七つのさからめんとの第三はこむにあん(Communian=聖体拝領 注:ポルトガル語では a の上に~)である。これはえうかりすちや(Eucharistia)とも言われる。
このさからめんとは最上の理、不可思議第一のみすてりよ(Misterio=玄義)であって言葉で述べることができない。この秘蹟は司祭がミサにおいてイエズス・キリストの教え給うた御言葉[これわが体なり - これわが血なり]をかりす(Calix=聖盃)とおすちや(Hostia=供えのパン)の上に唱えるとき、そのおすちやがまことのキリストの御体となり、かりすの 中のぶどう酒がまことのキリストの御血となり変わる。パンとぶどう酒の色、香、味のうちにイエズス・キリストが、天におわしますのと同じようにおわしま す。これは神学的に言えば、実体的変化(Transsubstantiatio)であり、パンとぶどう酒が実体的に変化してイエズス・キリストの御体と御 血に変わるが、パンとぶどう酒の外観はそのまま残るので、人間の理性では捉えがたい神秘である。どちりなきりしたんは「まことのみなもとにておはします御 あるじぜずきりしとかくのごとくをしへ玉ふうへはすこしもうたがはずしんずる事もつぱらなり」とこのさからめんとに対する信仰を強調している。
どちりなきりしたんでは、パンとぶどう酒の外観の下でのイエズス・キリストの御身体と御血への実体的変化についてくどいくらいに説明を加えている。しかい要するに「ひいですのひかりもてしんずる」ことが肝要なのである。
えうかりすちやという言葉はギリシャ語から来ている。えうはよいという意味であり、かりすは恵み、感謝のことである。神からのよい恵みがえうかりすちやで ある。神の恵みは永遠の生命である。パンとぶどう酒の外観の下に神であるイエズス・キリストが実体的にまします御聖体はまさに神の恵みそのもの、否、神御 自身であられる。パンとぶどう酒がわれわれの身体を養う食物・飲み物であるように、パンとぶどう酒の外観の下にまことにおわしますイエズス・キリストは永 遠の生命を養う食物・飲み物である。これは単なる比喩ではなくて、イエズス・キリストが定め給うた神秘的な現実である。
こむにあん(ラ:Communio)はこの秘蹟 がわれわれを主イエズス・キリストに結びつけ、われわれをキリストの御体と御血そして神性に与らせ、そのことによってまたわれわれ信徒をお互いにキリスト において結びつけ、キリストにおける一つの体すなわち教会を形成することから、そう言われるのである。
えうかりすちやには三つの意味があると言われて いる。一つはそれがわれらの主キリストの御受難を表しているということである。聖パウロはこう言っている:「けだし主の来り給うまで、汝らこのパンを食 し、また杯を飲むたびごとに主の死を示すなり」(コリント前:11:26)。第二に、この秘蹟は神の恵みを表している。われわれはばうちずもによって新らしい生命に生まれ、こんひるまさんによってサタンに抵抗する力を強められ、えうかりすちやによって霊的に養われ、支えられるのである。第三にわれわれはえうかりすちやを拝領することによって、キリストの御約束のように、やがて受けるであろう未来の永遠の喜びと栄光とを予見するのである。
えうかりすちやを受けることができるのは、カトリックの洗礼を受け、えうかりすちやの意味を知ることができる年齢に達した者、そして何よりも恩寵の状態にある、すなわち、もるたる科を犯していない状態にある者である。もしもるたる科を犯している場合には次に述べられるぺにてんしや(Penitentia=悔悛の秘蹟)を受けて赦されていなければならない。肉身の準備として、きりしたんの時代はもちろん、近頃までえうかりすちやを 受けるためには、前夜十二時から飲食をしてはならなかった。昭和三十年代には条件が緩和されて聖体拝領の三時間前から固形物およびアルコール飲料、一時間 前まら水または湯以外の非アルコール流動物を飲食してはならないことになった。病人や死の危険にある最後の聖体拝領の場合にはこの断食の必要はない。
