けれど(Credo)

I:キリシタン信仰と殉教 II:ファチマと現代世界 III:カトリック典礼、グレゴリオ聖歌 IV:「聖と俗」雑感

ファチマ・クルーセイダー

2012年07月31日 | Weblog
今やあなたにかかっている
-- シスター・ルチアは永遠の報いへと去った --

The Fatima Crusader Issue 79, Spring 2005 Special Edition より

ニコラウス・グルーナー神父 B.Comm., S.T.L.,S.T.D.(Cand.)

1917年10月13日に前例のない奇跡が起こった:

正午の太陽は4分間さまざまの色を次々と発しながらぐるぐるまわった。その日ある人がファチマで白いシャツを着ていたならば -- それは太陽が回転するにつれて赤、緑そして青に変わったであろう。それは止まり、そしてさらに4分間、今度はもっと美しくさえある色を出しながら、再び回転し始めた。そしてそれは次に再び止まった。

それからそれは再びまわり始めた。今度は太陽はその通常の位置からはずれ、空においてジグザグに動き始めた。それはおよそ4分間「ダンスをした」。次に地上に向かって真っ直ぐに落ち始めた。世の終わりであると思われた。多くの人々は跪き、神の憐れみを求めた。太陽はそれから空の中のその通常の位置に戻った。

このことの他に、もう一つの奇跡が起こった。その衣服が滝のような土砂降りでずぶ濡れになり、くるぶしまでの深さの泥の中に立ちまた跪いて泥まみれになっていた7万人の人々は瞬間的に乾き、きれいになった。科学者たちは、人々と大地とをあの瞬間に乾かすためには一発の原爆の規模[のエネルギー]を必要としたであろうと言う。しかしエネルギーのこの突然の放出によって誰一人害を受けなかった。

この奇跡はカトリック教徒も信仰を持たない人々も同様に、7万人の人々によって目撃された。そして世俗的な、そして反カトリック的な報道機関によってさえ報道された。

神は、祝せられた御母がファチマでポルトガルの三人の農民の子どもたちに与えられたメッセージの真正性を保証するためにその大奇跡を行われた。祝せられたおとめマリアは引き続く6ヶ月の間毎月これら三人の子どもたちに御出現になり、多くの霊魂を救い、全世界に平和をもたらす手段を彼らに委ねられた。

I. あなたは信じなければならない

なぜあなたは、聖母がファチマでお与えになったメッセージを信じることを義務づけられているのか?ファチマは単なる一つの「私的啓示」ではなかったか?これらの問題点に取り組むためにまず第一に各々すべてのカトリック教徒が、イエズス・キリストおよび教会との一致に、そして恩寵の状態に、留まるためにはある種の事柄を行いかつ信じることを義務づけられているということをあなたに思い起こさせてほしい。すべてのカトリック教徒はまず第一に信仰の遺産に含まれているすべてのことを信じなければらない。なぜなら、聖アタナシウスの信条として知られているカトリック信仰告白は次のように説明しているからである:

「救われることを望む者は誰でも、とりわけカトリック信仰を守らなければならない。なぜなら、ある人がこの信仰を全体としてそして無傷に守らない限り、彼は疑いなく永遠に滅びるであろうからである。」
カトリック信仰を「全体としてそして無傷に」固く守るとうことは何を意味するのか?信仰に関するとは何であるか?聖トマス・アクィナスはわれわれに、信仰は神が啓示なさったすべて:すなわち、神が聖書とカトリックの伝統の両者において啓示なさったすべてであると告げている。それがカトリック信仰であり、そして救われるためにはわれわれはそれを信じることを義務づけられているのである。

われわれはファチマを信じなければならないか?

聖母がファチマでお与えになったメッセージをわれわれは信じなければならないと主張する二つの神学的な立場がある。

第一の立場は、ファチマは預言を通って聖書のうちに含まれていると主張する。このように、それは信仰の遺産の一部であり、そしてわれわれはそれを信じることを義務づけられているということが帰結するであろう。この立場は今日の懐疑論と不信の風潮においてはある人々にとって極端であると思われるであろう。しかししばらくの間その可能性を考察しなさい:黙示録第12章のうちに、われわれは竜との戦いに従事している「太陽を纏った女」の預言を読む。

この「女」は明らかに祝せられたおとめ[マリア]であり、そしてまさにファチマの聖母であり得るであろう。

私は黙示録12:1における女がファチマの聖母であるということが一つの絶対的な確実性であるとは言っていない。しかし誰もそうではないということが確実であると言うことはできない。

実際、二人の教皇がそれは実際そこで預言されたファチマの聖母であるということを仄めかされた:すなわち、パウロ六世は回勅 Signum magnum [大いなる印]において、そしてヨハネ・パウロ二世は2000年5月13日にファチマでの説教において。教皇パウロ六世は黙示録12の女がファチマの聖母であると明確には述べられなかったけれども、それにもかかわらずそれをまったく明確に示唆された。教皇ヨハネ・パウロ二世はまた、1917年のしばらく後に亡くなった二人の幻視者、ヤチンタ・マルトとフランシスコ・マルトを列福するために2000年にファチマを訪問されたとき、より力強くさえ、同じ指摘をなさった。

もう一度、私は上述の立場が決定的である -- 教皇はそれをすべてのカトリック教徒に対して義務的なものとするためにこの立場へと全教会を義務づけることを意図しながら一つの荘厳な宣言をなさらなければならないであろう -- とは言っていない。しかしながら、それに反対する妥当な議論が何もないのであるから、われわれはこの立場をまったく退けたり、あるいはそれを冷淡に扱ったりすることはできない。

どのみちわれわれはファチマを信じなければならない

われわれがファチマのメッセージを信じなければならないと主張するもう一つの神学的立場はその議論をファチマが一つの公的な預言的啓示であるという事実に基づかせている。これは、「ファチマは一つの私的啓示である」という議論にまったく対立する。それは、定義によって立証できないものである私的啓示はそのメッセージが与えられる個人以外の誰に対しても義務的ではないがゆえに、われわれはメッセージを信じることを義務づけられていないと主張する。

しかしながら、ファチマは立証できないものではない。そしてそれは一人の個人に対するメッセージではない。それは全教会に与えられ、一つの公的な奇跡と公的な預言によって立証し得る一つの公的なメッセージである。そしてメッセージはファチマでの聖母の要求を無視する結果はすべての人々にとって破滅を招くものであると述べている。ファチマは一つの公的、預言的啓示であり、そしてそのものとして、ひとたび教会がそれを検討し、それが信じるに値するものであることを見出したならば、自然法と聖書はわれわれがしなければならないことをわれわれに告げている。聖パウロはテサロニケ前書5:19-21においてこう書いている:「霊を消すことなかれ、預言を軽んずることなかれ、何ごとをもためして良きものを守れ。」

ファチマのメッセージは一つの公的な啓示である。それは一つの預言である。教会はそれを検証した。そしてそれが良きものであることを見出した。そしてわれわれはそれゆえにそれを固く守るよう義務づけられているのである。そのメッセージを無視することは預言を軽んずることであろう。そして確かにこうすることに対する諸結果が存在する。フエンテス神父との有名なインタビュー(p. 17 を見よ)の中で、シスター・ルチアは知られた真理を拒否することは聖霊に反する罪であると説明した。太陽の奇跡、無数の治癒と回心、そして諸々の預言の実現によってその真正性を保証されたファチマのメッセージは検証され、そして真であることが見出されてきた。このことを知り、そしてにもかかわらず信じないことはあなたの霊魂そして他の多くの霊魂たちを重大な危険に曝すことである。

