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けれど(Credo)

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エキュメニズムの諸々の誤謬

2016年01月16日 | Weblog

ファチマ・クルーセイダー    Weblog / 2014年03月29日

エキュメニズムの諸々の誤謬

以下はポール・クレイマー神父、B.Ph., S.T.B., M Div., S.T.L.(Cand.)
による講演の編集された写しである。 (説明題と脚注は編集者による)。

The Fatima Crusader Issue 79, Spring 2005 Special Edition より

イエズス近づきて彼らに語りてのたまいけるは、天においても、地においても、いっさいの権能は、われに賜われり。ゆえに汝ら行きて万民に教え、父と子と聖霊とのみ名によりて、これに洗礼をほどこし、わが汝らに命ぜしことを、ことごとく守るべく教えよ。さて、われは世の終わりまで、日々汝らとともにおるなり、と。(マテオ 28:18-20)

われらの主は婉曲にものを言われなかった。聖福音からの上述のテキスト、われらの神なる救い主の口から出た言葉はカトリック信仰に反する第二バチカン公会議の誤謬に有罪を宣告している。これは、結局のところ、チアッピ枢機卿が「(ファチマの)第三の秘密においては、他のこともいろいろあるが、教会における大背教がその頂点で始まるであろうということを予告している」と漏らされたように、ファチマの第三の秘密のうちにあるものである。

われわれは数世紀前に予告されたアッシジの聖フランシスコの諸々の預言から、一人の反教皇が現れるであろうということを知っている。彼は異端者であろう。彼はカトリック信仰を持たないであろう。そして彼は教会を、新しい改革で改革することによって、滅ぼすであろう。

具体的に言えば、神法に対する反逆は公会議がエキュメニズムの誤謬を宣言した時にその始まりを持っていた。

今や多くのいわゆる保守派がいる。彼らは叫び、反対する、そして彼らはこう言うであろう。「よろしい、あなたはどのようにそのことを言うことができるか?結局のところ、エキュメニカルな公会議は不可謬的である。そしてそれゆえ公会議は間違いであることはできない。それは誤謬を教えることはできない」と。

私はこの問いでもってその問いに答える:「いかなる教会がそのことを教えたのか?」と。ローマ・カトリック教会は教えなかった。The Wanderer はそのことを教えた。しかし、どの教皇もそのことを教えられなかった。

もしあなたがボルティモア・カテキズムを見るならば、公会議は不可謬的であるということを読むであろう。しかしそれは、公会議は、それがなすあらゆる宣言において不可謬的であるとは言っていない。

ある公会議を不可謬的とするものは何であるか?それは不可謬性のカリスマである。そして教会は、そのカリスマが行使されるときあなたが検証することができると教えている。カリスマは、教会が決定する時、行使される。

教会が不可謬的に決定する三つのやり方がある

第一に、最も明白な宣言は、教皇がエキュメニカルな公会議に集まった司教たちと一緒に、ある教えが神によって啓示されたということを荘厳に、不可謬的に決定する時である。

第二に、教皇が、彼自身で、教皇座から ex cathedra 信仰あるいは道徳について決定を宣言するとき、彼は不可謬性のカリスマを行使する、そしてそれゆえに誤謬に陥ることはあり得ない。

公会議はそれが決定をしないとき、あらゆる種類の誤謬を犯し得る。しかし、公会議教父たちが教皇と一緒に信仰および道徳の諸問題において一つの決定を荘厳に宣言するとき、その公会議は誤ることはできない。そしてこの意味においてカテキズムは理解されなければならない。すなわち、エキュメニカルな公会議は不可謬的である、と。たといネオ保守派が注1)あるいは公会議後の人々注2)が違った風に理解するとしても、これが教会が不可謬性を理解する仕方である。

教会における不可謬性の第三の仕方は、教皇が世界のすべてのカトリック司教たちと一緒に、彼らの通常の教えにおいて、ある教説が守られるべきである、ある教説が神から啓示されていると決定的に教えるとき、教会の普遍的教導権、普遍的および通常の教導権である。

第二バチカン公会議におけるすべての誤謬に注意を向け、そして次のように言うのはネオ保守派である:「よろしい、これは誤謬ではあり得ない。なぜなら、それは公会議によって教えられているからである。」彼らは正道からそれている。なぜなら、ある公会議がするあらゆる宣言が不可謬的であるということは教会の教えではないからからである。しかし、公会議が教皇と一緒に不可謬的であるとして荘厳に決定するものは不可謬的なものである。

彼らはこう反対するであろう:「しかし、これらは教説上の -- 重要な、重大な教説上の -- 問題である。それを教えているのは世界の司教たちと一緒の教皇である。それゆえにそれは不可謬的でなければならない」と。

その答えはこうである:「いいえ!それは不可謬的ではない。これは普遍的および通常の教導権ではない。それは決定的ではない」と。

ある公会議はそれが決定するとき不可謬的である

公会議が決定しないとき、その公会議は不可謬的ではない。そしてそれゆえにそれは話している教会の普遍的および通常の教導権ではない。教会の普遍的および通常の教導権とは、信仰と道徳の問題において -- 決定的に -- 彼の司教区において彼の通常の教えにおける教皇と一緒に、信仰と道徳の問題において、-- 決定的に -- 彼らの司教区において、世界中に散らばっていて、教えるすべての司教たちである。それが、われわれが教会の不可謬的な普遍的な通常の教導権と呼ぶものである。

あるエキュメニカルな公会議において教説上の諸問題について話している司教たちと教皇は教会の普遍的および通常の教導権ではない、そしてそれゆえにそれは不可謬的ではない -- ただ彼らが決定するときにのみ、それは不可謬的である。われわれが、第二バチカン公会議が諸々の誤謬を宣言したと明白に述べることができるのはこの文脈においてである。第二バチカン公会議は決定しようと試みなかった。教義上の決定という技術的な意味においてそうしなかったし、教会の異例の、不可謬的教導権の荘厳な宣言という仕方においても明白にそうしなかった。「決定」という用語の通常の意味においてすら、彼らは彼らの用語を定義しなかった。

第二バチカン公会議はエキュメニズムを定義していない

エキュメニズムに関する文書において教会はエキュメニズムを宣言したと考えられている。ところで、エキュメニズムを宣言する際に、公会議はエキュメニズムが何であるかを明白に述べなかったということは非常に奇妙なことである。彼らはいくつかの記述的な文言を用いたが、しかしその事柄が何であるかを言わなかった。

確かに、公会議の専門家たち -- まさに公会議の専門家たちであると名づけられた人々、periti 注3)-- 諸々の文書を提出し、修正と編集を行うことに大きな責任を持っていた人々 -- 彼らはエキュメニズムという用語が定義されなかったということを非常に確実なものとした。なぜなら、もし彼らがその用語を定義していたならば、少なくとも第二バチカン公会議に出席した司教たちの90%はこう叫んだであろうから:「これは異端である!それは抹消されなければならない。われわれはこれを宣言することはできない。それは誤謬である。それはカトリック信仰に反する。それは異端である!」と。

近代主義的異端者たちの諸々の動機が説明される

それゆえ、近代主義的な periti 、彼らは、もし彼らの用語を敢えて定義したならば戦いが直ちに敗北するであろうということを知っていた。それで、彼らはその用語を敢えて定義しないままにした。そして事柄を定義しないことに対する彼らの言い訳はこうであった:「もちろん、これは一つの司牧的な公会議である。われわれはここで教説を決定するべきではない。われわれはここで諸々の事柄についてのわれわれの定義において哲学的であってはならない。これは一つの司牧的公会議である。そしてそれゆえ、われわれは定義をする仕事をやめるのだ」と。

もちろん、それは口実であった。しかし、より正確には近代主義者であるリベラル派の人々にとっての本当の理由は、彼らが敢えて彼らの用語を定義しなかったことである。なぜなら、彼らは彼らがそうであった異端者、そして彼らがそうである異端者だと暴露されないであろうからである。

エキュメニズムは完全にカトリック信仰に反する。そして、エキュメニズムを検討するときそのことは明白である。教皇ヨハネ・パウロ二世は、その回勅 Ut Unam Sint において、エキュメニズムに、その起源をいわゆる改革の諸教会のうちに持つものとして言及しておられる:すなわち、それは改革された諸教会、 -- 一言で言えば -- プロテスタントに由来する改革諸教会である。

エキュメニズムはプロテスタントの異端である

ヨハネ・パウロ二世はエキュメニズムが一つのプロテスタントの発明であるということを認めておられる。教会を侵略したのはこのプロテスタントのものである。プロテスタンティズムは一つの異端である。そしてエキュメニズムはプロテスタンティズムの諸々の異端の一つである。

プロテスタンティズムの教会論注4)はエキュメニズムの教会論である。エキュメニズムの教会論はラッツィンガー枢機卿の教会論である。それはハンス・キュングおよびすべての近代主義者たちの教会論である。今日教会においてエキュメニズムを管理している人間、ヴァルター・カスパー枢機卿はエキュメニストである。彼の教会論はプロテスタント的である。

私は、-- 通りをくだった所にある、人々に対面する宴会テーブルを持った聖パトリック司教座聖堂とは違って -- ニューヨーク・シティの美しく伝統的な聖トマス教会を訪問した時のことを思い起こす。聖トマス教会では祭壇は適切に飾られており、そしてそこではいわゆる司祭が神と出会うために祈り、そして人々は彼と共に祈る。信じようとそうでなかろうと、そのようにカトリック的に見えるのは英国監督教会である。

私はかつて、ニューヨークで夏の数ヶ月を過ごした一人の婦人の話を聞いた。そして彼女はその教会によく行っていた(聖トマス教会か、それとも聖バルトロメオ教会か、そのどちらであったか、この時はよく覚えていないが)。聖バルトロメオ教会では、あなたはそこに告解所そして聖トマス教会と同じ仕方でしつらえられた祭壇を見るであろう。それらは非常に伝統的に、非常にカトリック的に見える。そして7年後に彼女は自分がアングリカン教会に行っていたを発見した。彼女はそれはローマ・カトリック教会だと考えていた。何が彼女をこれらの教会に惹きつけていたのか?それらの教会は彼女のロマニストの小教区よりももっとカトリック的であったのだ。

私はカトリックの小教区とは言っていない。私はエキュメニカルなロマニストの小教区、ローマ・プロテスタント小教区、エキュメニカル小教区と言っている。そこでは彼らはもはや祭壇を持っておらず、そこでは彼らは一つの宴会テーブルを持っている。そして彼らは美しい木製の告解台を、聖バルトロメオ教会のように、持っていなくて、彼らは一つの和解の部屋を持っている。

プロテスタントたちが教会を定義する仕方

カトリック教会における一つの新しい改革があった。そしてそれはその教会論を非常にカトリック的と見えるが、しかしそうではない教会から取っている。私は、聖トマス教会にいる間に、一つのパンフレットを取り、アングリカニズムの教説の提示を検討した。そこには、われわれは異なった諸宗教ではない、われわれはみな、一つのキリスト教会を形成すると明瞭に述べられている。われわれは、そのことに関する限りでは自分たちをローマ・カトリック、正教会、福音派、アングリカン、あるいはホーリー・ローラーズと呼ぼうとも、一つのキリスト教会の中の異なった教派である。どれであろうと、これらはみな一つのキリスト教会のことなった教派である。それらはみなイエズス・キリストへの彼らの信仰を告白している。すべては一つの普遍的教会を形成している。

これはエキュメニズムである。これはエキュメニズムの教会論である。これはエキュメニズムの異端であり、聖アタナシウスが説明しているように、主が与え給い、使徒たちが宣言し、そして教父たちが守ったカトリック教会の実際の元々の教えと伝統にまったく反するものである。

キリストの教会のカトリック的教義であるもの

ローマ・カトリック教会についてのカトリックの教えは、真の神にして真の人であるイエズス・キリストが時の終わりまで続くであろう一つの聖なるカトリックのそして使徒的な教会を建てられたということである。他のすべての諸宗教は偽りであり、神に喜ばれない。そしてある人は、死ぬまでに偽りの教会から離れ、ローマ・カトリック教会(カトリック教会の東方典礼を含む)に加わり、カトリック教会に留まり続けない限り、自分の霊魂を救うことはできない。「教会の外にはいかなる救いもない」ということはカトリック諸教皇によって三度荘厳に決定されてきた。

それはわれらの主にして救世主であるイエズス・キリストによって発せられた明白で単純な次の文言のうちに要約されている。「イエズス近づきて彼らに語りてのたまいけるは、天においても、地においても、いっさいの権能は、われに賜われり。ゆえに汝ら行きて万民に教え、父と子と聖霊とのみ名によりて、これに洗礼をほどこし、わが汝らに命ぜしことを、ことごとく守るべく教えよ。さて、われは世の終わりまで、日々汝らとともにおるなり、と。」(マテオ 28:18-20)イエズスが「すべての」という語を何度用いられているかに注意せよ。今日、それは一つの汚い語となっている。それは排他主義と呼ばれている。「あなたはどのように一つの真の教会であり、他のすべての宗教が偽りであると敢えて主張するのか?」唯一の神だけが存在する。そして神はただ一つの神的真理だけを啓示なさった。唯一の神の啓示だけが存在する。そしてそれは神が建てられた一つの教会のうちにのみ見出される。

ヒンドゥー教徒たちはそしてホーリー・ローラーズはどのようにカトリック信仰と一緒に一つの真の宗教を持つことができるか?そしてあらゆる異なった教会とあらゆる異なった宗教は対立する教えを持っている。それらは、黒が白に対立するように、対立し矛盾する異なった事柄を教えている。「よろしい、それらは本質においてすべて同じものである」と人はどのようにして言うことができようか?

