けれど(Credo)

I:キリシタン信仰と殉教 II:ファチマと現代世界 III:カトリック典礼、グレゴリオ聖歌 IV:「聖と俗」雑感

ファチマ・クルーセイダー

2012年12月18日 | Weblog
天の元后喜び給え!アレルヤ!

The Fatima Crusader Issue 92, May 2009 より

ニコラス・グルーナー神父、B.Comm., S.T.L., S.T.D.(Cand.)

この聖なる季節[御復活の祝日の前日の昼から三位一体の祝日の前日の昼まで]の特別なマリアへの祈りは祝せられたおとめマリアに喜び給えと懇願している。われわれはなぜマリアに喜び給えと懇願するのであろうか?それはわれらの主が真に復活なさったからである。しかしマリアは御自分が主キリストは真に復活されたということを確実に御存知である。われらの主は、聖なる使徒たち以前に、そして墓へ行った聖なる女性たち以前に、まず最初にマリアにお現れになった。

それではなぜマリアは喜ぶように願われ、そして懇願されるべきなのか?それは、聖シメオンがマリアに起こるであろうと告げたように、剣が貫いたマリアの魂の深みにおいて、マリアが非常に悲しかった、非常に傷つけられた、非常に深く苦しまれたからである。マリアはその愛する御子の残酷な御受難、残酷な死、極端な苦しみによって非常に圧倒され給うたのである。

われらの主の超過

モーゼとエリアは、イエズスの御受難の数日前に、イエズスの超過について話した。彼らは、イエズスがまさにこれから苦しまれようとしていることは超過的であると言った。誰が超過的であるという理由で天主を非難することができるであろうか?しかし、これらの聖なる預言者たちは、タボル山においてわれらの主について話しながら、イエズスに、超過について - 超過的な残酷さの超過的な苦しみ、イエズスの超過的ないけにえ、われわれの救いとわれわれのあがないのための愛の偉大なそして超過的な行為について - 話したのである

御自分の生命を十字架の上で捧げる、茨の冠の痛みと苦しみの最中に死ぬという、われわれ一人ひとりに対するわれらの主のこの大きな苦しみ、この大きな超過的な愛、家具の一片のようにイエズスが十字架に釘づけにされ給うたこと、イエズスの両足が一緒に釘づけにされ、そしてそこに吊され給うたこと、これらの高慢で独善的な人々 - イエズスを十字架につけたイエズスの『裁判官たち』 - のあざけり、嘲笑、唾の吐きかけ、からかいのただなかで死に給うたこと。

これらのことがらのすべて、そしてそれ以上のことは、聖母が御自分の唯一の生み給うた御子、ご自分の主、天主が苦しみ給うのをご覧になったときに聖母を苦しませる原因になった。


聖母はイエズスが苦しむのをご覧になった。そして聖母はむしろイエズスの代わりに死にたいと思われたであろう。それは聖母にとってもっと容易なことであったであろう。というのは、聖母は、御自分が御自身を愛されたよりもはるかに多くイエズスを愛されたからである。そして聖母は非常に圧倒され給うたので、御復活の後でさえ、聖母が復活なさった主、救い主をご覧になった後でさえ、聖母が、イエズスがどのように喜びに満ち、どのように意気揚々としておられたを見ることがおできになった後でさえ、聖母はなお悲しみの深みの中におられた。そしてそれゆえに、われらの主は聖母と共にもっと長くとどまらなければならなかったのである。

われらの主は、まず第一に、聖母に次のように言わなければならなかった方である:「おお、おとめマリア、わが御母よ、喜び給え」。そして多くの時間をかけ、そしてなだめすかした後に最終的に聖母は御子と共に喜ぶためにその悲しみから出られたのである。

それが、教会が今日に至るまで、御復活節にわれらの主と共に次のように祈る理由なのである:「おお、おとめマリアよ、喜び給え、主は真によみがえり給いたればなり」と。この考察はわれわれをさらに別の考察へと導く。

われらの主はなぜそのように大きな苦しみを受けられたのか?

