天の元后喜び給え!アレルヤ!
The Fatima Crusader Issue 92, May 2009 より
ニコラス・グルーナー神父、B.Comm., S.T.L., S.T.D.(Cand.)
この聖なる季節[御復活の祝日の前日の昼から三位一体の祝日の前日の昼まで]の特別なマリアへの祈りは祝せられたおとめマリアに喜び給えと懇願している。われわれはなぜマリアに喜び給えと懇願するのであろうか?それはわれらの主が真に復活なさったからである。しかしマリアは御自分が主キリストは真に復活されたということを確実に御存知である。われらの主は、聖なる使徒たち以前に、そして墓へ行った聖なる女性たち以前に、まず最初にマリアにお現れになった。
それではなぜマリアは喜ぶように願われ、そして懇願されるべきなのか?それは、聖シメオンがマリアに起こるであろうと告げたように、剣が貫いたマリアの魂の深みにおいて、マリアが非常に悲しかった、非常に傷つけられた、非常に深く苦しまれたからである。マリアはその愛する御子の残酷な御受難、残酷な死、極端な苦しみによって非常に圧倒され給うたのである。
われらの主の超過
モーゼとエリアは、イエズスの御受難の数日前に、イエズスの超過について話した。彼らは、イエズスがまさにこれから苦しまれようとしていることは超過的であると言った。誰が超過的であるという理由で天主を非難することができるであろうか?しかし、これらの聖なる預言者たちは、タボル山においてわれらの主について話しながら、イエズスに、超過について - 超過的な残酷さの超過的な苦しみ、イエズスの超過的ないけにえ、われわれの救いとわれわれのあがないのための愛の偉大なそして超過的な行為について - 話したのである
御自分の生命を十字架の上で捧げる、茨の冠の痛みと苦しみの最中に死ぬという、われわれ一人ひとりに対するわれらの主のこの大きな苦しみ、この大きな超過的な愛、家具の一片のようにイエズスが十字架に釘づけにされ給うたこと、イエズスの両足が一緒に釘づけにされ、そしてそこに吊され給うたこと、これらの高慢で独善的な人々 - イエズスを十字架につけたイエズスの『裁判官たち』 - のあざけり、嘲笑、唾の吐きかけ、からかいのただなかで死に給うたこと。
これらのことがらのすべて、そしてそれ以上のことは、聖母が御自分の唯一の生み給うた御子、ご自分の主、天主が苦しみ給うのをご覧になったときに聖母を苦しませる原因になった。
聖母はイエズスが苦しむのをご覧になった。そして聖母はむしろイエズスの代わりに死にたいと思われたであろう。それは聖母にとってもっと容易なことであったであろう。というのは、聖母は、御自分が御自身を愛されたよりもはるかに多くイエズスを愛されたからである。そして聖母は非常に圧倒され給うたので、御復活の後でさえ、聖母が復活なさった主、救い主をご覧になった後でさえ、聖母が、イエズスがどのように喜びに満ち、どのように意気揚々としておられたを見ることがおできになった後でさえ、聖母はなお悲しみの深みの中におられた。そしてそれゆえに、われらの主は聖母と共にもっと長くとどまらなければならなかったのである。
われらの主は、まず第一に、聖母に次のように言わなければならなかった方である:「おお、おとめマリア、わが御母よ、喜び給え」。そして多くの時間をかけ、そしてなだめすかした後に最終的に聖母は御子と共に喜ぶためにその悲しみから出られたのである。
それが、教会が今日に至るまで、御復活節にわれらの主と共に次のように祈る理由なのである:「おお、おとめマリアよ、喜び給え、主は真によみがえり給いたればなり」と。この考察はわれわれをさらに別の考察へと導く。
われらの主はなぜそのように大きな苦しみを受けられたのか?
なぜ主は御自分の御母に、十字架上で苦しむ御自分を見るというこの苦しみを受けさせ給うたのか?
