いつものように、洗濯物を目いっぱい放り込んで機械を回した。
しばらくして洗濯室を覗いてみると、機械から遠慮なくお湯がじゃあじゃあと床に流れ出ているではないか。洗濯機は酷使されるのに飽きて自死を決めこんだらしい。新しいのを買うしかないようだ。
それは仕方ないとしても、いっぱい放り込んである洗濯物はどうなる?どうなりもしない。お前が始末するのだろう?ということで、手で洗ってゆすいだ。
大量の洗濯物と取り組んでいる間中、なんだか気持がよかった。そして昔むかし、子どものころ、洗濯物はぜ~んぶ、手でやっていたことを思い出した。
一番最初に生まれた子どもは、家事をたくさん手伝う運命にある。それが女の子であればまず間違いはない。
その女の子であったわたしは、毎日、コンロにかかったお釜でご飯を炊いた。スイッチを入れるのではありませんゾ。細かく割った薪をくべて炊いたのだ。毎日、コンロのそばで火の番をしながら、本を読んでいた記憶がある。べつに苦痛ではなかった。同様に、たらいにはいった洗濯板を手で洗った記憶もある。毎日洗ったかどうかは分からないが、木でできた洗濯板というものを使って、文字通りごしごしと洗った。
今日は洗濯物を手で洗ったおかげで、昔の思い出とつながって、こころ懐かしいものとなった。わたしも、父も母も、そしてきょうだいも、とてつもなく若かった。その父母はいまはもう亡い。
これからも時々、手で洗濯してタイムマシーンに乗り、昔に戻ってみたい。