

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子供の人権擁護を訴える映画では、ヴィットリオ・デ・シーカが1946年に『靴みがき』を撮っていますが、現実は子供の人権擁護には程遠く、ロッセリーニもこの映画を撮ることにしたのだと思われます.

日本では、やはり1948年に、清水宏が『蜂の巣の子供たち』を撮っています.
戦後の闇屋、売春とぽん引き、そうした歪んだ大人の世界を、子供の視点から正す、独特な作品に描き上げました.































無防備都市 (ロベルト・ロッセリーニ 1945年 116分 イタリア)

2014年06月05日 07時04分57秒 | ロベルト・ロッセリーニ
『無防備都市』
監督  ロベルト・ロッセリーニ
原作  セルジオ・アミディ
脚本  セルジオ・アミディ
    フェデリコ・フェリーニ
撮影  ウバルド・アラータ
音楽  レンツォ・ロッセリーニ


出演  アルド・ファブリッツィ
    アンナ・マニャーニ
    マルチェロ・パリエーロ
    マリア・ミキ


イタリアにおける第二次世界大戦は、レジスタンスがムッソリーニ政権を倒したのだが、その後ドイツに占領され、イタリア軍はドイツ軍の支配下に置かれて、イタリア市民に銃を向けることになった.

もうすぐ戦争は終わるであろう.やっとそうした希望が見え始めたのだが、
1.市民に銃を向けたイタリア兵
2.拷問に耐えられず、口を割ってしまった人達
3.ファシスト(戦火のかなたで描かれる)
けれども、イタリア人同士が啀み合い、憎しみあう問題が.....



パン屋の襲撃シーン.
略奪行為はどの様な理由をつけても、良いわけがありません.けれどもそうしなければ、飢えて生きて行けない.悪いことだと分かっていながらやらなければならない、その戦争の、どこを探しても正義は存在しない. 戦争を続ける限り、正義は存在しない.つまり、戦争を終わらせることが正しい正義のはず.






子供のテロ行為.
一見それが正しい行為に見える.けれども少し考えてみれば、良い事か悪いことか.やはりどの様な理由があろうとも、人殺しをしてはならない.子供までこの様なことをしてしまう、戦争には正しい勇気なんて存在しない. 戦争を続ける限り、勇気は存在しない.つまり、戦争を終わらせることが正しい勇気のはず.





子供に正しい判断を求めても無理


アリナ.
麻薬とレスビアン、衣服が欲しかった、裕福な生活がしたくて、結局、恋人のマンフレディをナチスに売ってしまったが、この女の描かれ方は憎むに値しない単に愚かな女、と思える.
ドイツの将校が、「俺たちは憎まれものだ」、と自己批判を始めるけど、同じ部屋にアリナが居合わせる.確かにアリナは許されないものを残すが、それでも憎むな、ドイツ将校の自己批判は、悪いのは俺たちだ、イタリア人の側から言い換えれば、憎むべきはドイツなのだ、と言っているのでしょうか?.







ドイツ軍に媚を売って暮らしていた女達


脱走兵.
この人はイタリアの正規軍なのでしょう.ドイツ軍の支配下でイタリア人民と戦っていた.自分の間違いに気づいて脱走したのだけど、脱走兵の汚名はいつまでも付きまとわれる.それでも彼は自分の正しいと思う道を選び脱走した.この意味で、勇気のある人間であったはずだ.
彼は、拷問を恐れ自殺してしま.、その姿をいかにも臆病に描いているけど、本当に臆病な人なのかどうか?.



彼は自ら死を選ぶことにより、秘密を守り通した


マンフレディの拷問のシーン.
この拷問の苦しみを、本当に理解したのは誰かと言えば脱走兵であり、拷問が死ぬより苦しいことであり、自分には到底耐えきれない、そう思ったから自殺してしまったと言ってよいはず.そして、彼は自分の知っている秘密をきちんと守り通したのであり、一見ひ弱な人間に見える描き方なのだけど、実はそうではない、拷問に絶え抜いて死んだマンフレディと変わらない、強い人間と言えそうです.
マンフレディの拷問は、死ぬより辛いこと、理解できない苦しみ、二度と繰り返されてはならない悲劇であるのは言うまでもないことですが、同時に、拷問にあって口を割ってしまった者達を、裏切り者と言い捨てるのは簡単なのだけれど、裏切り者として責めることが出来ることなのかどうなのか?.









神父の銃殺.
「死ぬのは難しくない」「生きるのが難しい」、よろめきながら護送車から降ろされる神父は、付き添いの牧師にこう言う.一斉に銃を構えた兵は、皆、故意にねらいを外したが、結局はドイツの将校に撃ち殺される.
「死ぬのは難しくない、生きるのが難しい」、少し言い換えると、殺すのは簡単だ、だけど生かすのは難しい.もう少し言い換えれば、生かすのは難しいけど、殺すのは簡単だ.神父の銃殺のシーンは、神父の言葉通りに描かれている.






ローマの解放と共に撮影が開始された.まだイタリア北部では戦闘が続いているが、やがてこの戦争も終わるだろう.けれども、殺しあいを始めるのは簡単、戦争を始めるのは簡単だけれど、終わらせるのは難しい.

この映画を観ていて、ドイツ人とイタリア人がはっきり区別できなくて.最後に神父を銃殺する兵士はイタリア兵だと思うのだけど、皆がねらいを外した.神父の最後の言葉は、「神よ、彼らを赦し給え」.
イタリア人同士が、敵味方に別れてイタリアの国土の上で戦った.結果、多くの悲しみと憎しみを生んだのだが、誰もが、決してこの戦争を望んだのではない.憎しみを捨てて、団結して平和な国を築いて欲しい.(生きるのが難しい.殺し合った者同士が憎しみを捨てるのは難しい事なのだけれど)


特攻警察と大政翼賛会と国防婦人会と.....日本全国天皇経
日本にはレジスタンスが居なかった分、イタリアより惨め

「爆弾は何処に落ちるか分りません.逃げなさい」と、アメリカ軍がビラを撒いたので、市民は山へ逃げた.けれども市役所は、「戻ってこないと配給をやらないぞ」と市民を呼び戻して、爆撃で殺したのだった.日本の市役所は、ファシストよりもっと悪い奴の巣窟だった.

こいつらは皆イタリア人である.

日本兵も中国人その他、行く先々で現地人を強姦しまくったのだが

残念ながら若干のオランダ人女性を除いて、金髪女性を強姦するには至らなかった.....








馬鹿げた死

すぐに護送車を襲撃して救出された.

「母さんのマフラーを」、子供との別れの会話の時間によって、逮捕を逃れた.