けれど(Credo)

I:キリシタン信仰と殉教 II:ファチマと現代世界 III:カトリック典礼、グレゴリオ聖歌 IV:「聖と俗」雑感

ファチマ・クルーセイダー

2012年12月06日 | Weblog
今や時が来た

ロシアを奉献することはカトリック・正教の
対話を害さず、助けるであろう(続き)

The Fatima Crusader Issue 91, February 2009 より

キャシー・ピアソン

再び、思索はいくつかの可能な説明を思いつかせる:

教会法上の領域。ロシアにはカトリック教徒よりは数的にはるかに多くの正教徒がいるがゆえに、とりわけロシアについての教皇のどのような行為も生意気なもの、「正教のなわばり」への侵入だと思われるのであろうか?もしこのことが問題であるならば、今はカトリックの教区の存在が少なくともそこでは受け入れられているから、そして活動はまず第一にカトリック教徒のロシア人たちに関係することとして見られ得るから、諸々の利益(もしそれらが、カトリック教徒たちが期待しているように起こるならば)はすべての人によって感じられるであろう。ロシアのカトリック教徒たちが1950年代にピオ十二世に奉献を請願したとき、彼らは単に数的に小グループであっただけではなく、抑圧されそして大部分は地下組織の少数派であった。

自尊心。ロシア人たちは、彼らが他の国の人々よりももっと回心する必要があるという提案によって侮辱されるのであろうか?ロシアの奉献をという聖母の要求は、単に回心へのその必要(すべての人々が、恩寵の状態にある人々でさえ、絶えず努力する必要がある事柄)ばかりでなく、またその未来の諸々の誤謬、迫害、殉教そして諸民族の絶滅をも議論するという文脈において語られた。この文脈は奉献を、それがそれ自身の本性によってそうでないとしても、一つの非難あるいは悪魔払いのように思わせるのか?しかし先に挙げた諸悪は一民族としてのロシア人たちと同一視されるよりもむしろソビエト共産主義と非常に広範囲に同一視されるからして、正教会のキリスト教徒たち - 彼らの多くはまたソビエト政権の下で大いに苦しめられた - はたぶん何らかの非難を彼ら自身に対してよりはむしろ彼らの以前の抑圧者たちに対して向けられたものと見るであろう。
聖母に奉献されるということ - 自らによってであれ、あるいは他の誰かによってであれ - がある個人の、あるいはある国の自由を制限するために何事をもなさず、そしてただ彼らを神の御母の愛すべき保護の特別の受益者とするということを明らかにすることは可能なはずである。この考えは無神論的な政権に対する呪いであるかもしれない。しかしロシアそしてロシア正教会がこれまでそうであったようにマリア信心に浸ってきた文化にとっては一つのより自然的な名誉であり得るであろう。実際、「聖なるロシア」がキリスト教世界そして救いの歴史において真に独自の役割を受け継いできたという考えを常に促進してきたのはロシア正教会である。

分派。「ロシアの回心」を目指している何らかのカトリックの祈り - 特に、ある人々がソビエトはすでに共産主義から回心したと感じているこのポスト・ソビエト時代に - は正教会からカトリックへの回心を目指しているものと解釈されるだろうか?(正教会からカトリックへの回心は、カトリック教徒の側では一つの完全に適切な要求と祈りの意向ではあるけれども、正教会にとっては神経過敏となる点であることは理解し得ることであろう。)
このことは、「縄張り」問題以上にさえ、単にロシア人としてだけではなくて、正教徒としてのロシア人正教徒に、そして異なった宗教統一体としての、そしてこのようにして信徒たちの心に対する可能的なライバルとしてのカトリック教会と正教会との間の関係に真に影響を及ぼす一つの可能的な反対である。宗教的回心問題がファチマ奉献に対する反対の基礎にある程度において、カトリック・正教会間対話が何らかの出来事において対決しなければならないであろうということは一つの根底にあるそして真正の論争の一つの徴候であるにすぎない。しかし以下に示されるであろうように、正教会 - あるいはカトリック - のロシア人たちが他の教会への回心によって彼ら自身の信徒を失うことについて持つであろう何らかの関心は、逆説的に、マリアの汚れなき御心へのロシアの奉献によって悪化させられるよりはむしろ改善されるであろう。

4. 世俗的な諸々の筋からの圧力。諸教皇あるいは他のバチカン高官たちが、奉献がもたらすであろう超自然的な諸利益を止めることに熱心である教会の外部のそして教会に敵対する脅しを行使する諸勢力からの圧力のためにロシアを奉献することを恐れたということが可能であるのと同じように、またバチカンが単に正教会に不快感を与えることを恐れたにすぎないのに、ロシアの正教徒たち自身はロシア内部の脅しを行使する非教会的な諸勢力からの圧力によって、彼らの反対において、刺激され得るであろう。このことがどのようにソビエト時代の間にそうであったかを見ることは容易である。例えば、教皇ヨハネ二十三世がバチカン公会議へのロシア正教会の参加のために交渉していた間がそうである。そのとき、ロシアにおける正教会は - 非常に多くの生命を奪った非道な迫害と殉教を生き延びた少数の人々 - はソビエト国家によってきつく統制され、そしてある場合には KGB 秘密情報部員たちによって潜入されていた。バチカンの交渉者たちにとって、彼らの正教会の交渉相手たちからの要求が教会人としての彼らから出たものかどうか - 例えば、神学的あるいは分派的な問題に関して - それとも国家からの要求として出て来たものかどうか、を知ることは困難であったであろう。教会人たちは微妙なあるいはあからさまな圧力によって前に進むことを強制されていたのである。
USSR ソビエト社会主義連邦共和国が歴史であるという事実は、ロシア正教会が敵対的なあるいは利己主義的な世俗の諸々の筋からの可能的な圧力 - 政治的、軍事的あるいは経済的な性質のものであれ - を免れていたということを意味しない。同じようにそれ自身のバチカン市国家において影響を与える有利さはカトリック教会を不適切な非教会的に動機づけられた外部の諸勢力からの似たような圧力から免れさせたわけではない。またバチカンは潜入を受ける恐れがなかったわけではない。諸々の事例が明らかにしているように、冷戦の最高潮のときにはソビエトのスパイたちが潜入していた。そしてある人々は羊の衣をかぶった悪魔主義者たちがバチカン官僚政治の内部へと徐々に取り入ろうとした、と言っている。キリスト教は絶えざる霊的戦争状態にあるから、サタンが現代戦争の師であり、そして可能であればどこででも彼の敵どもを - 特に聖職者の地位あるいはキリスト教共同体において他の指導的な立場にいる人々を - 攻撃するための隠された作戦を利用しているということを理解することは、カトリック教徒であれあるいは正教徒であれ、誰をも驚かすこと、また不快感を与えることであるはずがない。

あなたの友人たちと協同し、あなたの敵どもを理解すること

興味深いことに、人はファチマのロシア奉献に対する可能的な妨害の両方のグループについて - バチカンを思いとどまらせている諸理由と正教会に反対するよう動機づけている諸理由 - 振り返って見ることができる。そして妨害は実際には三つのタイプのものであるということを見ることができる:(1) 神の御母の力を退けるあるいは疑うタイプ;(2)聖母の力を認めそしてそれに反対する人々の圧力(彼らがその圧力を聖座あるいは正教会に、あるいはその両方に及ぼすかどうか);そして(3)カトリックと正教会との間の可能的な不一致の見せかけでない諸点、カトリックも正教会も両方とも神の御母を認め、たとえ彼らがそれがどこであるかについて必ずしもいつも相互に一致してはいないとしても、自分たちが聖母の側に立っていると考えている。

第一の問題は信仰の問題である。それは、例えば、反抗的な司教たち、マリアに対して否定的な教会イデオローグたち、あるいはもしロシアが奉献されてそして次に何事も起こらないならば、というスキャンダルを恐れる教皇たちのような、そのような可能的な諸問題を含んでいる。人がすることができることは少ない。しかしそれがどんなものであろうと、その過程において一つの役割を持ったすべての聖職者が彼らの職務に対して正しい態度をもたらす恩寵を与えられるように祈りなさい。

第二と第三の部類は行動 - お互いに非常に異なった種類の行動ではあるけれども - を要求する。しかしながら、両方とも、カトリックと正教の指導者たちが克服するために共働することができまたすべきである諸々の障害を表している。この陳述は両者にとって一つの驚きとして現れるかもしれない。しかしもっと綿密に見るならば、キリスト教の偉大な東方および西方の両者を結びつける可能性は両者を更に別れさせる可能性よりははるかに大きい。



