けれど(Credo)

I:キリシタン信仰と殉教 II:ファチマと現代世界 III:カトリック典礼、グレゴリオ聖歌 IV:「聖と俗」雑感

こむにあん

2006年06月30日 | Weblog
 七つのさからめんとの第三はこむにあん(Communian=聖体拝領 注:ポルトガル語では a の上に~)である。これはえうかりすちや(Eucharistia)とも言われる。

 このさからめんとは最上の理、不可思議第一のみすてりよ(Misterio=玄義)であって言葉で述べることができない。この秘蹟は司祭がミサにおいてイエズス・キリストの教え給うた御言葉[これわが体なり - これわが血なり]をかりす(Calix=聖盃)とおすちや(Hostia=供えのパン)の上に唱えるとき、そのおすちやがまことのキリストの御体となり、かりすの 中のぶどう酒がまことのキリストの御血となり変わる。パンとぶどう酒の色、香、味のうちにイエズス・キリストが、天におわしますのと同じようにおわしま す。これは神学的に言えば、実体的変化(Transsubstantiatio)であり、パンとぶどう酒が実体的に変化してイエズス・キリストの御体と御 血に変わるが、パンとぶどう酒の外観はそのまま残るので、人間の理性では捉えがたい神秘である。どちりなきりしたんは「まことのみなもとにておはします御 あるじぜずきりしとかくのごとくをしへ玉ふうへはすこしもうたがはずしんずる事もつぱらなり」とこのさからめんとに対する信仰を強調している。

 どちりなきりしたんでは、パンとぶどう酒の外観の下でのイエズス・キリストの御身体と御血への実体的変化についてくどいくらいに説明を加えている。しかい要するに「ひいですのひかりもてしんずる」ことが肝要なのである。

 えうかりすちやという言葉はギリシャ語から来ている。えうはよいという意味であり、かりすは恵み、感謝のことである。神からのよい恵みがえうかりすちやで ある。神の恵みは永遠の生命である。パンとぶどう酒の外観の下に神であるイエズス・キリストが実体的にまします御聖体はまさに神の恵みそのもの、否、神御 自身であられる。パンとぶどう酒がわれわれの身体を養う食物・飲み物であるように、パンとぶどう酒の外観の下にまことにおわしますイエズス・キリストは永 遠の生命を養う食物・飲み物である。これは単なる比喩ではなくて、イエズス・キリストが定め給うた神秘的な現実である。

 こむにあん(ラ:Communio)はこの秘蹟 がわれわれを主イエズス・キリストに結びつけ、われわれをキリストの御体と御血そして神性に与らせ、そのことによってまたわれわれ信徒をお互いにキリスト において結びつけ、キリストにおける一つの体すなわち教会を形成することから、そう言われるのである。

 えうかりすちやには三つの意味があると言われて いる。一つはそれがわれらの主キリストの御受難を表しているということである。聖パウロはこう言っている:「けだし主の来り給うまで、汝らこのパンを食 し、また杯を飲むたびごとに主の死を示すなり」(コリント前:11:26)。第二に、この秘蹟は神の恵みを表している。われわれはばうちずもによって新らしい生命に生まれ、こんひるまさんによってサタンに抵抗する力を強められ、えうかりすちやによって霊的に養われ、支えられるのである。第三にわれわれはえうかりすちやを拝領することによって、キリストの御約束のように、やがて受けるであろう未来の永遠の喜びと栄光とを予見するのである。

 えうかりすちやを受けることができるのは、カトリックの洗礼を受け、えうかりすちやの意味を知ることができる年齢に達した者、そして何よりも恩寵の状態にある、すなわち、もるたる科を犯していない状態にある者である。もしもるたる科を犯している場合には次に述べられるぺにてんしや(Penitentia=悔悛の秘蹟)を受けて赦されていなければならない。肉身の準備として、きりしたんの時代はもちろん、近頃までえうかりすちやを 受けるためには、前夜十二時から飲食をしてはならなかった。昭和三十年代には条件が緩和されて聖体拝領の三時間前から固形物およびアルコール飲料、一時間 前まら水または湯以外の非アルコール流動物を飲食してはならないことになった。病人や死の危険にある最後の聖体拝領の場合にはこの断食の必要はない。

こんひるまさん

2006年06月26日 | Weblog
 七つのさからめんとの第二はこんひるまさん(Confirmacan=堅振)である。これはきりずま(Crizma)とも言われる。これはばうちずもを授かった人にびすぽ(Bispo=司教)が授ける重要なさからめんとである。

 このさからめんとによってでうすは信徒に新しいがらさを与え給い、ばうちずもの時に受けたひいですを強め(confirm)給うのである。そして必要なときには、万民の前で自己のひいですを公言する力をくださるのである。だからそのような幸せを受けることができるからして、このさからめんとを授からずにいることはできない、とどちりなきりしたんは教えている。以上のような簡単な説明でこんひるまさんの部分は終わっている。

