けれど(Credo)

I:キリシタン信仰と殉教 II:ファチマと現代世界 III:カトリック典礼、グレゴリオ聖歌 IV:「聖と俗」雑感

ペトロ岐部と187殉教者の列福(4)

2007年03月31日 | Weblog
 2.今回山口の殉教者として挙げられているのはメルキオール(メルキヨール)熊谷豊前守元直と盲人ダミアンの二人である。前者は1605年(慶長10年)8月16日に萩で、後者は同年8月19日に山口で殉教している。メルキオール熊谷豊前守元直は1587年(天正15年)秀吉の九州平定の際に黒田孝高の指導で大友義統、岐部左近などとともに洗礼を受けた。彼は名門の出で安芸国三入の城主として毛利輝元に仕えた高名の武士であった。主君の毛利輝元は反キリシタンであり、元直が死に処せられた理由は、彼がキリシタンの信仰を捨てなかったからだと言われている。洗礼を受けて十八年後、輝元は千人以上の兵をやって萩城下の元直の邸を包囲させ、人を遣わして人質を要求した。元直は三男フランシスコ猪之助十三歳と長男直貞の子エマヌエル二郎三郎十一歳とを人質に出した。人質はとられたが包囲は解けなかった。元直は殉教の覚悟を固めた。毛利輝元は熊谷元直に切腹を命じた。罪状は十三箇条からなっていたがその第八番目にキリシタンのことが述べられていた。萩城の築城工事のとき盗石事件があり、それによって築城が遅延したことも死罪の理由とされていた。ドン・ルイス・セルケイラ司教の報告は彼の死を光栄ある死(殉教)と述べている。五十歳であった。このとき彼の一族十一人が殉教した。萩の岩国屋敷跡にビリオン神父が建てた熊谷元直の顕彰碑がある。
 
 貧しい盲人のダミアンは利発で賢明な人だった。山口で生まれ、琵琶法師として生計を立て結婚もしていた。二十五歳で洗礼を受けた。雄弁で伝道の効果もあげており、神父たちの有力な助手であった。毛利輝元が領内から神父たちを追放した後を引き受けてキリシタンたちの頭になり、説教をし、非常のときは幼児に洗礼をさずけていた。ダミアンのことが毛利輝元の耳に入り、彼を居なくすれば領内のキリシタンたちは容易に転ぶだろうと考えて、彼はダミアンを呼び出し背教を勧め、従えば楽な生活ができるだけの扶持と立派な屋敷、高い身分を保証すると言った。このことは奉行の下役たちの口からもれ、山口の町の評判になった。もちろんダミアンは拒否し、奉行たちと居合わせた人々に説教しキリシタンの信仰を受け容れるよう勧めた。奉行たちは彼を背教させることはできないと知り死刑に処することにした。そのことが町の人々にわかれば騒動が起こったり、キリシタンたちが他国に逃亡したりするので、死刑の執行は夜まで延ばされた。1605年8月19日ダミアンは町外れの川で祈りの後斬首された。四十五歳であった。彼の死をキリシタンたちに知られたくなかった毛利輝元は、命じて彼の遺体を切り刻ませて川や森に捨てさせた。一キリシタンが丹念に探し回って、ダミアンの首と左腕を見つけ、死の噂は山口にひろまった。彼の首と左腕は長崎に送られ相応しい尊敬が献げられているとセルケイラ司教は報告している。

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 主君から、あるいは為政者から背教を勧められあるいは命じられてもそれに従わないことは人よりも神に従う道である。武士であれ、一般人であれ、そのことに違いはない。背教すれば生命、身分、地位が保証され現世の生活を無難に送ることができるという誘惑も彼らには通用しない。それは永遠の生命がそのことにかかっているからである。死を前にしたメルキオール熊谷元直の「キリストの教えこそ永遠の救いの、唯一の道でござる」という言葉をわれわれはもう一度噛みしめるべきであろう。

ペトロ岐部と187殉教者の列福(3)