II. あなたはファチマの聖母に従わなければならない

ひとたびあなたがファチマの聖母のメッセージを受け入れそして理解すると、あなたはあなたの知識を、第一にあなた自身の生活において行動に移さなければならない。ファチマで祝せられたおとめマリアはわれわれに非常に単純な要求をなさった。聖母は毎日少なくとも5連のロザリオを祈るように繰り返しわれわれに求められた。聖母はわれわれが自分たち自身の生活を改めるよう、そして「すでに余りにも多く背かれておられる」神に背くことを止めることを求められた。聖母は祈りと犠牲をすること、特に哀れな罪人たちそして教皇のためにそうすることをわれわれに求められた。

1917年10月13日、群集が太陽の奇跡を目撃している間に、3人の子どもたちはいくつかの幻視を与えられた。それらのうちの一つは、聖母がわれわれ一人ひとりにそれを身につけるように望んでおられるとうことを示しながら、われわれにスカプラリオを差し出しておられるカルメル山の聖母である。ファチマでわれわれはマリアの汚れなき御心に対する信心を実践し促進するようにという神のお望みを学び知った。われわれはまた、われわれの信仰を知り、それを全体として無傷のままに守ることの必要性について学び知った。

神は、われわれがその中に生きている時代において、真のカトリック教徒として生きること、そしてそのように多くの誤謬の真っ只中でわれわれの信仰を守ることは困難であることを御存知である。諸々の誤謬とわれわれを取り巻いている諸々の誘惑に対する障壁として聖母はわれわれに毎日ロザリオを祈るように促された。その上、われわれは、われわれの洗礼の誓約(そして毎回の聖体拝領と共に暗黙の裡に更新された誓約)のためにカトリック信仰の教義と伝統を守り、そしてわれわれのカトリック信仰を掘り崩す、あるいは否定する誰か -- 彼が司祭、司教あるいは教皇でさえあっても -- によるいかなる試みにも、われわれの能力の程度に応じて、抵抗しなければならないのである。

神はわれわれの利益のために -- 現在の時代および将来の時代におけるわれわれの霊魂を救い、そしてわれわれの永遠の救いを脅かす無数の危険からの保護を提供するために -- ファチマに御自分の祝せられた御母を遣わされた。なぜわれわれはファチマのメッセージに従い、それを生きなければならないか?それは、われわれがわれわれの霊魂を、そしてわれわれにとって大切なすべての人々の霊魂を救うことを望んでいるからである。それは、聖母がファチマで与えられたメッセージがわれわれの最善の希望、そしておそらく唯一の希望、現在われわれを強襲しているすべての悪に対するわれわれの唯一の防衛であるからである。シスター・ルチアは次のように言ったとき、われわれの現在の状況を要約したのである:「....これからは私たちは立場を選ばなければなりません。私たちは神のために存在するか、それとも悪魔のために存在するかの、何れかです。他のいかなる可能性もありません。」ひとたびわれわれが勝利する側、神の側にあることを選んだならば、われわれは、シスター・ルチアがそう呼んだように、神がこの「最後の戦い」のために準備なさった武器、ファチマの聖母がわれわれに用いるように命じられた武器を用いなければならない。

III. あなたはファチマのメッセージを広めなければならない

フエンテス神父との彼女の有名な1957年12月26日インタビュー(この号のp. 17 を見よ)においてシスター・ルチアはわれわれにこう語った:

「私たちは教皇様の側でローマから償いをするようにという世界に対する訴えを待つべきではありません。また私たちは私たちの司教区において私たちの司教様から、あるいは修道会から来る償いへの呼びかけを待つべきではありません。そうではありません!われらの主はすでに非常にしばしばこれらの手段をお用いになりました。そして世界は注意を払いませんでした。だからこそ、今私たち一人ひとりにとって自分自身を霊的に改革し始めることが必要なのです。各人は単に自分自身の霊魂を救わなければならないだけでなく、また神が私たちの道に置き給うたすべての霊魂たちを助けなければなりません。」
この陳述を通して、シスター・ルチアはファチマの第三の秘密の一つの本質的な要素を暗黙裡に明らかにしていた:すなわち、彼女は世界に展開するであろう背教についてわれわれに予め警告し、そしてその背教が教会の最高の段階内部で始まるであろうという事実に対してわれわれに警告していたのである。教皇ヨハネ二十三世、教皇パウロ六世、教皇ヨハネ・パウロ一世、教皇ヨハネ・パウロ二世の個人的な教皇つき神学者であり、第三の秘密を読んだチアッピ枢機卿はこう言われた:

「第三の秘密において、他のこともいろいろあるが、教会における大背教が頂点で始まるだろうということが予告されている。」
われわれはわれらの主によって、そして聖書において聖パウロによって(テサロニケ後書第2章)予告された背教の真っ只中にいる。

明らかにわれわれは一つの歴史的に独特の瞬間に生きている。われわれは大背教の時代に生きている。その中ではもしそれが可能であったならば、「選ばれた者でさえ欺かれたであろう。」われわれの羊飼いたちの大部分は信仰を失ったか、あるいはシスター・ルチアが「悪魔的な方向感覚喪失」と呼んだものに罹患している。そしてわれわれは世界に対して警告を発するために教皇、あるいは司教たち、あるいは諸々の修道会をぶらぶらして待つことはできないということを理解しなければならない。われわれは霊的に起きあがり、自ら情報を獲得しなければならない。神は一つの理由のためにわれわれをこの時代に置き給うた。そして神は御自分の神的計画に協力するようわれわれに期待しておられる。神はわれわれの義務をわれわれに思い起こさせるために御自分の御母をファチマに遣わされた。

更に、背教はそのように広範に広まっているがゆえに、あなたはすべての聖職者が教義の上で健全であるとして彼らに依存することはできない。あるいはあなたの霊魂を脅かす諸々の危険についてあなたに警告してくれるとして彼らに依存することはできない。それゆえに、安全である道はあなたが教えられあるいはするように忠告されるすべてのことをカトリック信仰の基準によって測ること、そして特にあらゆる事柄を信仰の教義的な諸決定と比較することである。教義的な諸決定は不可謬であり、決して失敗しない、神によって保証された、唯一の導き手である。

どの司祭、司教、枢機卿あるいは教皇も誤り得る。しかし信仰の教義は誤謬から自由である。にもかかわらず、たいていの人々は不可謬的な諸決定が存在するということを知ってさえいない。彼らは司牧者たちに従う。司牧者たちのある者は盲目的にか、あるいは知っていてわざとかのいずれかの仕方で、決定された不可謬的な教義から逸れ、そしてその代わりに異端を提出する。

このように、われわれの現在の状況は危機的である。そしてこの事実を理解しているわれわれはわれわれの前に一つの重要な仕事を持っている。この異常な時代にわれわれは他の何をするよう求められているであろうか?ひとたびわれわれが置かれている危険な状況を理解したならば、そしてひとたびカトリック信仰の諸真理において徹底的に自らを教育したならば、われわれは行動を起こすことを求められるのである。シスター・ルチアがこう言ったことを思い起こしなさい:「各人は単に自分自身の霊魂を救わなければならないだけでなく、また神が私たちの道に置き給うたすべての霊魂たちを助けなければなりません。」(続く)

ファチマ・クルーセイダー

2012年07月30日 | Weblog
なぜ御像、そしてなぜそれに戴冠するのか?