 公教要理は「堅振とは、完全なキリスト信者とならせるために、聖霊と其の賜物とを豊かに受けさせる秘蹟である」と述べている。聖霊の賜物とは「聖霊のす すめにたやすく速かに従わせるために、人の智慧を照らし、心を強める、徳に優れた超自然の賜物である。」それは、専ら天主のことを重んじ味わわせる御恵で ある上智、教えを悟らせ、之を心に浸み込ませる御恵である聡明、天主の御栄と自分の救霊のためになることを選ばせる御恵である賢慮、救霊の妨げとなるもの に打ち克たせる御恵である剛毅、天主の御旨に従って世の中の物事を悟らせ、之を用いさせる御恵である知識、孝子の心を以て楽しく天主に仕えさせる御恵であ る孝愛、天主を敬わせ、其の御旨に逆うことを畏れさせる御恵である敬畏の七つであり、これらの聖霊の賜物によって、人は信仰を強められ、キリストの兵士と なり、戦う教会 Ecclesia militant の一員となるのである。

 こんひるまさんきりずまとも言われるが、きりずま(Crizma, chrism)とはオリーブ油とバルサムを混ぜたもので、司教によって聖別されて聖香油とされ、堅振式の時に司教はこれを受堅者の額に塗りながら、「われ は十字架のしるしをもって汝にしるしをし、父と子と聖霊との御名によりて、救いの聖香油をもって汝を強める」という祈りを唱える。最後に司教は受堅者の頬 を軽く打つが、これは受堅者に、キリストのためにはあらゆることを、時には死さえも、忍ぶ準備ができていなければならないことを思い知らせるためである。

 以上のように、こんひるまさんさからめんとは、 この世にあってさまざまの誘惑に取り巻かれているきりしたん、われわれキリスト者が信仰と道徳の危機の時代に立ち向かうために必要な力を与えてくれる重要 な秘蹟なのである。堅振の秘蹟によってわれわれは一人前のキリスト者とされ、キリストのために戦う兵士とされるということをわれわれはもう一度思い起こす 必要があるではないか?キリストの敵と戦うことを放棄して戦場離脱をし、あまつさえ、敵に身を投じて敵のために働く者になっていないかどうか?融和、対 話、赦し、平和という標語はわれわれに塗られたきりずま(われわれを戦いにおいて強める聖なる香油)の意味を忘れさせる危険を多分に持っていないか?反戦・平和運動やエキュメニズム運動はさからめんとであるこんひるまさんを無視する陰謀ではないか?

ばうちずも

2006年06月25日 | Weblog
 この七つの秘蹟のうちの第一は洗礼の秘蹟である。なぜなら、洗礼の秘蹟を受けなければきりしたんになれないし、その他の秘蹟を受けることができないからである。またえうかりすちやの秘蹟を受ける人はもるたる科を犯しているならば、まず痛悔した上でこんひさん(罪の告白)をするぺにてんしやの秘蹟を受ける必要がある。

 ばうちずもとはきりしたんになるさからめんとであり、これをもってひいですがらさを受け、おりじなる科と、生まれてこれまでに犯した科を赦される、とどちりなきりしたんは説明する。ひいですを受けるので、アウグスティヌスは洗礼のことを信仰の秘蹟と呼んだ。洗礼を受けることによってわれわれはカトリック教会が教えるキリスト教信仰のすべてに対するわれわれの信仰を告白するからである。がらさの中でも最も根本的な救霊のがらさを洗礼によって受ける。洗礼はイエズス・キリストが「人は聖霊と水とによって新たに生れずば、天国に入る能わず」(ヨハネ3:5)と言われたように、救霊のためにどうしても必要なさからめんとである。

 どのような覚悟でこのさからめんとを受けなければならないか?是非を弁える年齢の者が洗礼を受ける場合には、まずきりしたんになろうと望むこと、過去の罪を痛悔し、これからはイエズス・キリストの掟を守るという覚悟でこのさからめんとを受けることが肝要である。

 ばうちずもさからめんとの授け方:洗礼名として聖人の名をいただき、身の上に水をかけて次の祈りを唱える:例えばぺいとろの名を貰った人には「ぺいとろぱあてれと、ひいりよと、すぴりつさんとの御名をもてそれがしなんじをあらひ奉る、あめん」。どちりなきりしたんは念のためラテン語による祈りの文をすぐつけ加えている。「ぺてれえごばうちぞいんのみねぱあちりすえつひいりいえつすぴりつさんちあめん」。水をかけるとともに三位一体の御名によって汝を洗うという祈りを唱えることはばうちずもが有効であるための必須要件である。それが抜けてもばうちずもが有効である言葉はぺてれ、それがし、あめん、の三つであり、それ以外の他の祈りの言葉が欠ける場合にはばうちずもを授かったことにはならない。