なぜ主は御自分の御母に、十字架上で苦しむ御自分を見るというこの苦しみを受けさせ給うたのか?

なぜ主は、モーゼとエリアとがそう呼んだように、この超過にまで進まれたのか?主は、結局のところ、あの苦痛を経験することなしに、あの流血を経験することなしに、あの恐ろしい死を経験することなしに、人類にその罪を単純に赦すことがおできになったであろう。

それではなぜ、主はそうなさったのであろうか?主は、われわれの罪のための処罰における天主への十分な支払いとしてその御血のただ一滴を捧げることもおできになったであろう。というのは、主の尊い御血の功徳は無限だからである。それゆえ、なぜ主はあのすべての苦しみを経験なさったのか?

われわれがこの質問をする理由は、まず第一に、主が、人類から、厳格な正義において、天主に対する無限の違反、すなわち、罪に対する補償を要求なさることなしに単純にわれわれを赦すことがおできになったからである。あるいは、御父である天主は、その割礼において、あるいはその一つの鞭打ちにおいてすら、流された血の一滴、あるいは主が耐え忍ばれたある限定されたより小さな苦しみ - それらは疑いもなく無限の価値を持つものであるが - というより少ない支払いをお受けになることができたであろう。

それゆえ、われわれは、なぜ主がこの過度にまで進み給うたのか、主が聖母をそのように愛情をこめて、そのように完全に愛しておられる時、人類の残り全体を愛しておられるよりも聖母を愛しておられる時に、聖母がそのように苦しまれることをなぜお許しになったのか、というこの神秘に直面させられるのである。なぜ主はそうなさったのか?

その答は、主がわれわれを天国へ導くことを望んでおられるからである。主は全人類が救われることを望んでおられる。しかし、天主御自身は、制限されておられる。それは天主の無限の完全さにおいてではなくて、天主の無限の完全さのゆえにそうなのである。

天主は、もし人間が彼の罪を痛悔しないならば、救世の業と共に、あるいは救世の業なしに、罪をお赦しになることができない。天主は聖そのものであるがゆえに、天主は善そのものであるがゆえに、天主は正義そのものであるがゆえに、天主は、私はあなたをとにかく天国へ連れて行くつもりであるがゆえに、あなたが罪を犯すならば、それは結構である、もしあなたが決して痛悔しないならば、それは結構であると言うことはおできにならない。天主は無限に善なる方であられるがゆえに、そのような態度を取ることがおできにならないのである。

それゆえに、われわれがどのように弱いものであるか、そしてわれわれがどのように罪を犯しやすいかを知って、われわれ一人ひとりにとってわれわれのお気に入りの罪 - ある人にとってはそれは盗みであるかもしれない、別の人にとってはそれは性欲であるかもしれない、また別の人にとってはそれは高慢であるかもしれない、他の人にとってはそれは怒りであるかもしれない - においてわれわれ自身を正当化するか、を知って、われわれ一人ひとりはある特定の弱さをもっており、そしてその弱さにおいて、われわれは自分自身を言い訳する傾向がある。われわれは遺憾に思わない傾向がある。われわれはその罪に対して赦しを求めない傾向がある。

われわれの人間的な条件を知っておられ、御自分の無限の愛をもってわれわれを救うことを望んでおられるわれらの主は、われわれをわれわれ自身から救うため、われわれをわれわれの罪から救うため、われわれをわれわれの幻想から救うため、われわれをわれわれの欲望と執着から救うために、主がお使いになることができたすべての方法、そしてすべての可能性の中から、すべての中で最も有効なものを選ばれた。そしてその方法とは十字架上での死という方法であった。