ジョン・ヴェナンシオ司教

The Fatima Crusader, Isuue 02, Spring 1979, p.06

今日のすべての異端は新しい名前を持った過去の復活した異端であると言われている。

今日聖画像の抑圧は聖像破壊主義とは呼ばれない。それは第七エキュメニカル公会議によって断罪された同じ異端を思わせる。使徒の時代から聖画像とそれらの適切な信心上の使用は教会の一つの不可欠な部分であった。そして787年のニケア公会議はこのことを確証している。

カタコンベから

もっとも頻繁に用いられた聖画像(カタコンベから十三世紀の司教座聖堂の豪華な装飾まで)はわれらの主と聖母の画像である。

実際マリアに対する伝統的な信心(第二バチカン公会議によって公布された教会憲章パラグラフ67 に基づいてわれわれはそれに従うべきである)はマリアの聖画像の戴冠を通じてのマリアの元后であることの承認であった。

聖ルカによる絵

多くの教皇たちは特に福音書の著者聖ルカによって描かれたと言われており、そしてローマのサンタ・マリア・マッジョーレ聖堂において尊崇されている絵に戴冠した。教皇クレメンス八世は、それがニケア第二公会議の時代にそうであったと同じように聖母の画像の崇敬が再び問題とされていた十六世紀の終わり、宗教改革のまさに頂点にあるときに、そうした。そしてグレゴリオ十六世は枢機卿たちや高位聖職者たちに取り囲まれて1837年8月15日にその同じ絵を荘厳に戴冠された。そしてそれ以来そのような戴冠のための一つの定式を提供した使徒的書簡 Caelestis Regina を公布された。

おそらく、サンタ・マリア・マッジョーレ聖堂にあるその同じ絵による聖母の戴冠の最も荘厳な行為はわれわれの時代のために取って置かれた。それは二つの局面を持っていた:一つはファチマにおいて、そして一つはローマにおいて。

1946年に教皇ピオ十二世は、聖母が世界平和の約束と共に1917年に御出現になったその場所で御像に戴冠するためにファチマにマゼッラ枢機卿を遣わされた。枢機卿がローマを離れようとしたとき、教皇は彼にこう言われた:

「閣下、あなたは世界の元后に戴冠しようとしているということを心に留めてください。」

1954年にその同じ教皇が汚れなき御宿りの教義の百周年に敬意を表して「マリア年」を宣言されたとき、教皇は公共の場所に聖母の聖堂や御像を建てることを求められた。その結果、今日聖母像や聖母聖堂が個人の住宅の庭、ハイウェイの折り返し、世界の主要な空港の入口にさえ(シャンノンやブエノスアイレスにおいてのように)見られるのである。そして1954年11月に教皇は最も異例の仕方でその「マリア年」を閉じられた。

彼の先任者たちの非常に多くがそうされたように、聖母の画像に戴冠するためにサンタ・マリア・マッジョーレに行く代わりに、教皇は聖ルカに帰せられた尊敬すべき絵がその場所から持ち出され、聖ペトロ大聖堂へ行列によって(それは数万人の人々によって同伴された)運ばれるよう命じられたのである!そこ、聖ペトロの墓の上の祭壇で、教皇はその絵を荘厳に戴冠し、そして回勅Ad Coeli Reginamを公布された。

皆が驚いたことに、教皇は...この最も荘厳な機会に...彼が聖母の忠誠の使者として(1946年にマゼッラ枢機卿を通じて)戴冠したファチマの御像を思い起こされた。教皇はこう言われた:「それは世界がその最大の希望の源を見出すであろうマリアの元后たることの承認である」と。

当時ファチマの補佐司教として、私はファチマの聖堂から一つの旗を持って出席した。なぜなら、教皇はまた、すべてのマリア聖堂からそこに旗を持って来るように求められたからである。そしてそこには数百の旗があった。その一つひとつに教皇は記念のメダルを付けられた。多くの人々はなぜ教皇がこのことをされたのか、そしてなぜ彼は特に聖母の忠実の使者としてのファチマの聖母像に言及されたのか、不思議に思うかもしれない。

巡礼のおとめ

教皇ピオが1946年にファチマで御像に戴冠された後に、ファチマでの青年会議は教皇特使によって戴冠された御像の複製がロシアへ向けて行列によって運ばれることを求めた。

ファチマ司教としての私の先任者、ドン・ホセ・コレイア・ダ・シルヴァ司教はルチアと相談した後に『巡礼のおとめ』として知られるようになった一つの像を送り出された。

諸々の奇跡が起こった。空を自由に飛んでいた鳩たちがやって来て聖母の足もとに留まった。そして巡礼像が1950年に東洋へのその途次にローマにあった間に、教皇はバチカン上空で太陽の奇跡の再現を見られた。1951年には、世界へ、そしてその機会にファチマに集まった数万人の人々に中継されたバチカンからの放送の中で、教皇はこう言われた:

「1946年に私は世界の元后ファチマの聖母に戴冠した。そして翌年、巡礼おとめとして聖母は(彼女の支配を主張されるかのように)出かけられた。そして聖母がその途中で行われた諸々の好意はわれわれが自分の目で見ていることをほとんど信じることができないほどのものである。」

奉献の行為

今日、巡礼のおとめが世界中の大司教区へ次々と入るときとき、聖母は司教たち、主任司祭たちそして信徒によって戴冠されている。

聖母のこの戴冠は聖母に対するわれわれの忠誠の承認である。われわれは、元后として、聖母がわれわれに対するすべての権利を持っておられるということを承認するのである。

教皇ピオはこの信心のうちに世界の最大の平和の希望があると言われた。われわれは、あなたの元后のこの御像の現前を通じて各々の霊魂が聖母の御母としてのそして元后としての現前を経験するように祈る。われわれは聖母があなたの民を聖母の御子、われらの救い主キリストの平和へと導きそして永遠に保ってくださるように祈る。

あなたの十字架 -- 幸福への鍵

われわれの豊かな社会において非常に多くの人々の大きな苦しみを観察することは困難なことではない。病気、死、愛する者の信仰の喪失、財政的困難、失業等々によって引き起こされる苦しみは隣人たちや知人たちの間で普通である二三のものに過ぎない。キリストはわれわれすべてにこれらの十字架を取り、われわれ自身の罪と世界の罪を償うためにキリストに捧げるよう呼びかけておられる。聖フランソワ・ド・サルはあなたの十字架について以下のような美しい言葉を残している:

「永遠の神はその智慧において永遠から、神が今その最も内面の御心から一つの贈り物としてあなたに提供しておられる十字架を、予見しておられた。この十字架を神は今あなたに送られる。神はそれがあなたにとって1インチ大きすぎず、また1オンス重すぎないということを見るために、その全知の目で考察され、その神の精神で理解され、その賢明な正義で試され、愛する腕で暖められ、そして御自身の手で重さを量られたのだ。神はそれを御自分の聖なる御名でもって祝福され、その恵みでもってそれに注油され、その慰めをもってそれに香りをつけられ、あなたとあなたの勇気に最後の一瞥を与えられ、そしてそれからそれをあなたに天から送られたのだ。それはあなたへの神からの一つの特別の挨拶であり、神のまったく恵み深い愛の施し物である。」

トマス・ア・ケンピスは、われわれがその生活において担う十字架を見る特別な仕方を持っている。「多くの人々にとって『自分自身を否定し、あなたの十字架を取って私に従いなさい』という言葉は困難であると思われる。しかしながら、最後の審判の日の次の言葉はいかにはるかに困難であろうか。『呪われた者汝よ、われから離れて、永遠の火に入れ。』今十字架に喜んで従う者は最後の審判を恐れないであろう。主が審判するために来られる時、十字架の印は天国にあるであろう。そのとき、彼らの生きている間に自分たち自身をあの十字架につけられた御方と一致させた十字架に仕える者たちは大きな信頼をもって審判者であるキリストへ近づくであろう。」

「それではなぜあなたは、それを通じてあなたが永遠の王国を勝ち取ることができる時に、十字架を取り上げることを恐れるのか?十字架のうちに救いがあり、そのうちに生命がある。そのうちにあなたの敵どもからの保護があり、そのうちに精神の強さがある。そのうちに霊の喜びがあり、そのうちに最高の徳がある。十字架のうちに完全な幸福がある。」