 ばうちずもはたすかりの絶対必要条件であるが、水によるばうちずも以外にのぞみのばうちずもとちのばうちずもとによって、でうすはたすかりを得る道をお与えになっている。通常のばうちずも、すなわち、水と聖三位一体の御名によるばうちずもを授かることが不可能でも、これら二通りのばうちずもによって救霊の道は確保されるとどちりなきりしたんは教えている。公教要理も、洗礼を受けないでも、死後、救霊を得る人があるか、という問いを設けている。

 のぞみのばうちずもとは真実ばうちずもを授かりたいという望みを持っていても機会を得ず、自分の怠慢でなく、よい覚悟をもって死ぬ場合には水のばうちずもを授からなくても、のぞみのばうちずもとなるので、死後のたすかり、救霊は保証されるのである。

 ちのばうちずもとは御あるじイエズス・キリストをひいですにうけ奉る、すなわちイエズス・キリストに対する信仰を持っているが、水のばうちずもを授かる機会がなく、イエズス・キリストに対する信仰のゆえに殺される場合、血を流すことのゆえにまるちる(Martyr=殉教者)の位にあげられ、死後の救霊を得られる。これが殉教による血の洗礼である。

 ばうちずもを授けるのは誰か?通常、その人、その時に応じて相応しい盛儀をもってなされる場合、ぱあてれ(司祭)が授ける。しかしこのさからめんとは救霊のために絶対必要であるからして、司祭がいない場合には男女によらず誰でもこのさからめんとを授けることができる。ただし、前に述べた条件を厳密に守らなければならない。どちりなきりしたんは当時の状況を考慮してであろう、「ぱあてれのなき所にても此御さづけしげくいる事なれば、きりしたんはいずれもばうちずもさづくるみちをならふべき事専(もっぱら)也」と述べている。このことによって、きりしたんは宣教師、司祭がいなくなった日本できりしたんとしての信仰を何百年も守り続けることができたのである。


さからめんと

2006年06月23日 | Weblog
 どちりなきりしたん 第十 さんたえけれれじやの七のさからめんとの事。

 ごしやうをたすかる(=来世の救霊を得る)ためにはこれまでに示されたことを守り、信仰を保ち、行動を正しくするという三つのことで十分かどうか?そうではない。信仰を保ち、正しく実行するためにはでうすがらさが絶対必要である。なぜなら、それらの三箇条でさえでうすがらさがあって初めて達成できるのであって、人間の自然的な能力だけでは無理だからである。そのがらさを人間に与えるものが御母さんたえけれじやの七のさからめんとなのであり、これらを十分な覚悟をもって受けなければならない。

 さからめんと(Sacramento=秘蹟)というのはがらさ・ 聖寵を施すためにイエズス・キリストが定め給うたしるしであり、そのしるしによって聖寵が与えられるだけでなくて、実際に聖寵を与える手だて・手段となる のである。しるしは何かあるものを指し示す役割を果たす。例えば自然的なしるしとして煙はそこに火があるしるし、つまり火を指し示す。秘蹟はもちろん、単 に自然的なしるしではなくて、イエズス・キリストが制定なさった超自然的・神秘的なしるしである。あにまがらさが与えられてそこにあるというしるしであり、またがらさを 与える手だてである。超自然的・神秘的であると言ってもわれわれが把握できない、目に見えないというのではなくて、外的・感覚的な物事を通してそのしるし は与えられる。例えば洗礼の秘蹟は水を額に注ぎながら「われ、父と子と聖霊との御名によりて汝を洗う」という洗礼の言葉を唱えることによって授けられる。 このように、水は洗礼において外的なしるしとして、水が身体を洗い清めるように、洗礼において与えられる聖寵が霊魂を洗い清め、原罪の穢れを消すというこ とを示すために用いられるのである。がらさ・聖寵は救霊のために天主がイエズス・キリストの功徳によって施し給う超自然の恵みであり無償の賜物である。人はそれによって悪を避け善を行うように助けられ、また霊魂を聖なるものとする恵み(成聖の聖寵)を受ける。その聖寵を施すしるし・手だてとして七つのさからめんとが イエズス・キリスト御自身によって制定された。従って、イエズス・キリストが聖寵をお与えになる仕方を決定されたということであり、その数も決定されたと いうことであるから、人間がこれを改廃することはできないのであって、イエズス・キリストからその執行を委ねられたカトリック教会は聖寵を秘蹟を通して人 々に授けるけれども、イエズス・キリストが望まれる仕方でのみ、そうするのである。プロテスタント諸派は洗礼以外の秘蹟をすべて放棄している。