2007年03月29日 | Weblog
 三人の慈悲役のうちまずジョアン服部甚五郎が捕らえられ、次にミゲル水石彦右衛門が捕らえられて牢に入れられた。ヨアキム渡辺次郎右衛門はそのとき長崎に行っていたので、妻マリアが人質として捕らえられた。それをきいた渡辺は急いで八代に帰り、まず多くの幼児に洗礼を授け、後事をジョアン治右衛門に頼んでから、自ら奉行所に出頭し投獄された。奉行角左衛門は、彼らの信仰が生命に代えても奪われないことを知ると、財産を没収し、子供たちを奴隷の身分に落とした。1606年(慶長11年)ヨアキム渡辺次郎右衛門は熱病におかされた。役人は、形だけでも背教させるように、高熱で意識も定かでないこの病人に転び証文をつきつけて署名させた。渡辺は熱が下がってからそれを知り、「転んだのではない」と取り消し、殉教の覚悟をきめた。1606年、再びルイスにやばら神父が有馬から来て、変装してうまく牢内にしのびこむことができた。病中の渡辺は熱病のとき書いた転び証文が自分の意志でないことを再確認し、告白、堅信の秘蹟をうけ、転ばないとの誓文を書いて神父に渡した。ヨアキム渡辺次郎右衛門は1606年8月16日牢内で息を引き取った。キリシタンになってから十年、八代のキリシタンたちの柱石となっていた。五十五歳。遺体は八代の共同墓地に葬られたが、三日目にキリシタンたちが掘り出して有馬に送った。

 残された二人の慈悲役、ジョアン服部甚五郎とミゲル水石彦右衛門は相変わらず、囚人たちや牢外の非キリシタンたちを感化し、キリシタンたちもまたひそかに牢に来て指導を受けた。ナタラ(クリスマス)には、牢内でキリストの降誕をともどもに祈って聖書を読み、牢は聖堂の如くなった。加藤清正はそれを知り斬首しようとしたが、それは、彼らが殉教者として崇められキリシタンたちの信仰をあおる結果となることを知って、牢内で苦しめることにしたので、彼らの牢獄生活はいよいよ残酷なものとなった。1609年、加藤清正は二人の慈悲役とその子供たちに斬首による死刑を命じた。ミゲル水石彦右衛門の首は一撃で落ち、ジョアン服部甚五郎も一刀の下に斬られた。ミゲル水石彦右衛門の子で十二歳のトマスは父の遺体の前で死にたいと、父の血が流れている土の上にひざまずき両手を合わせて天を仰ぎながら刀を受けた。ジョアン服部甚五郎の子ペトロは六歳になったばかりであるが、幼児ながら父から殉教の心得を聞かされていたので立派な覚悟ができていた。役人が来たとき、喜んで起き上がり、一人の男の腕に抱かれて刑場に行った。首切り役人たちは、静かに斬られるのを待っているペトロを斬ることに次々に二人が断り、三人目の役人はペトロを斬りそこねて右肩を傷つけ、ペトロは横ざまに倒れた。役人は役目を断ってしまったので、朝鮮人がその役を引き受けさせられたが、斬りそこねて三太刀でようやく首を落とした。

 以上1603年にジョアン南五郎左衛門が熊本で、シモン竹田五兵衛太他4人、1606年ヨアキム渡辺次郎右衛門、1609年にミカエル水石(三石)彦右衛門田人他3人がいずれも八代で殉教した。この八代の殉教者計11人は今回列福される188人のうち最も早い年代に殉教した人々を含んでいる。列福を予定されている188人のうち司祭は4人だけであとは信徒であり、女性、子供も多数含まれている。 

ペトロ岐部と187殉教者の列福(2)

2007年03月28日 | Weblog
1603年12月8日、ヨハネ(ジョアン)南五郎左衛門が熊本で殉教した。この年加藤清正は肥後八代のキリシタン武士十四名に棄教を迫ったが、最後まで信仰を守り、壮烈な殉教をとげたのは彼とシモン竹田五兵衛であった。五郎左衛門の妻マグダレナは夫が逮捕されて連れて行かれるとき、彼にこう叫んだという。「あなた様、必ず神さまをお捨てなさいませぬように。万一あなた様が信仰を失いなさることがあれば、私は再びお目にはかかりませぬ」と。もちろん彼は妻のこの言葉がなくとも立派な信仰の持ち主だったから、あっぱれな殉教を遂げた。