「あなたの十字架を取りイエズスに従いなさい。そうすればあなたは永遠の生命に値するであろう。」

ファチマの聖母はわれわれに対してわれわれの十字架を受け入れそして担うことの重要性をはっきりと分からせてくださった。聖母は三人の子どもたちにこうお求めになった:「あなたたちは、神の尊厳に背くそのように多くの罪を償うため、そしてマリアの汚れなき御心に対して犯されるすべての冒涜と罪を改めるために、あなたたちに送ることが神を喜ばせることになるすべての苦しみを犠牲として捧げ、喜んで受け入れるためにあなたたち自身を神に捧げることを望みますか?」彼らは真心をこめて受け入れた。聖母は彼らに、多く苦しむでしょう、しかし聖母が彼らを助けるために側にいるでしょうと告げられた。

われらの愛すべき御母はわれらに不可欠なものにおいて助け、われわれがその十字架を担うことを助けるために側におられる。ファチマの子どもたちがそうしたように、キリストとマリアの霊に従おう。われわれの十字架を取り、われらの天の御母にわれわれを助けてくださるよう願おう。

ファチマ・クルーセイダー

2012年07月29日 | Weblog
最近の諸々の出来事

The Fatima Crusader, Isuue 02, Spring 1979, p.04

われわれは読者にカナダの国内巡礼おとめ[像]が西カナダにおいて100個所以上の場所で熱狂的に受け入れられたということを知らせたい。

8月9日グルーナー神父は北部地域マッケンジー・フォート・スミス司教区へのファチマの聖母像に同伴した。聖母の旅行のために北部におけるすべてのジェット・フライトのために無料の航空券が鄭重にも与えられた。聖母[像]はこの最大のカナダ司教区において2年間に2度熱狂と信心とをもって受け入れられた。われわれは再び聖母とともにマッケンジー・フォート・スミスに戻ることを希望している。

ブラック・レイクでは多くの人々が100マイル以上も遠い所から飛行機でやって来て、数百人の人々が訪問の間にさまざまの秘蹟を受けた。教区司祭マックワ神父、O.M.I.は人々が反応した仕方はクリスマスのよう、復活祭のようであったと言い続けた。ブラック・レイクの大部分の人々は飛行機の出発の見送りに来て最後のお別れの手を振った。

フォート・ノーマンでは人々が聖母像に挨拶をするために滑走路まで出迎えた。彼らは行列をしながら教会まで歩いて戻った。人々は非常に感動したので、巡礼おとめ像に跪きながら近づいた。全司教区のために計画され、フォート・ノーマンにおいて開催された公式会合は聖母に栄誉を与えるために教会にやって来た人々の数の多さのゆえにキャンセルされなければならなかった。

22日にはピシェ司教O.M.I. はノーマン・ウェルズで[グルーナー]神父に会い、巡礼おとめ像が彼の司教区を訪問したことを非常に喜んでいると彼に告げた。われわれは彼の諸教会への訪問を組織するに際しての彼の援助に対してピシェ司教に感謝したい。

ヴィクトリア司教区において最初に立ち寄ったのは聖アンドレア司教座聖堂であった。そこでは神父は日曜日のミサとマリアの時間に説教を行った。レミ・ドゥ・ルー司教閣下は「ファチマ・ロザリオの実践を通じての聖母に対する信心のさらなる促進のために真心を込めた支援」を与えてくださった。

9月の初金曜日は聖ヨゼフ男子修道院で過ごされた。そこでは修道士たちと多くの人々が聖母の栄誉を称えた。トマス・モア・マクドナルド神父O.F.M. は金曜日一日中と土曜日の午前中御聖体を顕示した。

聖心の小教区は教区自身の美しいファチマ聖母像を持っている。5時間の徹夜のための小教区民の熱狂と大多数の出席者の数は彼らが国内巡礼がもたらしている特別の祝福を評価したことを示した。

9月6日に、グルーナー神父はヴァンクーヴァー大司教区へ聖母像と同伴した。バーナビーの聖ヘレナ小教区は非常によく応えてくれた。ファチマの聖母についての映画を見た後に、生徒たちは教会までの行列を行った。教会はミサのために満員であった。そして多くの人々は一晩中の徹夜のために教会に留まった。

多くの人々がヴァンクーヴァーの聖ロザリオ司教座聖堂の聖母像の前で祈るためにやって来た。特別の信心、マリア聖時間、御聖体の顕示そしてミサには多くの人々が与った。モンシニョール・マロンが聖体讃美式を司式された。

聖三位一体小教区は一晩中の徹夜時間を組織した。グルーナー神父は午前2時半の十字架の道行きを教会に留まった多くの人々のために先導した。

ヴァンクーヴァー大司教区は聖母を歓迎することにおいて最も寛大であった。

サスカチェワン州においては巡礼像はおよそ40の教会において歓迎された。聖母像は多くの学校、修道院、病院、そして老人ホームを訪問した。戸外の蝋燭行列、マリア聖時間、ロザリオ、そして "molebens" がいろいろな小教区が聖母像の訪問の栄誉を称えるために行ったやり方であった。

1978年10月22日、日曜日サスカトゥーン、聖パウロ司教座聖堂ではすべてのミサでグルーナー神父はファチマの聖母のメッセージについて話をした。午後には司教座聖堂は再び満員になった。なぜなら、聖母の栄誉を称えてマリア聖時間が行われたからである。多くの人々がここで茶色のスカプラリオの着衣を受けた。

モラン司教閣下はプリンス・アルバートの聖心司教座聖堂での巡礼おとめ像の訪問を称えて日曜日の午後聖体降福式とマリア聖時間に人々が参加したことを非常に喜んでいると述べられた。司教はグルーナー神父に帰還の訪問を手配するように頼まれた。12月3日日曜日に満員の司教座聖堂において司教は巡礼おとめ像に戴冠され、彼の司教区をマリアの汚れなき御心に公式に奉献された。

11月にはエドモントンの大司教区における40の小教区にマリア像の訪問が行われた。

聖アグネス教会の主任司祭、クローチ神父の努力によって、3つの学校の生徒たちは聖母と共に訪問する特典を与えられた。彼らの大部分は茶色のスカプラリオを授けられた。夕方、ミサ聖祭の後に小教区民の大きなグループもまたスカプラリオの会員とされた。

聖バジル小教区は聖母に挨拶をするために総勢でやって来た。600人以上の人々が戴冠式と真夜中までの徹夜祭に参加した。多くの人々はまた日曜日にも出席した。

エドモントンでは、およそ6千人の人々がカルメル山の聖母の茶色のスカプラリオ会員として登録された。われわれはエドモントンの人々に彼らの温かい出迎えとファチマの聖母への信心に対して感謝を捧げたい。

不幸にして、われわれは西部カナダ一帯で聖母像が行なった多くの、非常に成功した訪問のすべてを個別的に言及することができない。人々は非常に熱狂的であったので2万個のスカプラリオが配られたということは注目されるべきである。それらの大部分は、それぞれの小教区でのさまざまの儀式の間に人々が登録されるときに、一つ一つ配られた。ファチマについてもっと知りたいと望んで人々に4万部以上のパンフレット「知っていますか」が配布され、1万部以上の「ファチマ・クルーセイダー」誌が配られた。人々はロザリオとその唱え方に非常に興味を持ったので、国内巡礼おとめ像機関からの数千本のロザリオとリーフレット「ロザリオの唱え方」が感謝をもって彼らによって受け取られた。4千部以上の「平和計画」小冊子が手渡された。グルーナー神父は多くの人々が巡礼像を受け取るために非常に一生懸命働いてくれたことを見ることができた。よく組織され、よく参加された儀式の間に多くのロザリオの祈りが捧げられ、大きな敬意がイエズスとマリアに対して示された。