 どちりなきりしたんではさからめんとはすべてポルトガル語やラテン語で呼ばれている。一にはばうちずも(Baptismo=洗礼)、二にはこんひるまさん(Confirmacan=堅振)、三にはえうかりすちや(Eucharistia=聖体)、四にはぺにてんしや(Penitentia=悔悛)、五にはえすてれまうんさん(Extrema Vncan=終油)、六にはおるでん(Orden=品級)、七にはまちりもによ(Matrimonio=婚姻)がそうである。


べにある科

2006年06月22日 | Weblog
 べにある科とはもるたる科より軽いもので、でうすがらさを失うことはないとがではあるが、でうすへの愛とでうすにお仕えする心をゆるがせにするものであるから、もるたる科の発端になる。公教要理では小罪と言っている。小罪といえども神の掟に背くことには違いなく、やがて大罪へと導くものである。どちりなきりしたんは公教要理よりも詳しくこのべにある科・小罪を説明している。べにある科の赦しのためには、さからめんと・秘蹟を授かり、みいさ・ミサを拝み、あやまりのおらしよを申しあげ、痛悔の心をもってびすぽ・司教のべんさん(Bencan=祝福)を受け、あぐはべんた(Agoa benta=聖水)を注ぎ、胸を打ち、信心をもってぱあてるのすてるおらしよを申しあげ、どんな所作もこんちりさん(Contrican=完全な痛悔)の印となることをする、などのことが必要である。

 悪の根源、大罪へと導くものである七つの罪源をもるたる科のところで見たが、それに対抗する七つの善をどちりなきりしたんは以下のように挙げている。高慢に対抗するうみるだあで(Humildade=謙遜)はへりくだることであり、貪欲に対抗するりべらりだあで(Liberalidade=寛容)はよく施すこと、、邪淫に対抗するかすちだあで(Castidade=貞潔)は貞心のこと、瞋恚・憤怒に対抗するはしえんしや(Patientia=忍耐)は堪忍のこと、貪食に対抗するてんぺらんさ(Temperanca=節制)は中庸のこと、嫉妬に対抗するかりだあで(Charidade=愛徳)は大切のこと、懈怠、怠慢に対抗するぢりぜんしや(Diligentia=熱心・精励)は善の道にゆるがせなく勧めることである、と。

 第九、七のもるたる科の事の最後にどちりなきりしたんはあにまの三のぽてんしや(Potentia=能力)について説明している。一にはめもりや(Memoria=記憶)といって過去のことを思い出す能力、二に
えんてんぢめんと(Entendimento=悟性)といってものを知り弁える能力、三にはおんたあで(Vontade=意志)といって憎んだり、愛したりすることに傾く能力があにまの三のぽてんしやである、と。そしてあにまに備わるこの能力は身体を離れて後もあにまに伴って行くものであり、後生の苦楽を受けるのである、と。それに対して身体のせんちいどす(Sentidos=感覚)はげん(眼=視角)、に(耳=聴覚)、び(鼻=嗅覚)、ぜつ(舌=味覚)、しん(身=触覚)の五つであり、これらは身体に伴うから死んで身体が果てるとこれら五つの感覚も果てる。あにまとしきしん(色身=身体)から成る人間はこのようにして前者は霊的なものとして不滅であり後者は物質的なものとして滅びるのである。

 きりしたんはこのようにして、未だ訳語が確定されていないあにまぽてんしやについてポルトガル語の音そのままにキリスト教的道徳と人間学をどちりなきりしたんを通して教えられたのである。彼らはあにまの たすかり・救いを本気で望んだと思う。現代のキリスト者はどうであろうか?きりしたんにとって道徳は人間社会内部のただ水平的であるだけの関係ではないの であって、まず先ず第一に神との関係において、神の掟に背く罪・悪と神の掟に従う善・徳との戦いの場への参加であったと思う。人間中心主義の道徳は平和・ 戦争反対を叫ぶ一方で、神の掟にまっこうから反する堕胎や同性愛を人権として主張する。

もるたる科

2006年06月20日 | Weblog
 どちりなきりしたん 第九 七のもるたる科(とが)の事。

 どちりなきりしたんは十戒、教会の掟の次にもるたる科について説明する。科はもるたる科(Mortal=死にあたる、罪、すなわち大罪)とべにある科(Venial=赦さるべき、罪、すなわち小罪)とに区別される。もるたるの意味はこの場合、身体的な生命の喪失としての死ではなくて、「なつうらのうへなるあにまの一命」(超自然的な霊魂の命)のことであり、それによってがらさ(Graca=恩寵、聖寵)が失われて霊的に死の状態に陥る罪について言うのである。もちろん霊魂は不滅であるからして、霊魂が死滅するということではなく、がらさを失うことにおいてあにまはいわば死んだ状態になると考えられているのである。もるたる科はでうすに対する叛逆としてでうすから離れ、がらさを失いぱらいそ(Paraiso=天国)のごらうりや(Gloria=栄光)ではなくて、いんへるの(Inferno=地獄)の罰を招く原因である。われわれが何にもまして大罪を避けねばならぬのはそのような永遠がかかっているからである。