対話ではなくて回心

われらの主イエズス・キリストは言われた:「いっさいの権能は、われに賜われり」と。単にカトリック教徒に話す権能ではなくて、いっさいの権能である。「いっさいの権能は、われに賜われり。ゆえに汝ら行きて万民に教え、....わが汝らに命ぜしことを、ことごとく守るべく教えよ。」イエズスは、われわれが他の諸宗教と対話することができ、例えば、われわれを滅ぼすことを望んでいる諸々の運動との永続的な調和と平和のうちに生きることができるように、単純にわれわれを送るためにこのいっさいの権能に訴えられたのではなかった。必ずしも彼らの中のすべての者がわれわれを滅ぼそうと望んでいるのではない。しかしイスラムの聖職者がミナレットに登り、聖戦、Jihad を宣言するとき、そのときには最も柔和なイスラム教徒でさえ、戦いに出かけるであろう。

イスラム教はカトリック信仰に反対している

不敬なコーランは mushriks -- 異教徒、冒涜者、偶像崇拝者たちを意味する -- は一なる神が三つのペルソナにおいてあるということを信じる者たちであると言っている。

聖チェチーリアが致命的な打撃を受けて殉教者の死を蒙ったとき、彼女は一方の手で一つの指を立て、他方の手で三つの指を立てた。彼女はその殉教において、一なる神における三つのペルソナ(位格)を告白した。彼女は異教主義を実践することを拒否したのである。

これが真のエキュメニカルな対話である。信仰箇条とすべての教義およびすべての神的真理の基礎を不可謬的に宣言することはいとも祝せられた三位一体の計り知れない神秘である。イスラム教は祝せられた三位一体への信仰を告白する者たちは偶像崇拝者たち、異教徒たちであると言う。彼らは mushriks である、と。

イスラム教は剣によって改宗させる

コーランは、偶像崇拝者、冒涜者、異教徒、mushrik に対して何をせよと言っているか?コーランにおけるモハメッドの教えは mushrik を殺せということである。

イスラム教はすべての人間がイスラム教徒であることを欲している

ファチマの聖母は「善人は殉教するでしょう」と言われた。エキュメニカルな対話の精神とは反対に、剣の脅威によってぐらつかせられることを拒否するのが殉教者である。イスラム教徒たちは「あなたたちはイスラム教を奉じなければならない」と言う。ニューイングランドの一つの小さな町にさえ、イスラム教インフォメーション・「センター」が存在するが、それ[センターという言葉]はその町に実際一つのモスクが存在するという事実を隠す言葉である。そしてカトリックの司祭がモスクを訪ねたとき、彼はイスラム教の聖職者によって告げられた、「あなたはイスラム教に改宗しなければならない」と。

その司祭は言った、「いや、いや、あなたは私にそう言うことはできない、私はカトリックの司祭です、私はイエズス・キリストを信じています」と。イスラム教徒は彼に言った。「北アメリカのすべてはイスラム教を奉じなければならない。それはイスラム国家となるであろう」と。「すべて」、それはわれらの主イエズス・キリストが用いられた語である。

エキュメニズムは不可能である

あなたは、人々が、たとい対立する信念を持っているとしても、理性的であり得るし、そして平和的に共に暮らすよう努力することができる一つの道が常に存在すると言うかもしれない。しかし、次のことはわれわれがエキュメニズムについて理解しなければならない事柄である:すなわち、諸々の信念それ自体は対立しているということである。それらは和解不可能である。そしてそれゆえに、われわれは、いかなる方向にエキュメニズムは進み、そしてそれは何を達成しようと試みているのか、と問わなければならない。もし人がフリーメーソンならば、もし人が共産主義者ならば、われわれは正確に、そのとき、エキュメニズムが何を達成しようとするかを理解する。そこでは何かあるものを達成すること、すなわち、フリーメーソンの目標、共産主義の目標を達成することである。それらの目標は一つの世界政府、一つの世界宗教、全人類を奴隷化するための一つの専制という反神、反キリストの理想を含んでいる。

しかしカトリック的な文脈においては、エキュメニズムは何を達成することができるのか?それは何かカトリック的なあるものを達成することができるのか?絶対的にできない。それはカトリシズムにまったく対立する。それは、カトリック的な文脈においては、和解不可能なものを和解させようと試みている。モハメッドは言っている、「世界をイスラム教に改宗させよ。そして誰であれイスラム教を奉じない者はその頭をはねよ。mushrik を殺せ」と。

カトリック教徒は恩寵と宣教とによって改宗させる

イエズス・キリストは言われた:「天においても、地においても、いっさいの権能は、われに賜われり。ゆえに汝ら行きて万民に教え、父と子と聖霊とのみ名によりて、これに洗礼をほどこし、わが汝らに命ぜしことを、ことごとく守るべく教えよ。さて、われは世の終わりまで、日々汝らとともにおるなり」

達成されるであろうのはこの仕事である。剣を用いるイスラム教徒は剣を振るうであろう。そして流血以外には何も達成しないであろう。しかし彼らはイスラム教のために世界を征服することはないであろう。

世界は異教徒たちと偶像崇拝者たちで満ちている。カトリック信仰を持つ人々はこの事実を認める。しかし、イスラム教とは違って、われわれはわれわれの機関銃とわれわれの剣を持ってきて、われわれの信仰に同意しない人々をすべて剣で突き刺したり、弾丸で撃ち抜いたりしないであろう。

天使たちがわれわれを護る

フン族のアッティラがローマを滅ぼそうとしていた時、教皇聖レオはアッティラと会った。彼は十二人の司祭たちを携えていた。一方アッティラは彼の大軍を携えていた。アッティラは教皇を嘲った「お前の軍隊はどこにいるか?」そして教皇レオは天を指さした。そしてそこにアッティラは天使たちの大軍を見た。彼は恐怖に陥って逃げた。そして彼の軍隊も彼と共に逃げた。彼らはまったく恐怖に襲われて逃げた。

イスラム教は一つの鞭である。それはキリスト教、カトリック信仰との死ぬまでの戦いのうちにある。それはイエズス・キリストへの信仰に反対する戦争をするという目的のために悪魔によって鼓舞されている。モハメッドは言った:「神はイスラム教に勝利を与えるために5千の天使たちを送られるであろう。それゆえ恐れるな、戦場へと前進せよ」と。

イスラムとの第三次世界大戦が預言されている

われわれはファチマの第三の秘密から知っている、われわれは聖母の多くの御出現から知っている、第三次世界大戦があるだろうということが啓示されている。それは突然東から西へ向かって勃発するであろう一つの戦争であろう。そしてイスラム教徒たちによるヨーロッパの大規模な侵略があるであろう。そしてヨーロッパにおいて、北アメリカにおいて、そしてアジアにおいて、イスラム教徒がいる所ではどこでも、イスラム教徒たちによるテロリズムの大規模な行為があるであろう。それは世界的な Jihad [ジハード:聖戦]に調整されるであろう。そして彼らはすべて、できるだけ多くの者を殺すために彼らが mushriks と呼ぶ者たちを大胆に攻撃するであろう。

もしキリスト教世界が十分に祈るならば神はキリスト教世界を護られる

イスラム教徒たちはモハメッドの約束がいんちきのものであることを理解しなかった。ペニーはまだ彼らのために落ちなかった。彼らの精神においては関連はまだつけられなかった。

サラセン人たちはヨーロッパから蹴り出された。ムーア人たちはイベリア半島から蹴り出された。トルコ人たちはヨーロッパをイスラムの大陸にするための彼らの征服戦争の始めにマルタ島を攻撃した。トルコ人の戦士たちを満載した90隻の軍船は聖ヨハネの修道会の1500人の戦う修道士たちの軍隊によって、彼らのマルタ島の住民たちのある者たちの助けと共に、打ち破られた。

そして次に、トルコ人たちは再び攻撃しようとした。トルコ人の指導者、大スレイマンは彼の軍隊の圧倒的な軍事的優勢にもかかわらず不安を持っていた。彼は言った:「私はベネチアのすべての軍船よりも教皇ピオ五世の祈りをもっと恐れる」と。そして彼は、教皇ピオ五世の祈りを恐れる十分な理由を持っていた。なぜなら、教皇ピオ五世は十字軍を布告したからである。それはイスラム教徒たちにとって人間の言語の中でも最も汚い言葉であった:すなわち、十字軍である。

彼らは未だに彼らの教訓を学んでいなかった。そして彼らは大規模な軍隊でもってウィーンを占領した。彼らはそのように信じられないくらいにキリスト教軍よりも数が多かったので、人間的に言えば、彼らに敗北する可能性はまったくなかった。イスラム教徒たちは徹底的に打ち破られ、そして彼らは敗走した。彼らは彼らのコーヒーを取り上げ、それを持っていく時間さえ持たなかった。ヨーロッパ人たちはその戦争の分捕り品を楽しんだ。そしてそれが、コーヒーがヨーロッパにおいて一般的となった理由である。トルコ人たちは再び敗北したのであった。

どういうわけか、モハメッドによって約束された五千の天使たちは彼らの側に姿を現さなかった。天使たちは護るためにどちらの側に姿を現したか?確かに、教皇聖レオは天を指さした。そしてあの天使たちの軍隊は見えるものとなった。ムーア人たちがコヴァドゥンガと呼ばれた場所で追い払われたスペインのレコンキスタの場合も同様であった。

一つの聖堂があの偉大な戦いを記念してそこに建てられた。それは、イスラム教徒たちを蹴り出し、彼らがそこから来たアラブの土地に送り返したあのレコンキスタを始めた戦いであった。一匹の馬に乗り、その手に大きな軍刀を持って天から降りて来る一人の天使が見られた。そしてこの天使はその剣を振るい、そしてムーア人たちの頭を切り落とした。

すべての異教徒たちに対するファチマの聖母の勝利

天使たちが天から下って来る、しかしキリスト教徒たちに勝利を与えるためであって、イスラム教徒たちに勝利を与えるためではない。その日は来るであろう。そしてそれは聖母御自身によってシスター・アイエロに予告されている。すなわち、アラブ人たちはカトリック信仰に改宗するであろう、と。われわれは、ロシアがカトリック信仰へと回心するであろうということを知っている。なぜなら、ファチマの聖母は太陽のとてつもない奇跡をもって彼女の約束を確証なさったからである。それは神によってのみ働かれ得る一つの奇跡である。それはわれらの神である救世主御自身によってなされた約束を確証し、指し示す一つの奇跡である。

そしてこれが、われわれが恐れる必要がない理由である。天の天使たちは再び来るであろう。そして彼らは神なき者たちを滅ぼすであろう。彼らは聖でないすべてのものを滅ぼすであろう。それはキリスト教徒にとって Jihad [聖戦]を行うことではなく、むしろ聖なる十字軍をもって聖でない Jihad に応えることである。そして天使たちの援助、天使たちの軍隊と軍団とはキリストの使徒たちと追随者たちと共にある。そしてそれはそうでなければならない。なぜなら、われらの主の約束は終了の日付を持っていないからである。「さて、われは世の終わりまで、日々汝らとともにおるなり。」
脚注 1.これは保守的な響きのする近代主義者たちである。
2.それは第二バチカン公会議に従うと主張している司祭たちや司教たちを含む教会の役職者たちである。
3.periti あるいはいわゆる専門家は神学的な著作家たちである。彼らの多くは1940年代および1950年代に教皇ピオ十二世によってカトリック信仰に反する諸々の誤謬のゆえに非難されてきた。彼らはしばしば司祭たちであった。
4.教会論はカトリック教会 -- すなわち、キリストがお建てになった一なる真の教会 -- の本性についての諸々の教説を一つの組織化された知識の体系へと集める神学の部門である。教会論の異端的な概念 -- もちろん、厳密に言えば -- は神学と呼ぶべきではなくて、むしろ異端と呼ぶべきである。

「私(神)はいつもあなたと共にいる」

あなたは健全なカトリックの教義、唯一の聖なるカトリック的、使徒的教会の教えについてよく知っているようにしなければならない。真理はこの試練の時代にあなたを照らし、あなたを強め、あなたを慰めるであろう。あなたのカトリック信仰を知り、それを生きなさい。そうすれはあなたは神が、この時代の諸々の試練を通じて実際、なおあなたと共にいてくださるということをよりよく理解し感じるであろう。

パードレ・ピオはこう言われた:「敬虔な読書でもってあなたの霊魂を養いなさい。」


ファチマ・クルーセイダー

2014年03月27日 | Weblog

聖マキシミリアノ・コルベ X

The Fatima Crusader, Issue 24: March-May 1988より

ステファノ・マネッリ神父、O.F.M., Conv., S.T.D.