イエズスはわれわれの救いのために御自身を放棄なさったがゆえに、われわれ一人ひとりは聖パウロと共にこう言うことができるであろう:主は私のために、私の救いのために、私の贖いのために、もし私さえ主に協力するならば、もし私さえ、主の十戒に従って生きるために、私の霊魂を救うために天主の前に必要であることをなんでもするために主の律法を守るために私の役割を果たすならば、天国に達することができるために、私のために御自身を引き渡された、と。

キリストは、ゲッセマニの園で御受難前のその御苦しみを苦しまれたとき、人類のすべての罪の苦痛 - われわれ自身の罪のためばかりでなく、異端、神聖冒涜そして位階の中にまでさえ広がっている不従順のために - を予見なさり、また感じられた。

これ以上に大きな愛はない

イエズスは言われた:「もしあなたたちが私の掟を守るならば、あなたたちは私の友人である。」「誰もこのことより大きな愛を持っていない。すなわち主はその友人たちのために御自分の生命を投げ出されたのである。」

主は、御自分の友人たちのために、あなたと私のために、われわれ一人ひとりのために、そのように過度の犠牲において、御自分の生命を捧げられた。そして主は、聖母の魂を貫き通す剣の恐るべき苦痛という代価を支払って、そのことをなさった。主はそのことを聖母の同意を得てなさった。そして聖母御自身はイエズスに倣って、そしてイエズスへの愛そしてわれわれに対する愛のために、あなたのため、そしてわたしのためにその苦しみを喜んで耐えられた。

それが、主が、聖母がまたわれわれすべてのためになされたすべてのことを認め、評価し考察することを全世界にお望みになる理由である。それが、主が世界の中にマリアの汚れなき御心に対する信心を確立することを望んでおられる理由であり、そしてそれが主が世界に平和をもたらそうとされない理由である。主は教会に平和をもたらされないであろう。われわれはまもなくわれわれの上に来るであろう戦争を避けることはないであろう。主はすでに始まった飢饉を止められないであろう。それはわれわれがそれに値しないからである。それはこれらすべての懲罰がそしてよりもっと多くのことがわれわれの頭上を覆っているからである。それは、人類のこの世代、カトリック教会内部のこの世代が他のどの時代よりももっとそれに値するからである。

しかしもしわれわれが、主が求めておられること - すなわち、主の祝せられた御母とわれわれ自身を信用するということ - をただ認めるならば、われわれがただ受け入れるならば、われわれがただなすならば、主はなおこの遅すぎる時に至ってさえ、世界の至る所で人類すべてに覆い被さっている多種多様な黙示録的懲罰からわれわれを救い出されるであろう。

われわれがファチマのメッセージのうちに諸民族全体が絶滅させられるであろうということを読むとき、教皇ベネディクト十六世がわれわれに、教会によって承認された秋田のメッセージはファチマのメッセージと同一のものであると告げられるのをわれわれが聞くとき、そして秋田がわれわれに、人類は人類の歴史全体においてこれまでに決して見たことのないような仕方で - すなわち、火が、水ではなく、洪水ではなく、40日間の雨ではなくて、火が人類の大部分をぬぐい去りながら、天から降るという仕方で - 罰されるであろう、と告げるとき、

信じる者、信じない者、平信徒、司祭、われわれのうちの誰一人、われわれがそのような懲罰から逃れるだろうとわれわれ自身に約束することはできない。秋田のメッセージはわれわれに、懲罰から逃れる者たちが死者を羨むであろうと、告げている。そのようなことが全世界で経験される荒廃であろう。

われわれは何をしなければならないか?