 もるたる科を犯すときにはひいです(Fides=信仰)を失うのかというとそうではない。もるたる科はでうすがらさを失うけれども、ひいですを失うわけではない。もるたる科を犯すことによってきりしたんであることをやめるわけではない。信仰の喪失は背教という別の事柄である。きりしたんはもるたる科を犯したとき、それを痛悔し、再び犯すまいと決心した上でこんひさん(Confissan=告解、罪の告白)のさからめんとぱあてれから受けなければならないことは前にも触れた。

 もるたる科の数は七つ:これは「よろづのとがの こんげん」としてかうまん(高慢、傲慢)、とんよく(貪欲)、じやいん(邪淫)、しんい(瞋恚、憤怒)、とんじき(貪食)、しつと(嫉妬)、けだい(懈 怠、怠慢)が挙げられているが、現在の公教要理でもその項目は全く同じで(呼び名と順序が少し異なるが)「七つの罪源」と呼ばれている。もるたる科は事に よってべにある科となることが多いとどちりなきりしたんは言っている。

 当然のことであるが、きりしたんはどちりなきりしたんを学び、信じ、実行することによってきりしたんとして生きたのであって、われわれは、ともすれば彼 らが領主の一言によってわけも分からずにきりしたんになったと考えがちであることが如何に誤っているかを、思い知らされるのである。十分に訳語が定まらな い時代にポルトガル語の音をそのまま移したいわばきりしたん用語でもって、彼らきりしたんは千数百年伝えられてきたカトリック信仰を理解して受け入れ、実 践していたことにわれわれは改めて驚異の念を抱く。われわれの祖先が450年前に受け入れた信仰は彼らにとっては1550年前、われわれにとっては 2000年前のキリスト教の始まりから一貫して不変のものとして生き続けているのである。そのことが時代的にも場所的にもカトリック(普遍的)である教会 の本質である。われわれは時代に合わせて変化して行く面をも持っているが、事、信仰に関していえば、それはあり得ない。キリシタンはわれわれが享受してい る文明の利器を何一つ享受しなかった。しかし信仰は20000年前も、彼らの時代も、われわれの時代も変わらない。教会の aggiornamento 現代化というようなことが安易に語られ実行されれば、それはカトリックでなくなることにつながる、と思う。 

えうかりすちや

2006年06月19日 | Weblog

 どちりなきりしたん 第八 たつと(貴)きえけれじやの御おきての事。

 えけれじやまんだめんと 第五:ぱすくはぜんごにたつときえうかりすちやさからめんとをさづかり奉るべし。

 「公教会の六つのおきて」では「第三 少なくとも年に一度は御復活祭のころに聖体を受くべし」となっており、順序が違うが内容は同じである。これは前期版のどちりいなきりしたんでも現在と同じ第三に挙げられている。

 ぱすくは(Paschoa=復活祭)前後にえうかりすちや(Eucharistia=聖体)のさからめんと(Sacramento=秘跡)を受けるべしという教会の掟、定めである。このまんだめんとをどのように考えるべきかという弟子の問いに対して師匠はこう答えている:「たつときえうかりすちやに御あるじぜずすきりしとおはします事をわきまへ、たつとみ奉るほどのちえあるきりしたんはいずれもぱすくはのぜんごにびすぽ(Bispo=司教)の御はつと(法度)にまかせ一年に一たびえうかりすちやをうけ奉るべしとのぎなり。しかれどもそれはこんひさんをきき玉ふぱあてれの御どうしん(同心=同意)をもてのぎなるべし。」

 過ぎ越しの食事の時「弟子たちの食するに、イエズス、パンを取り、祝してこれを裂き、彼らに与えてのたまいけるは、取れよ汝ら、これ、わが体なり、と。 また杯を取り、謝して彼らに与え給い、みなこれをもって飲みしが、イエズス彼らにのたまいけるは、これ衆人のために流さるべき新約のわが血なり」(マルコ 14;22-24)。 パンとぶどう酒の形色・外観の下にイエズス・キリストの真の体と血の犠牲がミサの度毎に新たに繰り返され、信徒はそのえうかりすちや・御聖体を拝領することによってイエズス・キリストと一致し、そして霊魂の糧とする。教会は信徒に最低限一年に一度は復活祭の頃に聖体を受けることを命じる。それはキリストが「わが肉を食せずわが血を飲まざれば、汝らのうちに生命を有せざるべし」と言われたからである。