1982年10月10日、聖ペトロ大聖堂で福者マキシミリアノ・マリア・コルベ(Maximilian Mary Kolbe, O.F.M., Conventual)は彼の最も傑出している英雄的徳のために列聖された。マキシミリアノ・コルベ神父が、彼がほとんど知らなかった一人の不当に断罪された仲間の囚人に代わって死ぬために自由に身を捧げた後に、アウシュヴィッツのナチスの監獄キャンプにおいて殉教したのはちょうど41年前であった。教皇ヨハネ・パウロ2世は彼を「われわれの困難な世紀の保護者」と宣言された。われわれは、神がわれわれの時代に深い信仰、英雄的な愛そして特に聖母に対する計り知れない愛の模範としてお上げになった聖マキシミリアノをもっと多くの人々に知ることを可能にするこの論考を公表するのが嬉しい。この聖人の聖性への鍵はわれわれの母なるマリアへの彼のますます大きくなる愛である。聖マキシミリアノは神の御母に対する彼の愛に何の制限も設けなかった。そして実践において、彼はその生涯の間一つの驚くべきマリア使徒職において実を結んだ強烈な祈りの生活によって聖母に対する彼の壮大な献身を示した。そして彼は人々をイエズスとマリアのより大なる知識と愛へと連れて行くためにマス・メディアを用いる彼のマリア使徒職を天国から導き続けている。

「もし聖フランシスコが戻って来たならば...」

聖マキシミリアノは「もし聖フランシスコが戻って来たならば、彼は彼らを自分自身の住居に連れて行くだろう」そのような清貧でもってきらめく修道士たちの住居を望んでいた。彼はまたこうも書いた。「われわれ修道者はバラックに住み、あて布をした衣服で歩き回り、そして贅沢な食事なしで済ませることができる...」

列聖式の手続きの書類のうちにわれわれは以下の文章を読む:「ニエポカラノフにおける生活状態は特別の注意の問題であった。そして聖フランシスコの時代の生活状態にならったものであった。わらと粘土で作られた住居は地水火風をしのぐ仮の避難所のように見えた。」

他の箇所にも次のような文書が読まれる:「彼によって建てられたあらゆる建物は清貧できらめいている--質素な部屋、わらのマットレスのベッド、背もたれのある椅子の代わりに背もたれのない椅子、一人用のテーブル、塗装されていないしっくいの壁。食堂ではテーブルはサンドペーパーで磨かれていない木製のもの、食器はブリキのもので、各人はすべての料理のためのたった一つの鉢を持っていた。」

にもかかわらず、これらのきわめて質素な諸条件は単に修道士たちを悲しませることに失敗したばかりでなく、反対に、そのことは彼らの内部にそして彼らの間に素朴な質素さの間に経験される完全なフランシスコ会士の喜びを産み出した。

修道士たちはその数を増し、そしてニエポカラノフと無原罪の園と呼ばれた日本における第二の汚れなき聖母の都市(その物語をわれわれはこの先で述べるであろう)の両方で増え続けた。

しかし彼らは会員数の増加に追いつくに十分なほどすばやく彼らの食料や衣服をいつも増加させることはできなかった。それゆえそのとき彼らはすでに少量な食物の部分を喜んでさらに分割し、彼らの衣服の点数を分け合って終わるのであった。このようにして聖マキシミリアノはある時、日本において彼に加わりたいと望んだ一人の修道士にこう書くことができたのである。「あなたが、汚れなきおとめのために、飢えから、疲労から、謙遜から、そして苦しみから、あなたの墓へ行くことができるように、来てわれわれに加わりなさい。」

身体を洗うために跪く

英雄的行為の日々についてのもう一つの証言がここにある。ポドゥワピンスキ(Podwapinski)修道士はわれわれにこう告げている:「われわれが出費を切り詰められるように、マキシミリアノ神父は1足の靴と1枚のコートをゼノ(Zeno)修道士と共有していた。彼はしばしば、フランシスコ会の修道士は一足のつぎはぎの靴と1枚の修繕した衣服で幸せであるべきである。しかし彼は、たとえそれが最新型の飛行機を要求するとしても、汚れなき聖母に対する奉仕については出し惜しみをすべきではない。修道士たちが自分の木製のベッドを自分のために少しばかりましなものにするために塗装したいと思ったとき、彼は断固として彼らに反対した。」

作業用胸当てズボンをはくために、アルベリック修道士はメルキオッレ神父がそれを使い終わるまで待たなければならなかった。ガブリエル神父はパスクアーレ修道士の袖無しマントを着ていた--すでに指摘したように--マキシミリアノ神父は、ワルシャワへそれをはいて行かなければならないときにはいつも、そして宗教の授業をするためにロソスナ(Lososna)へ週2回出かけるときには、彼の靴を[ゼノ修道士から]取り戻していた。

コルベ神父について話しながら、マンスエト・マレゼスキ(Mansueto Marezeski)修道士はわれわれにこう告げる:「彼の僧服はすべての僧服の中でも最も使い古したものであった。そして彼の部屋は、簡素な木製のベッド、体を洗うために跪いていた洗面台のついた、非常につましい設備のものであった。そこには一つのテーブルと一つの椅子があった。彼のオーバーコートは壁に打ちつけられた1本の釘にかかっていた。彼はニエポカラノフに届けられる贈り物には決して手を触れなかった。そして皆の者にそれらを汚れなきおとめに属するものである、そしてそれゆえに、神の国のためにのみ費やされるものとして充てられるものであると見るように命じた。」

一人の医者スタンレー・ワソヴィッツ(Stanley Wasovicz)はこう証言している:「ニエポカラノフでは清貧が私に非常に深い印象を与えました...マキシミリアノ・コルベ神父のそしてすべての修道士たちの個人的必需品に関して言えば、それは原始的な状態すれすれでした。」

1ペニーさえだめ

聖マキシミリアノは金銭から完全に距離を置き、そして完全にそれ無しでありたいと望んでいた。

われわれは、多額のお金が、彼のポケットに1セントも残すことなく、彼が必要としたもののために彼が幾ばくかを取ることなしに、彼の手をいつも通り抜けて行ったということを知っている。彼は1足の靴、1枚のコート、1本の傘を自分のために買いたいと思ったのか?それらはみな必要な品物であった。しかし彼はわれわれがそう考えるようにはそれらが不可欠なものだとは考えなかった。模範と言葉とによって彼はそれらを「極端に必要」であるものに引き下げながら「個人的な必需品の最大限可能な制限」を教えた。

もし会則が1セントさえ持つことを禁じるならば、聖マキシミリアノはその細かい点にさえ忠実であった。

かつて極東へ出発しようとして、彼はローマを通過し国際大学で客となった。一人の証人が以下のエピソードを報告している:「マキシミリアノ神父がドアをノックしたとき、私は学長室にいました。彼は陽気に笑いながら入って来ました。そしてまっすぐに学長のところへ行き、札入れを彼に渡してこう言いました。「学長、このお金はポーランドからローマまでのキップを買った残りの金額です。」

「でも、あなたは再び出発しなければならないのではないですか?」と学長は尋ねた。

「ええ、しかしわれわれはローマに3日間いるでしょう。そして聖なる会憲はこれを私に許さないのです。」

「分かっています。でもあなたはそれを取って置くことができます。」と学長は答えた。「私はわかりません」とマキシミリアノ神父は笑いながら答えた。

「学長がそのお金を受け取ることを望まなかったので、マキシミリアノ神父は椅子の上にそれを残して出て行った。」

テーブルの上の灰

聖なる清貧に対する彼の愛はマキシミリアノを特に飲酒に対して、そして喫煙の習慣に対してはなお一層堅固であるように動かした。これらの点に関する彼の熱心な勧めは堅固で強いものであった。

「愛する息子たちよ、私にこの喜びを許してほしい:私の死後でさえ、喫煙をするな、また強い酒を飲むな。人々があなたたちにこれらの物を差し出すならば、辞退しなさい。私はニエポカラノフにおいては喫煙がないように熱心に勧めまた望みます。なぜなら、それは贅沢の始まり、そして聖なる清貧の上に築かれているこれらの共同体の基礎の弱体化の始まりとなるだろうからです。」

ある時、彼がパドゥアを通過しているとき、何かある興味深いことが起こった。パドゥアの聖アントニオ修道会の修練長はこう書いている。「1937年2月のある夕べ、彼は私のテーブルの側に座っていた。そこではわれわれは16人の修練者たちに囲まれていた。われわれが話し始める前に、彼は、テーブルの表面を指で指し、私を見てこう言った。「ここにはタバコの灰が何かありますか?」

「私は何かの冗談だと考えて、こう答えた。『いいえ』。

それから、彼は繰り返した。『私は、ここのテーブルの上に何か灰があるかと尋ねているのです。』

「彼が何を意味しているのか理解しないで、私は、もし彼が少しの灰を欲しいのであれば、ストーブがある共同寝室から灰を持って来させようと答えた。

「それから彼は3度目に言った。『いいえ、違います!私はここのテーブルの上に灰があるかと尋ねているのです。』

「ああ、あなたは悪い人間ですね!」と私は答えた。今や私はこれが私にタバコを吸うかどうかを尋ねるる彼のやり方だということを理解した。それで私は言った。「いいえ、ありません。このテーブルにはどんな灰もありませんよ、と」。

「それから、彼は修練者たちに喫煙の習慣を獲得しないことの望ましさについて話すためにこの機会を捕らえた。そして彼は私たち皆に、汚れなき乙女に常にあの不幸な常習癖を避ける約束をするように励ました。

喫煙と清貧は両立できない。タバコは清貧を煙の中に上昇させる。聖マキシミリアノは口にタバコをくわえた聖フランシスコのことを考えるだけで冒涜であると常々言っていた。

つづく


ファチマ・クルーセイダー

2014年03月26日 | Weblog

聖マキシミリアノ・コルベ IX

The Fatima Crusader, Issue 23: Sep.-Oct. 1987より

ステファノ・マネッリ神父、O.F.M., Conv., S.T.D.

1982年10月10日、聖ペトロ大聖堂で福者マキシミリアノ・マリア・コルベ(Maximilian Mary Kolbe, O.F.M., Conventual)は彼の最も傑出している英雄的徳のために列聖された。マキシミリアノ・コルベ神父が、彼がほとんど知らなかった一人の不当に断罪された仲間の囚人に代わって死ぬために自由に身を捧げた後に、アウシュヴィッツのナチスの監獄キャンプにおいて殉教したのはちょうど41年前であった。教皇ヨハネ・パウロ2世は彼を「われわれの困難な世紀の保護者」と宣言された。われわれは、神がわれわれの時代に深い信仰、英雄的な愛そして特に聖母に対する計り知れない愛の模範としてお上げになった聖マキシミリアノをもっと多くの人々に知ることを可能にするこの論考を公表するのが嬉しい。この聖人の聖性への鍵はわれわれの母なるマリアへの彼のますます大きくなる愛である。聖マキシミリアノは神の御母に対する彼の愛に何の制限も設けなかった。そして実践において、彼はその生涯の間一つの驚くべきマリア使徒職において実を結んだ強烈な祈りの生活によって聖母に対する彼の壮大な献身を示した。そして彼は人々をイエズスとマリアのより大なる知識と愛へと連れて行くためにマス・メディアを用いる彼のマリア使徒職を天国から導き続けている。

しかしながら、フランシスコ会の上長たちは王子によって要求された条件を受け入れようとはしなかった。聖マキシミリアノは悲しんだ。彼は上長たちの拒否について告げるために王子を訪ねた。王子は怒っていた。そしてどうすべきかについて確信がなかった。彼はコルベに言った。「地所にあなたは汚れなきおとめの像を建てた。私はそれを必要としない。」

コルベは答えた。「聖母をそこにそのままとどまらせてください。それは今度はマドンナが家を見つけることができなかったということを示すでしょう。」

この驚くべき答の後、王子はコルベをじっと見つめた。それから彼はコルベに暖かい握手をして、言った。「よろしい、土地は何らの条件もつけずに像に同行します。」

マキシミリアノの心臓はどきんどきんと鳴った。修道院に帰るとすぐに、彼は印刷機のところで働いていた修道士たちにお祝いの挨拶をした。「跪いて汚れなき聖母に感謝を捧げましょう。」

礼拝堂が最初に来る

修道士たちの最初のグループがマキシミリアノと一緒に新しい場所に到着した。そして彼らはショベル、つるはし、その他の道具で、土地を開墾するために働いた。これは1927年8月の終りのことであった。マキシミリアノは彼らと一緒だった。彼らの仕事は速いペースで進んだ。彼らは一軒の農家の床にわらのベッドを作って眠った。そしてわずかしか食べなかった。

最初に建てるべき建造物は木造の礼拝堂であった。マキシミリアノはそこでミサを捧げ、神の栄光に仕えるため、そして汚れなきおとめを通じての霊魂たちの救いのために奉仕する場所を聖別した。

礼拝堂のバラックの周りに、印刷工場の異なった部門のための建物と同様に、修道士たちのための建物が建設された。

11月21日、[エルサレム]神殿への聖母の奉献の祝日に、聖マキシミリアノと共に働いていたグロドゥノのすべての修道士たちは新しい土地に旅行し、テレシンの最初の二つのバラックへと移った。テレシンはそのときから「汚れなき聖母の都市」(ポーランド語で「ニエポカラノフ」)と呼ばれた。

汚れなきおとめの美しい像はそこを訪れる人は誰でも皆歓迎するためにこの独自の都市の入り口にそびえていた。マキシミリアノはお互いにマリアの名前によって挨拶する習慣を紹介した。数年前、一つの全-マリア修道会の彼の夢-プロジェクトについて他の修道士に話したとき、彼はこう言った。「何という美しい共同体だ。それはそこで『マリア』がいたるところで聴かれる共同体である。『マリア』が挨拶であり、『マリア』が挨拶への応答である。彼女はマドンナ・ハウスの女性の主人であり、保護者である。」

英雄的な生活

フランシスコ会士である聖マキシミリアノはアッシジの熾天使的聖人を真に模倣したいと思った。最初の出発点からマキシミリアノは彼自身のためにそして彼の修道士たちのために聖フランシスコへの忠誠、最初のフランシスコ会の共同体に入るに値する宗教生活、英雄主義の点にまで従った会則や会憲の完全な遵守を望んだ。彼は限りない寛大さを支持した。彼は、その中で人々がその全生活を犠牲において捧げ、あらゆるテストをパスする一つの基礎以外の何物の上にもそのように大きな仕事を建てることはできなかったであろう。グロドゥノを去る前に、彼は修道士たちに言った。「新しい修道院においてはわれわれの犠牲は完全でなければならない。宗教生活はそこでは最も完全な遵守において栄えなければならない。会則と会憲は力強く遵守されなければならない。なぜなら、ニエポカラノフはすべての人々にとって宗教生活の模範でなければならないからだ。」

汚れなき聖母の都市の顕著に熱心な使徒的活動を養い、支えたのは英雄的に生きられた宗教生活であった。

よく剃髪された頭、サンダルとあて布をされた僧服の修道士たち、彼らは日の出数時間前に、そしてその後の夜までの合間に祈りに集まり、完全な沈黙のうちに熱心な仕事の数時間を過ごし、冷たい気候と飲食および休息における簡素に不満を漏らさずに耐える、--これらの人々は、彼らの日々の自己犠牲によって汚れなきおとめの愛に対して霊魂たちを勝ち得る値段を支払っていたのだ。