バチカン広場でファチマの聖母のメッセージを広めているグル
ーナー神父(左)とダマスコおよびアンティオキアのメルカイト東
方帰一カトリック教会総主教、グレゴリオス3世ラハム閣下(右)。
大分派の悲劇はカトリック教会と正教会が信仰、祈り、文化、信心、典礼および秘跡の生活において非常に近いということ、そしてにもかかわらず何世紀にもわたって分かれたままであり続けたということである。両者はその神学と位階制度の起源を使徒時代のルーツにまで遡らせている。両者の信仰箇条は無数の信仰箇条のうちのただ一握りのものにおいて異なっている。両者は共通の歴史をもつそれぞれの千年間に分かち持っていた共通の聖人たちに共に祈願している。両者の典礼慣行は - 特にカトリシズムの東方典礼と平行する正教会を見れば - 無頓着な外部の人々にとっては区別することが困難であろう。神の御母の高い地位 - 神学、個人的な信心においてばかりでなく、歴史および人々の生活への聖母の介入の実際の経験においてさえ - はカトリック教会と正教会が分かち持つ一つの強力な統一の次元である。

地上においてそのように多くのことを共通に持っていること - そして天国においてそのように強力な一人の友人を持っていること - はカトリック教徒と正教徒が彼らを分けている諸々の点に誠実に取り組むという一つの共通の協議事項をもってお互いに対面し、そして両者が真の敵として認めている諸勢力に共に対面することを要求している。二つの挑戦を識別し、そして適切に対応することは注目に値する重要性を持っている。

エキュメニカルな袋小路を突破すること

最初に両友の間の諸々の区別を見てみよう。ファチマは正教の諸教会をローマと和解させないできた数世紀にわたる袋小路を突破する可能性を持っている。われわれは、両方の側によって明言された統一への欲求にもかかわらず、対話と神学的な議論に捧げられてきた多くの時間にもかかわらず、最近の諸教皇がこの使命に喜んで応じてきた最優先事項にもかかわらず、そして現在の教皇職においてさえの主要な打開にもかかわらず、事実は、統一がこれまでになかったほどにとらえどころのないものにとどまっているということである。諸世紀は、カトリックとオーソドックスを分けているわずかの、しかし主要な教会論の上での、そして教義の上での諸々の区別についてほんの僅かの運動しか見て来なかった。皮肉なことに、両者は、まさに、すでに非常に近接しているがゆえに、お互いに近づくことができないのである。

もし、カトリックとオーソドックスがプロテスタントの諸派、キリスト教諸派、神学的諸運動、あるいは自ら制定した牧師たちの集まりであったならば、彼らはテーブルの周りに坐り、そして彼らの諸々の教義を再考し、彼らの諸々の相違を妥協させることができたであろう。なぜなら、これらすべては人間によって造り出されたものだからである。しかし、正教の諸教会も、カトリック教会も彼らが教義、礼拝あるいは管轄権に関して妥協する権利を持っているとは感じない。

カトリシズムと正教はそれぞれ、自分が使徒の時代から真正のキリスト教教義を忠実に受け伝えて来た、そしてその典礼が最も初期の時代から有機的に発展して来た、そしてその位階によって主張され実行されて来た権威が連続した使徒的由来の権利と責任である、と公言している。

不変の真理と権威に対するこれらの主張はキリスト教世界のその他の諸派とは際だった対照をなしているので、それらはカトリックと正教の間に、両者を一緒にする一つの強力な紐帯を造りあげるであろう。そしてそれらはそうなっている。しかしただ、両者が忠実であるために、それ以上の妥協が不可能であると主張しなければらない点にいたるまで、そうなのである。そのような袋小路が単なる人間的な手段のみによって解決され得ないということは明白である。

そのことは、両者が同じ地理的領土において、あるいはおなじ人々の心におて、自分たちの影響力を増進させようと努めるときには、その並行的な努力が福音宣教をしなさいというキリストの呼びかけに忠実であろうとする二つの敵対的な教会を可能的な対立へと導くことになる。この事例においてはロシアとロシア人がそうである。例えば、どの程度まで、カトリック教会はロシア社会における推定された主要な声としてロシア正教会に譲るべきか?単に国外追放された諸々の共同体、あるいは「民族的なカトリック少数派」に奉仕するだけではなくて、ロシア人口の主流の間で、どの程度まで、ロシア正教会はカトリックの諸修道会、教区の諸々の構造そして宣教の諸努力のための余地を作るべきか?それぞれの教会はお互いの信者からの個人的な回心をどの程度まで受け入れるべきか?

ここ十数年の間に両方の方向における優れた個人の回心が見られた - ニューマンのように個人的にローマへの彼らの道を見出す正教の信者たち、そして彼ら自身の小教区における典礼上の大変動を逃れて正教の中に居場所を見出した少数の西欧のカトリック信者たちがそうである。

もし正教会が、彼らが、ロシアにおけるすべてのキリスト教徒たちが正教会に固着するのを見ることよりよいことは何も好まないということを認めたならば、そしてもしカトリック教徒たちが、彼らが、世界においてあらゆるキリスト教徒がカトリシズムを告白するのを見ることよりよいことは何も好まないということを認めたならば、友好的なカトリック・ロシア正教関係にとっていかなる障害もないであろう。カトリックと正教の両方の指導者たちは、結局のところ、彼らが実際、諸個人の大量回心かそれとも現在そうであるような分離を単に続けさせるか、そのどちらかに反対するものとして、かつての分派的な教会のアイデンティティを消すことなしに分裂を終わらせるであろう一つの解決をさえ、選ぶであろう。

しかし一方では、対話のテーブルにおける進歩は、結局のところ、神の真理に固着する義務から個人を軽減させることはできない。そこでは神の真理はその十全性において見出され得る。あるいは、自分は他の人々と共に分かち持つ真理を所有していると信じている人についてもそうである。真理に対する相矛盾する主張が提出されるところでは、神の永遠の真理に一致しないものは何であれ誤っているのであり、すべての真摯な信仰者はただ、彼らが実際は間違っていると主張するいかなる信念からも彼らが、そして他の側の人々が変えられるようにただ祈ることができるだけである。(続く)


ファチマ・クルーセイダー

2012年12月05日 | Weblog
今や時が来た

ロシアを奉献することはカトリック・正教の
対話を害さず、助けるであろう

The Fatima Crusader Issue 91, February 2009 より

キャシー・ピアソン

ニコラス・グルーナー神父からの導入的な注:
この論攷は別の雑誌によって最近公表された。われわれは、ファチマの聖母と善意のすべての人に、世界平和を、戦争によって引き裂かれたわれわれの世界にできる限り早くもたらす手助けをするために、2008年8/9月にそれが発表されたままに、許可を得てここに復刻する。われわれがそれをここに復刻するのはそれをもっと広く読んでもらうためである。われわれはそれを注意深くそして祈りをこめて読まれるようにお勧めする。それは読みやすいが、にもかかわらず非常に深遠に書かれている。それは善意の人の誰をも不快にしないであろう。それは有益で希望に満ち、客観的であり、攻撃的ではない。

真理を求めるすべての人々、ファチマの聖母を愛し聖母に仕えようと望んでいる人々、世界平和を望んでいる人々、東と西との間の、正教とカトリックとの間のより大きなそして真正の理解を求めている人々に対して、われわれはこの論攷を読まれるようにお勧めする。

それは、カトリックと正教、ロシア人とアメリカ人、伝統主義者と新しいミサの支持者、両方のすべての善意の人々に、最終的にマリアの汚れなき御心の勝利と全体的な世界平和をもたらすために共に集まる手助けをすることを触発するものであり得るであろう。

元の編集者の注:
2000年6月26日のファチマのメッセージに関する信仰教義聖省の文書は、1984年に奉献がなされた、そしてルチアがそれはなされたと言った、と明白に言っている。それに続くのは次のぶっきらぼうなコメントである:「それゆえに、これ以上のいかなる議論あるいは要求は根拠がない」。もちろん、この断言にもかかわらず、カトリック教徒はその問題を議論する自由を持っている。そしてそれが、キャシーが以下の論攷においてしていることである。深い信仰と伝統的な信心をもった一人のアメリカのカトリック平信徒であるキャシー・ピアソンは、教皇がもう一度マリアの汚れなき御心へのロシアの奉献を求めるべきであると論じている。われわれはこの重要でしばしば論争的な問題に関して読者からの手紙を歓迎する。


2007年半ばにロシア正教会総主教アレクセイ2世は、古い典礼に関するベネディクト十六世のモートゥ・プロプリオ(自発教令)スンモールム・ポンティフィクムの発令からカトリック教会と正教会との間の関係に対する一つの積極的な効果を予告した:「われわれは伝統を強く固守している。古代の典礼の伝統の回復と尊敬はわれわれが歓迎することのできる一つの発展である。」それゆえ伝統的なラテン語ミサに対する自由化のアクセスが他の諸教会との和解を妨げるというようなことはないのである。