 御聖体の中には実体的にイエズス・キリストの御体と御血がましますだけでなく、イエズス・キリストの御霊魂と神性がましますからして、われわれは聖体拝 領によって神御自身を受け奉るわけである。確かにキリストは最後の晩餐の席で弟子たちとともに食事をなさったのであるが、これは単なる食事・会食ではな い。そのときに上に述べたように、キリストはパンとぶどう酒を御自分の体と血と霊魂と神性とに変えられたのであり、それを弟子にお与えになり、弟子たちに 「汝らわが記念としてこれを行え」と言われて、えうかりすちやさからめんととして行う権能を与えられた。

 プロテスタント諸派はこのえうかりすちあさからめんとで あることを否定して、単なるキリストと弟子たちとの会食の記念としての聖餐式に変えてしまった。そこで食されるパンとぶどう酒はもはやキリストの体と血、 霊魂と神性ではなくて、単なる会食のための食物・飲料でしかない。第二ヴァチカン公会議後はカトリックの中でも、聖体の中に真のイエズス・キリストがまし ますことを信じない人々が増加しており、ある世論調査ではアメリカで半数近いカトリック教徒がそのことを信じていないという結果が出ているそうである。彼 らはもはやカトリック教徒ではなくなっているのであろう。きりしたんはこの点でもまた現代に現れたならば驚倒するであろう。

こんひさん

2006年06月15日 | Weblog
 どちりなきりしたん 第八 たつと(貴)きえけれじやの御おきての事。

 えけれじやまんだめんと 第四:ねんぢう(年中)に一たびこんひさん(Confissan=告解、罪の告白)を申べし。

 イエズス・キリストは使徒たちに「汝らたれの罪を許さんも、その罪許されん、たれの罪を留めんもその罪留められたるなり」(ヨハネ20:22-23)と 言われ、使徒たちと彼らの後継者である司教、司祭に罪を許す権能を授けられた。人は洗礼を受けることによって原罪を許されるが、洗礼を受けた後に犯した罪 はイエズス・キリストが制定なさった七つの秘蹟の一つであるこの悔悛の秘蹟によって許される必要がある。こんひさんはこの悔悛の秘蹟にどうしても必要な部分であり、犯した罪(大罪と小罪)を聴罪司祭(こんへそる=Confessor)に告白することである。こんひさんの前に罪の糾明、痛悔、遷善の決心が要求され、こんひさんの後には罪の許しの後にも残る償いをしなければならない。

 どちりなきりしたんの説明はかなり詳細になされている。善悪を弁えるほどの年齢のきりしたんはえけれじやの定めの通り、「こんひさんをきき玉ふべきぱあてれ」すなわち、聴罪司祭がいる場合には、せめて一年に一度こんひさんをしなければならない。しかしきりしたんの当時は司祭にいつもこんひさんをすることは不可能であったであろう。司祭がいないとき、当然こんひさんを申し上げることができないから、その場合はまんだめんとに背くことにはならないと言っている。

 身体が汚れたとき身を清めるのと同じように、あにまは悪によって汚れるから、こんひさんによって清めなければならない、というどちりなきりしたんの説明は非常に分かりやすい。日本では身を清めることによって魂の穢れをも消すと考えられることが多いが、悪・罪という神の掟に背く穢れは神の定め給うた秘蹟によってしか清められないのである。

 死の苦しみにあるとき、たつときえうかりすちやを授かる前には、こんひさんをするべきである、と述べられている。もるたるとが(Mortalとは死のこと、もるたるとがで大罪を表す)については第九の項目で述べられるが、これはこんひさんによって必ず許されなければならず、罪の許しなしにえうかりすちやを受けることは大罪に大罪を重ねることになる。

 こんひさんにおいて重要なことは「一にはへりく だる事、二にしんじつしやうぢき(真実正直)にあらはす事。三にはとがをのこさざる事」である。へりくだるとは罪を犯した自分は許しをうける資格がないと 考え、神の御前に謙遜にひれ伏してキリストの贖いの功徳によりすがる態度・心構えである真実正直に表すとは神は人間の内面をもすべて知り給うからして包み 隠さずにありのままを告白することである。とがを残さないこととはこんしえんしや(Conscientia=良心)をよく糾明して思い出すことはすべて残らずさんげ(懺悔=告白)することである。

 「こんしえんしやのきうめい」のためには十戒、教会の掟、「七のもるたるとが」、「十四のじひのしよさ」(後の二つは後述)などの項目についてあやまりがなかったかどうかをただすことが肝要であると述べられている。