われわれは西カナダの人々に感謝したい。そして聖母が彼らの温かさ、親切なもてなし、寛大さに対して彼らを祝福してくださることを確信している。


ファチマ・クルーセイダー

2012年07月28日 | Weblog
聖心と汚れなき御心

The Fatima Crusader Issue 02, Spring 1979

ポルトガルの守護の天使が彼らに聖母の御出現を準備させるためにファチマの三人の子どもたちに出現した。彼はイエズスの聖心への信心をマリアの汚れなき御心への信心と結びつけた。彼はこう言った:「イエズスの聖心とマリアの御心はあなたたちに対して慈悲深い計画を持っておられます。」天使は彼らに「イエズスの聖心とマリアの汚れなき御心」の無限の功績を通じて罪人たちの回心のために神に祈ることを教えた。われわれは二つの御心がわれわれの生活において持っている重要性を見ることができる。

イエズスは聖マルガリタ・マリア・アラコックに御自分の聖心を崇める人々に対する大きな約束をお与えになった。あなたの信心を励ますために以下に聖心の12の約束を再録しよう。

私は彼らの生活状態のために必要なすべての恵みを与えよう。
私は彼らの家庭における平和を与えよう。
私は彼らの諸々の心配事において彼らを慰めよう。
彼らは私の聖心のうちに生きている間の、そして特に死の時に、確実な避難所を見出すであろう。
私は彼らのすべての企てに豊かな祝福を注ごう。
罪人たちは私の聖心のうちに慈しみの源と無限の大洋を見出すであろう。
生ぬるい霊魂たちは熱心になるであろう。
熱心な霊魂たちは大きな完成へと急速に昇るであろう。
私の聖心の御絵・御像が置かれ崇められる家庭を私は祝福しよう。
私は最もかたくななな心の持ち主を動かす力を司祭たちに与えよう。
この信心を広める人々は私の聖心に彼らの名前を書かれ、それは決して消されないであろう。
私の聖心のまったく強力な愛は引き続く9ヶ月の初金曜日に聖体拝領をするすべての人々に最後の痛悔の恵みを与えるであろう。彼らは私の不機嫌の下に、あるいはまた彼らの諸々の秘蹟を受けないで死ぬことはないであろう。私の聖心は最後の時の確実な避難所となるであろう。

ファチマの聖母はルチアに御自分の汚れなき御心に対する償いとして5回の初土曜日[の信心]を果たす人々に対する大きな約束を明らかにされた。ルチアが修道院の自分の部屋で祈っていたとき、聖母が光の雲の上に挙げられた幼子イエズスとご一緒に御出現になった。聖母は一方の手をルチアの肩の上に置かれ、もう一方の手には鋭い棘に取り巻かれた心臓を持っておられた。幼子イエズスが最初に話された:

「あなたのいとも聖なる御母の心臓を憐れみなさい。それは恩知らずの人々があらゆる瞬間にその心臓を突き刺す棘で覆われています。そして償いの行為によってそれらの棘を取り除く者が誰もいないのです。」

それから聖母がこう言われた:

「わが娘よ、恩知らずの人々が彼らの冒涜と恩知らずによってあらゆる瞬間にそれでもって突き刺す棘に取り巻かれた私の心臓を見なさい。あなたは少なくとも私を慰めるよう努めてください。そして私の名において、引き続く5ヶ月の初土曜日に告解に行き、聖体を拝領し、ロザリオを唱え、私の汚れなき御心に償いをするという意向を持ってロザリオの玄義について15分間黙想するために私の側にいるすべての人々に、私が救いに必要な恵みでもって、死の時に助けることを約束するということを知らせなさい。」

あなたもまたイエズスの聖心とその御母の御心を慰めてほしいというイエズスの要求を心に留めませんか?

ファチマ・クルーセイダー

2012年07月27日 | Weblog
われわれがファチマを信じる理由

The Fatima Crusader Issue 02, Spring 1979

ファチマの三人の幻視者たち、フランシスコ・マルト9歳とヤチンタ・マルト7歳それに彼らのいとこルチア・ドス・サントス10歳は、彼らへの聖母の御出現のゆえに念入りに観察され、質問された。司祭たち、村人たち、彼らの両親たちは繰り返し繰り返し彼らに質問した。そして御出現についての彼らの説明は変わらなかった。実際、8月13日の御出現の日には、無神論者である村長は三人の子どもたちを誘拐し、監獄に入れた。彼は、聖母が彼らにお与えになった秘密を明らかにしないならば、彼らを油で煮ると脅した。しかし彼らは彼に告げようとはしなかった。村長はヤチンタを連れ去った。しばらく後に彼は戻って来て、彼らにヤチンタは死んだと告げた。そして他の二人に彼らが言ったことを変更するかどうか尋ねた。彼らは変更しなかった。フランシスコが連れて行かれた。その後なお、村長は戻って来た。フランシスコが「殺された」ということを主張した後にルチアに彼女が見たことを否定するかどうか尋ねた。再び彼女は拒絶した。この恐るべき死の脅迫の下でさえ、三人の子どもたちは村長の要求に屈しなかった。後に、群集を恐れて、彼は子どもたちを解放した。

それで子どもたちが信頼に値する証人であったがゆえにわれわれはファチマを信じることを強いられているのである。彼らは死の脅迫に耐えた。彼らは、彼らが見たことは彼らをしっかりと掴んだということを示した。そして彼らは非常に聖なる生活を送った。非常に聖なるものであったので、小さなヤチンタの肉体は生石灰の中に埋葬された墓で15年後に腐敗せずに見出された。

さらに、ファチマで太陽の奇跡を見た7万人の証人たちのうちのある人々は今日なお生存している。そしてファチマの奇跡を証言している。それは敬虔な人々そして懐疑論者たちによって目撃された。懐疑論者たちは回心し、そのニュースを公表することを助けた。教会の取調官たちはすべての問題、集団ヒステリーの問題さえ、を調べた。しかしそれらもまた、教会史におけるこの種の問題への最も徹底的な調査の一つの後では排除された。人々の主要な集団からは数マイルも離れたところにいた人々もまたそれを見た。そして彼らは集団ヒステリーによって影響を受けることはあり得なかった。この奇跡は世界に、ファチマのメッセージが真剣に受け取られなければならないということ、そしてそれは神からものであるということを示すために与えられたのである。

われわれは権威として、そして信じるに値するものとしての、諸教皇の証言を持っている。彼らははっきりとファチマに有利な証言をしておられる。教皇たち自身に語ってもらうことにしよう。

「ファチマを疑う時は過ぎた。今は行動の時である」とピオ十二世は言われた。「ファチマはすべてのキリスト教的希望の中心である」と教皇ヨハネ二十三世は言われた。教皇パウロ六世は1965年5月13日に黄金のバラをファチマに送られた。そしてその銘において、全教会を聖母の配慮に委ねられた。彼はまた、われわれのカナダ国民巡礼を含む多くの国々のためにファチマの聖母像を特別の儀式において祝福された。

神がファチマで聖母を通じてわれわれに語られたという証拠は圧倒的である。もしわれわれがなおファチマを認めることができないならば、われわれはその証拠を理解していなかったか、あるいはそうでなければわれわれが自然的な信頼を欠いているかのいずれかである。そしてわれわれはそのために神に祈るべきである。