今は、ファチマの聖母の一つの重要な御要求 - 教会のすべての司教たちと共に教皇によるマリアの汚れなき御心へのロシアの名を挙げての奉献 - が、そのようにすることがロシア正教会に不快感を与えるかもしれないがゆえに、文字通り果たされ得ないということを同様に主張する人々のこけおどしを再吟味する時である。継承されてきた歴代教皇たちがなぜ過去60年以上にわたって、そういうものとしてのロシアの奉献を行うべきでなく、行うことができず、あるいは行わなかったかを説明するためのすべての理由の中で、この理由は確かに全然説得的ではない。その反対に、ファチマはおそらく、カトリック・正教会の和解における行き詰まりを終わらせるための現代における最善の鍵を提供する。

ファチマの物語を一つの閉じられた書物だと宣言しようとするバチカンの精力的な諸努力にもかかわらず、持続的で正当な諸疑問が相変わらず存在する。それらの疑問のうちの一つは、ロシアの奉献をという聖母の御要求が教皇による一連の世界の奉献によって果たされたのか、そしてもしそうでないとするならば、ロシアに特定された奉献が今やなされるべきかどうか、という疑問である。

われわれは、読者がファチマ物語 - 3人の羊飼いの子どもたちへの1917年の一連のマリアの御出現をよくご存じだと思う。彼らは、御出現の後まもなく亡くなり、今や福者となったマルト・フランシスコとヤチンタのきょうだい、そして彼らのいとこのシスター・ルチア(彼女は修道女として老年まで生存し、そして修道院内でファチマの御出現と御発言に引き続く諸々の御出現と御発言を受け続けた)である。1917年10月13日、ファチマでの聖母の最後の御出現の間に7万人の立会人たちによって目撃された目を見張る「太陽の奇跡」によって助けられて、教会は以来ずっと長い間ファチマの諸々の御出現、奇跡そして公表された諸々のメッセージの真正性を承認してきた。

そしてわれわれは、読者が、教会の精神をもって考えながら、ファチマの奇跡の真正性、証人としてのシスター・ルチアの信頼性あるいは聖母に帰せられる既に明らかにされた言葉の内容に異議をさしはさむことはないと、思う。なぜなら、教会は諸教皇の長い継続を通じてこれらすべてに対してその承認の刻印を押してきたからである。

ファチマの聖母とロシア

そこで最初に、聖母はロシアについて何を言われたのか?1917年7月13日に3人の子どもたちへの御出現の間に、聖母はその当時彼らが明らかにすることを許されていなかったある事柄、そして秘密の「第二の部分」として知られるようになったある事柄を語られた。もし人類が神に背くことを止めないならば世界に落ちかかろうとする差し迫った懲罰を述べられた後に、聖母はこう言われた:「このこと(戦争、飢餓、教会の迫害による世界の懲罰)を避けるために、私は、私の汚れなき御心へのロシアの奉献、初土曜日に償いの聖体拝領をすることを求めるために再び来るでしょう。もし私の諸々の要求が聞き入れられるならば、ロシアは回心するでしょう。そして平和がやってくるでしょう。もしそうでないならば、ロシアは、諸々の戦争と教会に対する迫害を引き起こしながら、世界中にその諸々の誤謬を広めるでしょう。善人は殉教し、教皇は多く苦しみ、さまざまの民族は絶滅させられるでしょう。最後に私の汚れなき御心は勝利するでしょう。教皇は私にロシアを奉献するでしょう。そしてロシアは回心し、平和の一時期が世界に与えられるでしょう。」

そのようにファチマで聖母は奉献を、聖母が将来に要求なさるために再び来られるであろう何かあることとして述べられたのである。

その約束は、シスター・ルチアが当時スペイン、トゥイにあるドロテア会の修練女をしていた1929年6月13日に果たされた。彼女がチャペルで独りで祈っていたとき、聖母がファチマで御出現になったときと同じように御出現になりながら、御子の十字架の下でこう言われた、とシスター・ルチアは語った:

「神が、この手段によって世界を救うことを約束なさりながら、教皇に、世界のすべての司教たちと一致して私の汚れなき御心に対するロシアの奉献を行うように、お求めになる時が来ました。」

上に述べた初土曜日の要求 - そして毎日ロザリオを祈ること、スカプラリオを身につけること、罪人たちのために祈りや犠牲を捧げること、慎みのないファッションを避けることそして生活における自己の諸義務に忠実であることなどのようなファチマの他の諸々の要求 - が全体としての信徒に向けられているのに対して、この要求がとりわけ教皇に向けられている要求であるということに注目することは興味深いことである。そして聖母はそれを、聖母御自身から来るものとしてではなく、神から来るものとして提示なさっている:「神は教皇に....求めておられます。

このことは、われらの主御自身が2年後にシスター・ルチアに次のように語られたとき、理解されるものとなった:「私に仕える人々に、もし彼らが私の諸々の要求の実行を遅らせることにおいてフランス王に従うならば、彼らが不幸に陥ることで彼に従う者となるであろう、ということを、知らせなさい...彼らはそのことを実行するであろうが、しかしそれは遅いであろう。ロシアは既に、諸々の戦争と教会に対する諸々の迫害を引き起こしながら、世界中にその諸々の誤謬を広めているであろう。教皇は大いに苦しまなければならないであろう。」

これらの言葉を額面通りに受け取る人が、なぜロシアの奉献のこの要求、そしてそれに対する教皇の応答が決して小さな問題ではないのか、を理解することは容易なことである。聖母の諸要求が聞き入れられるならば、驚くべき祝福が約束され、もしそれらが拒絶されるならば、不吉な諸結果が予告されている。(シスター・ルチアの回想録が1942年に公表されたとき世界に明らかにされたこの「第二の秘密」は既に私的書簡によって教皇に伝えられていた。)

ファチマを真剣に受け止める人々の間には、ベネディクト十五世からベネディクト十六世までずっと継承されてきた諸教皇がおられる。両ベネディクト教皇は教会が1930年に御出現を公式的に承認したその正当な作業においてその前と後に位置する教皇である。この「私的啓示」から身を引くどころか、彼らは、諸々の贖宥を与え、汚れなき御心の世界的な祝日を制定しながら、それを公的な諸々の祈りをもって公然と採用された。またファチマの聖堂を訪問され、シスター・ルチアに書簡を送られ、あるいは彼女を訪問しておられる。そして数人の教皇たちは聖母のファチマの要求に対して明白に答えて奉献を行われた:

1942年にピオ十二世は、ロシアに言及しているものとして解釈され得た間接的な言及をしながら、マリアの汚れなき御心に世界を公的に奉献された。そして後に回勅「アド・チェリ・レジナム」において、1954年にその奉献を更新することにおいて御自分に加わるように世界のすべての司教たちに命じられた。
1952年に、ロシア・カトリック教徒たちによる一つの要求に応えながら、ピオ十二世はロシアとその国民とを汚れなき御心に奉献されたが、しかしそれは司教たちを伴わない一つの私的な儀式においてであった。
1954年のマリア年の間に、ピオ十二世は、御自分に加わるように司教たちを招かれて、1942年奉献を更新された。
第二バチカン公会議(1962年-1965年)の第3年目の終わり1964年に、教皇パウロ六世はピオ十二世の汚れなき御心への世界の奉献を更新された。そして教会全体を聖母の配慮に委ねられた。
1981年の暗殺未遂の間に御自分の生命が救われたことを公的にファチマの聖母のせいにされた教皇ヨハネ・パウロ二世は1981年の彼の健康回復の間に聖母の汚れなき御心に世界を奉献され、そして1982年に再び非常に公的な形で奉献された。
1984年3月に再びヨハネ・パウロ二世は御自分に加わるようにすべての司教たちを招きながら、マリアの汚れなき御心に世界を奉献された。多くの(しかし決してすべてのではない)司教たちは世界の至るところでさまざまの聖堂において同時的な儀式に参加した。
最後に、2000年10月に教皇ヨハネ・パウロ二世は、再び一つの非常に公的な儀式において、ほとんど1,500名の司教たちの列席の下で、「世界」をマリアの汚れなき御心に「委ね」られた。

彼らは何を恐れているのか?

