けれど(Credo)

I:キリシタン信仰と殉教 II:ファチマと現代世界 III:カトリック典礼、グレゴリオ聖歌 IV:「聖と俗」雑感

Credo

2006年04月30日 | Weblog
Credo in unum Deum. われは信ず、唯一の神。

 Credo 人間の救いにとって必要な信仰(ひいです)は 何であれ神が啓示された事柄に対する完全な同意である。その反対は疑いである。トマは復活されたイエズスを疑った。われわれは弱いので信仰の徳を願わなけ ればならない。公教会祈祷文には信徳唱という祈りがある。「真理の源なる天主、主は誤りなき御者にましますがゆえに、われは主が公教会に垂れて、われらに 諭し給える教えを、ことごとく信じ奉る。」人間の救いとは人間の究極的な幸福の達成であり、それはこの世において満たされることはない。魂の救いと言って もよい。そのような事柄は人間が神によって造られたがゆえに、人間の心に本性的に植えつけられた願望としてあると思うが、具体的な形は神による啓示によっ て人間に明らかにされたのであり、その啓示の内容の保持者が公教会すなわち2000年前にイエズス・キリストによって建てられたカトリック教会である。

 「どちりなきりしたん」が「ひいですのあるちご」と言っているのは、信仰箇条のことで、12箇条から成っている。


けれど(Credo)

2006年04月29日 | Weblog
 450年前に日本に宣教に来たキリシタン伴天連はキリシタンに「けれど」をまず教えた。「けれど」とはラテン語 Credo = 私は信じる、のポルトガル語訛りであり、きりしたんとなるために信ずべき信仰箇条である。きりしたんが信ずべき事柄はこの「けれど」の他にもいろいろあるが、しかし基本的な事柄として使徒たちによって伝承されてきたので「使徒信条」とも言われるのである。

 「けれど」 Credo が一人称単数形であることは重要なことであると私には思われる。もちろん、信仰する個人が共同体をなして、Credimus われらは信ずると宣言することが「えけれじや」=教会を構成するわけであるが、信仰内容を信じ、守るのはひとりひとりの私である。きりしたんの集団洗礼とか集団棄教とかが問題にされるが、受洗のとき、あるいは棄教のときに、credo と宣言するか non credo と否認するかは、あくまでもひとりひとりの個人、私である。
大名によって命令され、あるいは勧められて受洗しても、それを受け入れたのは個人であり、棄教に際してもそれを決断したのは個々の人間である。