このさからめんとは最上の理、不可思議第一のみすてりよ(Misterio=玄義)であって言葉で述べることができない。この秘蹟は司祭がミサにおいてイエズス・キリストの教え給うた御言葉[これわが体なり - これわが血なり]をかりす(Calix=聖盃)とおすちや(Hostia=供えのパン)の上に唱えるとき、そのおすちやがまことのキリストの御体となり、かりすの 中のぶどう酒がまことのキリストの御血となり変わる。パンとぶどう酒の色、香、味のうちにイエズス・キリストが、天におわしますのと同じようにおわしま す。これは神学的に言えば、実体的変化(Transsubstantiatio)であり、パンとぶどう酒が実体的に変化してイエズス・キリストの御体と御 血に変わるが、パンとぶどう酒の外観はそのまま残るので、人間の理性では捉えがたい神秘である。どちりなきりしたんは「まことのみなもとにておはします御 あるじぜずきりしとかくのごとくをしへ玉ふうへはすこしもうたがはずしんずる事もつぱらなり」とこのさからめんとに対する信仰を強調している。
どちりなきりしたんでは、パンとぶどう酒の外観の下でのイエズス・キリストの御身体と御血への実体的変化についてくどいくらいに説明を加えている。しかい要するに「ひいですのひかりもてしんずる」ことが肝要なのである。
えうかりすちやという言葉はギリシャ語から来ている。えうはよいという意味であり、かりすは恵み、感謝のことである。神からのよい恵みがえうかりすちやで ある。神の恵みは永遠の生命である。パンとぶどう酒の外観の下に神であるイエズス・キリストが実体的にまします御聖体はまさに神の恵みそのもの、否、神御 自身であられる。パンとぶどう酒がわれわれの身体を養う食物・飲み物であるように、パンとぶどう酒の外観の下にまことにおわしますイエズス・キリストは永 遠の生命を養う食物・飲み物である。これは単なる比喩ではなくて、イエズス・キリストが定め給うた神秘的な現実である。
こむにあん(ラ:Communio)はこの秘蹟 がわれわれを主イエズス・キリストに結びつけ、われわれをキリストの御体と御血そして神性に与らせ、そのことによってまたわれわれ信徒をお互いにキリスト において結びつけ、キリストにおける一つの体すなわち教会を形成することから、そう言われるのである。
えうかりすちやには三つの意味があると言われて いる。一つはそれがわれらの主キリストの御受難を表しているということである。聖パウロはこう言っている:「けだし主の来り給うまで、汝らこのパンを食 し、また杯を飲むたびごとに主の死を示すなり」(コリント前:11:26)。第二に、この秘蹟は神の恵みを表している。われわれはばうちずもによって新らしい生命に生まれ、こんひるまさんによってサタンに抵抗する力を強められ、えうかりすちやによって霊的に養われ、支えられるのである。第三にわれわれはえうかりすちやを拝領することによって、キリストの御約束のように、やがて受けるであろう未来の永遠の喜びと栄光とを予見するのである。
えうかりすちやを受けることができるのは、カトリックの洗礼を受け、えうかりすちやの意味を知ることができる年齢に達した者、そして何よりも恩寵の状態にある、すなわち、もるたる科を犯していない状態にある者である。もしもるたる科を犯している場合には次に述べられるぺにてんしや(Penitentia=悔悛の秘蹟)を受けて赦されていなければならない。肉身の準備として、きりしたんの時代はもちろん、近頃までえうかりすちやを 受けるためには、前夜十二時から飲食をしてはならなかった。昭和三十年代には条件が緩和されて聖体拝領の三時間前から固形物およびアルコール飲料、一時間 前まら水または湯以外の非アルコール流動物を飲食してはならないことになった。病人や死の危険にある最後の聖体拝領の場合にはこの断食の必要はない。