なぜ主は、モーゼとエリアとがそう呼んだように、この超過にまで進まれたのか?主は、結局のところ、あの苦痛を経験することなしに、あの流血を経験することなしに、あの恐ろしい死を経験することなしに、人類にその罪を単純に赦すことがおできになったであろう。
それではなぜ、主はそうなさったのであろうか?主は、われわれの罪のための処罰における天主への十分な支払いとしてその御血のただ一滴を捧げることもおできになったであろう。というのは、主の尊い御血の功徳は無限だからである。それゆえ、なぜ主はあのすべての苦しみを経験なさったのか?
われわれがこの質問をする理由は、まず第一に、主が、人類から、厳格な正義において、天主に対する無限の違反、すなわち、罪に対する補償を要求なさることなしに単純にわれわれを赦すことがおできになったからである。あるいは、御父である天主は、その割礼において、あるいはその一つの鞭打ちにおいてすら、流された血の一滴、あるいは主が耐え忍ばれたある限定されたより小さな苦しみ - それらは疑いもなく無限の価値を持つものであるが - というより少ない支払いをお受けになることができたであろう。
それゆえ、われわれは、なぜ主がこの過度にまで進み給うたのか、主が聖母をそのように愛情をこめて、そのように完全に愛しておられる時、人類の残り全体を愛しておられるよりも聖母を愛しておられる時に、聖母がそのように苦しまれることをなぜお許しになったのか、というこの神秘に直面させられるのである。なぜ主はそうなさったのか?
その答は、主がわれわれを天国へ導くことを望んでおられるからである。主は全人類が救われることを望んでおられる。しかし、天主御自身は、制限されておられる。それは天主の無限の完全さにおいてではなくて、天主の無限の完全さのゆえにそうなのである。
天主は、もし人間が彼の罪を痛悔しないならば、救世の業と共に、あるいは救世の業なしに、罪をお赦しになることができない。天主は聖そのものであるがゆえに、天主は善そのものであるがゆえに、天主は正義そのものであるがゆえに、天主は、私はあなたをとにかく天国へ連れて行くつもりであるがゆえに、あなたが罪を犯すならば、それは結構である、もしあなたが決して痛悔しないならば、それは結構であると言うことはおできにならない。天主は無限に善なる方であられるがゆえに、そのような態度を取ることがおできにならないのである。
それゆえに、われわれがどのように弱いものであるか、そしてわれわれがどのように罪を犯しやすいかを知って、われわれ一人ひとりにとってわれわれのお気に入りの罪 - ある人にとってはそれは盗みであるかもしれない、別の人にとってはそれは性欲であるかもしれない、また別の人にとってはそれは高慢であるかもしれない、他の人にとってはそれは怒りであるかもしれない - においてわれわれ自身を正当化するか、を知って、われわれ一人ひとりはある特定の弱さをもっており、そしてその弱さにおいて、われわれは自分自身を言い訳する傾向がある。われわれは遺憾に思わない傾向がある。われわれはその罪に対して赦しを求めない傾向がある。
われわれの人間的な条件を知っておられ、御自分の無限の愛をもってわれわれを救うことを望んでおられるわれらの主は、われわれをわれわれ自身から救うため、われわれをわれわれの罪から救うため、われわれをわれわれの幻想から救うため、われわれをわれわれの欲望と執着から救うために、主がお使いになることができたすべての方法、そしてすべての可能性の中から、すべての中で最も有効なものを選ばれた。そしてその方法とは十字架上での死という方法であった。
イエズスはわれわれの救いのために御自身を放棄なさったがゆえに、われわれ一人ひとりは聖パウロと共にこう言うことができるであろう:主は私のために、私の救いのために、私の贖いのために、もし私さえ主に協力するならば、もし私さえ、主の十戒に従って生きるために、私の霊魂を救うために天主の前に必要であることをなんでもするために主の律法を守るために私の役割を果たすならば、天国に達することができるために、私のために御自身を引き渡された、と。
キリストは、ゲッセマニの園で御受難前のその御苦しみを苦しまれたとき、人類のすべての罪の苦痛 - われわれ自身の罪のためばかりでなく、異端、神聖冒涜そして位階の中にまでさえ広がっている不従順のために - を予見なさり、また感じられた。
