-- シスター・ルチアは永遠の報いへと去った --
The Fatima Crusader Issue 79, Spring 2005 Special Edition より
ニコラウス・グルーナー神父 B.Comm., S.T.L.,S.T.D.(Cand.)
1917年10月13日に前例のない奇跡が起こった:
正午の太陽は4分間さまざまの色を次々と発しながらぐるぐるまわった。その日ある人がファチマで白いシャツを着ていたならば -- それは太陽が回転するにつれて赤、緑そして青に変わったであろう。それは止まり、そしてさらに4分間、今度はもっと美しくさえある色を出しながら、再び回転し始めた。そしてそれは次に再び止まった。
それからそれは再びまわり始めた。今度は太陽はその通常の位置からはずれ、空においてジグザグに動き始めた。それはおよそ4分間「ダンスをした」。次に地上に向かって真っ直ぐに落ち始めた。世の終わりであると思われた。多くの人々は跪き、神の憐れみを求めた。太陽はそれから空の中のその通常の位置に戻った。
このことの他に、もう一つの奇跡が起こった。その衣服が滝のような土砂降りでずぶ濡れになり、くるぶしまでの深さの泥の中に立ちまた跪いて泥まみれになっていた7万人の人々は瞬間的に乾き、きれいになった。科学者たちは、人々と大地とをあの瞬間に乾かすためには一発の原爆の規模[のエネルギー]を必要としたであろうと言う。しかしエネルギーのこの突然の放出によって誰一人害を受けなかった。
この奇跡はカトリック教徒も信仰を持たない人々も同様に、7万人の人々によって目撃された。そして世俗的な、そして反カトリック的な報道機関によってさえ報道された。
神は、祝せられた御母がファチマでポルトガルの三人の農民の子どもたちに与えられたメッセージの真正性を保証するためにその大奇跡を行われた。祝せられたおとめマリアは引き続く6ヶ月の間毎月これら三人の子どもたちに御出現になり、多くの霊魂を救い、全世界に平和をもたらす手段を彼らに委ねられた。
I. あなたは信じなければならない
なぜあなたは、聖母がファチマでお与えになったメッセージを信じることを義務づけられているのか?ファチマは単なる一つの「私的啓示」ではなかったか?これらの問題点に取り組むためにまず第一に各々すべてのカトリック教徒が、イエズス・キリストおよび教会との一致に、そして恩寵の状態に、留まるためにはある種の事柄を行いかつ信じることを義務づけられているということをあなたに思い起こさせてほしい。すべてのカトリック教徒はまず第一に信仰の遺産に含まれているすべてのことを信じなければらない。なぜなら、聖アタナシウスの信条として知られているカトリック信仰告白は次のように説明しているからである:
「救われることを望む者は誰でも、とりわけカトリック信仰を守らなければならない。なぜなら、ある人がこの信仰を全体としてそして無傷に守らない限り、彼は疑いなく永遠に滅びるであろうからである。」
カトリック信仰を「全体としてそして無傷に」固く守るとうことは何を意味するのか?信仰に関するとは何であるか?聖トマス・アクィナスはわれわれに、信仰は神が啓示なさったすべて:すなわち、神が聖書とカトリックの伝統の両者において啓示なさったすべてであると告げている。それがカトリック信仰であり、そして救われるためにはわれわれはそれを信じることを義務づけられているのである。
われわれはファチマを信じなければならないか?
聖母がファチマでお与えになったメッセージをわれわれは信じなければならないと主張する二つの神学的な立場がある。
第一の立場は、ファチマは預言を通って聖書のうちに含まれていると主張する。このように、それは信仰の遺産の一部であり、そしてわれわれはそれを信じることを義務づけられているということが帰結するであろう。この立場は今日の懐疑論と不信の風潮においてはある人々にとって極端であると思われるであろう。しかししばらくの間その可能性を考察しなさい:黙示録第12章のうちに、われわれは竜との戦いに従事している「太陽を纏った女」の預言を読む。
この「女」は明らかに祝せられたおとめ[マリア]であり、そしてまさにファチマの聖母であり得るであろう。
私は黙示録12:1における女がファチマの聖母であるということが一つの絶対的な確実性であるとは言っていない。しかし誰もそうではないということが確実であると言うことはできない。
実際、二人の教皇がそれは実際そこで預言されたファチマの聖母であるということを仄めかされた:すなわち、パウロ六世は回勅 Signum magnum [大いなる印]において、そしてヨハネ・パウロ二世は2000年5月13日にファチマでの説教において。教皇パウロ六世は黙示録12の女がファチマの聖母であると明確には述べられなかったけれども、それにもかかわらずそれをまったく明確に示唆された。教皇ヨハネ・パウロ二世はまた、1917年のしばらく後に亡くなった二人の幻視者、ヤチンタ・マルトとフランシスコ・マルトを列福するために2000年にファチマを訪問されたとき、より力強くさえ、同じ指摘をなさった。
