享保四年九月二日
一、上益城矢部浜町小一領大明神祭礼九月九日にて候 前々より宮下の氏子共笹踊りにて神事相勤め来たり候 当年も例年の如く右の踊りにて神事相勤め申し度由 御惣庄屋矢部次兵衛書付 御郡奉行衆より差し出し申され候に付 例書相添へ御家老中へ相達し願いの如く仰せ付けられ候事
ここも甲佐神社と同じく笹踊りである。催事は恐らく創建当初からのもので永い社史を背負って進化している筈だから甲佐神社の踊りとは自ずから違っていたであろうが、残念ながらそれを確認する術はない。
小一領という社名は小さな鎧一具という意味で阿蘇大宮司惟豊の長氏千寿丸(後の惟将)の初陣に当ってその武運を祈って奉納された小具足一領に因むものである。その戦とは、天文5年(1536)御船城主本郷安房守房行が島津になびき阿蘇家に叛いたので、惟豊は長子・千寿丸(当時17歳)を大将にして、甲斐宗運を補佐につけて御船城征伐の戦をしかけ快勝した合戦をいう。