これ以上に大きな愛はない
イエズスは言われた:「もしあなたたちが私の掟を守るならば、あなたたちは私の友人である。」「誰もこのことより大きな愛を持っていない。すなわち主はその友人たちのために御自分の生命を投げ出されたのである。」
主は、御自分の友人たちのために、あなたと私のために、われわれ一人ひとりのために、そのように過度の犠牲において、御自分の生命を捧げられた。そして主は、聖母の魂を貫き通す剣の恐るべき苦痛という代価を支払って、そのことをなさった。主はそのことを聖母の同意を得てなさった。そして聖母御自身はイエズスに倣って、そしてイエズスへの愛そしてわれわれに対する愛のために、あなたのため、そしてわたしのためにその苦しみを喜んで耐えられた。
それが、主が、聖母がまたわれわれすべてのためになされたすべてのことを認め、評価し考察することを全世界にお望みになる理由である。それが、主が世界の中にマリアの汚れなき御心に対する信心を確立することを望んでおられる理由であり、そしてそれが主が世界に平和をもたらそうとされない理由である。主は教会に平和をもたらされないであろう。われわれはまもなくわれわれの上に来るであろう戦争を避けることはないであろう。主はすでに始まった飢饉を止められないであろう。それはわれわれがそれに値しないからである。それはこれらすべての懲罰がそしてよりもっと多くのことがわれわれの頭上を覆っているからである。それは、人類のこの世代、カトリック教会内部のこの世代が他のどの時代よりももっとそれに値するからである。
しかしもしわれわれが、主が求めておられること - すなわち、主の祝せられた御母とわれわれ自身を信用するということ - をただ認めるならば、われわれがただ受け入れるならば、われわれがただなすならば、主はなおこの遅すぎる時に至ってさえ、世界の至る所で人類すべてに覆い被さっている多種多様な黙示録的懲罰からわれわれを救い出されるであろう。
われわれがファチマのメッセージのうちに諸民族全体が絶滅させられるであろうということを読むとき、教皇ベネディクト十六世がわれわれに、教会によって承認された秋田のメッセージはファチマのメッセージと同一のものであると告げられるのをわれわれが聞くとき、そして秋田がわれわれに、人類は人類の歴史全体においてこれまでに決して見たことのないような仕方で - すなわち、火が、水ではなく、洪水ではなく、40日間の雨ではなくて、火が人類の大部分をぬぐい去りながら、天から降るという仕方で - 罰されるであろう、と告げるとき、
信じる者、信じない者、平信徒、司祭、われわれのうちの誰一人、われわれがそのような懲罰から逃れるだろうとわれわれ自身に約束することはできない。秋田のメッセージはわれわれに、懲罰から逃れる者たちが死者を羨むであろうと、告げている。そのようなことが全世界で経験される荒廃であろう。
われわれは何をしなければならないか?
われわれは何をすることができるか?われわれはこのことをもたらすために何をしなければならないか?われわれはこの救出をロシアの奉献によって達成しなければならない。しかし、とあなたは言う、私は一人の小さな人にしかすぎない、と。私は司祭ではない、司教ではない、枢機卿ではない、私は何をすることができるか、と。
つい最近、私はローマに2週間滞在して帰国した。そして私と私のチームは13人の枢機卿と司教たちを訪問した。彼らのうちの何人かは耳を貸そうとさえしなかった。しかし何人かは話を聞いてくれた。そして何人かは完全にわれわれに同意してくれた。しかし、明らかに彼らの大部分は彼ら自身それほど大したことはできないと感じていた。何人かはわれわれに、教皇に話すべきだと告げたが、しかし教皇に会うために直接助けようとはしなかった。他の人々はファチマとロシア奉献の必要性に同意したが、しかし彼ら自身は何もすることができないと感じていた。他の人々は耳を傾けてくれたが、しかし彼ら自身は関与しようとはしなかった。
私は、ベルトーネ枢機卿でさえ、個人的にか、あるいは一人のモンシニョールを通じてか、もし教皇がロシアの奉献をなさったならば、問題にするかどうかを正教会の総主教に尋ねる照会をしたということを発見した。(続く)
The Fatima Crusader Issue 92, May 2009 より
ニコラス・グルーナー神父、B.Comm., S.T.L., S.T.D.(Cand.)