ウィリアム・A.ヒンネブッシュ神父,O.P.はこう説明している。

「教会の荘厳な教導権の他にも、人にある事柄を受け入れることを義務づける他の事柄が存在する。理性を賦与された被造物は彼自身の知性によって証拠が存在するときにはそれに対して頭を下げる義務がある。証拠に抵抗することは強情に反知性的であることである。さらに、信頼すべき証人が議論の余地がないと思われるある出来事あるいは事実の真実性を保証するとき、道理を弁えた人は同意を与えなければならない。彼はとがなしに同意を拒否できると言うことは疑問の余地のある主張である。亡くなられた教皇ピオ十二世のように非常に傑出した権威を持つ人が『ファチマを疑う時は過ぎた。今は行動の時である』と言われるとき、道理を弁えた人々は、信頼できる証人によって提供された確かな証拠が確信を持って受け入れられないのではないかと疑うことを止めなければならない。なぜなら、そのような陳述に対して意図的に目を閉じるカトリック教徒はほとんど非難されずにいることはできないからである。」

ファチマ・クルーセイダー

2012年07月26日 | Weblog
ファチマの大奇跡

The Fatima Crusader Issue 02, Spring 1979

「世界平和を得るために毎日ロザリオを唱えなさい。各連の終わりに次の祈りをつけ加えなさい:『おお、わがイエズスよ、われらの罪を赦し給え。われらを地獄の火より救い給え。すべての霊魂、特に主の御憐れみを最も必要とする霊魂を天国に導き給え。』」

1917年10月13日のことであった。7万人以上の人々がポルトガル、ファチマのコヴァ・ダ・イリアに集まった。雨が降っていた。雨は2日間降っていた。そして道路や野原は泥で覆われていた。ルチアが突然大きな声を挙げ、空を指さしたとき、人々はロザリオの祈りを唱えていた。群集は空を見上げた。そして彼らの目の前で雲が分かれ、太陽が輝き始めた。太陽は輝く銀の円盤のように見えた。そしてすべての人が彼らの目を傷めることなく、太陽をまともに見ることができた。それはゆっくりと回転し始め、次にだんだん速くなり、あらゆる方向に光線を発した。これらの光線は赤、青、緑、紫、そしてあらゆる色であった。それは非常に美しかった。人々は数マイルの範囲にわたってこの太陽の奇跡を見ることができた。太陽は回転を止め、しばらくの間静止した。それから二回目に前よりももっと速く回転し始めた。それは二度目に止まった。それからそれは三回目に回転し始めた。そして今回は太陽が発した光線は前よりももっと輝かしかった。突然、あたかも回転が太陽をその場所から引き裂いたかのように、地上に非常に近く落ちて来たので、地上の群集は太陽の燃える熱を感じることができた。そしてその光は非常に明るくて、人々はもはや太陽の方を見ることができなかった。それは世界の終末のように思われた。恐怖と痛悔で、人々は、彼らの罪に対する神の赦しを願って、ぬかるみにもかかわらず、跪いた。それが始まった時と同じように突然、奇跡は終わった。太陽は一瞬止まり、そして空のその通常の位置に戻って昇って行った。恐怖に陥った人々は安堵した。人々は立ち去る準備をしながら、跪いた姿勢から立ち上がった。彼らが、数分前まで降っていた雨によって濡れ泥だらけになっていた自分たちの衣服が乾き、そしてきれいになったことに気づいたとき、右でも左でも驚きの声が上がった。多くの病人や身体障害者が彼らの苦しみから癒された。

モンテス・デ・オカ神父はこう言っている:「これは決められた時間と場所で起こり、そして人々に御出現の真実であることを信じさせ、ロザリオの聖母が天から彼らにもたらされたメッセージに従うことを強いるものであった、約束された大奇跡であった。」

ファチマ・クルーセイダー

2012年07月24日 | Weblog
最も無視されたファチマの要求

The Fatima Crusader, Isuue 01, Summer 1978, p.06

「しかしとりわけ、人々は罪を犯すことを止めなければなりません。」「人々は彼らの日々の義務をなさなければなりません。これは今私が期待し、要求する悔い改めの行いです。」...ファチマのメッセージ

このメッセージは、最も重要な要求はわれわれが罪を犯すことを止めなければならないということを明瞭に述べている。このことは祈りと悔い改めの行為が要求されていないということを意味しない。実際、それらは神の御旨を果たすために必要である。

換言すれば、もしわれわれが生活を改めず、われわれの罪に対する痛悔の念を持たないならば、ファチマ・メッセージの外的要求を満たすことは十分ではないのである。われわれは、これらの言葉は他の人々に対して言われているのであって、われわれ自身に対して言われているのではないと言う誘惑にかられるかもしれない。われわれが殺人、中絶、日曜日のミサ欠席、フマネ・ヴィテの教えに従わない、あるいは大罪を告白することを拒否することなどのようなそのような明白な大罪を犯していないということは真であるかもしれない。にもかかわらず、われわれはわれわれの良心をよく究明し、われわれの生活状況に対する神の律法の要求を果たすように気をつけるべきである。

さらに、われわれがただ大罪を避けるように努めることは十分ではない。なぜなら、そのような態度をもってしては、われわれは容易に大罪を再び犯すであろうからである。われわれはよき業を行うべきである。そして神の恩寵の助けによってわれわれの小罪や欠点を同様に正すべきである。

確かに最も重要な悔い改めの行いはわれわれの生活を改めることである。聖イグナチオ・ロヨラは、もしわれわれが一年に一つの欠点を克服するならば、聖性への途上にあると言っている。完徳への道は生涯の戦いである。諸々の大罪がわれわれの生活において克服された後には、避けられるべき故意の小罪があり、そして最後に正されるべきより少ない欠点がある。

罪を犯すことを止めるためには、われわれは単に罪を止めることを単に望むだけであってはならない。われわれは罪を止めることを意志しなければならない。聖フランシスコ・サレジオはあることをすることを望むこととあることをすることを意志することとの間には相違があると指摘している。例えば、チョコレートに対してアレルギーのある人はそれを食べたいとしばしば望むかもしれない。しかしそれが彼に与える害のゆえにそれを食べることを意志することはない。

それゆえわれわれは罪を犯すことを止めることを意志しなければならない。回心の前に「おお、主よ、私を純潔なものとしてください -- しかしまだ今ではなく」と祈った聖アウグスティヌスのようであってはならない。われわれは今罪を止めるよう意志しなければならない。もしわれわれが止めることを意志することができないならば、われわれは止める意志を得るように祈らなければならない。

さらに、罪を犯すことを止めるよう意志するためには、われわれは手段、この目的を達成するようわれわれを助けてくれる必要な助け、を意志しなければならない。ちょうど食べることを意志する人間が食物がある所へ行き、それを準備し、そしてそれから食物を口へと持って行き、それを噛まなければならないと同じである。彼は食べたいと望むだけでは十分ではない -- 彼は実際に食べるために必要なことをなさなければならない。

われわれが罪を犯すことを止めるために取ることができるこれらの手段は何であるか?罪を犯すことを止めるための最も重要な手段は罪の機会を避けることである。もしある人が不必要な罪の機会を避けないならば、そのとき彼は罪を避けることを期待することはできない。聖書が言うように、「危険を愛する者はその中で滅びるであろう。」このことによって、聖書は、十分な理由なしにあなたに罪を犯させる原因となる人物、場所あるいは事柄に近づくならば、あなたは罪に陥るであろうということを意味している。教会博士である聖アルフォンソ・リグオリは、もし人々が罪の機会を避けるならば、そのとき今犯されたたいていの罪は犯されないであろうと指摘している。