マキシミリアノの書き物からの一つの啓発的な節は次のように述べている:「ニエポカラノフ共同体の成員は慰めあるいは楽しみを求めない厳密に必要な物に彼の個人的要求を限定する。このようにして、彼は、慰めと楽しみを放棄することによってそれのために支払うとき、汚れなき聖母の騎士のますます多くの部数を印刷し、それをより広範に読まれるようにすることを可能にするのである。」

聖マキシミリアノはこのような精神の持ち主である修道士だけを望んでいた。それゆえに、ニエポカラノフへ行くためにグロドゥノを去る直前に、彼ははっきりと彼らにこう告げた。「自分はそこへ行く強さを持たない、あるいはそこへ行く意志を持たないと感じる者は誰でも誠実にそして率直にそう言って貰いたい。」

フランシスコ会の貧しさ

汚れなき聖母の都市は二つの事柄の上に建てられた--貧しさと汚れなきおとめ--聖マキシミリアノはそう宣言した。

われわれは聖コルベの貧困の愛をどのように記述するかを知らない。それは彼の熾天使的父祖聖フランシスコに相応しい愛であった。聖マキシミリアノの貧困に関するページは初期フランシスコ主義の諸著作の一つの概説としてりっぱに役立ち得るであろう。そして汚れなき聖母の都市の貧困の模範はわれわれを最初のフランシスコ会共同体の貧困の模範へと連れ戻す。

小さなことにおいてと同様に大きなことにおいても、聖マキシミリアノは彼自身常に、心と身体においてこの世のすべての所有物から距離を置いた、何物をも所有することを欲しない貧しい人のように生きるために厳密に必要であるものに満足して、その結果完全に神の所有物となり、所有物として汚れなきおとめに無条件に委ねたアッシジのポヴェレッロ[小さな貧しき人]の忠実な追随者であることを証明した。

コルベは汚れなき聖母の都市のために、ポーランドにおいても、あるいは日本においても、どんな土地の所有権も望んだことはなかった。彼は言った。「なぜ所有権を持つのか?使用で十分だ。聖フランシスコのようでありなさい。何も所有するな。われわれは所有者がわれわれの滞在に同意する限りその場所にとどまろう。彼がわれわれにもはやとどまることはできないと告げるとき、われわれは別のところへ行くであろう。」

一人の同僚の修道士、アッシジのドミニック・ステラ(Dominic Stella)神父は聖コルベの上述の言葉について次のコメントをした。「これは彼の明確な考えと堅固な説得を伝えた。マキシミリアノの精神において最も重要なものが熾天使的父祖の精神と完全に一致した貧困の純粋な理想であるということは明らかなことであった。」

同様にまた、彼がインドにいたとき、エルナクラム(Ernaculam)の司教は彼にいくらかの土地、一軒の家、そして一つの礼拝堂を与えたかった。しかし聖マキシミリアノは「ただ用益権だけ」--すなわち、財産の使用とその産物への権利--を受け入れようとした。「なぜなら、私たちは所有権を欲しないからです」と彼は説明した。

つづく


ファチマ・クルーセイダー

2014年03月25日 | Weblog

聖マキシミリアノ・コルベ VIII

The Fatima Crusader, Issue 21: Oct.-Nov. 1986より

ステファノ・マネッリ神父、O.F.M., Conv., S.T.D.

1982年10月10日、聖ペトロ大聖堂で福者マキシミリアノ・マリア・コルベ(Maximilian Mary Kolbe, O.F.M., Conventual)は彼の最も傑出している英雄的徳のために列聖された。マキシミリアノ・コルベ神父が、彼がほとんど知らなかった一人の不当に断罪された仲間の囚人に代わって死ぬために自由に身を捧げた後に、アウシュヴィッツのナチスの監獄キャンプにおいて殉教したのはちょうど41年前であった。教皇ヨハネ・パウロ2世は彼を「われわれの困難な世紀の保護者」と宣言された。われわれは、神がわれわれの時代に深い信仰、英雄的な愛そして特に聖母に対する計り知れない愛の模範としてお上げになった聖マキシミリアノをもっと多くの人々に知ることを可能にするこの論考を公表するのが嬉しい。この聖人の聖性への鍵はわれわれの母なるマリアへの彼のますます大きくなる愛である。聖マキシミリアノは神の御母に対する彼の愛に何の制限も設けなかった。そして実践において、彼はその生涯の間一つの驚くべきマリア使徒職において実を結んだ強烈な祈りの生活によって聖母に対する彼の壮大な献身を示した。そして彼は人々をイエズスとマリアのより大なる知識と愛へと連れて行くためにマス・メディアを用いる彼のマリア使徒職を天国から導き続けている。

多くの召命

その間に汚れなきおとめは聖マキシミリアノのためにもう一つのより大きな奇跡を働いておられた。

聖母をすべての人のところへお連れし、聖母を地上における戦闘の教会においてすべての心の女王とする夢は聖母のために完全に奉献された霊魂たちなしには真実のものとなることはできないであろう。もし汚れなき聖母の騎士が繁栄すべきであるならば、エネルギーと愛をもった新しい手と心がその完全な発展へとそれを前進させるために必要である。

実際、この「夢」--彼が始めた他の馬鹿げた冒険と同じと思われた--はすばやいそして際だった仕方で実現へ向かって動いた。

汚れなきおとめに対する聖マキシミリアノの大きな愛は宗教的召命を産み出すようになった。彼はこう言った。「人々にとって汚れなき聖母にふさわしい者であるために、彼らの霊魂は奉献されていなければならない。汚れなき御母の仕事は商業的な企てでははない。それは無限にそのすべてのもの以上である。」

彼らの仕事において完全な沈黙のうちにそして祈りの精神に浸されて印刷機のところで忙しくしている修道士たちを見ることはフランシスコ会修道会の歴史において初めてであったに違いない。聖フランシスコは修道会の女王の栄光のために努力を傾けている彼自身の修道士たちを見て喜ばずにはいられなかったであろう。

さまざまの年齢や条件の男たちが次々にやって来ていた。彼らの到来は一つの新しい問題をもたらした。すなわち、滞在するために彼らのために十分な部屋を見つけることそして彼らの仕事を提供することである。古い修道院には放棄されていたすべての部屋が再びまるまる使われた。しかし召命の数は、雑誌の発行数やミリティアの会員--今や10万人を越えた--と同様に、なお増加した。

それゆえ次に聖マキシミリアノが夢見ていたもう一つの冒険が始まった。それは彼の大きな愛のすべての夢の中でも最も美しい夢であった。それは完全な都市、「汚れなき聖母の都」の創設であった。

都市の場所

聖マキシミリアノは直ちにこのマリアの本拠地を始めるために適当な場所を探し始めた。彼はそれがワルシャワからそう遠くないところであることを望んだ。このことは彼の出版物の輸送や郵送を容易にするであろうから。

彼は探しに出かけた。そしてテレシン(Teresin)に広大な区画の土地を見つけた。それはドゥルッキ-ルベッキ(Drucki-Lubecki)王子の地所だった。マキシミリアノは王子と会う手はずを決め、そして彼がその土地に彼の印刷工場と汚れなき聖母の修道士-騎士のための住居を建てることができるかどうかを尋ねた。王子はその修道士に好印象を持った。そして彼が要求したすべてのことを、一つの条件の下で、すなわち、マキシミリアノが彼に彼、王子の両親のために年に2回のミサを永久的に捧げてくれることを保証するという条件の下に、喜んで許した。

マキシミリアノは彼の上長たちからミサのための取り決めを得ることを約束した。その間に、大いに喜んで彼はテレシンへ行った。そして他の何よりも先に汚れなきおとめの美しい像を建てた。なぜなら、彼がその場所を所有するようになったのは聖母の利益に奉仕するためだったからである。

つづく


ファチマ・クルーセイダー

2014年03月24日 | Weblog

聖マキシミリアノ・コルベ VII

The Fatima Crusader, Issue 20: June-July 1986より

ステファノ・マネッリ神父、O.F.M., Conv., S.T.D.

1982年10月10日、聖ペトロ大聖堂で福者マキシミリアノ・マリア・コルベ(Maximilian Mary Kolbe, O.F.M., Conventual)は彼の最も傑出している英雄的徳のために列聖された。マキシミリアノ・コルベ神父が、彼がほとんど知らなかった一人の不当に断罪された仲間の囚人に代わって死ぬために自由に身を捧げた後に、アウシュヴィッツのナチスの監獄キャンプにおいて殉教したのはちょうど41年前であった。教皇ヨハネ・パウロ2世は彼を「われわれの困難な世紀の保護者」と宣言された。われわれは、神がわれわれの時代に深い信仰、英雄的な愛そして特に聖母に対する計り知れない愛の模範としてお上げになった聖マキシミリアノをもっと多くの人々に知ることを可能にするこの論考を公表するのが嬉しい。この聖人の聖性への鍵はわれわれの母なるマリアへの彼のますます大きくなる愛である。聖マキシミリアノは神の御母に対する彼の愛に何の制限も設けなかった。そして実践において、彼はその生涯の間一つの驚くべきマリア使徒職において実を結んだ強烈な祈りの生活によって聖母に対する彼の壮大な献身を示した。そして彼は人々をイエズスとマリアのより大なる知識と愛へと連れて行くためにマス・メディアを用いる彼のマリア使徒職を天国から導き続けている。

「汚れなき御方よ、あなたのために」

この創刊号のすべての部数は容易に売り切れた。聖コルベは直ちに第2号は1万部の印刷を考えることができた。しかし彼はそのお金をどこから得るであろうか?当時インフレがポーランドを襲っていた。そして彼が自由にできるわずかのお金は誰をも断念させるにふさわしいものであったろう。

マキシミリアノは修道院長の神父にわずかの援助を訴えた。しかしただ次の返事を受け取っただけである。「私に何ができますか?修道会は財産を持っていません。あなた自身がこの困難から抜け出すことはあなたにかかっています。」

彼は何をすることができたであろうか?彼は祈ることができた。マキシミリアノは教会の中に入って行き、汚れなきおとめの祭壇のところへ行った。彼はその祭壇の上に一つの封筒を見た。封筒には次の言葉が書いてあった。「汚れなき御方よ、あなたのために。」彼は封筒を取り上げそして開けた。その中には「汚れなき聖母の騎士」の第2号のために必要とされた正確な金額が入っていた。そしてそのように雑誌は、毎月発行部数が増加して、その仕事をもちこたえた。

雑誌のために誰が書いたのか?最初は聖マキシミリアノが実際にすべてをやった。マドンナについて彼が書くスタイルは単純、明快、効果的なものであった。彼は大部分の読者が断然ただ中程度の学校教育しか受けていないことを非常によく知っていた。彼が行ったことは実質的で堅固だった。彼は汚れなきおとめの知識と愛において彼らを教え、彼らに熱心に勧め、彼らを向上させた。発行部数を増やすために、聖マキシミリアノは予約を待たずに求める人には誰にでも彼の雑誌を送った。それからは寄付が彼にとって常に続けていけるのに十分な程度に自動的に入って来た。彼の天上の御母からの摂理は彼を配慮していた。

「兄弟なる機械設備」

マキシミリアノは、1ヶ月に5万部以上印刷を始めたときに、彼自身の印刷所を持つことについて考え始めた。これは馬鹿げたこと、彼の他の諸々のプロジェクト以上にもっと大きな馬鹿げたこととさえ、思われたであろう。しかしマキシミリアノは自分のことを「汚れなきおとめの馬鹿」と呼ばなかったか?

汚れなきおとめの助けと共に、「汚れなき聖母の騎士」がそれ自身の印刷機--コルベがそれを呼んだように、「兄弟なる機械設備」--を獲得したとき、この一見馬鹿げたプロジェクトは一つの現実となった。

もっと大きなそしてもっと適した場所を手に入れるために、彼は北ポーランドにある山岳地帯、グロドゥノ(Grodno)においてすべてのことを始めることを考えた。そしてそれから、彼と共に働くために割り当てられた修道士たちと一緒に、聖マキシミリアノはそこに移り、絶え間なく働き続けた。

編集、執筆、印刷--これらは、祈り、ミサ、礼拝、告解、そしてグロドゥノからおよそ2マイルの町でのカテキズムの教授に捧げられた時間に加えて、彼の日々の雑事であった。彼は、熱があろうとなかろうと、弱さを感じようと強さを感じようと、祈り、働いた。また執筆し、授業を受け持った。そのことについて心配するのは無益であった。なぜなら、時間は非常に早く過ぎ去り、そして彼は汚れなきおとめのために完全に自らを犠牲にしたいと思っていたからである。

彼は弟のアルフォンスス(Alphonsus)神父にこう書いた。「私の一日は本当に仕事でいっぱいだ。読者数が大股で増大している。汚れなきおとめはご自分の雑誌を強い手で前進するように導いておられる。時に私の顔が熱で赤くなろうとも、私は病気である暇がない。たとえ常に弱いと感じているとしても、私はこう繰り返している:私は病気である時を持っていない、と。」

つづく


ファチマ・クルーセイダー

2014年03月23日 | Weblog

聖マキシミリアノ・コルベ VI

The Fatima Crusader, Issue 18: Nov.-Dec. 1986より

ステファノ・マネッリ神父、O.F.M., Conv., S.T.D.