その記録にもかかわらず、あるいはある仕方でそれのゆえに、ファチマ奉献のトピックは議論の余地のあるものとしてとどまっている。誰もが論争していないことは、バチカンの庭園におけるピオ十二世の私的な儀式を除いては、これらの行為のどれ一つもロシアを名を挙げて奉献しなかったということである。論争されていること - そして両方の側で声高に論争されていること - は、ロシアが明らかにその一部分である世界のこれらの奉献がロシアを奉献するようにという聖母の御要求に対する一つの適切な答だと「見なされている」かどうかということである。

ロシアは言及されることなしに奉献されることができるのか?バチカンはできる、と言い、その批判者たちはできない、と言う。しかしこのことは最も重要な問題ではない。回答を求める問い、しかし聖座が決して公的に取り組まなかった問題は、単純にこうである:なぜロシアに言及しないのか?なぜそのことはそのように考えられないことなのか?否定的側面は何なのか?

教皇ヨハネ・パウロ二世はその教皇職を、あう意味で彼のモットーとなった信徒に対する奨励の言葉をもって始められた:すなわち、「恐れるな」というモットーである。しかし「恐れる」は1930年代からまさに今日に至るまでのロシアを名を挙げて奉献するという考えに対するバチカンの反応をまさに記述する言葉である。それではいったい彼らは何を恐れているのか?

それは探求に値する一つの話題である。ソビエト時代の間、報復的な迫害の恐れが一つのありそうな - そして説得力のある - 説明と思われた。今日、さまざまの理由が考えられるであろう。しかし最も広く表明された今日の説明は正教会に不快感を与えるという恐れである。

確かに、その関心は教皇ヨハネ二十三世の頭の中で大きなものとして現れていた。ヨハネ二十三世はソビエト・ブロックに対する順応という政策へと導くバチカン公会議へのロシア正教会の参加を確実なものとすることに熱心であった。それで彼の後継者である教皇パウロ[六世]もまたペトロの座に上げられる以前そして以後もそのことを支持された。第二バチカン公会議とその諸文書は共産主義のいかなる非難宣告をも含まないであろうという彼らの惜しまれる約束を裏打ちする同じ論理はまたロシアの奉献を排除することに役立ったであろう。

共産主義は致命傷を負って地上に倒された。注1)しかし、カトリックと正教会の和解をしっかりした軌道の上に保つことはヨハネ・パウロ二世とベネディクト十六世両者の主要な関心事であり続けた。インサイド・ザ・バチカン誌が2000年11月に報じたように、ヨハネ・パウロ二世に最も近い相談相手の一人であるある指導的な枢機卿はオフレコで、教皇は、それがロシア正教会に不快感を与えるであろうがゆえに、いかなる奉献儀式においてもロシアに言及しないように助言されていたと、実際に述べた。明らかにバチカンの当局者たちは彼らがその恐れをはっきり述べたときに単にあれこれと推測していただけではない。ごく最近、一人の高位にあるバチカン消息筋は、正教会自身がバチカンに、もし教皇が奉献においてロシアに言及するようなことがあるならば、聖座とロシア正教会との間の対話は急に止まるであろうと率直に語ったと、述べた。

しかしなぜそれが正教会に不快感を抱かせることになるのか?

もしそのことが本当であるならば、それは、なぜどの教皇も - たとえどのようにファチマに関心のある教皇であっても - 敢えて名を挙げてロシアを奉献しなかったかという長い間のミステリーを解決するかもしれない。しかしそれはまたそのミステリーを一つの新しいレベルへと連れて行く。ロシアの奉献はなぜ正教会に不快感を与えることになるのか?

ある国の奉献は、結局のところ、呪いあるいは悪魔払いではない。それは一つの特別の祝福と保護とを呼び求めることである。マリアがある特定の国をそのような要求として一つだけ選ばれるのは、聖母の特別の母親としての愛情である。

われらの主が聖マルガリタ・マリアに、御自分の聖心にその国を奉献するようにフランス王に告げるように言われたとき、フランスはキリスト教世界の「長女」としてのその称号を取っておかれた一つのカトリック国であった。革命とテロの支配が諸悪となって現れたのはただずっと後になってからでしかなかった。その諸悪に対して、奉献は、それが要求されたときに実行されていたならば、その国を救ったであろう。

それとは対照的に、シスター・ルチアがポルトガルの司教たちに、彼らが彼ら自身の国を聖母に奉献するようにという聖母の特別の要求をもたらしたとき、彼らは幸せなことに、多くの人々が後に、スペイン市民戦争と第二次世界大戦の両方を通じてポルトガルを平和に保ったと信じた一つの司教団の行為においてその要求に応じた。

人は、祝せられた御母に栄誉を帰すどの国も、聖なるマリア御自身のよってそのような高位にあるものとして特別に選ばれることを一つの羨むべき特権と考えるであろうということを期待してもよいであろう。ロシア正教会はマリアを尊敬している。そして彼らがファチマの奇跡やメッセージをそのものとして受け入れないかもしれない一方で、キリスト教のある派とは違って、彼らは聖母が人類の歴史に個人的に介入することがおできになりそして介入なさるということを信じている。彼ら自身の伝統はしばしば特定のイコンと結びつけられた公的に受け入れられたマリアの諸々の奇跡や私的啓示で豊かである。

それゆえ、もし神学的な諸問題が障害を提出するために現れないならば、なぜファチマの奉献がロシア正教会に不快感を与えるのであろうか?このことを探求することは重要なことである。なぜなら、もし実際にその根底にある問題が何であるかが分かり、公然と述べることができるならば、おそらくそれらの問題は理性、善意そして真の対話に基づいて一緒に解決され得る。おそらく、そのとき、犠牲にされた奉献の諸利益よりはむしろ、障害が取り除かれ得る。(続く)

ファチマ・クルーセイダー

2012年12月04日 | Weblog
ファチマ・メッセージを個人的に生きること

The Fatima Crusader Issue 91, February 2009 より

われわれは聖母の緊急のファチマ・メッセージを広めるためにわれわれがすることのできるあらゆることをしなければならない。また、われわれは、頻繁な告解、ミサ聖祭、聖体拝領、祝せられた秘跡[御聖体]の礼拝ならびに聖なるロザリオを毎日唱えることを通じてわれわれ自身霊的に生きる努力をしなければならない。

ファチマ・クルーセイダーがファチマのメッセージを広めはじめて以来今日すでに30年以上の年月が過ぎた。

われわれは、あなたが、われらの祝せられた御母のファチマ・メッセージに対するあなたの個人的な熱心な献身、メッセージに対する支持そしてメッセージの熱烈な促進を再び始めるために本号によって心を動かされられるよう、祈っている。

ある人は聖母の勝利をもたらすために何らの進展もなされなかったと考えるかもしれないけれども、本号はその誤った印象を克服する助けとなるはずである。3ページから始まる最初の論攷「今や時が来た」の中にあなたは、他のカトリック出版物もまた今やファチマについてのよりよい理解を持っているということを見るであろう。

バチカンの壁の内部では一つの戦いが起こっている。ファチマの聖母に従おうと望む人々と自分たちは神の御母よりももっとよく知っていると考える人々とがいる。ファチマの聖母の敵対者たちがいとも聖なる三位一体によって与えられたロシアを奉献しなさいという荘厳な命令に従わない理由として提出している唯一の口実は、「われわれは[ロシア]正教に不快感を与えることを望まない」ということである。この口実は「今や時が来た」というその論攷においてそれがそうであるものとして - もはやどんな確実性をも持たない一つの虚偽の推論、一つの空虚な口実として - 暴露されている。この論攷を読み、そしてそれを人々に伝えてください。そして祈ってください、祈ってください、祈ってください!

ファチマ・クルーセイダー

2012年12月03日 | Weblog
今なお隠されている秘密のローマにおける公式紹介

教会の司牧者たちへ:「恐れてはならない」

The Fatima Crusader Issue 90, Winter 2008 より

ポール・クレイマー神父

アレッサンドロ・フーリニ博士による紹介:『悪魔の最後の戦い』という書物の編集者、そして『典礼における信仰を変えることは自殺的行為である』の著者、ポール・クレイマー神父を『今なお隠されている秘密』というこの新しい書物に関する彼の論評のために歓迎しましょう。

ファチマのメッセージおよびファチマの第三の秘密の重大性を完全に理解するためには、われわれはまず第一に教会によって何が教えられているかを理解しなければなりません。

霊魂たちの救い

教会法典の中にわれわれは次のことを読みます:salus animarum suprema lex est これは霊魂たちの救いは至高の法であるということを意味します。神の御母は上智の座(the Seat of Wisdom)です。そしてそれゆえに、聖母がファチマで御出現になり、世界に秘密を持って来られたことは霊魂たちの救いのためなのです。われわれに秘密をお与えになる聖母の主要な目的は実際、霊魂たちの救いです。

世界にこの秘密を与えることは神の御母の意志です。そしてそれゆえに、第三の秘密全体を明らかにすることはこの目標:すなわち、霊魂たちの救いを達成する手助けとなるでしょう。

秘密を隠しておくことは霊魂たちの救いのために非常に有害なことでしょう。それゆえ、もはや数年も待つことなく、恐れることなく、最終的にその秘密を公表し明らかにすることは霊魂たちの救いにとって、(そして霊魂たちの救いのために、教会の至高の法に従うために)明白であり絶対的に必要です。

教皇ヨハネ・パウロ二世はたびたび「恐れてはならない」と言われました。それゆえ、秘密を隠しておこうと望む人々はこれらの言葉:「恐れてはならない」について考えるべきです。なぜなら、ファチマの聖母はこう言われたからです:「最後に、私の汚れなき御心は勝利するでしょう」と。イエズス・キリストは福音の中でこう言ったおられます:「恐れてはならない、私は世界を征服した」と。

バチカンの高官たちはなぜ秘密を明らかにしないことを選んだのか?