罪を犯すことを止めるためにわれわれはまた神の恩寵をも必要としている。恩寵の必要性は非常に重要であり、しばしば現代人によって見過ごされている。ある人々は今日、犯罪や罪は、われわれが人々に真理を教えさえすれば、あるいは問題について十分に学びさえすれば、克服され得ると考えている。換言すれば、彼らは罪を犯すことから守るためには精神を啓蒙することで十分であると言う。これは明らかに誤りである。なぜならわれらの主御自身が「私なしにはあなたは何もすることができない」と言われたからである。神の特別の助けなしに罪を止めることは文字通り真に不可能である。その恵みをわれわれは、祈りと適切に受けた諸々の秘蹟によって以外に、得ることはできない。

ひとたびこれらの手段によって罪を克服したならば、われわれは、成聖の恩寵の状態において引き続き生活するために必要である神の助けを受け続けるために、祈り、相応しく諸秘蹟を受け続けなければならない。

祈りと犠牲はわれわれの義務

ロシアの回心は聖母によって要求された祈りと犠牲なしにはもたらされないであろう。

抑圧を蒙っている人々の祈りと犠牲は霊魂の救いにおいて偉大な価値を持っている。しかし宗教的自由を享受している人々の祈りと犠牲もまたそうである。

もしわれわれが、同じ御父の子どもたち、そして神人、われらの救世主なるイエズスの兄弟たちであるすべての人々の兄弟たることを信じているならば、われわれは罪人たちの救いのための祈りと犠牲をという聖母の要求に応えるであろう。

われわれは他の人々のために功徳を得ることができるということ、そしてわれわれの行動の各々が霊魂たちに対してその霊的な効力を持っているということを知っている。各々のよい行為は他の人々の救いの助けとなり、各々の罪は霊魂たちの救いを危うくする。

小さな羊飼いたちへの御出現において、ファチマの聖母は彼らにこの重大な義務について話された。今日、聖母はこの同じ質問をわれわれ一人ひとりに出されている:「あなたたちは、あなたたち自身を神に捧げ、神に背くすべての罪の償いと罪人たちの回心のために神があなたたちに送られるすべての苦しみを堪え忍びますか?」

世界において平和が支配するために、われわれがお互いのために祈り、特にロザリオを唱え、十戒に従って生活し、日々の義務をよく果たし、苦しみを堪え忍び、正当な諸々の快楽を自分自身に与えないことが必要である。

今マリアの訴えに寛大に応える決心をしよう。神を信じず、礼拝せず、信頼せず、愛さない人々に憐れみを持とう。

罪人たちのために祈り、真理から迷い出た人々が神に立ち戻るように祈ろう。

とりわけ、戦闘的無神論の抑圧の重いくびきのもとに生きている人々のために祈ろう。ロシアが道、真理、生命であるキリストへと回心するよう祈ろう。

ファチマ・クルーセイダー

2012年07月23日 | Weblog
聖ドミニコに対する聖母の預言

The Fatima Crusader, Isuue 01, Summer 1978, p.05

「いつかロザリオとスカプラリオとを通じて私は世界を救うでしょう。」

カルメル山のスカプラリオの会員に対する聖母の約束

1. このスカプラリオを身につけて死ぬ人は誰でも永遠の火を蒙らないでしょう。

2. 敬虔な気持ちでカルメル山のスカプラリオを身につけ、生活における彼の状況に従って貞節を守り、毎日ロザリオ5連を唱える(小聖務のためにロザリオの代用が許されるとき*)人は誰でも死後の最初の土曜日に煉獄の苦痛から解放されるでしょう。*カルメル山の聖母のスカプラリオの会員であるすべてのカトリック教徒は、われわれのファチマ十字軍の誓約を果たし、そしてそれに基づいてこの利益を求め、誓約をファチマ十字軍本部まで送ることによって、聖母の小聖務の代わりに毎日ロザリオ5連で代用する利益を受けるでしょう。

教皇パウロ六世

「...教会の教導職によって数世紀にわたって推奨されてきたいとも聖なるおとめに対する信心の実践と実行はこれまで大いに尊重されてきた...そしてそれらの信心のなかに、われわれは特にマリアのロザリオとカルメル山のスカプラリオの宗教的な使用を思い起こすことをよしと判断する...」1965年2月2日

絶望は最も不快なものである

聖カタリナに対するわれらの主の言葉の中で、絶望の罪は次のメッセージが明らかにしているように、諸々の罪の中で最大の罪である。それは混乱のこの時代において非常に重要と思われるメッセージである。ここにわれらの主の言葉がある:

「絶望の決定的な罪は私にとってより不快であり、そして彼らが犯した他の諸々の罪よりもより罪人たちを傷つける...なぜなら、彼らは彼ら自身の肉欲の何らかの喜びを通じて他の諸々の罪を犯し、そしてときどきそれらのために嘆く。そしてもし彼らが正しい仕方で嘆くならば、彼らの嘆きは彼らに慈しみをもたらす....絶望する者は彼の罪を私の慈しみと善性よりも大きいものであるとすることによって私の慈しみを軽蔑する...絶望は彼を地獄へと導く。それに対して、もし彼が私に対する罪のために嘆き、そして痛悔するならば、そして私の慈しみに希望を置くならば、彼は慈しみを見出すであろう。なぜなら、私が彼らに言ったように、私の慈しみは被造物が犯し得るすべての罪よりも比較を絶して大きいからである。それゆえに、彼らが彼らの罪がより大きいと考えることは大いに私を不快にするのである。」

この引用は『シエナの聖カタリナの対話』から取られた。

ファチマ・クルーセイダー

2012年07月22日 | Weblog
祝せられたおとめはわれわれの御母である

The Fatima Crusader, Isuue 01, Summer 1978, p.04

マリアは真に人間的な優しい感情を持たれた御母としてわれわれを愛しておられる。彼女は天に上げられた。そしてそれゆえに彼女の汚れなき御心は今なおわれわれに対する愛を伴って鼓動を打っている。もはや肉体的には地上にはおられないけれども、彼女は今もなおわれわれに非常に近くおられ、そしてその母親としての愛をもってわれわれの霊魂に絶えず影響を与えておられる。

彼女は恵みの秩序において真にわれわれの御母である。すなわち、彼女はわれわれが地上に生きている間、われわれのうちに恵みの生命を産み出されそして養われる。われわれが、マリアはわれわれの御母であると言うとき、われわれは単に敬虔な文言を用いている、あるいはわれわれ自身を詩的な仕方で表現しているのではない。祝せられたおとめは実際にそして真に言葉の文字通りの意味においてわれわれの御母である。教皇パウロ六世は彼のファチマへの巡礼の機会に次のように教えられた:

「このように、祝せられたおとめマリアは、御子の救世の犠牲に参加された後に、そして御子によって、単に彼の弟子ヨハネの御母であるばかりでなく、人類(彼はある仕方で人類を代表している)の御母と宣言されるに値する、そのような親密な仕方において、今も天において贖われた人々の個人的霊魂における神的な生命(それは聖化する恵みである)の誕生と成長において、協力しながら御母としての彼女の役割を続けておられる。」


「これは、全知であられる神の自由な意志によって人々の救いの神秘の統合的な部分である最も慰めになる真理である。それゆえに、そのことはすべてのキリスト教徒によって信じられなければならない。」これは1967年5月13日の回勅 Signum Magnum から引用されている。

1968年に教皇パウロ六世は再びカトリック教徒の信仰について教えながらこう言われた:「われわれは、神のいとも聖なる御母、新しいエヴァ、教会の御母が、贖われた者たちの霊魂における神の生命(聖化する恵み)の誕生と成長において彼女が協力なさるということにおいて、天において、キリストのメンバーたちに対してその母親としての役割を続けておられる。」神の民のクレドから引用。