1982年10月10日、聖ペトロ大聖堂で福者マキシミリアノ・マリア・コルベ(Maximilian Mary Kolbe, O.F.M., Conventual)は彼の最も傑出している英雄的徳のために列聖された。マキシミリアノ・コルベ神父が、彼がほとんど知らなかった一人の不当に断罪された仲間の囚人に代わって死ぬために自由に身を捧げた後に、アウシュヴィッツのナチスの監獄キャンプにおいて殉教したのはちょうど41年前であった。教皇ヨハネ・パウロ2世は彼を「われわれの困難な世紀の保護者」と宣言された。われわれは、神がわれわれの時代に深い信仰、英雄的な愛そして特に聖母に対する計り知れない愛の模範としてお上げになった聖マキシミリアノをもっと多くの人々に知ることを可能にするこの論考を公表するのが嬉しい。この聖人の聖性への鍵はわれわれの母なるマリアへの彼のますます大きくなる愛である。聖マキシミリアノは神の御母に対する彼の愛に何の制限も設けなかった。そして実践において、彼はその生涯の間一つの驚くべきマリア使徒職において実を結んだ強烈な祈りの生活によって聖母に対する彼の壮大な献身を示した。そして彼は人々をイエズスとマリアのより大なる知識と愛へと連れて行くためにマス・メディアを用いる彼のマリア使徒職を天国から導き続けている。

汚れなき聖母の騎士

汚れなき聖母のミリティアに入会する人々の数は上昇していた。そして運動はますます拡がって行った。聖マキシミリアノは、彼らに正しい理想と真理でもって栄養を与え、彼らを一致させるためには各々の入会者と、そして彼のグループの各々との接触の手段の必要性を見た。しかし彼はいかなる手段を用いるであろうか?アッシジの聖フランシスコは話し言葉を用い、福音をそこに運ぶために近東に行くのに帆船を用いた。

話し言葉と帆船のほかに、マキシミリアノの時代には新聞、ラジオ、映画そして旅行の多くのそして速い方法--鉄道、車、飛行機による--を含む交通通信の道具がある。この真の使徒は神の王国を広めることが問題であるときには、何物も無視せず、あらゆるものを利用するであろう。彼の目標を実現するために、聖マキシミリアノは最も簡単でそして最も容易に手に届くもの、すなわち、すべての人のためのマリアの雑誌から出発しながら、あらゆる合法的な手段を用いることに決めた。彼の書き物の中にわれわれは次の言葉を見出す:「現れて来るあらゆる誤謬に対抗する、あらゆる言語でのキリスト教的およびマリアの出版物の土砂降りで世界を洪水にする必要がある。なぜなら、誤謬は新聞においてその最強の味方を見出したからである。生命の喜びを世界に取り戻すために、生命の言葉を運ぶ印刷物で世界を包む必要がある...」

この雑誌の名前は「汚れなき聖母の騎士」となるはずであった。

病床

しかし、すでにそこなわれていた彼の健康は彼を見捨てた。彼の熱は華氏104度以上にあがり、譫妄状態になった。

彼は最初クラコウの病院へ送られた。それから山の空気が健康によいザコパネのサナトリウムへ送られた。彼は1920年6月にサナトリウムに入り、そこでまる1年半過ごした。

人間的に言えば、そのような場所での入院生活は彼のマリア使徒職のすべての計画の終りを示すものであったであろう。しかし事態は超自然的に働き、この時期はそれらの発展のための堅固な基礎であった。主はその偉大な働きを達成なさるために、それ自身不適切な卑しい手段をお用いになる。(1コリ1 1:27-28)

ベッドから起きあがることができず、その呼吸が緩やかで弱かった聖マキシミリアノは、その苦しみによって汚れなき聖母のミリティアの使徒職の世界のあらゆる地域への拡大を準備した。彼の唯一の関心事は、彼がそうであったように、無制約の、そして何も留保しない仕方で聖母に属しながら、汚れなきおとめの望みを常に実現することであった。何一つ彼のものではなく、すべては、彼の肺の病気さえも、聖母のものであった。

聖マキシミリアノの一つの美しいそして意味深い習慣はこれであった:彼がベッドにつくときにはいつも、小さなベッドサイド・テーブルの上に置いていた汚れなきおとめの小さな像の足下に時計とめがねを置いた。時間(時計)と空間(めがね)は彼の女王のものであった。聖母はきっと神の王国の促進のためにそれらでもって聖母が望んでおられることをなさるであろう。

病者への使徒

マキシミリアノはその諸々の機会に従ってサナトリウムの病人たちの間で働いた。各々の患者との個人的私的な話のほかに、できるようになるとすぐに彼は集会と宗教的な会議を組織した。彼は討論を行い、そして不思議のメダイを配布する機会を見逃さなかった。

汚れなきおとめはご自分の支持を彼に与えられ、そして「無神論者たちの拠点」と考えられていた場所における無数の回心の喜びを彼に与えられた。

彼は死んで行く学生に洗礼を授ける幸福を持った。その青年はコルベの護教論の講義に忠実に出席していたが、しかし各々のセッションの終わりにはすばやく抜け出ていた。ついに彼はその日のセッションが彼が出席できる最後の日である、なぜなら彼の病気は非常に進行したのでもはやベッドを離れることができない、そして今はただ死を待つだけだからだ、ということを彼に告げるために聖マキシミリアノのところへやって来た。

聖コルベは彼を訪問することを約束した。重病であった者を訪問することは禁じられていたが、しかし彼はなんとか許可を得た。彼はたびたび訪問し、彼に話し、彼の首に不思議のメダイをかけ、適切に彼に準備した。彼は洗礼、聖体、終油の秘蹟を授けた。

彼は少年に尋ねた。「君は幸せかい、それとも何か困っていることがある?」

「僕の母--彼女はユダヤ教からキリスト教に回心した僕を呪うでしょう。」

「恐れてはいけない。君のお母さんが着くときには、君は天国にいるだろう。」

彼の母は若者の死の1時間後に着いた。彼女がその首に汚れなき聖母のメダイをつけた息子の体を見たとき、彼女の非難が強く表明された。

「あなた、告解へ行きなさい」

聖マキシミリアノが、不思議のメダイによって諸々の秘蹟へと彼らを導いたとき、どのように霊魂たちを獲得したかを美しく明らかにしているもう一つのエピソードが報告されている。

同僚の修道士、フロリアン・コジウラ(Florian Koziura)がこの説明を与えている:

コルベ神父は、ザコパネにいたとき、知識人として知られた一人の紳士を知り合いになった。彼に会うたび毎に神父は彼に求めた。「あなた、告解に行きなさい」。しかしその人はいつもこう言うのであった。「いいえ、神父様。私はあなたを尊敬しています。でも私は告解には行きません。おそらく別の機会にはね。」

数週間後、同じ紳士は出発しようとしていた。そして別れの挨拶を言いにコルベ神父のところへやって来た。マキシミリアノ神父の最後の言葉は「あなた、告解に行きなさい」だった。

「ごめんなさい、神父様、でも私は時間がないのです、直ぐに駅に行かなければならないのです。」

「では、少なくともこの不思議のメダイを持って行きなさい。」

その人は少なくとも礼儀のためにそのメダイを受け取り、直ぐに鉄道の駅へ出発した。その間にマキシミリアノ神父はこの頑固な罪人の改心のために跪いて汚れなきおとめに懇願した。

そのとき、なんと不思議なことが起こったことだろう!しばらく後に誰かがドアをノックした。

汽車をつかまえるために急いでいたその同じ紳士が現れた。廊下から彼は声を上げた。「神父様、告解に行きたいです。」

「出版の冒険」

1年半後、聖マキシミリアノはついにクラコウに戻った。彼は熱心に疲れも知らずに再び仕事に戻った。彼の最初の考えは「汚れなき聖母の騎士」を発行することであった。しかし彼はどのようにして印刷のための費用を支払うのであろうか?彼は管区長の神父のところへ行った。彼はただ励ましだけを受けた。しかし財政援助は不可能だった。彼は自分で金銭の工面をしなければならないであろう。

彼には出かけて行って物乞いをする以外には何も残されていなかった。汚れなきおとめのために扉から扉へと物乞いをする--何という経験だ!最初彼は勇気を欠いていた。彼は出かけるのだったが、それから戻って来るのだった。彼がノックした最初の扉が開いたとき、彼は顔を赤らめ、いくつかの言葉をどもって口にしたがそれは理解されなかった。そして恥じ入って引き下がった。

彼は後にこう報告した。「別の日に、私は私の雑誌のための寄付を願うために文房具屋に入って行った。非常にきまり悪く感じて結局小さな買い物をして立ち去ることに終わった。マドンナの愛のために私の屈辱感を抑えるという私の意図を貫くことに失敗する弱さに対して私自身を非難しながら、私はのろのろと歩いた。私はもう一度試みることに決心して別の店に入って行った。

再び恥ずかしさが私を圧倒した。きまり悪さでいっぱいになり、私は一語も発することができなかった。そのとき私は突然どうしてそこに行ったのか知ることなく通りにいる自分を見出した。」

それは苦痛に満ちたものであった。しかしマキシミリアノはついにどうにかやってのけた。1922年1月に彼は「汚れなき聖母の騎士」の創刊号5000部を発行した。

つづく


ファチマ・クルーセイダー

2014年03月22日 | Weblog

聖マキシミリアノ・コルベ V

The Fatima Crusader, Issue 17: Feb.-April 1985より

ステファノ・マネッリ神父、O.F.M., Conv., S.T.D.

1982年10月10日、聖ペトロ大聖堂で福者マキシミリアノ・マリア・コルベ(Maximilian Mary Kolbe, O.F.M., Conventual)は彼の最も傑出している英雄的徳のために列聖された。マキシミリアノ・コルベ神父が、彼がほとんど知らなかった一人の不当に断罪された仲間の囚人に代わって死ぬために自由に身を捧げた後に、アウシュヴィッツのナチスの監獄キャンプにおいて殉教したのはちょうど41年前であった。教皇ヨハネ・パウロ2世は彼を「われわれの困難な世紀の保護者」と宣言された。われわれは、神がわれわれの時代に深い信仰、英雄的な愛そして特に聖母に対する計り知れない愛の模範としてお上げになった聖マキシミリアノをもっと多くの人々に知ることを可能にするこの論考を公表するのが嬉しい。この聖人の聖性への鍵はわれわれの母なるマリアへの彼のますます大きくなる愛である。聖マキシミリアノは神の御母に対する彼の愛に何の制限も設けなかった。そして実践において、彼はその生涯の間一つの驚くべきマリア使徒職において実を結んだ強烈な祈りの生活によって聖母に対する彼の壮大な献身を示した。そして彼は人々をイエズスとマリアのより大なる知識と愛へと連れて行くためにマス・メディアを用いる彼のマリア使徒職を天国から導き続けている。

マリアの司祭

聖マキシミリアノにとって、神学校に入る一人の少年の最も美しい夢--司祭になる夢、祭壇に上る夢、十字架の犠牲を更新する夢、彼の手の中にイエズスを降りて来させる夢、霊魂たちにイエズスを配る夢--の実現がついに来た。

1918年4月28日にマキシミリアノは司祭に叙階された。翌日彼はローマの聖アンドレア・デッレ・フラッテのバシリカ、「奇跡の祭壇」--祝せられたおとめがユダヤ人ラティスボンに御出現になり、彼が瞬時に回心したその場所--で初ミサを献げた。

マドンナのその祭壇で、マキシミリアノはマリアの司祭の生きている模範として立った。彼ら二人--マドンナと聖マキシミリアノ--イエズスの御母と司祭たるキリストの人格と同一化した司祭--を熟考してみよう。マドンナはどのように愛情をこめてその最初のミサをご覧になり、それをお助けになったに違いないことだろう!そしてマキシミリアノはどのようにマドンナを愛情をこめて眺め、マドンナ、女王、仲介者、彼の司祭職の汚れなき御母に栄光を帰したに違いないことだろう!

イエズスにおいてあらゆる司祭は、その中で彼が、イエズス御自身の、神の御母に対する天的な愛をもって、彼自身の心と精神にイエズスを溢れさせる程度においてマリアの司祭となるべきである。

彼自身をイエズスによって完全に貫通され支配されるようにさせ、その結果彼がイエズス御自身の聖母に対する司祭的な愛をもって、彼の天上の御母を愛するようになる以外にどのようにして人はマキシミリアノについて考えることができようか?