もう一度、私は上述の立場が決定的である -- 教皇はそれをすべてのカトリック教徒に対して義務的なものとするためにこの立場へと全教会を義務づけることを意図しながら一つの荘厳な宣言をなさらなければならないであろう -- とは言っていない。しかしながら、それに反対する妥当な議論が何もないのであるから、われわれはこの立場をまったく退けたり、あるいはそれを冷淡に扱ったりすることはできない。
どのみちわれわれはファチマを信じなければならない
われわれがファチマのメッセージを信じなければならないと主張するもう一つの神学的立場はその議論をファチマが一つの公的な預言的啓示であるという事実に基づかせている。これは、「ファチマは一つの私的啓示である」という議論にまったく対立する。それは、定義によって立証できないものである私的啓示はそのメッセージが与えられる個人以外の誰に対しても義務的ではないがゆえに、われわれはメッセージを信じることを義務づけられていないと主張する。
しかしながら、ファチマは立証できないものではない。そしてそれは一人の個人に対するメッセージではない。それは全教会に与えられ、一つの公的な奇跡と公的な預言によって立証し得る一つの公的なメッセージである。そしてメッセージはファチマでの聖母の要求を無視する結果はすべての人々にとって破滅を招くものであると述べている。ファチマは一つの公的、預言的啓示であり、そしてそのものとして、ひとたび教会がそれを検討し、それが信じるに値するものであることを見出したならば、自然法と聖書はわれわれがしなければならないことをわれわれに告げている。聖パウロはテサロニケ前書5:19-21においてこう書いている:「霊を消すことなかれ、預言を軽んずることなかれ、何ごとをもためして良きものを守れ。」
ファチマのメッセージは一つの公的な啓示である。それは一つの預言である。教会はそれを検証した。そしてそれが良きものであることを見出した。そしてわれわれはそれゆえにそれを固く守るよう義務づけられているのである。そのメッセージを無視することは預言を軽んずることであろう。そして確かにこうすることに対する諸結果が存在する。フエンテス神父との有名なインタビュー(p. 17 を見よ)の中で、シスター・ルチアは知られた真理を拒否することは聖霊に反する罪であると説明した。太陽の奇跡、無数の治癒と回心、そして諸々の預言の実現によってその真正性を保証されたファチマのメッセージは検証され、そして真であることが見出されてきた。このことを知り、そしてにもかかわらず信じないことはあなたの霊魂そして他の多くの霊魂たちを重大な危険に曝すことである。
II. あなたはファチマの聖母に従わなければならない
ひとたびあなたがファチマの聖母のメッセージを受け入れそして理解すると、あなたはあなたの知識を、第一にあなた自身の生活において行動に移さなければならない。ファチマで祝せられたおとめマリアはわれわれに非常に単純な要求をなさった。聖母は毎日少なくとも5連のロザリオを祈るように繰り返しわれわれに求められた。聖母はわれわれが自分たち自身の生活を改めるよう、そして「すでに余りにも多く背かれておられる」神に背くことを止めることを求められた。聖母は祈りと犠牲をすること、特に哀れな罪人たちそして教皇のためにそうすることをわれわれに求められた。
1917年10月13日、群集が太陽の奇跡を目撃している間に、3人の子どもたちはいくつかの幻視を与えられた。それらのうちの一つは、聖母がわれわれ一人ひとりにそれを身につけるように望んでおられるとうことを示しながら、われわれにスカプラリオを差し出しておられるカルメル山の聖母である。ファチマでわれわれはマリアの汚れなき御心に対する信心を実践し促進するようにという神のお望みを学び知った。われわれはまた、われわれの信仰を知り、それを全体として無傷のままに守ることの必要性について学び知った。
神は、われわれがその中に生きている時代において、真のカトリック教徒として生きること、そしてそのように多くの誤謬の真っ只中でわれわれの信仰を守ることは困難であることを御存知である。諸々の誤謬とわれわれを取り巻いている諸々の誘惑に対する障壁として聖母はわれわれに毎日ロザリオを祈るように促された。その上、われわれは、われわれの洗礼の誓約(そして毎回の聖体拝領と共に暗黙の裡に更新された誓約)のためにカトリック信仰の教義と伝統を守り、そしてわれわれのカトリック信仰を掘り崩す、あるいは否定する誰か -- 彼が司祭、司教あるいは教皇でさえあっても -- によるいかなる試みにも、われわれの能力の程度に応じて、抵抗しなければならないのである。