このようにわれわれはマリアが真にわれわれの御母であられるということが分かる。なぜなら、彼女は、御母として、聖化する恵みを受け取る各々の霊魂の中へ恵みの超自然的生命を伝達されるからである。この真理は単に教皇パウロ六世によってばかりでなく、又ピオ七世、レオ十三世そしてピオ十二世を含む他の人々によってもまた教えられてきた。祝せられたおとめマリアは恵みの神的生命の中へと再び生まれた各々の霊魂にとって直接的および個人的の両方の意味において御母である。

マリアはわれわれの御母であられるからして、彼女は真の人間的な愛情でもってわれわれを愛される -- 彼女は人間的である。彼女の聖性は彼女の人間的な資質を取り去らないし、また彼女の被昇天をも取り去らない。われわれの母親たちは時に、自然の秩序において、われわれを余りにも人間的な仕方で、-- 余りにも不完全な仕方で、愛する。彼らはしばしばわれわれのためにこの世のつまらない事柄を欲する。なぜなら、彼らはこの世的な成功、富あるいは権力を余りにも重要視するからである。われわれの天上の御母はそうではない。彼女は物質的な事物には過大な重要性を置かれない。しかしわれわれがこれらの事柄をもまた必要としていることを知っておられる。聖母はこの地上に生活され、御自分の家族を養わなければならなかった。そして非常に実践的な方である。しかしとりわけ彼女は人間が生きるのはパンのみによるのではなく、-- 神から来るあらゆる言葉によってであるということを知りながら、生活の霊的必要物において非常に実践的であられる。

それゆえ、彼女の愛は母親的な愛である。それは人間的である。それ以上に母親的で人間的な愛をあなたは地上に見出すことはできない。なぜなら、母親的な愛に対するマリアの能力は他の母親たちのそれよりも大きいからである。マリアの愛はまた超自然的な愛である。それゆえに、彼女はとりわけわれわれの永遠の救いを世話なさるのである。われわれに対する彼女の愛は完全であり -- 汚れのないものである。われわれに対する彼女の愛のうちにはいかなる不完全さも利己主義的なものも見出されない。なぜなら、彼女のうちには罪のいかなる汚れも存在しないからである。しかしながら、われわれの人間的な愛のうちには諸々の不完全さと利己主義的なものがしばしば母親的な関心と見なされる。マリアの汚れなき御心はあなたに対する愛で燃えている。あなたは彼女に答え、彼女の子どもとしてのあなたの愛情を彼女に示そうと思いませんか?彼女はあなたを強制されないであろう。しかし彼女は彼女の愛に対するあなたの自由な応答を待っておられる。もしあなたが応えるならば、彼女はあなたの母親であることをもっと多くあなたに示されるであろう。

ロザリオを唱えるキリスト教徒に対する祝せられたおとめマリアの15の約束

1.ロザリオを唱えることによって私に忠実に仕える人は著しい恵みを受けるでしょう。
2.ロザリオを唱えるすべての人に私は特別の保護と最も大きな諸々の恵みを約束します。
3.ロザリオは地獄に対する強力な武器となるでしょう。それは悪徳をなくし、罪を減らし、異端を撲滅するでしょう。
4.それは徳とよい働きを栄えさせるでしょう。それは霊魂たちのために神の豊かな憐れみを得させるでしょう。それは人々の心を世とその虚栄の愛から引き離し、永遠的な事柄の欲求へと高めるでしょう。おお、それらの霊魂はこの手段によって聖化されるでしょう。
5.ロザリオを唱えることによって自らを私に推薦する霊魂は滅びないでしょう。
6.その聖なる玄義の考察に身を入れて敬虔にロザリオを唱える人は不幸によって支配されることは決してないでしょう。神はその正義において彼を懲罰なさらないでしょう。その人は準備のない死によって滅びることはないでしょう。もし彼が正しいならば、彼は神の恵みのうちにとどまるでしょう。そして永遠の生命に相応しい者となるでしょう。
7.ロザリオに対する真の信心を持っている人は誰でも教会の秘蹟なしに死ぬことはないでしょう。
8.ロザリオを唱えることにおいて忠実である人々は彼らの生きている間、そして死の時に、神の光と神の恵みの充満を得るでしょう。死の瞬間には彼らは天国における聖人たちの功績に与るでしょう。
9.私はロザリオに献身した人々を煉獄から救い出すでしょう。
10.ロザリオの忠実な子どもたちは天国において高い段階の栄光に値する者となるでしょう。
11. ロザリオを唱えることによってあなたは私からあなたが求めるすべてのものを得るでしょう。
12. 聖なるロザリオを広めるすべての人々は彼らの必要に際して私によって援助されるでしょう。
13. 私は私の神なる御子から、ロザリオのすべての擁護者が、彼らの生きている間そして死の時に仲裁者として天上の全法廷を持つという保証を得ています。
14. ロザリオを唱えるすべての人々は私の息子たちであり、私の一人子イエズス・キリストの兄弟たちです。
15. 私のロザリオの信心は霊魂の救いの偉大な印です。

ファチマ・クルーセイダー

2012年07月21日 | Weblog

新しい事務局次長の紹介


The Fatima Crusader, Isuue 01, Summer 1978, p.01

「罪人たちのために犠牲をし、しばしば次のように言いなさい。特に犠牲を行っている間に:『おお、イエズスよ、これはあなたの愛のため、罪人たちの回心のため、そしてマリアの汚れなき御心に対して犯される諸々の罪の償いのためです』と。」

ニコラス・グルーナー神父はNational Committee for the National Pilgrim Virgin of Canadaの新しい副総裁および事務局次長である。彼はカナダで生まれ育ち、1964年にマッギル大学McGill Universityから哲学と神学における彼の研究を続ける前に、商学学士号を受けた。それ以来、彼はローマの聖トマス・アクィナス教皇庁立大学から神学学士号および神学修士号を受けた。そして神学における博士課程を修了した。彼の修士論文の主題は恩寵の秩序における人々のマリアの母性である。

ニコラス神父はファチマ、ルルド、ラ・サレット、アイレスフォードの聖母聖堂、およびイタリアのロレトの聖なる家に巡礼をした。彼はまた聖ヨゼフ、聖アンナの有名なカナダの聖堂、ケープの聖母の聖堂、並びに北アメリカのマリア大聖堂、グアダルーペの聖母聖堂にも巡礼をした。神父はパードレ・ピオの生涯の最後の6ヶ月の間パードレと同じ町にいたこと、そして彼の葬儀に列席したことを一つの大きな祝福と考えている。


ニコラス神父は第一言語として英語を話す。しかしイタリア文法においていくつかの間違いをすることは確かであるけれども、しかしイタリア語も忘れていない。彼はフランス語をきれいな発音で話すと言われてきた。

神父はカナダ、イギリス、合衆国およびイタリアで教えた。彼は小中学生並びに神学生たちにカトリック信仰を教えた。

われわれがマリアをわれわれの御母として認める必要が大いにあるということ、そしてわれわれがもっと聖母を尊敬しなければならないということは神父の堅い確信である。特にわれわれはローマ・カトリック教会によって承認された聖母の最も偉大な一連の御出現、特にファチマの御出現にもっと真面目な注意を払わなければならない。

われわれはニコラス・グルーナー神父を副総裁および事務局次長として歓迎する。そしてこの彼の新しい使徒職において彼があらゆる面で成功することを望んでいる。

彼は研究に多くの年月を費やした。その結果、彼は祈り、犠牲そしてよい働きの価値を知っている。彼は、神の助けとわれわれの協力とによって、神が彼に与え給うた精神と心の賜物を、われらの主と聖母とがよりよく知られ、愛されるようにするために用いることができるであろう。ファチマ十字軍のこの偉大な仕事においてわれらの天の御母が彼に期待しておられるすべてのことを果たすことができるようにどうか彼のためにもまた祈ってください。彼が将来長きにわたってわれわれと共にあらんことを。