それはまったく明白であると私は思います:神の御母はファチマには御出現にはならなかった。聖母はわれわれに秘密をお与えにならなかったし、また一人の教皇の生命に対する一つの失敗した試み[ヨハネ・パウロ二世暗殺未遂事件のこと=訳者注]を告知する一つのメッセージをただ証明するために、途方もない太陽の奇跡によってその確証をもお与えにならなかった、と。

過去には血なまぐさい仕方で殺された多くの教皇たちがいました。それゆえ、ファチマの第三の秘密がヨハネ・パウロ二世の生命を奪おうとする失敗した試みを予告していると言うことはばかげたことであるのは、尊敬の欠如(私は事柄を私が見たままに報告しています)ではありません。そしてそのようなことを言うことは恐れによって動機づけられています。

第三の秘密への鍵

ラッツィンガー枢機卿は1984年11月の彼のインタビューの中で第三の秘密を知り、理解することへの鍵をわれわれに与えました。

当時、彼は信仰教義聖省の長官でした。そして今日彼はわれらの教皇ベネディクト十六世です。

ラッツィンガー枢機卿はファチマの第三の秘密を、ファチマの第三の秘密と他の諸々のマリア御出現との間の関連をつけた仕方で、説明しました。もしわれわれが聖母の他の諸々の御出現を検討するならば、われわれは常に一つの世界大戦、大きな破壊と生命の大きな喪失の一つの恐るべき戦争について読みます。シスター・エレナ・アイエロ(二十世紀半ばに)への聖母の御出現、1634年エクアドルにおけるキトの好結果の聖母の御出現;それらはすべて一つの恐るべきそして普遍的な戦争、世界が以前には決して見たことがないような一つの恐るべき迫害に言及しています。

第二次世界大戦が終わった直後、教皇ピオ十二世は、人類が数年のうちに人間の歴史において以前にはかつて経験したことのないような恐るべき苦しみに屈服しなければならないであろうと宣言されました。次のように言う多くの人々がいます:「われわれはそのような秘密を明らかにしてはならない、なぜなら、彼らは余りにも大きなパニックがあるだろうからと言うからだ」と。このように話すことは愚かなことです。

しかし人々を、これらのすさまじい諸悪が完全に思いがけなく彼らの上に突然落ちかかってくるそのような仕方で、準備なしに置き去りにすること、そのようなことをすることは最大限のパニックを引き起こすでしょう。それゆえに、私は、慎重さ、単純な人間的分別は最も早い可能な時期に、彼らが第三の秘密全体を公表することを要求している - 実際それは有無を言わさず要求している - と言うでしょう。

これは、われわれが第三の秘密の公表は何らかの仕方あるいは他の仕方で、今や人類を脅かしている諸悪、諸民族全体を破滅させようと脅かしている諸悪、そしてイエズス・キリストの御血によって贖われた非常に多くの霊魂を脅かしている諸悪、に対して人類に自ら準備させる手助けとなるであろうということを知っているからです。

司牧者たち:「恐れてはならない」

それゆえに、私は教会の司牧者たちに、秘密を明らかにし公表することを恐れている人々に、教皇ヨハネ・パウロ二世が教皇に選ばれる前に言われたように、それは福音と反福音の間の戦い、教会と反教会の間の戦い、そしてキリストと反キリストの間の戦いに関係している、と言うでしょう。注)

注:「われわれは今や教会と反教会の間の対決、福音と反福音の間の対決に直面している。この対決は神の摂理の諸計画の内部に存している。それは全教会が引き受けなければならない一つの試練である。」1978年11月9日の Wall Street Journal において公表された。話は1976年になされた。

しかし彼は、彼の教皇在位の間に何度も「恐れてはならない」と言われました。それゆえ、私は今この機会に教会の司牧者たちに恐れてはならない、神の恩寵と神の摂理に信頼しなさい、なぜなら、時は来たからだ、われわれはファチマの第三の秘密全体を公表し、知らせる必要がある、と言います。

ファチマ・クルーセイダー

2012年12月02日 | Weblog
今なお隠されている秘密のローマにおける公式紹介

ファチマ・センターに対するベルトーネ枢機卿の誤った主張への回答

The Fatima Crusader Issue 90, Winter 2008 より

ニコラス・グルーナー神父

アレッサンドロ・フーリニ博士による紹介:25年間以上にわたってニコラス・グルーナー神父は強い抵抗に対して、ファチマの真のメッセージ、そのメッセージ全体を知らせ、理解させ、正当に評価させ従わせるために、彼の一生の仕事を捧げて来ました。私は敢えて言いますが、彼はわれわれすべてにとって基本的である一つの使命をやり抜いています。それでは、ファチマ・センター長ニコラス・グルーナー神父を歓迎しましょう

こんばんは、

私は、ソリデオ・パオリーニ博士がただいま報告されましたタルシジオ・ベルトーネ枢機卿猊下の四つの非難と誤った説明に回答したいと思います。

ベルトーネ枢機卿の第一の言い訳と誤った説明はわれわれが彼を憎んでいるということである

私は、われわれがベルトーネ枢機卿を憎んでいないということを絶対的に述べなければなりません。われわれは毎日枢機卿のために祈っています。そしてわれわれは彼もまたわれわれのために祈ってくださることを希望します。

ベルトーネ枢機卿は彼の書物『ファチマの最後の秘密』(L'Ultima Veggente di Fatima)において2度あるいは3度私について話されました。それはお世辞のようなものであることを意味しませんでしたが、私は私についての彼のコメントによって非常に嬉しく思いました。それは励みとなるものでした。なぜなら:

ベルトーネ枢機卿は、彼が第三の秘密、すなわち、彼が明らかにされた第三の秘密のあの部分、を公表したのはまさに私の働きそして他の人々の働きのゆえであると言われたからです。

われわれが秘密は公表されることを求めたのは、まさにわれわれの働き、われわれの活動、そして数万人の信徒、そしておそらく数百万の信徒の働きのゆえです。そしてこのことに感謝しますが、彼らは第一のテキストを公表しました。この理由で、われわれが枢機卿を憎んでいないということは確実です。事実、われわれは誰をも憎んでいません。ましてベルトーネ枢機卿を憎んではいません。

ベルトーネ枢機卿の陳述における彼の第二の言い訳と誤った説明はわれわれが、2000年6月26日に公表したテキストの真実あるいは真正性を認めていないということである

その反対に、私はわれわれがその真正性をそもそもの始めから認めて来た、われわれは、枢機卿の記者会見の3週間後に出版したわれわれの雑誌『ファチマ・クルーセイダー』においてそうした、と主張しなければなりません。

『ファチマ・クルーセイダー』において、われわれはベルトーネ枢機卿が公表された第三の秘密のテキストは真正のものであるということを公的に世界に対して認めました。われわれの雑誌は500,000部の発行部数を持っており、われわれの雑誌を読む者は誰でも確かにわれわれの立場を知っています。

2000年にバチカンによって公表されたテキストが真ではない、真正のものではないと言った少数の人々がいました。われわれはそう言った人々の間にはいませんでした。バチカンによって明らかにされたテキストは完全ではなく、すべてではありません。しかし、彼らが明らかにした部分は真正のものです。

それゆえに、われわれがいつも公然と話してきたときに、ベルトーネ枢機卿が考えていることを考えることができたということがどのように可能であるのか私は知りません。同様にまた、この書物、『今なお隠されている秘密』の著者、ここに列席しておられるクリストファー・フェララ自身もこの立場を繰り返されました。そして、私が言ったように、それはまた私の立場でもあり、そしてファチマ・センターの立場です。

ベルトーネ枢機卿の第三の言い訳は、彼がファチマ・センターを、彼をあたかも彼がまったく彼自身だけで、あたかも彼が自立的であったかのように、描いていることで、非難しているということである