御聖体に対する愛

祭壇に対する聖マキシミリアノの愛情と彼の御聖体に対する限りない献身は御聖体におけるイエズスを熱烈に愛することを欲するすべての霊魂にとって、特に司祭たちにとって常に一つの大きな模範であろう。彼は、時に彼のミサで手伝いした後で、彼を知らなかった人が祭壇でそのような信心を鼓舞したあの司祭が誰であるかと尋ねに行くほどのそのような信心をもってミサ聖祭を献げた。

彼はミサ聖祭の挙行をどのように重要なことだと考えたことだろう!疲れていても、あるいはへとへとでも、あるいは気分がすぐれなくても、聖人は愛のこの至高の犠牲を行うことを抜かそうと望んだことは一度もなかった。彼は、立っていることそしてぐるりと回ることができないときでも、ミサ聖祭を祝うことができるように彼を支えてくれる二人の修道士の助けを求めさえした。祭壇の前で祈っている彼を見つけることは容易だった。彼が若い聖職者であったとき、彼はよく毎日毎晩御聖体訪問を平均10回はすることにしていた。

彼の汚れなき聖母の諸都市に関して彼が持っていた主要関心事の一つは御聖体の永久礼拝を維持することであった。日本では、司教がその家が余りにも荒廃していると考えたとき、家の中に御聖体のある礼拝堂を持つために彼はどのように多くの苦労を経験したことであろう!一人の訪問者がニエポカラノフでなされた壮大な仕事を大いに賞讃したとき、マキシミリアノは御聖体を指して、言った。「ニエポカラノフのすべての生活はこの御聖体によるものです。」

彼が自分自身を御聖体で霊的に養っていると感じていたその必要性についてわれわれは何と言おうか?彼が15分毎に霊的聖体拝領をするという聖フランシスコ・サレジオの決心を彼自身の決心としたと言うことで十分である。彼の心を彼の秘蹟の主で絶えず養っているというこのことはわれわれに、聖母の心がどのように絶えずイエズスの礼拝のうちにあり、聖母の生活、聖母の愛、聖母のすべてであったイエズスと共に分かち難く結びついていたかについて考えさせる。

今日の司祭のための模範

聖マキシミリアノ・マリア・コルベの列聖式は1971年10月17日に、ローマで司教たちの第三回一般司教会議が開催されている間に行われた。司教会議が終わった後、ポーランドの司教たちは一通の共同所感を書いた。それは、他のこともいろいろあるがこう述べている:「ポーランドの司祭、聖マキシミリアノ・マリア・コルベの列聖は司教会議にとって摂理的であった...われわれが司祭職に関するわれわれの省察の結論にまさに到達したときに、教皇パウロ6世はバシリカにおいて現代の司祭のための模範を提示することを選ばれた...なぜなら、ただ司祭職について話すだけでは不十分である:人は今日のために一つの模範に向かうべきであるからである。」これは非常に雄弁になされたのであり、その結果司教たちは教皇に感謝したのである...司教会議の代表者の一人(デュヴァル枢機卿)は司祭職に関するこの列聖は司教会議ホールで言われたすべてのものよりも大きな重要性を持っていると宣言した。

聖マキシミリアノは汚れなきおとめに自らを与えた。彼は自らを聖母の純なる御手の中に置いた。そして汚れなきおとめは彼を模範司祭になさった。実際、司祭たちは、もし彼らが至高の大祭司イエズスの母である汚れなき聖母の御手と御心に自分たち自身を完全に委ねるならば、愛の、熱意の、犠牲の、巨人となるために彼らの模範としてマキシミリアノを受け取ることができる。

ポーランドへ帰国

聖マキシミリアノは、1919年7月22日にフランシスコ・コンヴェントゥアルの教皇庁立学部から神学の学位を受けた後、ただちにポーランドへ戻った。そこは当時貧困と飢饉で苦しんでいた。

マキシミリアノは次に教鞭を取るために上長たちによってクラコウの修道院へ送られた。彼は学生修道士たちのための哲学教授そして主要な神学校における教会史の教授であった。、

模範的で従順なマキシミリアノは、彼の心の中で広大な企てがすでに形成されていた--彼の愛するポーランドにおいてすくすく育つであろう汚れなき聖母のミリティアに生命を与えるであろう使徒職の企て--一方で、まったく真剣に彼の割り当てられた仕事を遂行し始めた。

彼は祈りに多くの時間を費やした。彼はしばしば短い次の祈りを唱えた。「原罪なくして宿り給いし...」あらゆるところで彼は不思議のメダイを配っていた。彼は沈黙や怠惰にとどまっていなかった。

「あと3ヶ月の命」

しかし間もなく彼は彼のすべての活動に脅威を与えた恐れられた病気、すなわち、結核の徴候を示した。病気は非常に進行していたので、一人の修道士の説明によれば、医者たちは彼はせいぜい「あと3ヶ月の命」しかないと宣告した。

彼は絶えざる咳の時期と弱い声に苦しんだ。彼の呼吸作用は弱く、彼の顔色は蒼かった。彼は突然の運動が大出血を引き起こす恐れがあるためにゆっくりそして注意深く動いた。数ヶ月後に上長たちは教鞭から彼をはずし、告解を聴くこと、そして少しだけ説教することを割り当てた。しかし彼はこの方法でさえ長く続けることはできなかった。まさに彼が聴いた告解や彼の短い説教が彼の呼吸の力を弱めた。そしてそれから、その不幸な時期の決定的な食事の不足が彼に不利に影響を与えたので、彼はほとんど立つことができなかった。

しかしながら、聖マキシミリアノを最も苦しめたものは結核ではなかった。それは何か別のものであった。彼は彼のミリティアの計画に対して彼が修道士たちの間に見出した無関心と軽率の態度に失望した。肩をすぼめること、皮肉な笑い、つけられたあだ名、ひどい冗談、あるいは単純なあざけり--これらが、マキシミリアノが汚れなき聖母のミリティアについて話したときに出会った初期の反応であった。彼のマリア使徒職への熱心な努力が続くのは「あと3ヶ月」だろうと思われた。

しかしながら、祈りと寛大さは決して実りのないものではなかった。

1917年10月7日

聖なるロザリオの聖母の祝日は聖マキシミリアノに甘美な驚きをもたらした。それは長く待たれていた何かあるものであった。彼はそれについてこう書いた:

「今晩、レクリエーションの間に6人の修道士-聖職者たちが彼らの師ケラー神父と一緒に彼らの名前を汚れなき聖母のミリティアへの入会に役立つであろう書面に署名した。

...愛する御母よ、私はこの計画でわれわれがどうなるかを知りません。しかし神の最大の栄光に奉仕するためにあなたのお望みの通りに私と私たちのすべてをどうか使ってください。おお、私の汚れなき御母よ、私はあなたのものです...」

これは始まりであった。事態は始まったのであり、もはやとどまったままではないだろう。彼はマリアのサークルのための基礎を置く一方で集会や会議を組織し始めた。これらの集会-サークルはクラコウの住宅地域において、そして下宿屋、学生寮そして軍隊のバラック内にすばやく拡がって行った。

彼はこう言っていた。「汚れなき聖母のミリティアは大衆を引きつけ、サタンから彼らを奪い取る一つの運動である。」そして「われわれは一つの霊魂がサタンの支配の下にとどまっている限り休息する権利を持たない。」

聖マキシミリアノが汚れなきおとめを通じて霊魂たちを獲得する彼の使徒職の出発と急速な発展を見たときのその喜びをわれわれは想像することができるだろう。

彼が苦しんだとき、人々が理解しそこなったとき、あるいは同意しなかったとき、あるいは彼を迫害しさえしたとき--これらの出来事は汚れなき聖母のミリティアのための基礎を敷くのに役立った。マキシミリアノはかつて彼の聖職者たちにこう言った:「ときにはわれわれの意図は悪く解釈される。ときには彼らはわれわれに対して誤った非難を持ち出しさえする。これらの迫害は単に敵どもから来るばかりではなく、善良で敬虔な、聖でさえある人々、おそらく汚れなき聖母のミリティアの高位にある人々からも来る。これらの人々が、われわれが作り上げたものを破壊しようともがくことによって、そして霊魂たちにわれわれの計画を嫌いにさせようと努力することによって神に栄光を帰するとう意図をもったあらゆる道をふさぐのを見ることほど苦痛なことは何もない...」

これは神の御計画が成長する仕方である。それらは貧困、支持のないこと、反対そして迫害の諸条件において生じたそして生じ続ける具体化の結果の小片である。

つづく


ファチマ・クルーセイダー

2014年03月21日 | Weblog

聖マキシミリアノ・コルベ IV

The Fatima Crusader, Issue 16: Sep.-Oct. 1984より

ステファノ・マネッリ神父、O.F.M., Conv., S.T.D.

1982年10月10日、聖ペトロ大聖堂で福者マキシミリアノ・マリア・コルベ(Maximilian Mary Kolbe, O.F.M., Conventual)は彼の最も傑出している英雄的徳のために列聖された。マキシミリアノ・コルベ神父が、彼がほとんど知らなかった一人の不当に断罪された仲間の囚人に代わって死ぬために自由に身を捧げた後に、アウシュヴィッツのナチスの監獄キャンプにおいて殉教したのはちょうど41年前であった。教皇ヨハネ・パウロ2世は彼を「われわれの困難な世紀の保護者」と宣言された。われわれは、神がわれわれの時代に深い信仰、英雄的な愛そして特に聖母に対する計り知れない愛の模範としてお上げになった聖マキシミリアノをもっと多くの人々に知ることを可能にするこの論考を公表するのが嬉しい。この聖人の聖性への鍵はわれわれの母なるマリアへの彼のますます大きくなる愛である。聖マキシミリアノは神の御母に対する彼の愛に何の制限も設けなかった。そして実践において、彼はその生涯の間一つの驚くべきマリア使徒職において実を結んだ強烈な祈りの生活によって聖母に対する彼の壮大な献身を示した。そして彼は人々をイエズスとマリアのより大なる知識と愛へと連れて行くためにマス・メディアを用いる彼のマリア使徒職を天国から導き続けている。

汚れなき聖母の軍隊

汚れなき聖母の軍隊(あるいはMilitia Immaculatae. 省略形:M. I. )はマキシミリアノが宇宙の女王、征服されない女性戦士、汚れなきおとめの命令の下に教会の敵どもとの戦闘をするための一つの計画を発展させた、熱心な祈りに捧げた時間の間に生まれた。神が予告なさった彼女はその御子と一緒に地獄の蛇に勝利なさるであろう:「神はへびに向かって仰せられた...女のすえは、おまえの頭を踏みくだくであろう」(創世の書:3:14,15)

聖母の軍隊は「聖母御自身の財産」として、そして自分たち自身の聖化のため、そしてキリストと教会の地獄の敵対者である教会の敵ども、特にフリーメーソンの回心のために戦うために募集された真に「従順な道具」として、汚れなきおとめに奉献された霊魂たちの軍隊でなければならなかった。

汚れなき聖母に奉献されたこれらの霊魂--男と女、青年と子ども--は3つのグループに組織され、軍隊の三つの階級を形成する。

第一の階級は聖母を愛すること、そして他の人々によって聖母を愛させるための個人的使徒職を行うことを彼らに誓約させる仕方で汚れなきおとめに彼ら自身を奉献する人々である。

第二の階級は単に個人的なマリア使徒職を行うだけでなく、サークルと呼ばれるある小さなグループ内で、あるいはそれ自身の規則や手続きを持つM. I. 協会あるいはセンターにおいて、一つの組織化された使徒職において奉仕する人々である。

第三の階級は自分自身を神への完全な献げ物としてし、留保なしにすべてのエネルギーと資源を聖母の自由処理に無条件に委せる奉献された霊魂たちである。

聖マキシミリアノはこれらすべての霊魂たちに汚れなきおとめに対する最高度の愛を提示した。

1917年10月16日

1917年10月16日の夕方、聖マルガリタ・マリア・アラコックの祝日の第一晩課のときに、聖マキシミリアノと他の6人の修道士たちは新しいマリアの軍隊の最初の部隊を形成した。ちょうど3日前にファチマで3人の羊飼いの子どもたち:ルチア、フランシスコそしてヤチンタに御出現になって、マドンナは罪人たちの回心と世界の救いのために償いと祈りに自らを捧げる霊魂たちをお求めになった。

マドンナに対する愛の最初の応答--聖マキシミリアノと6人の他の修道士たちによって与えられた--は汚れなき聖母の軍隊の創立であった。ローマの国際大学における10月16日のあの夕方、マキシミリアノは6人の他の修道士たちと最初の会合を持った。3人は司祭であり、3人は神学の学生であった。彼らはルーマニアのヨゼフ・パル(Joseph Pal)神父、キリコ・ピグナルベリ(Quirico Pignalberi)神父、アントニオ・グロウィンスキ(Antonio Glowinski)神父、そして学生修道士アントニオ・マンシ(Antonio Mansi)、ヘンリー・グラナタ(Henry Granata)そしてジェローム・ビアシ(Jerome Biasi)であった。

マキシミリアノはこう書いた。「会合は夕方奥の部屋の一つにおいて閉ざされた扉の背後で私的に開かれた。われわれは2本の蝋燭を灯してわれわれの前に汚れなきおとめの小さな像を置いた...」

マキシミリアノは一枚の紙から彼が作成した計画を読んだ。そして彼のブラザー修道士たち6人すべてがそれに署名した。その文書は次の通りである:

汚れなき聖母の軍隊

「彼女はおまえの頭を砕くであろう」(創世の書 3:15)「あなただけが世界におけるあらゆる異端を征服された。」

I.目的:罪人、異端者、分離主義者、ユダヤ人、等々、そして特にフリーメーソンの回心を求めること。また、祝せられたおとめ、汚れなきマリアの保護と取り次ぎを通じてすべての者の聖化を求めること。

II.諸条件:1)祝せられたおとめ、汚れなきマリアへの、彼女の汚れなき御手における道具としての、自己のまったき献身。2)不思議のメダイを身につけること。

III.諸々の手段:1日に1度もし可能ならば次の祈りを用いて汚れなきマリアに祈らなければならない。「原罪なくして宿り給いし、聖マリア、御身に依り頼み奉るわれらのために、また御身に依り頼み奉らざる者、特にフリーメーソンのために祈り給え。」2)各人の状況および起こる機会において可能であることに従って何らかの妥当な手段を用いてもよい。その選択は不思議のメダイの使用を強調して各人の熱意と思慮に委ねられる。

「君、それで十分だ」

そうこうしている間に、霊魂たちの救いに対するマキシミリアノの熱意は何か非常に生き生きとしたそして活動的なものであった。彼は霊魂を救う機会を黙って見過ごすようなことをさせなかった。そして可能なときには彼は何かよいことを率先して達成した。小さいけれど重要であるこのことについてのいくつかの事例がある。

かつて汽車の中で前に坐っていた一人の紳士が宗教と教皇に反対して公然と話をしていた。マキシミリアノは黙っていることができなかった。彼は逐一彼に答え始めた。議論はすぐに活発な論争となり、その中でその紳士は少しずつ地歩を失いつつあった。最後に彼らはある点に達した。そしてその男はこう言った。「それで十分だ、君!君は私が誰か知らない。私は哲学博士だ。」

「もしそのことが問題なら」とマキシミリアノはすばやく答えた。「私も、哲学博士です。」

この答は懐疑論者にまさに彼が誰と関わらなければならなかったかを知らせた。そして議論はより穏やかに続いた。終りになって、彼は宗教、教会そして教皇制を擁護するマキシミリアノの議論の力に注意を払った。