 きりしたんは洗礼を受ける前のカテキズムにおいてこのようなことを詳しく教えられたのである。現代のカトリック教会ではどうなのであろうか。告解をする 人が少なくなったと言われている。かつては告解室があり、司祭はミサの前に告解室で待機していて、多くの人が列を作って告解を待っている風景はどこの教会 にも見られた。今は告解室のない教会も多い。司祭に告解を申し出る機会を見つけることが困難になっているのではないだろうか。大罪を持ったまま死ねば、た とえ洗礼を受けた信徒であっても、否信徒であればなおさら、地獄、永遠の火の中へ行かなければならない、ということをわれわれはもう一度真剣に思い起こす べきである。神の憐れみはだからこそ、こんひさんの重要性をえけれじやまんだめんとの一つとして示すという形で、示されているのである。


えけれじやの御おきて 第三

2006年06月14日 | Weblog
 えけれじやまんだめんと 第三:たつときえけれじやよりさづけ玉ふとき、ぜじゆん(Ieiun=大斎・絶食)をいたすべし。又せすたさばとせすたへりや Sexta Feria=金曜日とさばと Sabatho=土曜日)ににくじき(肉食)をすべからず。

 前期版のどちりいな-きりしたんではこの第三のえけれじやまんだめんとは第四に挙げられていて、順序が不同である。また前期どちりいなきりしたんでは簡単な説明で済ませているが、後期どちりなけきりしたんでは具体例を挙げて詳細に説明している。

 きりしたんは二十一歳から正当な理由がないかぎり、くはれずま(Quarezma =四旬節)には大斎(一日一度の食事)を守り、かつ肉食を避けることが義務づけられる。しかし二十一歳前の成長期の子ども青年や六十歳を過ぎた老人また妊 娠中や授乳中の婦人、農作業や建築のような力仕事をしなければならない者、徒歩旅行をしなければならない者など、仔細のある者は大斎を免除される。ただど ちりなきりしたんは大斎を免除されようと思うとき、自分のこんへそる(Confessor=聴罪司祭)に相談すべきである、としている。

 また金曜日、土曜日に肉食をしてはならない(小斎)という教会の掟がある。肉食といってもきりしたんの時代には牛肉、豚肉などは食さなかったから、「とりのかいこ(鶏卵)、けだもののちにてつくりたるしょくぶつ(食物)」を挙げている。


みいさ

2006年06月13日 | Weblog
 どちりなきりしたん 第八 たつと(貴)きえけれじやの御おきての事。

  こんしりよ(Consilio = 公会議)あるいはイエズス・キリストの代理者たるぱつぱ(Papa = 教皇)によって定められたまんだめんと(Mandamaento)はすべてのきりしたんが守らなければならない掟である。その地域のびすぽ(Bispo = 司教)が定めるまんだめんとはその地域のきりしたんが守らなければならない掟である、とどちりなきりしたんは言っている。

 えけれじやまんだめんと 第一:どみんごゆはひ日に諸職をやむべし。第二:どみんごゆはひ日にみいさ(Missa=ミサ聖祭)ををがみ奉るべし。

 前期版のどちりいな-きりしたんではえけれじやの第一のまんだめんとはここで参照している後期版の第二が第一としてあげられており、諸職をやむべしという文言はない。現代の公教会祈祷文でも「主日と守るべき祝日とを聖とし、ミサ聖祭に与るべし」となっていて、前期版のどちりいな-きりしたんの第一:「どみんごべあと日にみいさを拝み奉るべし」と同じである。

 どみんご(Domingo=日曜日)とゆはひ (祝い)日には労働を休むことが命じられている。ポルトガル語のDomingo はまさに主の日である。一週間のはじめの日は、他の六日の労働日、生活の糧を得るために捧げられる俗の日々に対して、労働を休んで主のためにとって置かれ る日、主日として俗ではない聖なる日を過ごすべきことが命じられている。もちろん、病者のための見舞いや看病、家族のための食事の準備、葬儀、そしてきり したんの時代に日常的であった出陣、合戦への参加、掘、築地、城の造営、そのための荷物運搬などの肉体労働は許されていた。貧しいために家族を養うために はどみんごにも働かなければならない場合にもこのまんだめんとに背くことにはならないと説明されている。さんたえけれじやの目的はどみんご・ゆはひ日に上に挙げたような特別の事情がない限り、えけれじやに参詣し、でうすに対する礼拝を行い、世俗のことから離れてごしやう(後生)のねがひをすべきだということである。

 第二の掟は「どみんごゆはひ日にみいさををがみ奉るべし」とある。みいさとはなに事ぞ、という弟子の問いに対して師匠は「御あるじぜずすきりしとの御しきしん(色身)と御ち(血)とともにさきりひしよ(Sacrificio=犠牲)とてささげものとしてでうすぱあてれにいき(生き)たる人、しし(死し)たる人のためにささげ奉らるるなり。これすなはち御あるじぜずすきりしとの御一しやうがいの御しよさと、御ぱしよん(Passion=御受難)を思ひいださせたまはんためにさだめをき玉ふ者也」と答えている。ミサ聖祭はパンとぶどう酒との外観のもとにイエズス・キリストの御体(御しきしん)と御血(御ち)とを犠牲として父なる神に捧げ、キリストの十字架上の犠牲の功徳を、生ける人とぷるがとりよ(Purgatorio=煉獄)のあにま(Anima=霊魂)とに施す聖なる祭儀である。