彼は、自分は彼がそうであるよりも高い地位にいる人に従ったと言っておられます。

枢機卿の非難に直接答える前に、私は最初に説明しなければなりません。私は著作家ではなくて、出版者です。そして私はさまざまの雑誌、書籍そして論攷を出版して来ました。私は教皇にとって第三の秘密を明らかにすることには困難があるということを認めます。しかし教皇の困難が40年あるいは50年の間続くとき、そのことは出版者にとって一つの困難を産み出します。

一出版者として、私はまず何よりも一般公衆がどのように感じるか、そして彼らが何を考えるかについての感覚を得なければなりません。もし彼らがわれわれは誇張していると考えるならば、彼らはわれわれが言う最初の言葉に耳を傾けることさえしないでしょう。われわれは一般公衆がそのような立場を取らないということを保証しなければなりません。もしわれわれが、教皇は責任があると強く言い張ることによって始めるならば、そのときわれわれの反対者は向き直ってこう言うでしょう:「ごらん、グルーナー神父は教皇を批判している、彼は、教皇が第三の秘密全体を明らかにしないために責任がある、と言っている」と。

次に公然と次のように宣言する人々がいます:「グルーナー神父は常に教皇に反対している」と。事実は、われわれは教皇に反対していないし、またわれわれはベルトーネ枢機卿にも反対していない、ということです。 われわれがここにいるのは、われわれ皆がこの世界のうちに生きており、そしてわれわれ皆がファチマの聖母の言葉に対するこの要求を持っているからです。

祝せられたおとめ[マリア]はこのメッセージを、私の救いのため、そしてあなたの救いのため、われわれの永遠の救いのため、そしてわれわれのこの世的な救いのためにさえ、お与えになりました。人間的な分別は彼らに秘密を隠しておくようにさせていると思われますので、私は公的にもまた私的にも私自身の言葉に対して責任を取ると宣言し、公然と言います。教皇が教会の頭であるということは明白なことですので、第三の秘密を明らかにしないことに対しての責任は教皇の責任であると私が常に言うことは必要ではありません。私は、教皇が責任があると言う必要はありません。実際、事実、私は教皇が責任があるとは言いません。私は誰かある人が責任があるとは言いません。私は誰をも裁きません。

私は真実を語っています。しかし私は、彼らが自分たち自身で彼ら自身の諸々の動機を話さない限り、動機については話しません。近代主義者の神学者たちがわれわれに、自分たちは教会の要塞を解体するつもりであると告げるとき、彼らはわれわれに、それが行動するための彼らの動機であると語ったのです。それが、ポール・クレイマー神父の書物『悪魔の最後の戦い』において、彼がこれらの人たちの動機に言及した理由です。

この場合に、われわれは道徳的な判断をしていません。むしろ、われわれがしていることはこの事実を報告し、それを公衆に注目させることです。この理由で、私はまず何よりも、われわれは第三の秘密を隠そうと望んでいるのは単にベルトーネ枢機卿だけではなくて、彼がこれが事柄の全体であると彼がわれわれに告げていると主張するとき、彼、彼自身は公的な責任を負っていると、言いたいのです。

彼がこのことをわれわれに告げるとき、彼の背後にたとえ百人あるいは千人の他の人々がいたとしても、これら他の人々は彼の立場に対する責任を公的には引き受けなかったのです。それが、この書物がベルトーネ枢機卿の言葉と行動について話している理由です。それはわれわれが、彼だけがこれまでに秘密を隠すことに成功してきたと考えるからではなくて、彼がこの立場に対して公的な責任を引き受けたからだ、考えるからです。彼は、たとえ彼が唯一の責任ある者ではないとしても、責任ある者なのです。

ベルトーネ枢機卿の第四の言い訳と誤った説明は、彼がファチマ・センターを、すべての預言は代わり得ないものである、予告されたものは何であれ起こらなければならないと信じていることで、非難しているということである

その代わりに、ベルトーネ枢機卿はわれわれが祈りと償いによって懲罰を避けることができるということを認めるべきであると言っておられます。これらの懲罰が起こらないことは可能です。しかし枢機卿はここで、二つの理由で、誤りに陥っておられます。

まず第一に、枢機卿が十分な区別をしておられないということが注目されなければなりません。実際、事実上変わることができない神によってなされた、あるいは神の名においてなされた預言があります。

そのような預言の存在はカトリック信仰の問題です。もし私が間違っていないならば、そのような預言が存在し、そしてそのような預言に関してはわれわれは実際、人間が何をなそうとも、それが起こるであろうとわれわれは信じなければならない、ということは決定されたカトリックの教義です。

しかしながら、条件的である他の種類の預言があります。そしてそのような預言を神、あるいは祝せられたおとめ[マリア]、あるいはカトリックのある預言者はそれらが条件的であるとそのように述べました。

ファチマ・メッセージにはこの両方の種類の預言があります。われわれは聖母が次のように言われるときのような聖母の預言を持っています:「最後に私の汚れなき御心は勝利するでしょう。教皇はロシアを奉献するでしょう。ロシアは回心し、そして平和の一時期が世界に与えられるでしょう。」その預言は変わり得ないものです。そしてそれは人類の歴史における未来のある時点で確実に起こるでしょう。

しかしファチマ・メッセージの中には条件的である他の預言があります。聖母はこう言っておられます:「もし私の諸々の要求が聞き入れられないならば、ロシアは諸々の戦争と教会の迫害を引き起こしながら、その諸々の誤謬を世界中に広めるでしょう。善人たちは殉教するでしょう。教皇はたくさん苦しむでしょう。さまざまの民族は絶滅させられるでしょう。」

聖母はまたこう言っておられます:「もし私の諸々の要求が聞き入れられるならば」そのとき「戦争、飢饉、教会の迫害そして教皇の迫害」という懲罰は避けられるであろう、あるいはそれらが既に起こっていたならば、止められるであろう、と。これらの条件的な預言は聖母の諸々の要求に対する人類の応答、そして非常に特別な仕方では、教皇や司教たちの応答、に依存しています。

それゆえ、枢機卿はこの主題に関する彼の思考においてもっともっと正確である必要があります。

教会が教義上の決定を伴って決定する預言があります。すなわち、もし神が何かあることが起こるであろうと言われるならば、これは確実に起こるでしょう。

別の預言があります。例えば、ファチマで聖母が次のように言われたときがそうです:「もし私の諸々の要求が聞き入れられるならば、ロシアは回心し、平和が到来するでしょう。」そして聖母はまたこうも言われました:「もし私の諸々の要求が聞き入れられないならば、ロシアは諸々の戦争と教会の迫害を引き起こしながら、その諸々の誤謬を世界中に広めるでしょう。善人たちは殉教するでしょう。教皇はたくさん苦しむでしょう。さまざまの民族は絶滅させられるでしょう。」これらは条件的な預言です。結果はわれわれの応答に依存しています。

もし私が、聖母が要求なさったことをすることが歴史の道筋を変えるということを信じなかったならば、私の生涯の30年を浪費することはなかったでしょう。預言はわれわれが何をしても前へ進んで行くから、重要なことではないと考えながら、自分の人生の30年を失うことは一人の人間にとってばかげたことでしょう。私はばかではありません。そして私は私の生涯の30年を投げ捨てたとは考えていません。なぜなら、私は全心全霊をもって、もし私や他の人々 - 他の多くの人々 - がファチマの諸々の要求を信じ、促進しそして実践するならば、そして他の人々にもそうするようにさせるならば、われわれが聖母の助けによって歴史の道筋を変えることができるし、また変えるであろうと、信じているからです。

われわれ自身についてのベルトーネ枢機卿のこの描写はわれわれがしていることそしてわれわれが考えていることの一つの事実に反するバージョンです。われわれの考えについての彼の戯画はおそらくわれわれを知らない人々に一つの説明を与えるでしょう。

しかしながら、われわれを知っておられる一人の枢機卿は2年前に私について次のように強く主張されました:

「グルーナー神父、あなたが、他の誰かある人ではなくて、あなたが教皇(すなわち、教皇ベネディクト十六世)に話さなければなりません。」

私は教皇に接触し彼と話す手だてを持っていません。私は彼の前任者[ヨハネ・パウロ二世]との約束を持っていました。しかし実際に彼に会うことを妨害されました。私はそのような努力で時間をこれ以上失いたくありません。それは、私が教皇に話すことを望まないからではなくて、そうすることが私には不可能であると思われるからです。

私は世界のほとんどすべてのカトリック司教たちに宛てて100通以上の手紙を書きました(何人かの司教様たちはわれわれの手紙に対して彼らの心を閉ざしました。)しかしわれわれがしていることに対して嬉しいと感じておられる2000人以上の司教様方がおられます。しかし、教会においてもっと力を持った、もっと影響力のある司教様方はファチマのメッセージとファチマの聖母の諸々の御要求とを聞くことを望んでおられません。