緑の宮殿

ジョゼフ・パル神父はこう書いている。「ある日、イタリアのフリーメーソンのグランド・マスターそして他のフリーメーソンを回心させるために、彼は緑の宮殿、パラッツォ・ヴェルデへ彼と一緒に私が行くよう提案した。私はもし学長が許可を与えたならば、彼に同道するだろうと確約した。夕食の後のレクリエーションの間に、彼はイグヌーディ神父のところへ行った。そして彼の提案を説明した。私が待っていた中庭に彼が戻って来たとき、彼は少しばかり当惑していた。しかし、彼が私に、学長の神父がしばらくはそのような冒険は適切ではないこと、そしてフリーメーソンのために祈る方がよいと言ったと告げたとき、彼はそのことを断念した。その場で彼は私に彼らの回心のために彼と一緒に祈らせた。」

この小さな出来事のうちにわれわれは野獣にそれ自身のすみかの中で近づくために、汚れなきおとめの力を十分に強く感じた若い使徒の勇敢さを発見する。われわれは、彼にしばらくは彼がただ祈るべきであると忠告した上長の意志への彼の謙遜な服従を賞讃する。この忠告をすぐさま果たし、そして直ちにフリーメーソンのために祈りを始めるということは彼にとって賞讃に値することであった。

目に涙をためて

ここにもう一つの精神を高揚するできごとがある。

同じパル神父はこう報告している:「われわれ二人が聖使徒大学へと戻っていた間、汚れなき乙女の祝日の準備のノヴェナの間に、われわれは三四人の労働者が、住宅での彼らの仕事に戻ったときにマドンナに対する冒涜の言葉を口にしているところを通りました。

マキシミリアノは私を通りに残して、彼らに大急ぎで近づいて行きました。彼は目に涙をためて、なぜ彼らは聖母を冒涜するのかと、彼らに尋ねました。私は、彼に時間を浪費しているのだと確信させるために無益な努力をしました。彼はその間ずっと激しく涙をもって話し、行動したので、最後には彼らは謝りました。そして自分たちは極端な怒りに駆り立てられたときに鬱憤をはらすやり方としての習慣からそうしたのだと言いました。彼は、彼らの怒りを何とかして鎮めるまでは彼らに嘆願することをやめませんでした。」

「従順な道具」

マキシミリアノは熱心な気性を持っていた。サタンを打ち負かす汚れなきおとめという考えは彼を陽気にした。霊魂たちを滅ぼしている霊的道徳的な退廃を見たことは、霊魂たちを「肉の欲、目の欲、生活のおごり」(1ヨハネ 2:16)から救い出すために、時間を浪費しないこと、あらゆる手段を用いること、あらゆる方法を勇敢に試みることへと彼をせき立てた。

彼の勇敢さは純粋に汚れなきおとめに与えられた限界のない力をあてにしていた。人々をして自らを聖母の御手の中に置くようにさせ、聖母の「従順な道具」であるようにさせよ--それで十分である。そうすれば、この征服されざる女性戦士は「この世の子ら」(ルカ 16:8)そして「やみに行われる業」(ローマ 13:12)を打ち負かされるであろう。

コルベはこう言った。「マドンナはわれわれを何ら必要となさらない。しかしマドンナはわれわれに功績を与え、勝利をより栄光あるものとされるために、へりくだってわれわれをお用いになるのである。--それが、貧しい、弱い人々を通じて、そして世間的な基準によって、不適切である手段をもって、勝利されるときのように--なぜなら、霊的な武器は俗物によって嘲られ、格下げされるからである。

われわれは、あらゆる適法な手段を利用し、話された言葉を通じ、マリアに関する書籍と不思議のメダイの配布を通じて前進し、そして祈りとよき模範によってわれわれの活動に強さを与えながら、従順な道具として聖母の御手の中に自らを委ねることが必要である。

それゆえに、マリア使徒職の手段は汚れなきおとめの旗印の下に戦う意図をもってマリアの聖なる軍隊に自らを登録すること、同様にまた、ミリティアを他から区別するものとして不思議のメダイを身につけることであろう。同時に聖母の兵士として毎日、その中でわれわれがわれわれに対するマドンナの保護を嘆願し、そして特に教会の最大のそして最も頑固な敵であるフリーメーソンの回心のために願う短い祈りを捧げることであろう。」

マキシミリアノはこのすべての傑出した模範であった。彼は、特に祈りとよき模範によって聖母に対する奉仕であるいかなる機会をもとらえそこなうことがないように機敏な、真に聖母の御手における「従順な道具」であった。彼が若い聖職者であったとき、そして彼が円熟した司祭であったとき、彼がローマあるいはワルシャワの通りで、汽車あるいは船の中で、大学キャンパスで、そしてニエポカラノフ(Niepokalanow)の廊下で、ロザリオを唱えているのを人は容易に見ることができたであろう。彼が「ロザリオの祈りがより多くなされるとき、より多くの霊魂が救われる」というこの小さな金言を書いたとすれば、彼は霊魂を救うためのロザリオの価値に無限の信頼を置いていたのである。聖なるロザリオを愛する者にとって何という励ましであろうか!

彼は常にポケットの中に不思議のメダイをせっせと供給していた。彼はそれを人間の心の中に突破口を開く「弾丸」あるいは「小さな爆弾」と呼んだ。彼は人々がそれを手に入れるのを保証するのに最も適した場所にそれを残すことについての臨機の才を持っていた。

人は聖マキシミリアノをどんな仕方でもしりごみすることなくマリアに服従した真に従順な道具の完全な模範として記述することができるであろう。

つづく


ファチマ・クルーセイダー

2014年03月20日 | Weblog

聖マキシミリアノ・コルベ III

The Fatima Crusader, Issue 13: Oct.-Dec. 1993より

ステファノ・マネッリ神父、O.F.M., Conv., S.T.D.

1982年10月10日、聖ペトロ大聖堂で福者マキシミリアノ・マリア・コルベ(Maximilian Mary Kolbe, O.F.M., Conventual)は彼の最も傑出している英雄的徳のために列聖された。マキシミリアノ・コルベ神父が、彼がほとんど知らなかった一人の不当に断罪された仲間の囚人に代わって死ぬために自由に身を捧げた後に、アウシュヴィッツのナチスの監獄キャンプにおいて殉教したのはちょうど41年前であった。教皇ヨハネ・パウロ2世は彼を「われわれの困難な世紀の保護者」と宣言された。われわれは、神がわれわれの時代に深い信仰、英雄的な愛そして特に聖母に対する計り知れない愛の模範としてお上げになった聖マキシミリアノをもっと多くの人々に知ることを可能にするこの論考を公表するのが嬉しい。この聖人の聖性への鍵はわれわれの母なるマリアへの彼のますます大きくなる愛である。聖マキシミリアノは神の御母に対する彼の愛に何の制限も設けなかった。そして実践において、彼はその生涯の間一つの驚くべきマリア使徒職において実を結んだ強烈な祈りの生活によって聖母に対する彼の壮大な献身を示した。そして彼は人々をイエズスとマリアのより大なる知識と愛へと連れて行くためにマス・メディアを用いる彼のマリア使徒職を天国から導き続けている。

ステファノ・マネッリ神父、O.F.M.--彼は最近コンヴェントゥアル・フランシスコ会のナポリ管区総長に選ばれた--は、ステファノ神父が今日われわれの新しい聖人によって立てられた模範に従っているので、特に聖マキシミリアノについて書くのに適している。ステファノ神父と聖マキシミリアノとは両者とも、彼らの各々が院長をしていたそれぞれの修道院へと多くの修道生活の召命を惹きつけた。両者はマリア使徒職を始めた。そして出版とマス・メディアの他の領域において働いた。両者はヨーロッパから遠く離れたアジアにおいて神の御母に対する信心を促進するために宗教共同体を設立した。両者は神学の博士号を持っており、そして両者はコンヴェントゥアル・フランシスコ会の神父である。ステファノ神父は、聖マキシミリアノと同様に、この号の16ページに印刷された「イエズス、われわれの御聖体の愛」という論考からわれわれ読者が知っているように、興味のあるそして非常に読み応えのある論考の著者である。聖マキシミリアノのこの簡潔な伝記は数年前にイタリア語で出版された。そして北アメリカにおいて英語で出版されるのは今回が初めてである。

一人の聖人が大学に出席する

短い時間が過ぎ去っただけである。そしてブラザー・マキシミリアノは注目すべき知性と結合されたその例外的な善性によって国際大学におけるすべての者を啓発した。学長ステフェン・イグヌーディ(Stephen Ignudi)神父は福者マキシミリアノを「聖なる青年」と記述した。そしてこの記述を大学の記録簿に入れた。

彼の仲間のブラザーたちにとって、マキシミリアノは教化の真の模範として傑出していた。「彼は言葉の正確な意味において真に一人の聖人でした」と彼の同僚の学生の一人は報告している。そして彼はこうつけ加えている。「彼はあらゆることについて、そしてあらゆる人に謙遜で柔和でした...彼は会則の最も小さな条項においてさえ、最も厳守する人でした。上長からの最初の合図、あるいは修道院のベルの最初の音で、彼は一つの語の真ん中でさえそれを止めて、すばやく無言になるのでした...信心に関して言えば、祝せられた秘蹟[=御聖体の秘蹟]におけるイエズスに対する彼の愛は彼の心の最も深い奥底にまで達していました。彼は永久聖体礼拝の会に入会していました...かれは毎時間御聖体訪問をするのでした...聖母に対して彼が持っていた信心は心からのものであり、純真なものでした。私たちが散歩に出かけるとき、彼は私を誘ってロザリオを唱え、また彼と共に他の祈りもするのでした...彼は、私たちが大学の中庭にいる自由時間の間にもしばしば同じことをしていました。彼は常にマドンナに「私のママ」(Mamma mia)という甘美な名前を与えていました...現実の生きている人間の中で、私はマキシミリアノ神父以上にマドンナに対する大きな愛情を持った人には誰も会ったことはありませんでした。彼はいとも聖なるマリアの真の子どもでした。」

「聖なる青年」と「いとも聖なるマリアの真の子ども」--それはローマにおけるこの時期の間の福者マキシミリアノをわれわれに美しく示す二つの判断である。

すぐれた学者

平均的な背の高さで黒髪の、澄んだ明るい目と笑顔をもったこの若いブラザーは、また精密科学への特別の傾きをもった著しく鋭い知性をも持っていた。

福者マキシミリアノによって準備された宇宙船プロジェクトは、後にヴァチカン・ラジオのディレクターに任命されたグレゴリアン大学の科学者であり教授であったジャンフランチェスキ(Gianfranceschi)神父に提出された。ジャンフランチェスキ神父はそれを検討し、そしてそれが科学の諸原理に従って正確であると見た。しかし彼はそれを実際に作動させる費用は極端に高くなるだろうと判断した。

思慮深く鋭い精神の持ち主であったブラザー・マキシミリアノは彼が研究しなければならなかったすべての学問的な問題において問題の底にまで達することを望んだ。このことはときには彼の教授たちにはまごつかせるものであった。実際、あるとき、法律の教授はこう意見を述べた:「この青年は私がどう答えるか知らない問題を私に出す。」

彼の教室での勉学においてブラザー・マキシミリアノはまた彼の寛大な性質を示した。彼は教授たちによってなされる講義のノートを容易に作ることができた。そして次に彼よりもうまくできないクラスメートのために彼は喜んでそのノートを、特に試験の時の間、彼らに回した。

1915年10月22日に、ブラザー・マキシミリアノはグレゴリアン大学で哲学博士号を受けた。彼は国際大学の神学部で研究を続けた。

彼の指が奇跡的に癒される

ある日ブラザー・マキシミリアノは右手の人差し指を悪い病菌に冒された。医者は注意深く検査し、なすべき唯一のことはすぐさまそれを切断することだと宣告した。これは翌日行われることになった。

これはブラザー・マキシミリアノにとってショックだった。右人差し指の切断は彼が司祭になることを妨げ得るであろう。なぜなら、この指はミサ聖祭を司式するのに必要とされたからである。彼は、悲しみを感じる一方で、自らを神の御旨に委ねた。学長の神父はその夕べ彼を訪れたが、彼が穏やかなのを見出した。そして彼に、この種の事例が彼が少年であったときにどのように起こったかを告げた。彼の脚の膿瘍が耐えられない苦痛を引き起こした。そして医者は次の朝その切断を命じた。しかし、十分な信仰をもった彼の母親は布きれをルルドの水に浸してそれを膿瘍の上に当てた。翌朝医者はルルドの水が使われたことを知り、宗教的迷信について辛辣に話した。しかし彼が脚の包帯をほどいてそれが癒されているのを見たとき、彼は混乱し、そして謙虚になった。

彼は回心の恵みを受けた。そして後に私財を投じて教会を建てさせた。

「私はもうそれ以上は言わないよ」と学長は言葉を結んだ。彼はポケットからルルドの水の入った小瓶を取り出し、それをテーブルの上に残した。

朝が来たとき、医者が切断手術を執行するために到着した。マキシミリアノは言った。「先生、私は切断手術をしなくても私を癒すことができる薬を見つけたかもしれません。テーブルの上にあの小瓶があります。どうかそれを私の指に塗っていただけないでしょうか?」

その医者はよいキリスト教徒であった。彼は理解した。そしてブラザー・マキシミリアノのこの信仰の行為において彼の役割を果たすことに同意した。彼はガーゼをルルドの水で湿し、それを指に巻き付けた。

翌朝医者はこの普通でない医薬がどうなったか知りたがった。彼は切断の必要がなくなったことを見出して驚いた。指はよくなっていた。汚れなきおとめは一つの明白なそして目に見える仕方でご自分の愛する子どもの必要のために備えてくださったのだ。

フリーメーソンに反対する熱意

ローマにおいてブラザー・マキシミリアノは善いことと悪いことを見た。彼は教皇、諸々のバシリカ、カタコンベ、いくつかのローマ古代遺跡、そして永遠の都に無数にある芸術のすぐれた宝を見た。

彼はまた広く行き渡っている世俗的なものと虚栄をも目撃した。彼はとりわけフリーメーソンたちが教会に反対して、そしてキリストの代理者に反対して支援していた、やかましく要求する、神聖を汚すデモンストレーションを見た。