  1603年12月9日シモン竹田五兵衛は八代で斬首され殉教した。首は熊本に送られてさらされたが遺骸は丁寧に埋葬され、後に長崎のトードス・オス・サントス教会に改葬された。彼の殉教の際にこういう話がある:彼の妻はアグネス、母はヨハンナであった。八代の奉行角左衛門は竹田五兵衛の友人でもあり親戚でもあったので、五兵衛に棄教を勧め、生命を助けようとして、彼の母ヨハンナを説得して改宗を勧めてもらうよう頼んだ。母ヨハンナはこう答えた:「御厚意は誠に有難いと存じますが、このことは現世一時のことでなく、永久不滅の後生のことに係わりまする。一時の生命を保つために、永遠の幸福を失うことは、私たちの取らない所でござりまする。私は五兵衛に名誉の死をとげさせようと望んでおりまする...」五兵衛の殉教の後、ヨハンナは、わが子の首に手をおき、その顔を撫でながら「そなたの幸せなこと。そなたは御主のために命をささげたのだもの。私も罪人ながら仕合わせにも、長年何よりも愛しく思って来た独り息子を捧げて殉教者の母となれ申した」と優しく言った。母ヨハンナはその翌日、五兵衛の妻アグネス、先に殉教した南五郎左衛門の妻マグダレナ、養子にしていた甥のルドビコと共に十字架につけられて殉教した。

 ヨハンナの殉教の前の言葉はこうである:「神様、私は神様がどうしてこんな大きなお恵みを下さるのかわかりませぬ。御礼の言葉もござりませぬ。昨日、私は独り息子を神様にお献げしましたが、今日、この身をお引き取り下さりませ。私の魂と身体とを、心からの犠牲としてお受け下さいますように。また罪人たちが後悔して御恵みをうけられますように。神さまを知らないゼンチョの人々がキリシタンになりますように。特に加藤清正殿がキリシタンになられまするように。清正殿と、若様方とが息災にて肥後国を安らかに治めなさりますように。国の人々が皆キリシタンとなり、迫害でころんだ人々が立ち上りまするようにお願い申しまする」。ヨハンナが十字架の上で祈ったこの祈りと希望は叶えられて、一旦教えを捨てた人々が相次いでキリシタンに立ち返った。死刑を執行した市河治兵衛も、長崎に来てルイス・セルケイラ司教から洗礼を受けキリシタンになった。

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 ヨハンナのこの祈りをわれわれもまた祈らなければならない:ゼンチョの人々(異教徒たち)がキリシタンになりますように、加藤清正(為政者)がキリシタンになられるように。国の人々が皆キリシタンとなり、迫害(あるいは棄教)でころんだ人々が立ち上りますように、と。彼女はゼンチョがゼンチョのままでいることを祈って殉教したのではない。

ペトロ岐部と187殉教者の列福(1)

2007年03月27日 | Weblog
 188殉教者の殉教は八代の殉教者ヨハネ南五郎左衛門の1603年から江戸の殉教者ペトロ岐部かすいの1639年までの36年間に起こっている。この期間は徳川家康と家光の初代と第二代将軍の時期である。日本カトリック司教協議会 殉教者列福調査特別委員会編の「殉教者を想い、ともに祈る週間 - ペトロ岐部と187殉教者の列福に向けて - 」によれば1.八代の殉教者11人、2,山口の殉教者2人、3.薩摩の殉教者1人、4.生月平戸の殉教者3人、5.有馬の殉教者8人、6.天草の殉教者1人、7.京都の殉教者52人、8.小倉・熊本・大分の殉教者18人、9.江戸の殉教者1人、10.広島の殉教者3人、11.雲仙の殉教者29人、12.米沢の殉教者53人、13.長崎の殉教者3人、14.大阪の殉教者1人、15.長崎の殉教者1人、16.江戸の殉教者1人の計188人が今回の列福者たちである。、岐部ペドロ・カスイ神父と結城ディオゴ神父についてはすでにこのブログの昨年8月20日 - 23日、8月29日 - 30日に触れた。他の殉教者たちについて全員にはとても触れることができないが、片岡弥吉氏の「日本キリシタン殉教史」等を参考にしてたどれるだけの殉教者を取り上げて行きたい。