数年前、私はラッツィンガー枢機卿 - 彼が信仰教義聖省の長官であられた時に - のところへファチマに関するわれわれの立場を支持してくださったすべての司教様方のリストを持って行きました。しかし私は彼に会うことができませんでした。

彼は非常に忙しい方でしたし、そしてなお今もそうです。今日では前よりももっとそうです。彼の秘書は私にそのリストを要求しました。しかし私はそれを彼の秘書には渡したくありませんでした。もし教皇が私に会うことを望まれたならば、私はそれを教皇に直接に渡したでしょう。

今日に至るまでバチカンの高位にある人々は私に話を聞くことを望んでいません。そして私に反対して事実に反する事柄を言っています。

彼らは真実ではない私についての絵を描いています。私は聖人ではありません。しかし私はまた二つの頭を持っているのでもありません。私は私に対するこれらの嘘に答えることができます。しかし私が重要なのではありません。メッセージが重要なのです。

世界における400,000人のカトリック司祭たちのうちで、私の知る限り、私は、30年間この仕事をしてきた唯一人の人間です。私は他の仕事をしておりません。私はただファチマのメッセージを促進しているだけです。

私が知らない多くの事柄があります。おそらく、ファチマに関する事柄でさえそうでしょう。しかし今日に至るまで、私が聖母のすべての御要求を成功裡に擁護することによって答えることができなかったファチマを真剣に取り上げることに対する反対をした、一人の司教、あるいは一人の枢機卿、あるいは一人の神学者、あるいは一人の司祭、あるいは一人の平信徒もいませんでした。

われわれは真理を知ることを望むべきです。そして確かに、われわれは皆真理を、特に大きな重要性を持つ事柄においては、求めそして知る義務があります。われわれは皆ファチマについての真理を求める必要があり、それを知る必要があります。

その真理の知識に達するために、われわれは少なくとも他の人々の研究、諸事実そして結論を、そして単にバチカン国務省長官のそれらだけでなく、聞かなければなりません。

国務省長官の力量は御出現の問題のうちにはありません。それはまさしくファチマの預言的メッセージが国務省長官とそのオフィスにおける彼の助手たちの予断と偏見に対立するからです。そしてこのことはそれによって、ファチマについての真理を求めることから教皇と教会の他の人々を免除するものではありません。

パオリーニ博士とフェララ博士が指摘されたように、ファチマに関して同じ立場を常に取っておられるのは - それがカザロリ枢機卿であれ、彼に続くソダノ枢機卿であれ、その彼に続くベルトーネ枢機卿であれ - いつも国務省長官です。私の意見では、それは誤っている一つのポジションです。それは、事実、私にとってではなくてあなたにとって、あなたの家族にとって、そしてわれわれの民族にとって最大の誤りです。

ファチマは人類の前に一つの選択を置きます。人類は一つの選択をしなければなりません。ファチマの聖母に耳を傾けなさい。そして利益を受けなさい。それとも、ファチマの聖母を無視して懲罰を受けなさい。われわれにとってなすべき第三の選択はありません。

もしわれわれがファチマのメッセージに従うならば、第三次世界大戦はないでしょう。もしわれわれが従わないならば、われわれは地の面から拭い去られた絶滅させられた全民族を持つでしょう。ファチマの聖母に従うことによって以外にはこの大惨事を避ける他のいかなる道もありません。

選択は非常に単純である

それは実際非常に、非常に単純です。これは人類の前での一つの選択です。しかし、とりわけ、それは教会の前での一つの選択です。そしてより以上にさえそうですが、それはバチカンの前での一つの選択です。教皇と枢機卿たちは立ち上がって、彼らの言葉と行動とによって、祝せられたおとめマリアは教会の御母です、そして聖母はわれわれに一つの選択をお与えになりました - そしてわれわれは聖母の御命令を受け入れ、そしてわれわれは聖母に従いますと - と言わなければなりません。

われわれは選ばなければなりません:イエスあるいはノーを。しかし少なくとも、それを公然と行いましょう。今までのところ、その選択は公然とは述べられてきませんでした。その代わりに、今までのところ、その選択は:「われわれはマドンナを欲してはいない。われわれはマドンナがそうであるよりももっと賢明である」でした。こう暗黙のうちにあるいは明白に言うことによって、われわれは世界の破滅へと導く道を選んで来ました。今までのところ、これは彼らが選んだ道です。

われわれの貧しい祈りと犠牲をもって、そしてわれわれの言葉とわれわれの出版物をもって、そして神が私たちにお与えになった何であれ他のものをもって、われわれが今直面している全体的な大惨事へと向かうこの道筋を変えることはわれわれにかかっています。

ファチマ・クルーセイダー

2012年12月01日 | Weblog
今なお隠されている秘密のローマにおける公式紹介

ベルトーネ枢機卿は「今なお隠された秘密」
の主要な見解に暗黙のうちに同意しておられる(続き)

The Fatima Crusader Issue 90, Winter 2008 より

ソリデオ・パオリーニ博士

四つの言い訳

第一の言い訳

要約において彼が言っておられる第一のことは、Associazione Madonna de Fatima(ローマにあるファチマ・センター)が2000年に公表されたテキストの真相を認めることを望んでいないということです。この表現によって、猊下、あなたは何を意味しておられるのでしょうか?そう思われますように、あなたは、Associazione Madonna de Fatima が2000年の聖年に公表されたテキストはシスター・ルチアを通じて神から来たとは認めていないということを意味しておられますか?

Associazione の外部コンサルタントとして、私はあなたに尋ねます:猊下、あなたはどのようにして、われわれがそのテキスト、特別にあなたの2000年6月のテキストを真正のものと認めているということを、知らずにいることができるのでしょう。われわれが他のテキストが存在する、あるいは他のテキストが破壊されあるいは失われてしまったかも知れないが、しかし確かになお周りに何らかのフォトコピーが存在するに違いない、あなたが公表なさったテキストに付属したそしてその部分である別のテキストがある、と主張していることは本当です。

われわれはあなたが公表なさったテキスト部分の真正性についての真実を認めています。この問題に関してわれわれは完全に一致しています。

第二の言い訳

もう一つの二番目の主張は "Fatimites"「ファチマ擁護者たち」(これはファチマを促進し、ファチマに関する彼の立場に同意しない者に対するベルトーネ枢機卿の見くびった用語である 英語訳者注)が彼を憎んでいるということ、彼の敵どもはかたくなな心を持っているということ、そしてこの種の別のさまざまのひとをけなす所見です。

これに対して答えることは非常に容易なことです。まず第一に、かたくなな心を持つことはエヴァのすべての哀れな子らが持っている永続的な危険です。しかし、猊下、あなたはご自分の書物L'Ultima Veggente di Fatima 『ファチマの最後の秘密』をお読みになりましたか?その中ではあなた御自身の主張とは異なった主張を持つすべての人々に対する諸々の侮辱やいやみな所見に欠けることはありませんよ。

猊下、おそらく何人かの「ファチマ擁護者たち」はあなたに対して暴力的な手をかけたでしょう。そうです、私に対して、そのことは起こりました。猊下、あなたの書物の紹介の際教皇庁立ウルバニアナ大学で、です。「敵ども」- あなた御自身が用いておられる言葉を使うなら - の保安要員たちは、猊下、私の指をねじったというところまでさえ行きました。なぜそのような罰を受けるほどの罪が私にあるのか私は分かりません。おそらく、それはカポヴィッラ大司教との私の会話のためでしょう。あるいは、おそらくそれは私がアントニオ・ソッチの側に立っていたためでしょう。

そのとき、私は手に携帯電話を持っていました。そしておそらく保安要員たちは、私が起こっていたことを記録していたと誤って考えたのでしょう。おそらく、猊下、彼らはあなたにもまた暴力的な手をかけたのです。私には、確かにそのことが起こりました。私は何をしたのでしょうか?