彼はローマにとって祝福であったもの、とりわけ、教皇の存在を喜んだ。教皇について彼はその手紙の中で人に伝わり易い情熱と尊敬をもって話している。しかしキリストとその教会の敵の不敬な行為は彼に嫌悪感を起こさせ、彼の心をかき乱した。

1917年とう年はフリーメーソンの200周年記念の年を示した。ブラザー・マキシミリアノはローマの街を通り抜け、ヴァチカンの前の聖ペトロ大聖堂広場まで入り込んだフリーメーソンによって教皇に反対して組織された冒涜的なパレードの神なき性格を知った。ルチフェル、あるいはサタンの足下になった大天使聖ミカエルの絵を描いた、そして「サタンはヴァチカンを支配するであろう」という言葉を書いた黒旗が翻った。真のフリーメーソンはサタンに従う者たちである。

悲劇的な光景はブラザー・マキシミリアノの心に血を流させた。彼が次のように書いたのはそのときであった。「われわれの敵が引継ぎの点まで彼らの仕事を遂行しなければならないということ、そしてわれわれが怠惰のままにとどまる、あるいはせいぜい何も行動しなくてただ祈るだけということも可能である。われわれは彼らの武器よりももっと強力な武器--神と汚れなきおとめの保護--を持っていないのか?...あらゆる異端を撃退なさる汚れなき、負けることなき女王はその頭を再びもたげている敵にその戦場を明け渡されないであろう。もし聖母がその御命令に忠実で従順な奉仕者を見出されるならば、聖母はわれわれが想像する以上に大きな新しい勝利を得られるであろう...」

別の機会に、聖アンドレア・デッレ・フラッテ(S. Andrea delle Fratte)教会において祝せられたおとめについてラティスボンが持った幻視と共にユダヤ人アルフォンス・ラティスボン(Alfons Ratisbonne)の回心--それは不思議のメダイによってもたらされた--についての学長の黙想を聴いた後に、ブラザー・マキシミリアノは熱烈な喜びをもって仲間の修道士に打ち明けた:「今や、私たちは悪魔とすべての異端、特にフリーメーソンを追い払うためにただ単純にマドンナに祈らなければなりません...」

つづく

聖マキシミリアノ・コルベ

幸いなことに、キリスト教徒はいたるところで今年、アウシュヴィッツにおけるその英雄的な殉教が単にマリアを通してキリストの支配へと完全に献げられた生活に聖性の最後の封印をした福者マキシミリアノ・コルベの列聖によってマルキシズムに劣らずフリーメーソンと戦う必要について思い起こさせられるであろう。

なぜなら、それについて聖マキシミリアノ・コルベが彼の生涯のあらゆる瞬間に絶えず意識していた一つのことがあったとすれば、それはフリーメーソンの脅威だったからである。

若いブラザー・マキシミリアノはフリーメーソンの目標を次の言葉で分析した:

「神なきこれらの人々は悲劇的な状況のうちに自らを見出す。教会と地上におけるキリストの使者たちに対するそのような執念深い憎しみは個々の人間の能力のうちにあるのではなくて、つまるところフリーメーソンから生じる組織的な活動の能力のうちにある。特に、それはカトリック宗教を滅ぼすことを目標としている。彼らの諸々の欺瞞は、異なった諸々の外観において、しかし同一の古い目標をもって、全世界に広められてきた。すなわち、その目標とは、宗教的無関心と彼らの基本的原理:われわれは議論をもってではなく、むしろ道徳的堕落をもって、カトリック教会を征服するであろうという基本原理に従う道徳的諸力の弱体化である。」


ファチマ・クルーセイダー

2014年03月19日 | Weblog

聖マキシミリアノ・コルベ II

The Fatima Crusader, Issue 11: May-June 1983より

ステファノ・マネッリ神父、O.F.M., Conv., S.T.D.

1982年10月10日、聖ペトロ大聖堂で福者マキシミリアノ・マリア・コルベ(Maximilian Mary Kolbe, O.F.M., Conventual)は彼の最も傑出している英雄的徳のために列聖された。マキシミリアノ・コルベ神父が、彼がほとんど知らなかった一人の不当に断罪された仲間の囚人に代わって死ぬために自由に身を捧げた後に、アウシュヴィッツのナチスの監獄キャンプにおいて殉教したのはちょうど41年前であった。教皇ヨハネ・パウロ2世は彼を「われわれの困難な世紀の保護者」と宣言された。われわれは、神がわれわれの時代に深い信仰、英雄的な愛そして特に聖母に対する計り知れない愛の模範としてお上げになった聖マキシミリアノをもっと多くの人々に知ることを可能にするこの論考を公表するのが嬉しい。この聖人の聖性への鍵はわれわれの母なるマリアへの彼のますます大きくなる愛である。聖マキシミリアノは神の御母に対する彼の愛に何の制限も設けなかった。そして実践において、彼はその生涯の間一つの驚くべきマリア使徒職において実を結んだ強烈な祈りの生活によって聖母に対する彼の壮大な献身を示した。そして彼は人々をイエズスとマリアのより大なる知識と愛へと連れて行くためにマス・メディアを用いる彼のマリア使徒職を天国から導き続けている。

ステファノ・マネッリ神父、O.F.M.--彼は最近コンヴェントゥアル・フランシスコ会のナポリ管区総長に選ばれた--は、ステファノ神父が今日われわれの新しい聖人によって立てられた模範に従っているので、特に聖マキシミリアノについて書くのに適している。ステファノ神父と聖マキシミリアノとは両者とも、彼らの各々が院長をしていたそれぞれの修道院へと多くの修道生活の召命を惹きつけた。両者はマリア使徒職を始めた。そして出版とマス・メディアの他の領域において働いた。両者はヨーロッパから遠く離れたアジアにおいて神の御母に対する信心を促進するために宗教共同体を設立した。両者は神学の博士号を持っており、そして両者はコンヴェントゥアル・フランシスコ会の神父である。ステファノ神父は、聖マキシミリアノと同様に、この号の16ページに印刷された「イエズス、われわれの御聖体の愛」という論考からわれわれ読者が知っているように、興味のあるそして非常に読み応えのある論考の著者である。聖マキシミリアノのこの簡潔な伝記は数年前にイタリア語で出版された。そして北アメリカにおいて英語で出版されるのは今回が初めてである。

レオポリにおける神学校

今夕方である。そして人々は教会にいる。それは町全体のための宣教の時間である。コンヴェントゥアル・フランシスコ会修道士、ペレグリン・ハツェラ(Peregrin Haczela)神父が説教をしている。隣同士坐って、説教師の言葉に静かにそして注意深く耳を傾けているのは二人の兄弟フランシスとライモンドである。

一つの点に二人の少年の興味が起こり、そして彼らは深く感動し、嬉しくなった。宣教師である神父はレオポリ(Leopoli)の町に、聖フランシスコ修道会においてイエズスに献身することを欲している少年たちのために神学校が開かれると言っている。

説教の後すぐに二人の少年は聖器室で宣教司祭と会う。彼らは彼と話をし、聖フランシスコがそうしたように、神に献身したいという彼らの望みについて告げる。そして彼にレオポリの新しい神学校に彼らを受け入れてくれるように願う。

ガリシアの首都レオポリの遠距離のゆえに彼らの両親の同意を得ることは難しかった。しかし最後には同意が与えられた。そしてそのようにして、1907年10月に二人の少年は新しいフランシスコ会神学校に入学することができた。ライモンドにとっては一つの幻想が一つの現実となった。一つの夢が真実となった。マドンナは彼のために道を開かれ、そして彼の目標--二つの冠--へ向かって彼を導いておられた。

恐るべき誘惑

レオポリの新しい神学校において、彼の兄フランシスと共に、活発で利口なライモンドは彼の小神学校の課程の終りまで勉学を続けたとき穏やかで確信に満ちていると見えた。彼にとって修道士の衣服--フランシスコ会の僧服--を受けるために彼の要求を提出する時期が来た。--そして修練期が始まる。すべてが安らかに過ぎて行った。そして見よ!誘惑者がその姿を現す。常に目を光らせている悪魔は一つのよい機会を嗅ぎつけ、この純粋で熱心な霊魂を悩ませ始めた。おそらく悪魔は一人の偉大な明日の使徒が、そのように真面目で献身していたあの霊的な青年から出現するのではないかと疑ったのだ。悪魔は確かに何とかしてライモンドの頭の中に以下のような奇妙な気苦労を注入しようとした:「もしおまえがマドンナによって約束された二つの冠を得たいならば、そのとき神学校において続けるよりはむしろ直ちにそこを出て、軍務に就くべきだ。そうすればおまえは戦闘任務に入って天の女王のために死ぬことができ、そしてそのようにして聖母によって冠を受ける特権を獲得することができるのだ。」

この暗示はライモンドの考えの中へ、修練期の始まる前の日に修練者になることを求めないで、修道会を出るように決心させる程度にまで、その道を作るのに巧みにやり遂げた。さらに、ライモンドは兄のフランシスにも、修練者の僧服を求める考えを放棄するよう何とか確信させようとした。

母が息子を救う

天の御母はご自分が選ばれた子どもを見張っておられた。彼を悪魔の暗示から解放するために天の御母は彼の地上の母を用いられた。彼の母は同じように、--あらゆるキリスト教的な母親がそうであるべきであるように--彼女の息子の召命を守ることに関心を持っていた。

そのまさに同じ日に、ライモンドの母親は二人の息子を訪ねる一つの促しを感じた。そしてその決定的な瞬間に神学校に着いた。ライモンドとフランシスが、修練期のためにはもはや志願したくないと管区長の神父に会いに行く途上にあった間に、彼らの母親は神学校の入り口の門のベルを鳴らした。二人の兄弟は直ぐに彼女に会うために送られた。

ずっと後年になって、聖マキシミリアノはこう書いた:「私たちが、管区長の神父様に修道会には入らないと告げるために会いに行こうとしていたちょうどそのときに広間のベルがなったときのことを私たちはどうして忘れることができるでしょうか?汚れなき御方によって、無限に憐れみに満ちておられる摂理の神はあの決定的な瞬間に私たちの母をお送りになったのです。」

彼らがすべてのことを善良な母親に示したとき、どのように用いるかを彼女が知っていた聖なる言葉が、悪魔がライモンドとフランシスに与えた考えをすばやく追い払い、彼らの心に平和をもたらし、そして熾天使的師父、聖フランシスコの僧衣を受け、そして修練期に入る要求を熱心に彼らに説得した。

ブラザー・マキシミリアノ・マリア

1910年9月4日に汚れなきおとめの祭壇の前でライモンド・コルベは16歳でブラザーとなった。その瞬間から彼の名前はブラザー・マキシミリアノ・マリアであった。彼は勇敢な兵士たちそして有名な支配者たちに属する一つの名前を受けた。彼の上長は彼のうちには何か例外的なものがあると感じた。そしてブラザー・マキシミリアノの心証はそのすべての強さと美しさにおいて見られた彼のフランシスコ会の召命に従って行動しようと強く決意した者の心証であった。

修練期の年は穏やかに過ぎ、祈り、勉学、日々の労働そして修道者の諸徳の訓練、「共同生活」すなわち、祈り、清貧そして償いに捧げられた共有の生活であるフランシスコ会の生活の学習と実践に費やされた。修道士マキシミリアノは彼の諸々の試練を持っていた。一つの点で彼は良心の呵責に悩んだ。しかし彼の上長に従う従順と真に聖なる司祭、ヴェンザンジオ・カタルジニエック(Venzanzio Katarsyniec)神父との摂理的な出会いが苦痛に満ちた霊的苦しみをすばやく癒した。

修練期の年の終り、1911年9月5日にブラザー・マキシミリアノ・マリアはアッシジの聖フランシスコの会則を忠実に守ることを約束して、従順、清貧、貞潔の誓いをもって神に自らを奉献した。

第2章
--熱心な青年--

永遠の都で

修練期の年が終わるとすぐに、ブラザー・マキシミリアノは彼の短大の勉学を続けるためにクラコウの熾天使神学校へ送られた。もう1年が過ぎた後、彼の管区長の神父が彼を喚び出し、かれに次の選択肢を与えた:「君はここポーランドで君の勉学を続けることを選ぶか、それとも哲学と神学の博士号を取るためにローマの国際的な大学に行きたいかね?」

マキシミリアノのすばやい答えはこうであった:「私の貧弱な健康のことを考えますと、私はローマの大学で博士号を取ろうと試みることよりはむしろポーランドで勉学することの方を選びたいと思います。

彼にローマへ行く機会を取り下げる気にさせたもう一つの秘密の動機があった。彼はマドンナによって彼に約束された白い冠を熱心に守ることを欲していた。彼は自分の清純な純潔に対して恐れを持っていた。なぜこの恐れを持っていたのか?なぜなら、不幸にもローマはポーランドのブラザーたちの間では好ましからざる評判を持っていたからである。そこには堕落や公の不道徳の話があった。そこには誇張があった。しかしブラザー・マキシミリアノはキリスト教的節度が支配的であったクラコウのより安全な環境の方を選んだのである。

管区長の神父は彼に機会を取り下げないように説得したが成功しなかった。それで彼はブラザー・マキシミリアノの名前を永遠の都へ割り当てたブラザーたちの名簿から削除した。

しかし翌日ブラザー・マキシミリアノは彼の管区長神父に会うために戻って行った。彼の上長にまで決定を残さなかったことに対する後悔が彼の心の平安をかき乱した。彼は言った:「神父様、昨日私は自分自身の個人的な望みを表明しました。そしてごめんなさい。私は今あなたの望まれることを私にさせるようにあなたにお願いします。なぜなら、私はただ従順を実践したいだけだからです。」

「それでは君はローマに行くことになる。」管区長神父は微笑みながらそう言った。そしてブラザー・マキシミリアノの名前を他の者たちの名前のリストに戻した。

つづく