身体の声を聞く

腰が痛い、眼がかすむ、気が重いなど、
身体からの言葉に向かい合ってみます。

瞑想の動機

2006-11-19 01:44:02 | 意識
「禅」では「無」なりなさいと言われます。
「瞑想」では「あらゆる感謝」をイメージしなさいと
書かれている本もあります。
私はたまに眼を閉じて座ったりします。
太極拳をしていると手に流れる気を感じます。
そんな感じで身体のいろんな所に
気を動かそうとしたりしています。
最終的に自分は座って何をしたかったのだろう?
と考えたりします。
ちょうど読んでいる本にこんな事が書かれていました。

なぜ瞑想しているのか?
なぜ、プラス思考にしようとするのか?
そうしようとする心の奥には何があるのか?
その動機を振り返ってみてください。
それは、欲にかられた野心かもしれない。
人を傷つけても気にならない狭い心かもしれない。
独りよがりの願いは
宇宙の大きな流れの中で淘汰されてしまいます。
だから、瞑想の動機を
もう一度振り返ってみてください。

私は何のために座るのか?
瞑想に何を求めるのか?何に気づきたいのか?
それを知るため??

自分の中の自分

2006-11-10 07:45:52 | 意識
自分があこがれるような素晴らしい人間になりたいと思う。
でも、そのためには自分の劣った部分に気づく必要があります。
瞑想とかで内観して、その部分にスポットを当てると
自分の一番深いところで、傷ついて
情けなく膝を抱えてうなだれている自分がいるのに気づきます。
それを見ると、思わず涙が出てしまい、
この情けない奴をなんとか救ってあげたい。
立派に育ってほしいと思う。
「自己愛」から離れて、「人を思い」「民族を思い」「世界を思い」
「宇宙を思う」神のような存在に近づいていってもらいたい。
自分自身に対して、まるで親が子を思うような
気持ちになってくるのです。それが菩提心。

でも、自分の奥底のもう一人の自分が
そこまで成長する前に、みんな力尽きて
寿命を終えてしまうのがこの世なのです。
わかってはいても「自己愛」は捨てられない。
全てのものを平等に見られる「菩提心」によって
人も自分も、この世界全体が変わっていくはずなのですけど。

瞑想の本にこのような内容の事が書かれれていました。
確かに私の中にも膝を抱えてすねている奴がいるのでしょう。

時は命です

2006-11-05 07:34:25 | 意識
「時は金なり」という言葉がありますが
本当は「時は命です」。
お金は、いざとなれば誰かに借りたり
働けば手に入りますが
失ってしまった時間は取り戻せません。
世の中には時間を捨てて歩いている人が
結構いるようです。
落ち込んでいる人を勇気づけてあげることはできても
「あなたはこんなにたくさん時間を落としてますよ。
わたしが拾っておきました」と渡すわけにもいきません。
茶道で「一期一会」という言葉があります。
「この一瞬は二度とない一瞬だから、
この一瞬のご縁を大切にしよう」というような意味ですが
その気持ちが時間を大切にするということです。

と、またまた読んだエッセイのメモですが。