パジェス「日本切支丹宗門史」から(44)

2007年03月25日 | Weblog
1644 - 1651年(正保元年 - 慶応四年)- 正保二年(1645年)の四月二十三日将軍世子家綱は正二位大納言に補せられた。この年、日本及び支那の管区長で、マカオの学林の長であるガスパル・デ・ アマラル神父が、マカオから東京(トンキン)に向かう途中、難船に遭って死んだ。アマラル神父は、日本が断然、閉鎖されているのを見て、東京に帰らんとし て、航海中に死んだ。1646年、日本政府は支那人に対し、非常な好条件で、全帝国内で売買の権利を与えた。1649年に、イエズス会のディオゴ・ルイス が死んだ、彼はポルタレグレの司教管区アルバラムに生まれ、元エボラの神学の教授であり博士で、日本のために指名された司教であった。国王ジョアン四世 は、彼の代わりに、エボラの司教管区のビアナに生まれ、この町の大学の哲学の教授であったイエズス会のアンデレレヤ・フェルナンデス神父を選んだ。この任 命は前回同様実現されなかった。 慶応四年(1651年)に父の秀忠が没すると、源家綱が将軍になった。 布教聖省では、1644年に、総長によって承認されたアウグスチノ会のクリストフォロ・デ・アルマンサ神父と同会の修士一人に、日本に向けて出発すること を許した。六月二十一日、同省は、四人の大使とその伴侶の殉教の報告をきいた。 1645年四月二十五日、同省は、ゴアにいたミラの大司教に、世俗と修道会の司祭達を日本に遣わすこと、又彼らに司教の本質的権利を除く他の一切の自分自 身の身の権利を委託することを許した。 最後の頃は、ヨーロッパに対し、日本におけるキリシタンの最後の足跡を絶滅したように思われていた。なお生き残っていた少数の司祭は、死ぬために運命づけ られているように見え、マニラやマカオから遣わされた宣教師達は、爾後帝国内に入ることはできなかった。五十年後にシドッチ唯一人だけが入り込むことがで きたが、忽ち捕らわれて殉教した。 しかし、教えは生きのこる筈であった、而して二世紀後に、これがあらわれた。 棄教したオランダ人はこの事を理解しない為に、日本の教会の無窮の光栄を我々に見せないで、二百年の間出島の商館を守っていた。

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   長い間中断していましたこのブログの「パジェス『日本切支丹宗門史』」の最後の章はこれで終わりです。

   慶応四年(1651年)に家綱が将軍になった後にも、キリシタン史を繙くと以下のようなことが続きます。 1654(承応3)天草に切支丹宗門禁制の高札が立つ。1657(明暦3)・大村藩でキリシタン608人を召捕(うち牢死78人)。1658(万治1)・ 大村牢の131人、放虎原で獄門。残り280人長崎その他で処刑。 1659(万治2)・豊後でキリシタン召捕開始。1664(寛文1)尾張藩内キリシタン207人を処刑。・諸藩、代官所に宗門改役の設置を命じる。 1667(寛文7)・尾張でキリシタン756人を処刑。1671(寛文11)・宗門人別改帳の作成布達。1674(延宝2)・宣教師訴人褒賞額を銀500 枚とする。

  パジェスが上に延べたように、1708(宝永5)年ジョヴァンニ・バプチスタ・シドッチが屋久島に潜入上陸して捕らえられ、長崎より江戸に送られて新井白 石の審問を受けたことは日本史でも有名なことです。その後も1873(明治6)の切支丹宗禁制の高札撤去まで、迫害と殉教の歴史はまだまだ続いています。

 今年の秋日本で初めて執り行われる「ペトロ岐部と187殉教者」の列福式を機会に日本の無数の殉教者たちが現代の日本の教会に残したメッセージは何であったかを改めて考えてみたいと思っています。