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土山宿の街並み(滋賀県甲賀市)(東海道五十三次の49番目)

2011-08-12 09:30:55 | 町並み

2011年7月29日 滋賀県

土山宿の街並み

滋賀県甲賀市

土山宿(つちやましゅく、つちやまじゅく)は、東海道五十三次の49番目の宿場である。現在の滋賀県甲賀市にあたる。明治の鉄道交通では、坂下宿同様、鈴鹿峠の急勾配が蒸気機関車の仇となり、西寄りの寺庄経由となった。鈴鹿馬子唄に「坂は照る照る 鈴鹿は曇る あいの土山雨が降る」と歌われる。

▲屋号札

 ▼一里塚跡

旅行者の便をはかって、街道の一里毎にその目印として設置されたのが一里塚である。この制度が整ったのは、慶長8(1603)家康が日本橋を仮設 し、翌9年この橋を起点として東海、東北、北陸の諸街道を修理し、その折一里(36町)毎に道の左右に相対して一里塚を築き、塚の上に榎などの木を植えて遠くからでも望見できるよう旅行者の便をはかったことにはじまっている。甲賀市土山町内の設置場所は、山中地先、土山地先、大野市場地先であったが、現在その跡はほとんど残っていない。土山のこの地名を一里山と呼称しているのも、この一里山に起因している。塚の規模は、およそ高さ2.5メートル、円周12メートルの大きさであったらしい。この近くで塚の形をほぼ残しているのは亀山市の野村一里塚で、塚の上には椋が植えられている。土山の町並みを愛する会 平成7年3月土山町教育委員会

 

 ▲森伯仙終焉の地(井筒屋)▼

文豪森鴎外の祖父白仙は、文久元年(1861)11月7日この井筒屋で没した。鴎外が明治33年に記した「小倉日記」で明らかなように、森家は代々津和野藩亀井家の典医として仕えた家柄である。白仙は長崎と江戸で漢学・蘭医学を修めた篤学家であった。参勤交代に従って江戸の藩邸より旅を続けるうち、この井筒屋で病のため息をひきとったのである。のちに白仙の妻清子、一女峰子の遺灰も、白仙の眠る常明寺に葬られた。平成4年3月 土山町教育委員会

平野屋は、鴎外が祖父白仙の墓参のために土山を訪れ、明治三十三年三月二日に一泊した旅籠である。「墓より寺に還りてこれを境内に移さんことを議す。固道(当時の常明寺住職)許諾す。」乃ち金を借りて明日来り観んことを約して去る。寺を出つるころおほひ天全く晴る。平野屋藤右衛門の家に投宿す。宿舎井筒屋といふもの存ぜりやと問ふに、既に絶えたり。」小倉日記 平成17年2月 土山の町並みを愛する会
 

 ▲問屋場 成道学校跡▼

 

問屋場は、公用通行の客や荷物の人馬継立、宿泊施設の世話、助郷役の手配など宿にかかわる業務を行う場所で、宿の管理をつかさどる問屋とそれを補佐する年寄、業務の記録を行う帳付、人馬に人や荷物を振り分ける馬指・人足指らの役人が詰めていた。 土山宿の問屋場は、中町と吉川町にあったとされるが、問屋宅に設けられていたこともあり、時代と共にその場所は移り変わってきた。明治時代の宿駅制度の廃止にともない問屋場も廃止されたが、その施設は成道学校として利用された。 平成十六年三月 土山の町並みを愛する会

▲問屋宅跡▼ 

 

近世の宿場で、人馬の継立や公用旅行者の休泊施設の差配などの宿駅業務を行うのが宿役人である。問屋はその管理運営を取りしきった宿役人の責任者のことで、宿に一名から数名程度おり庄屋などを兼務するものもあった。宿役人には、問屋のほかに年寄・帳付・馬指・人足指などがあり問屋場で業務を行っていた。土山宿は。東海道をはさんで北土山村・南土山村の二村が並立する二つの行政組織が存在した。土山宿の問屋は、この両村をまとめて宿駅業務を運営していく重要な役割を果たした。 平成十四年三月 土山町教育委員会

