生前、とくに親しくしていなくても、ストックホルムに何十年も住んでおられた知人が亡くなると、他人事のようには思えない。しかも、Wさんが最後の一時期を過ごされたホスピスは我が家のすぐ近くで、散歩するときよく横を通っている。お墓も散歩道にある。それで、自分なりの「お墓参り」に出かけた。途中、偶然にお会いしたTさんは, かってはWさんと親しくされていたので、案内がてら同行してくださった。
Wさんが亡くなったのは、ついこの間だと思っていたが、丁度、3年前の8月で、なんとわが母と同じ命日であった。そのときはちょうど日本にいたので、Wさんのお葬式には参列しなかった理由がわかった。
お墓にバラを1本供え、「じゃ、さようなら。元気でね」というと、Tさんは「もう、死んでいるのだから、元気でね、はおかしいよ」と言う。でも、死んだ人たちは、どこか別の世界で楽しくやっているような気がするのだ。しかし、リインカネーション・輪廻説によると、死ぬとまた、同じ地球上で別の人間になって生まれ変わるのだそうだ。同じ地球にまた人間になって生まれてくるなんて、なんだか夢がない。それより、花がいっぱい咲いている楽園で毎日過ごすのを期待したい。なに?お前なら針の山や、餓鬼地獄行きだって?うっ、ありうる!そうなると大変、天国行きのキップを貰うために、いまから善行を重ねる時間あるかな~。それより地獄での苦行に備えて体を鍛えておくほうが確実か?
新しいお墓
ついでにというか、Tさんは、墓地の新しく開発された部分を見せてくださった。キリスト教以外の人が眠るところという。場所全体が庭園のようでとても素敵だ。そばの森も自然な「借景」として様になっている。
手前に置いてある自然石が墓石。名前とかを書いてあるプレートを石に打ちつける。
奥のほうにある縦型の石も墓石。
こんなタイプもある。
ごく一般的なお墓。
無名・無縁の墓
一部にはかなり知られているが、スウェーデンでは無名・無縁の墓地にあたる ”ミンネスルンド(minneslund. minne=記憶、思い出。lund=林、小さい森)”がある。どこの墓場でも、そのような一角があり、骨壷はその地域のどこかに埋めてある。同行のKさんによると、そこに灰でまくケースもある。
ミンネスルンドのすごいところは、そこに葬られている人たちは、完全に個人としてであり、親きょうだい親戚などの係累には一切関係がないことだ。隣近所で一緒に眠っている人たちは、生前、自分とまったく関係のなかった人たちだ。ちょうど、電車で知らない人と隣り合わせに座っているように、知らない者同士がミンネスルンドに居合わせる。「XX家の墓」という存在の対極に位置しているのである。
家族の歴史を見ると、親戚なども含む大家族制度から、三世代家族、さらに核家族と、家族構成の成員数がずっと減少していく傾向にあった。いまでは、大都会での世帯の半分は単身世帯である。だんだんと家族のサイズが小さくなっていき、究極的にはひとり世帯になるのだ。ミンネスルンドのような場所があれば、死後の心配なしに "安心して" 死ぬことができる。
ひとりで生き、ひとりで無縁の墓地に入るのは、現代社会での先端をきる生き方ではないだろうか。たとえ家族があったとしても、無縁の墓地に入る自由もある。これを人間の開放とする見方もあるだろうし、反対に脅威と取られるかもしれない。いずれにしても、そのような選択肢は、スウェーデンにはすでに存在しているのだ。個人主義社会の究極がここにある。*
墓石は必要か?
それから、墓地にいるわれわれの間で、死んだ後は墓石がいるか、いらないかという、かなり興味深い話になった。例えば、Kさんは、すでに身内の灰を日本からもってきて、ミンネスルンドにまいている。自分のもそうしてほしいと、お連れ合いに話してあるそうだ。故人の想い出は、生きている人の心の中にあるのだから、わざわざ墓地を訪れる必要はないという意見だ。
他方、Rさんの場合は、亡くなったお連れ合いの骨を、遺言によりミンネスルンドに埋めた(実際に行うのは、家族ではなくて墓地管理局)。しかし、故人を偲ぶためそこを訪れても、どちらを向いていいのかわからず、ベンチに座っているだけで、とてもさびしいとよく言っていた。
しかし、これは残った家族に対する故人の心遣いなのかもしれない。このブログを書いてから、初めてそれに思い当たった。病気して亡くなった彼女は、まだ若い夫に、将来新しい伴侶ができるかも知れないと考えたのかもしれない。そのため、自分は邪魔にならないように、ひっそりと眠りたかったのかもしれない。これはあくまでに可能性としての憶測であるが・・。事実、その通りになって、今は新しいパートナーとの間に一児をもうけている(ついでだが、この社会は、同居・別居・結婚・離婚が多く、全然、珍しくない)。
わたしもどちらかというと墓石がほしい方だと思う。自分の家族以外にも、さようならを言わないで逝ってしまった人に挨拶するのに、墓はいい場所だと思う。例えば、1966年に亡くなった日本の友人には最期のお別れをしていないので、いまだにこころ残りである。彼女の墓のありかもしらないので、何だか彼女との関係が中途半端のままで終わっているような気がするのだ。
いったいに、スウェーデンの人は、自分のお墓のことはあまり考えていないようだ。お墓をどこにするかを聞いて見ると、「さあ、それは子どもたちが決めることでしょう」という答えが返ってくることが多い。つまり、無名の墓に入るのは自分で決めるが、墓石については、後に残る家族が決めるということだろう。それにしても、わがKさんはスウェーデン的というか、仏教国日本から一歩先を歩かれていることになる。
* 念のために、付け足しておきたいのは、「個人主義」は、よく「利己主義」と、混同されることだ。利己主義は、簡単にいうと「自分勝手で気まま」な考えと行為であり、個人主義は、自分の人生に積極的にかかわり、それの責任を自分が負うことをいう。周囲の状況を絶えず勘案しながら行うところが、利己主義の「自分勝手」と基本的に異なる。人間はひとりではいきていけない集団動物なので、周囲との関係を大切にするのは当然のことだ。
* * スウェーデンのミンネスルンドについては、家族社会学者の善積京子さんの著作を参考にされたい。葬送についてのビデオもある。