2011年5月1日 東京都
品川宿の町並み
東京都品川区
東海道五十三次といわれる江戸-京都間の五十三の宿の中で品川宿は諸街道の最初の宿場町である。旅人は品川宿を経由して西を目指し、また家路に着いた事から「東海道の玄関」として栄え、宿内の家屋は1600軒、人口7000人規模で賑わっていた。今でも品川宿周辺は江戸時代と同じ道幅を保ち、かつての宿場町として活気が息づいている。
▼ 品川宿の松
この松は、 旧品川宿のシンボルとなる「街道松」として、 東海道が取り持つ縁で、二十九番目の宿場があった静岡県浜松市の有賀慶吉氏より品川区に寄贈された樹齢約八十年の黒松です。斜めに傾いた幹は、 風雨に耐えながら旅人を見守った当時の松並木を偲ばせる見事な枝ぶりです。松の名称は、 寄贈された有賀氏より「品川宿の松」と命名されました。また、約百五十メートル南の「南品川二丁目児童遊園」には、三島市より同じ趣旨で寄贈された「街道松」があります。 平成五年三月吉日 寄贈
▼東京六地蔵
像の高さ二・七五メートル。深川の地蔵坊正元が発願し、江戸市中から多くの賛同者を得、江戸六地蔵第一番として、宝永五年(一七〇八)に造立したものである。製作者は、神田鍋町の鋳物師太田駿河守正儀である。像の衲衣部をはじめ蓮辨、石基などに寄進者等の名を陰刻し、奉賛者がいかに多かったかがしのばれる。
なお、江戸六地蔵は次のとおりである。
品川寺 品川区南品川三丁目
東禅寺 台東区東浅草二丁目
太宗寺 新宿区新宿二丁目
真性寺 豊島区巣鴨三丁目
霊巌寺 江東区白河一丁目
永代寺 江東区(消滅)
▼浜川橋(涙橋)
浜川橋
立会川が海に注ぐこの辺りの地名「浜川」から名付けられ、またの名を「涙橋(なみだばし)」と言い、現在の橋は昭和9年(1934)に架け替えられたものです。
涙橋の由来
慶安4年(1651)に、この先に「お仕置場(鈴ヶ森刑場)」が設けられ、処刑される罪人は裸馬に乗せられて江戸府内から刑場に護送されましたが、この時、親族らが密かにお見送りに来て、この橋で共に(涙)を流しながら別れたということから、「涙橋」と呼ばれるようになりました。 平成十五年三月三十日 品川区教育委員会
▲浜川砲台跡
浜川橋のたもとから立会川が海にそそぐところまでが、土佐藩抱屋敷であった。幕府への「差出」によると869坪が抱屋敷の広さである。(抱とは拝領と異なり買入れ、借用していたものである。)ここは土佐から送られて来る物資の荷揚げ地であり、立会川から荷を陸上に上げていた。ペリー来航の嘉永6年(1853)土佐藩は砲台築造の「願」を幕府に提出し許可を得て、翌年、砲台を造った。浜川砲台といわれた。砂浜のやわらかい土地を、石、土砂で埋め立て、2300坪に拡大させている。砲台は8門を設置していた。警備陣は品川下屋敷を宿所としてこの砲台に配置されていた。浜川砲台と品川下屋敷を結ぶ、連絡路は現在の立会川商店街の道路であり、その距離、約200メートルである。若き日の坂本龍馬も警備陣に加わっており、この道を毎日歩いていた。 【若き龍馬の足音】
▲工事現場のフェンスに描かれた竜馬
▼ 立会川駅周辺
▲竜馬像
竜馬が世界と出会った町品川
ペリーが初めて来航した嘉永6年(1853年)、19歳の坂本龍馬は藩からの許可を得て江戸で剣術修行中でした。土佐藩は立会川河口付近にあった下屋敷(今の品川区東大井)警護のため、江戸詰めの武士を動員し、龍馬もその中に加わりました。同年9月には「異国船処々に来り候へば、軍(いくさ)も近き内と存じ奉り候、其節は異国の首を打取り・・」と、父親に手紙を書いています。品川での黒船警固から竜馬の幕末は出発したのです。
▲立会川 二十歳の竜馬像解説
▲旧道から国道15号へ(品川宿出口)
▲品川宿出口を西から撮影
cosmophantom
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