この聖なる季節[御復活の祝日の前日の昼から三位一体の祝日の前日の昼まで]の特別なマリアへの祈りは祝せられたおとめマリアに喜び給えと懇願している。われわれはなぜマリアに喜び給えと懇願するのであろうか?それはわれらの主が真に復活なさったからである。しかしマリアは御自分が主キリストは真に復活されたということを確実に御存知である。われらの主は、聖なる使徒たち以前に、そして墓へ行った聖なる女性たち以前に、まず最初にマリアにお現れになった。
それではなぜマリアは喜ぶように願われ、そして懇願されるべきなのか?それは、聖シメオンがマリアに起こるであろうと告げたように、剣が貫いたマリアの魂の深みにおいて、マリアが非常に悲しかった、非常に傷つけられた、非常に深く苦しまれたからである。マリアはその愛する御子の残酷な御受難、残酷な死、極端な苦しみによって非常に圧倒され給うたのである。
われらの主の超過
モーゼとエリアは、イエズスの御受難の数日前に、イエズスの超過について話した。彼らは、イエズスがまさにこれから苦しまれようとしていることは超過的であると言った。誰が超過的であるという理由で天主を非難することができるであろうか?しかし、これらの聖なる預言者たちは、タボル山においてわれらの主について話しながら、イエズスに、超過について - 超過的な残酷さの超過的な苦しみ、イエズスの超過的ないけにえ、われわれの救いとわれわれのあがないのための愛の偉大なそして超過的な行為について - 話したのである
御自分の生命を十字架の上で捧げる、茨の冠の痛みと苦しみの最中に死ぬという、われわれ一人ひとりに対するわれらの主のこの大きな苦しみ、この大きな超過的な愛、家具の一片のようにイエズスが十字架に釘づけにされ給うたこと、イエズスの両足が一緒に釘づけにされ、そしてそこに吊され給うたこと、これらの高慢で独善的な人々 - イエズスを十字架につけたイエズスの『裁判官たち』 - のあざけり、嘲笑、唾の吐きかけ、からかいのただなかで死に給うたこと。
これらのことがらのすべて、そしてそれ以上のことは、聖母が御自分の唯一の生み給うた御子、ご自分の主、天主が苦しみ給うのをご覧になったときに聖母を苦しませる原因になった。
聖母はイエズスが苦しむのをご覧になった。そして聖母はむしろイエズスの代わりに死にたいと思われたであろう。それは聖母にとってもっと容易なことであったであろう。というのは、聖母は、御自分が御自身を愛されたよりもはるかに多くイエズスを愛されたからである。そして聖母は非常に圧倒され給うたので、御復活の後でさえ、聖母が復活なさった主、救い主をご覧になった後でさえ、聖母が、イエズスがどのように喜びに満ち、どのように意気揚々としておられたを見ることがおできになった後でさえ、聖母はなお悲しみの深みの中におられた。そしてそれゆえに、われらの主は聖母と共にもっと長くとどまらなければならなかったのである。
われらの主は、まず第一に、聖母に次のように言わなければならなかった方である:「おお、おとめマリア、わが御母よ、喜び給え」。そして多くの時間をかけ、そしてなだめすかした後に最終的に聖母は御子と共に喜ぶためにその悲しみから出られたのである。
それが、教会が今日に至るまで、御復活節にわれらの主と共に次のように祈る理由なのである:「おお、おとめマリアよ、喜び給え、主は真によみがえり給いたればなり」と。この考察はわれわれをさらに別の考察へと導く。
われらの主はなぜそのように大きな苦しみを受けられたのか?
なぜ主は御自分の御母に、十字架上で苦しむ御自分を見るというこの苦しみを受けさせ給うたのか?