 どちりなきりしたんは更に「ぱあてれ(Padre=神父・司祭)さんちしもさからめんと(Sanctissimo Sacramento=至聖なる秘跡、すなわち御聖体)を人々におがませ玉ふときのおらしよ」として「御主ぜずすきりしと貴き御くるすの道もて世界をたすけ玉ふによてくぎやうらいはい(恭敬礼拝)し奉る、わがとがをゆるし玉へたのみ奉る」という祈りを挙げている。また「かりす(Calix=ミサ聖祭に用いる聖盃)ををがませ玉ふ時」のおらしよとして「御あるじぜずすきりしと一さいにんげんをたすけたまはんためにくるすのうへにてながし玉ふたつとき御ちをおがみ奉る」という祈りを挙げている。

 「此みいさの貴きさきりひしよは いかなる心あてをもてささげ奉らるるや」つまり貴いミサの犠牲はどのような意向で捧げられるかという問いに対して、どちりなきりしたんは三つの意向を挙げ ている。すなわち、御をんの御れいとして、われらがとがのつくのひ(罪の償い)として、いやましに御をんをうけ奉らんために、という三つの意向である。

 以上見てきたように、きりしたんにとってみいさををがむとは、キリストの十字架上の犠牲の再現に立ち会い、司祭とともにキリストの御体と御血とを、パンとぶどう酒の実体変化を通して、父なる神に捧げる至聖なる祭儀であった。このことは永遠に変わることなく世の終わりまで続けられる犠牲の祭りである。

 イエズス・キリストは最後の晩餐において弟子たちにみいささきりひしよを御制定になったのであるが、犠牲という面を強調せずに最後の晩餐の単なる記念として信徒の会食のごときものに変えてしまったのがプロテスタント諸派の聖餐式である。さからめんと(Sacramento=秘跡)の項でまた触れられるであろうが、みいさにおけるえうかりすちや(Eucharistia=聖体)の位置づけはカトリック教会の中心的な問題である。

 公会議の後、Novus Ordo Missae と呼ばれるミサが何千年も続いてきた伝統的なミサに取って代わった。ミサ典礼の内容的な変化についてはここでは触れないことにして、外的な面での変化だけ を取り上げても、以下のような変化が起こった。祭壇は伝統的な教会では聖櫃を仰ぎ見るように作られ、司祭は祭壇の聖櫃に向かって、すなわち神に向かって (信者に背を向けて)ミサを挙行していたがこのやり方が、司祭が信徒と対面して(ということは聖櫃に背を向けて)ミサを挙行するやり方に変わったこと、聖 体拝領台が撤去され、それまで信徒が聖体拝領台に一列に並んで跪き、司祭の手から舌の上に聖体を受けていたやり方が司祭あるいは信徒の聖体臨時奉仕者から、 立ったままで手で受けるやり方に変更されたこと、説教壇が取り払われたこと、信徒席からも跪き台が取り外されたこと、ラテン語を用いずに各国語でミサが行 われるようになったこと、従ってラテン語の聖歌あるいはグレゴリオ聖歌も用いられず、カトリック聖歌集に変わって典礼聖歌集という新しいものに変わったこ と、等々である。

 きりしたんが「みいさををがむ」ために現代のカトリック教会に足を踏み入れたとすれば、彼は来た場所を間違えたと確実に思うであろう。ぱあてれがきりしたんの方を向き、御聖体のまします聖櫃に背を向けていることなど彼には考えられないことであろう。その他上に挙げたような事実を見たらこれはもうさんたえけれじやみいさで はないと考えるであろう。第二ヴァチカン公会議後わずか四十数年の間にこのように変わってしまったミサを初めとする典礼の改革は、一言で言えば、「教会を 現代世界に適合させる」とするヨハネ二十三世の言われる aggiornamento [=現代化]が実はキリストを世界にもたらす代わりに教会の中に世界を持ち込むことになった、つまり教会の世俗化をもたらしたということである。

 私はきりしたんの時代のミサとまったく同じミサとは言わないまでも現代化・世俗化・プロテスタント化されていない伝統的なミサに与りたいとつくづく思 う。聞くところによれば、伝統的なミサ、聖ピオ5世のミサは禁止されていないそうであるが、どうしてどこの教会も一様にNovus Ordo Missae なのであろうか?