神はわれわれの利益のために -- 現在の時代および将来の時代におけるわれわれの霊魂を救い、そしてわれわれの永遠の救いを脅かす無数の危険からの保護を提供するために -- ファチマに御自分の祝せられた御母を遣わされた。なぜわれわれはファチマのメッセージに従い、それを生きなければならないか?それは、われわれがわれわれの霊魂を、そしてわれわれにとって大切なすべての人々の霊魂を救うことを望んでいるからである。それは、聖母がファチマで与えられたメッセージがわれわれの最善の希望、そしておそらく唯一の希望、現在われわれを強襲しているすべての悪に対するわれわれの唯一の防衛であるからである。シスター・ルチアは次のように言ったとき、われわれの現在の状況を要約したのである:「....これからは私たちは立場を選ばなければなりません。私たちは神のために存在するか、それとも悪魔のために存在するかの、何れかです。他のいかなる可能性もありません。」ひとたびわれわれが勝利する側、神の側にあることを選んだならば、われわれは、シスター・ルチアがそう呼んだように、神がこの「最後の戦い」のために準備なさった武器、ファチマの聖母がわれわれに用いるように命じられた武器を用いなければならない。
III. あなたはファチマのメッセージを広めなければならない
フエンテス神父との彼女の有名な1957年12月26日インタビュー(この号のp. 17 を見よ)においてシスター・ルチアはわれわれにこう語った:
「私たちは教皇様の側でローマから償いをするようにという世界に対する訴えを待つべきではありません。また私たちは私たちの司教区において私たちの司教様から、あるいは修道会から来る償いへの呼びかけを待つべきではありません。そうではありません!われらの主はすでに非常にしばしばこれらの手段をお用いになりました。そして世界は注意を払いませんでした。だからこそ、今私たち一人ひとりにとって自分自身を霊的に改革し始めることが必要なのです。各人は単に自分自身の霊魂を救わなければならないだけでなく、また神が私たちの道に置き給うたすべての霊魂たちを助けなければなりません。」
この陳述を通して、シスター・ルチアはファチマの第三の秘密の一つの本質的な要素を暗黙裡に明らかにしていた:すなわち、彼女は世界に展開するであろう背教についてわれわれに予め警告し、そしてその背教が教会の最高の段階内部で始まるであろうという事実に対してわれわれに警告していたのである。教皇ヨハネ二十三世、教皇パウロ六世、教皇ヨハネ・パウロ一世、教皇ヨハネ・パウロ二世の個人的な教皇つき神学者であり、第三の秘密を読んだチアッピ枢機卿はこう言われた:
「第三の秘密において、他のこともいろいろあるが、教会における大背教が頂点で始まるだろうということが予告されている。」
われわれはわれらの主によって、そして聖書において聖パウロによって(テサロニケ後書第2章)予告された背教の真っ只中にいる。
明らかにわれわれは一つの歴史的に独特の瞬間に生きている。われわれは大背教の時代に生きている。その中ではもしそれが可能であったならば、「選ばれた者でさえ欺かれたであろう。」われわれの羊飼いたちの大部分は信仰を失ったか、あるいはシスター・ルチアが「悪魔的な方向感覚喪失」と呼んだものに罹患している。そしてわれわれは世界に対して警告を発するために教皇、あるいは司教たち、あるいは諸々の修道会をぶらぶらして待つことはできないということを理解しなければならない。われわれは霊的に起きあがり、自ら情報を獲得しなければならない。神は一つの理由のためにわれわれをこの時代に置き給うた。そして神は御自分の神的計画に協力するようわれわれに期待しておられる。神はわれわれの義務をわれわれに思い起こさせるために御自分の御母をファチマに遣わされた。
更に、背教はそのように広範に広まっているがゆえに、あなたはすべての聖職者が教義の上で健全であるとして彼らに依存することはできない。あるいはあなたの霊魂を脅かす諸々の危険についてあなたに警告してくれるとして彼らに依存することはできない。それゆえに、安全である道はあなたが教えられあるいはするように忠告されるすべてのことをカトリック信仰の基準によって測ること、そして特にあらゆる事柄を信仰の教義的な諸決定と比較することである。教義的な諸決定は不可謬であり、決して失敗しない、神によって保証された、唯一の導き手である。
どの司祭、司教、枢機卿あるいは教皇も誤り得る。しかし信仰の教義は誤謬から自由である。にもかかわらず、たいていの人々は不可謬的な諸決定が存在するということを知ってさえいない。彼らは司牧者たちに従う。司牧者たちのある者は盲目的にか、あるいは知っていてわざとかのいずれかの仕方で、決定された不可謬的な教義から逸れ、そしてその代わりに異端を提出する。
このように、われわれの現在の状況は危機的である。そしてこの事実を理解しているわれわれはわれわれの前に一つの重要な仕事を持っている。この異常な時代にわれわれは他の何をするよう求められているであろうか?ひとたびわれわれが置かれている危険な状況を理解したならば、そしてひとたびカトリック信仰の諸真理において徹底的に自らを教育したならば、われわれは行動を起こすことを求められるのである。シスター・ルチアがこう言ったことを思い起こしなさい:「各人は単に自分自身の霊魂を救わなければならないだけでなく、また神が私たちの道に置き給うたすべての霊魂たちを助けなければなりません。」(続く)