なぜ主は、モーゼとエリアとがそう呼んだように、この超過にまで進まれたのか?主は、結局のところ、あの苦痛を経験することなしに、あの流血を経験することなしに、あの恐ろしい死を経験することなしに、人類にその罪を単純に赦すことがおできになったであろう。
それではなぜ、主はそうなさったのであろうか?主は、われわれの罪のための処罰における天主への十分な支払いとしてその御血のただ一滴を捧げることもおできになったであろう。というのは、主の尊い御血の功徳は無限だからである。それゆえ、なぜ主はあのすべての苦しみを経験なさったのか?
われわれがこの質問をする理由は、まず第一に、主が、人類から、厳格な正義において、天主に対する無限の違反、すなわち、罪に対する補償を要求なさることなしに単純にわれわれを赦すことがおできになったからである。あるいは、御父である天主は、その割礼において、あるいはその一つの鞭打ちにおいてすら、流された血の一滴、あるいは主が耐え忍ばれたある限定されたより小さな苦しみ - それらは疑いもなく無限の価値を持つものであるが - というより少ない支払いをお受けになることができたであろう。
それゆえ、われわれは、なぜ主がこの過度にまで進み給うたのか、主が聖母をそのように愛情をこめて、そのように完全に愛しておられる時、人類の残り全体を愛しておられるよりも聖母を愛しておられる時に、聖母がそのように苦しまれることをなぜお許しになったのか、というこの神秘に直面させられるのである。なぜ主はそうなさったのか?
その答は、主がわれわれを天国へ導くことを望んでおられるからである。主は全人類が救われることを望んでおられる。しかし、天主御自身は、制限されておられる。それは天主の無限の完全さにおいてではなくて、天主の無限の完全さのゆえにそうなのである。
天主は、もし人間が彼の罪を痛悔しないならば、救世の業と共に、あるいは救世の業なしに、罪をお赦しになることができない。天主は聖そのものであるがゆえに、天主は善そのものであるがゆえに、天主は正義そのものであるがゆえに、天主は、私はあなたをとにかく天国へ連れて行くつもりであるがゆえに、あなたが罪を犯すならば、それは結構である、もしあなたが決して痛悔しないならば、それは結構であると言うことはおできにならない。天主は無限に善なる方であられるがゆえに、そのような態度を取ることがおできにならないのである。
それゆえに、われわれがどのように弱いものであるか、そしてわれわれがどのように罪を犯しやすいかを知って、われわれ一人ひとりにとってわれわれのお気に入りの罪 - ある人にとってはそれは盗みであるかもしれない、別の人にとってはそれは性欲であるかもしれない、また別の人にとってはそれは高慢であるかもしれない、他の人にとってはそれは怒りであるかもしれない - においてわれわれ自身を正当化するか、を知って、われわれ一人ひとりはある特定の弱さをもっており、そしてその弱さにおいて、われわれは自分自身を言い訳する傾向がある。われわれは遺憾に思わない傾向がある。われわれはその罪に対して赦しを求めない傾向がある。
われわれの人間的な条件を知っておられ、御自分の無限の愛をもってわれわれを救うことを望んでおられるわれらの主は、われわれをわれわれ自身から救うため、われわれをわれわれの罪から救うため、われわれをわれわれの幻想から救うため、われわれをわれわれの欲望と執着から救うために、主がお使いになることができたすべての方法、そしてすべての可能性の中から、すべての中で最も有効なものを選ばれた。そしてその方法とは十字架上での死という方法であった。
イエズスはわれわれの救いのために御自身を放棄なさったがゆえに、われわれ一人ひとりは聖パウロと共にこう言うことができるであろう:主は私のために、私の救いのために、私の贖いのために、もし私さえ主に協力するならば、もし私さえ、主の十戒に従って生きるために、私の霊魂を救うために天主の前に必要であることをなんでもするために主の律法を守るために私の役割を果たすならば、天国に達することができるために、私のために御自身を引き渡された、と。
キリストは、ゲッセマニの園で御受難前のその御苦しみを苦しまれたとき、人類のすべての罪の苦痛 - われわれ自身の罪のためばかりでなく、異端、神聖冒涜そして位階の中にまでさえ広がっている不従順のために - を予見なさり、また感じられた。