  ▲本陣跡▼

土山宿は、東海道の起点である江戸、日本橋より、106里32町、終点京都三条大橋まで15里17町余の位置にある。土山宿本陣は、寛永11(1634)、三代将軍徳川家光が上洛の際設けられた。土山氏文書の「本陣職之事」によってわかるように、甲賀武士土山鹿之助の末裔土山喜左衛門を初代として之を勤めた。本陣は当時の大名、旗本、公家、勅使等が宿泊したもので、屋内には現在もで当時私用されていたものが数多く保存されており、宿帳から多くの諸大名が宿泊したことを知ることができる。明治時代になると、皇室の東京・京都間の往来も頻繁となり、土山宿にご宿泊されることもしばしばであった。なかでも明治元年9月、天皇行幸の際には、この本陣で誕生日を迎えられて、第一回天長節が行われ、土山の住民に対し、御神酒・鯣が下賜され、今なお土山の誇りとして語り継がれている。本陣は、明治維新で大名の保護を失い、明治3年(1870)宿駅制度の廃止に伴いなくなった。平成3年3月25日 土山町教育委員会
 

▲大黒屋本陣跡▼
  

土山宿の本陣は、土山氏文書の「本陣職之事」によって、甲賀武士土山鹿之助の末裔土山氏と土山宿の豪商大黒屋立岡氏の両氏が勤めていたことがわかる。土山本陣は寛永十一年(1634年)、三代将軍家光が上洛の際設けたのがそのはじまりであるが、参勤交代制の施行以来諸大名の休泊者が増加し、土山本陣のみでは収容しきれなくなり、土山宿の豪商大黒屋立岡氏に控本陣が指定された。
大黒屋本陣の設立年代については、はっきりと判らないが、江戸中期以降、旅籠屋として繁盛した大黒屋が土山本陣の補佐宿となっている。古地図によると、当本陣の規模は、土山本陣のように、門玄関・大広間・上段間をはじめ多数の間を具備し、宿場に壮観を与えるほどの広大な建築であったことが想像できる。土山の町並みを愛する会 甲賀市教育委員会

 

▲陣屋跡▼
 

陣屋とは、江戸時代勘定奉行の配下である代官が在住した屋敷である。ここ土山宿の陣屋は、天和二年(1683)、当時の代官であった猪飼次郎兵衛のときに建造されており、瀬古川の東崖にあり、東西二十五間、南北三十間の広さがあったといわれる。 以降代官は入れ替わったが、宝永三年(1706)からは、多羅尾四郎右衛門に、そして明和八年(1771)より岩出陣右衛門らに引き継がれ、天明二年(1782)より、再び多羅尾氏に引き継がれていたが、寛政十二年(1800)の土山宿の大火災で類焼し、以後再建されず、百二十年の屋敷の歴史を閉じた。以来、陣屋は信楽に移り、多羅尾氏の子孫が世襲し、明治維新に至っている。 土山の町並みを愛する会 甲賀市教育委員会

 

 土山町は、平安時代に伊勢参宮道が鈴鹿峠を越える旧東海道筋を通るようになって以来、難所を控える宿駅として発達してきた。源頼朝が幕府を鎌倉に開くと従来の京都中心の交通路は、京都と鎌倉を結ぶ東西交通路線が一層重要視されるようになり、武士の往来のみならず商人、庶民の通行も以前に増して盛んになった。とくに江戸幕府は、伝馬制度を整備し、宿駅を全国的規模で設け、土山宿は、東海道五十三次の第四十九番目の宿駅に指定されてから、宿場町として真に隆盛しはじめた。 宿場の主体をなしたのは御役町で、そこには公用人馬の継立てなどをつかさどる問屋場、公用者の宿泊などのための本陣、脇本陣やそのほか公用にあたるものが住み、幕府は御役町の保護のために、地子の免除その他の特権を与えていた。この御役町を中心に一般の旅人のための旅籠や店、茶屋などがあり、全体が街道のわきに細長く宿場を形成していた。 平成七年三月 土山町教育委員会

▼ 道標 御代参街道起点

御代参街道(ごだいさんかいどう)は、江戸時代に近江国に整備された脇街道。東海道土山宿(現・甲賀市)から中山道小幡(現・東近江市)までの約36kmを結ぶ。「東海道脇街道」「北国越安土道」が正式名称。伊勢道、市道とも呼ばれる。

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