猊下、あなたがあなたの直接的な責任の下で起こったことを知らないということは妥当なことではありません。なぜなら、日刊新聞やさまざまのインターネット・サイトがそのことについて話したからです。おそらくあなたはその事件を遺憾に思われたでしょう。これまでのところわれわれはそのようなことについて何一つ聞いていません。

第三の言い訳

そして今や司祭である質問者が猊下に書いた他の二つの事柄に話を進めることにしましょう。その司祭は彼自身の新しい手紙でもって猊下の手紙に返事をしました。彼の二番目の手紙は今や送られてすでに2ヶ月以上になります。そして彼はあなたが「ファチマ擁護者たち」すなわち、いわゆるファチマ過激論者たち - に帰しておられるこれら二つの主要な誤りへの答のいかなる暗示をも受け取っていません。

第三の誤りは、とりわけ、「ファチマ擁護者たち」がファチマの第三の秘密に関するベルトーネ枢機卿の諸々の行動を自発的になされたものとして考えているということです。換言すれば、ベルトーネ枢機卿に従えば、「ファチマ擁護者たち」はベルトーネ枢機卿が、事実は、彼がより高い権威を持った誰かある人(名前の明かされない)からの命令で行為したのに、彼自身で行為したと、考えているということです。

ある人は私にこう言いました:「率直に言って、それは、同じ議論がニュルンベルクの裁判で無益に使われていますから、重要な点であるようには思われません」と。(これは、第二次世界大戦において戦争犯罪を犯したドイツの下級将校たちが自分たちは命令に従ったのだと主張しながら - ひょっとしたら本当であるかもしれない - 彼らの戦争犯罪を正当化した場合がそうであった。その議論は彼らの上司たちに従うことよりも高い法があると指摘することによって、裁判所によって受け入れられなかった。そして彼らは、上司たちが彼らに神の法に反する何かあることをするように告げるとき、より高い法、神の法に従わなければならないのである。英訳者の注)

良心を賞賛したラッツィンガー枢機卿によって書かれたもっと美しいページがあります。しかしながら、われわれはこの点に関してベルトーネ枢機卿に少しばかりの名誉を与えなければなりません。ファチマ・メッセージ全体を歓迎することに対して多くの異なった抵抗がありました。非常に多くの抵抗がありました。それは不名誉なことです。諸教皇の躊躇を思い起こしましょう。ファチマに関して、当時その省の長であった者に加えて、国務省の変わらない反対について考えてみましょう。

(それがカッサロリ枢機卿であれ、あるいはソダノ枢機卿であれ、あるいはベルトーネ枢機卿であれ)、それがロシアの奉献に対する反対のためであれ、あるいは25行の一枚の紙に含まれている一触即発の言葉の隠匿に対する反対であれ - ファチマの聖母は国務省長官によって彼女の上に置かれた外向的な諸制限には従われませんでした。今日クリス・フェララが言ったように、ファチマの聖母のメッセージと諸々の御要求は政治的に正しいものではありません。

ベルトーネ枢機卿に手紙を書いた司祭が言っているように、この点を結論づけるならば:よろしい、猊下、第三の秘密に関するあなたの立場に対して与えられた諸々の反対に対してあなたの人を納得させる、そして的確な解答はどこにあるのでしょうか?これらの反対はまったく詳細をきわめるものです。これらの反対はわれわれには、それらがあなたから来るものであれ、あるいは他の人々から来るものであれ、あなたが挙げられた個人的な諸問題よりももっと重要であると思われます。

第四の言い訳

枢機卿が「ファチマ擁護者たち」に帰しておられる他の誤りは預言された諸々の懲罰を変化し得ないものと見る誤りです。そうではありません、猊下、われわれはすべての預言が条件的なものであるということを知っています。すなわち、諸々の預言のうちの一つを除いてすべての預言、最後の一つの美しい預言、絶対的であるたった一つの預言を除いて、です:その一つの預言とは「最後に、私の汚れなき御心は勝利するでしょう。教皇は私にロシアを奉献するでしょう。ロシアは回心し、そして平和の一時期が人類に与えられるでしょう」という預言です。

他のすべての預言は皆条件的です。もしあなたがこのことをするならば、私の汚れなき御心は苦痛を伴わない仕方で勝利するでしょう。もし、他方において、あなたが別の道を取るならば、あなたはなお同じ目的に到達するでしょうが、しかし、これらの悪の代価を支払いながら、一つの誤った、苦痛に満ちた仕方でその目的に到達するでしょう。

猊下に返事を書いたあの司祭が指摘しているように、あなたは諸々の罰でいっぱいになっていると神が示しておられる道を選んだと思われます。それでもやはり、われわれはベルトーネ枢機卿のこの反対を一つのより制限された意味において好意的に解釈するように努めましょう。おそらく、彼は正しい、敬虔な霊魂たちの祈りと償いが、すでになされた彼らのよい行いと同様に、示された諸々の懲罰を避けるために何らかの影響を与えることができるということを示そうとされたのでしょう。

この意味において、彼が言っておられることのうちにはある真実があるでしょう。しかし、それは完全に真であるでしょうか?例えば、第三次世界大戦を取り上げてみましょう。ソッチは、おそらく1985年に計画されていたこの戦争は1984年3月25日の教皇ヨハネ・パウロ二世の賞賛に値する行為のおかげで起こらなかったと考えています。しかしこの行為(マリアの汚れなき御心への世界の奉献の行為)は不完全でした。そして世界情勢は今日なお脅威的です。

懲罰は決定的に克服されたのでしょうか?それとも、それはただ他の時に延期されたにすぎないのでしょうか?ベルトーネ枢機卿はそのような脅威が、すでになされたよい行為のおかげで、それらがもはやわれわれにとって一つの脅威ではないという確実性をわれわれに与えるということを確信しておられるのでしょうか?

疑いの場合には、われわれが、それがそのような大変動に関係づけられているということを知っているときに、あなたは、猊下、そのように重要なテキストを公表させないことの責任を取ることができますか?疑いの場合に、あなたは、誰かある人は、その重要なテキストを、文字通りに、そして宣言の形で、公表させないことの責任を取ることができますか?核のホロコーストの想像を超えた恐怖の具体的な可能性の前に立ちながら、われわれは、たとえ猊下の精神にとってそのようなテキストが何らかの相違をなすことがほとんどできないとしても、少なくとも隠されたテキストを公表しないことをわれわれ自身に許すことはできません。

われわれは何をすることができるか?

とりわけ、私は『今なお隠されている秘密』という書物のうちに見出される諸々の提案について考えてみたいと思います。それらの提案は「われわれは何をすることができるか?」と題された最後の章に含まれています。それは祈り、償いそして請願への三つの訴えです。

親愛なるクリストファー、あなたはうまく書きました。あなたは正しい - トップにいる人々だけが何かあることをすることができるということは本当ではありません。残りのわれわれはただ状況について嘆き不平を言うことができるだけであるということは本当ではありません。事実、われわれがすることができる、そしてわれわれがしなければならないさまざまの事柄、小さな事柄、単純な事柄、しかし実際貴重な事柄があります。

神がたったの10人の正しい人すらそこに見出すことがおできにならなかったがゆえに滅ぼされたソドムの大きな都市を思い起こしてみましょう。彼らは自分たち自身を神の法に一致させることを望みませんでした。

われわれは教皇に、彼が最終的にいわゆる付属文書(すなわち、今までのところなお隠されている聖母の言葉を含んでいる第三の秘密のもう一つ別のテキスト=英語訳の訳者注)を公表なさるように、請願を送ることができます。そのような請願をファチマ・センターは促進して来ました。そして、私もまた、イタリアで一年半の間そのことを促進して来ました。そのような請願は教皇にとって一つの励ましであり得ます。そしてあらゆ場合に、それは神の目に喜ばしいドア・ノッキングになるでしょう。

われわれは、秘密のテキスト全体が公表されるように、われわれのロザリオに一つの決まった意向を加えることができます、あるいはわれわれは毎日ロザリオの後に一つの「めでたし」を加えることができます。われわれは聖体礼拝式の間にこのことのために神に懇願することができます。司祭たちはこの意向のため、第三の秘密全体の公表の恩寵のために、ミサを捧げることができます。そして司祭がミサのための別の意向を持っているときでさえ、彼はこの意向を memento di vivorum 生者のためのメメントのうちに置くことができます。

病者はこの意向のために彼らの苦しみを捧げることができます。われわれは皆この意向のためにある断食あるいは他の小さな犠牲を捧げることができます。われわれは信仰から、神にとっては何一つ不可能ではないということを知っています。しかし神は(聖ピオ十世がわれわれに告げておられるように)通常はこれらの恵みを神に求める人々にお与えになります。

そこでこの目的のためにあらゆることをしましょう。十字軍を持ちましょう。一つの運動 - 祈り、償いそして請願の熱心なキャンペーン - を持ちましょう。そうすればおそらくわれわれは神からそのような恩寵を得ることができるでしょう。われわれはこのことをまじめに受け取らなければなりません。なぜなら - そのことを決して忘れないようにしましょう - 司牧者たちの悪い決定はまた神の民の霊的に耳が聞こえないことに対する神の懲罰でもあるからです。

イエズスのいとも聖なる御心よ、あなたの王国が来ますように。あなたの王国がマリアを通してわれわれに来ますように。ありがとうございました。