これ以上に大きな愛はない
イエズスは言われた:「もしあなたたちが私の掟を守るならば、あなたたちは私の友人である。」「誰もこのことより大きな愛を持っていない。すなわち主はその友人たちのために御自分の生命を投げ出されたのである。」
主は、御自分の友人たちのために、あなたと私のために、われわれ一人ひとりのために、そのように過度の犠牲において、御自分の生命を捧げられた。そして主は、聖母の魂を貫き通す剣の恐るべき苦痛という代価を支払って、そのことをなさった。主はそのことを聖母の同意を得てなさった。そして聖母御自身はイエズスに倣って、そしてイエズスへの愛そしてわれわれに対する愛のために、あなたのため、そしてわたしのためにその苦しみを喜んで耐えられた。
それが、主が、聖母がまたわれわれすべてのためになされたすべてのことを認め、評価し考察することを全世界にお望みになる理由である。それが、主が世界の中にマリアの汚れなき御心に対する信心を確立することを望んでおられる理由であり、そしてそれが主が世界に平和をもたらそうとされない理由である。主は教会に平和をもたらされないであろう。われわれはまもなくわれわれの上に来るであろう戦争を避けることはないであろう。主はすでに始まった飢饉を止められないであろう。それはわれわれがそれに値しないからである。それはこれらすべての懲罰がそしてよりもっと多くのことがわれわれの頭上を覆っているからである。それは、人類のこの世代、カトリック教会内部のこの世代が他のどの時代よりももっとそれに値するからである。
しかしもしわれわれが、主が求めておられること - すなわち、主の祝せられた御母とわれわれ自身を信用するということ - をただ認めるならば、われわれがただ受け入れるならば、われわれがただなすならば、主はなおこの遅すぎる時に至ってさえ、世界の至る所で人類すべてに覆い被さっている多種多様な黙示録的懲罰からわれわれを救い出されるであろう。
われわれがファチマのメッセージのうちに諸民族全体が絶滅させられるであろうということを読むとき、教皇ベネディクト十六世がわれわれに、教会によって承認された秋田のメッセージはファチマのメッセージと同一のものであると告げられるのをわれわれが聞くとき、そして秋田がわれわれに、人類は人類の歴史全体においてこれまでに決して見たことのないような仕方で - すなわち、火が、水ではなく、洪水ではなく、40日間の雨ではなくて、火が人類の大部分をぬぐい去りながら、天から降るという仕方で - 罰されるであろう、と告げるとき、
信じる者、信じない者、平信徒、司祭、われわれのうちの誰一人、われわれがそのような懲罰から逃れるだろうとわれわれ自身に約束することはできない。秋田のメッセージはわれわれに、懲罰から逃れる者たちが死者を羨むであろうと、告げている。そのようなことが全世界で経験される荒廃であろう。
われわれは何をしなければならないか?
われわれは何をすることができるか?われわれはこのことをもたらすために何をしなければならないか?われわれはこの救出をロシアの奉献によって達成しなければならない。しかし、とあなたは言う、私は一人の小さな人にしかすぎない、と。私は司祭ではない、司教ではない、枢機卿ではない、私は何をすることができるか、と。
つい最近、私はローマに2週間滞在して帰国した。そして私と私のチームは13人の枢機卿と司教たちを訪問した。彼らのうちの何人かは耳を貸そうとさえしなかった。しかし何人かは話を聞いてくれた。そして何人かは完全にわれわれに同意してくれた。しかし、明らかに彼らの大部分は彼ら自身それほど大したことはできないと感じていた。何人かはわれわれに、教皇に話すべきだと告げたが、しかし教皇に会うために直接助けようとはしなかった。他の人々はファチマとロシア奉献の必要性に同意したが、しかし彼ら自身は何もすることができないと感じていた。他の人々は耳を傾けてくれたが、しかし彼ら自身は関与しようとはしなかった。
私は、ベルトーネ枢機卿でさえ、個人的にか、あるいは一人のモンシニョールを通じてか、もし教皇がロシアの奉献をなさったならば、問題にするかどうかを正教会の総主教に尋ねる照会をしたということを発見した。(続く)