われわれは何をすることができるか?われわれはこのことをもたらすために何をしなければならないか?われわれはこの救出をロシアの奉献によって達成しなければならない。しかし、とあなたは言う、私は一人の小さな人にしかすぎない、と。私は司祭ではない、司教ではない、枢機卿ではない、私は何をすることができるか、と。

つい最近、私はローマに2週間滞在して帰国した。そして私と私のチームは13人の枢機卿と司教たちを訪問した。彼らのうちの何人かは耳を貸そうとさえしなかった。しかし何人かは話を聞いてくれた。そして何人かは完全にわれわれに同意してくれた。しかし、明らかに彼らの大部分は彼ら自身それほど大したことはできないと感じていた。何人かはわれわれに、教皇に話すべきだと告げたが、しかし教皇に会うために直接助けようとはしなかった。他の人々はファチマとロシア奉献の必要性に同意したが、しかし彼ら自身は何もすることができないと感じていた。他の人々は耳を傾けてくれたが、しかし彼ら自身は関与しようとはしなかった。

私は、ベルトーネ枢機卿でさえ、個人的にか、あるいは一人のモンシニョールを通じてか、もし教皇がロシアの奉献をなさったならば、問題にするかどうかを正教会の総主教に尋ねる照会をしたということを発見した。(続く)

ファチマ・クルーセイダー

2012年12月17日 | Weblog
信仰を変えるという自殺行為

The Fatima Crusader Issue 91, February 2009 より

ポール・クレイマー神父、B.Ph., S.T.B. M.Div., S.T.L.(Cand.)

クレイマー神父はわれわれに彼の著書『典礼における信仰を変えるという自殺行為』への導入を与えている。それは預言的である。それは2006年に出版された。そして今なお非常に時宜に叶ったものである。事実に基づき、そして要点に触れながら、クレイマー神父は何事にもしりごみをしない。なぜなら、結局のところ、まさにわれわれの霊魂が危機に瀕しているからである。

教皇パウロ六世によってカトリック教会の典礼の中への新しいミサの儀式が導入されて以来、ノーヴス・オルドの合法性を受け入れることを拒否する伝統的なカトリック教徒たちは教会の権威者たちと彼らの指令に盲目的に従う人々によって嘲笑、軽蔑そして非難を受けて来た。伝統主義者たちは反抗的、不従順であり、そして教会の合法的な司牧者たちによって制度化され指令された新しい現代的な形式によって置き換えられた礼拝の時代遅れの形式に盲目的に固執している、と言われている。

今でも、あまねく行われている公式的に認可されたエクレジア・デイ・インダルト・ミサと共に、教会内部の分裂が残っている。なぜなら、伝統的なカトリック教徒たちはもはや位階を信用しないからである。ここ30年ほどの間、伝統的なカトリック教徒たちは位階によって、過激論者や教会分離論者というレッテルを貼られて来た - 彼らの「教会によって受け取られ承認された典礼の」伝統的な「秩序」(ピオ六世、Auctorem Fidei[33])に対する信奉は(故ヴィヨ枢機卿の悪名高い言葉では)「教会に対する真正の忠誠とは相容れない」ものであると宣言されてきた。

各国の位階とローマ・クリアは彼らの対話への熱中にもかかわらず、ノーヴス・オルド・ミサに対して良心による反対をしている伝統的なカトリック教徒とのどんな対話に入ることをも偏狭に拒絶することにおいて完全な頑固さを露呈した。しかし、これらの反対論は単に神学的によく基礎づけられているだけではなく、教会の驚くべき教権の最も荘厳な教義の決定のうちに堅固に基礎づけられているのである。

教皇ピオ四世のトリエント信仰告白[Iniunctum Nobis]は、「諸秘跡の荘厳な執行において用いられるカトリック教会の受け取られ、そして承認された典礼の固守を規定している。」「受け取られ、そして承認された典礼」は慣習によって確立されている。そしてそれゆえに、トリエント公会議は「諸秘跡の荘厳な執行において慣習的に用いられたカトリック教会の受け取られ、そして承認された典礼」[第七セッション、第十三カノン]としてそれらに言及しているのである。教会によって受け取られそして承認された慣習的な典礼の固守は一つの不可謬的に決定された教義である:フィレンツェ公会議は「司祭たちは...その教会の慣習に従ってそれぞれ、主の御体を食さなければならない。」[Decretum pro Graecis]と決定した。そしれそれゆえに、トリエント公会議は「諸秘跡の荘厳な執行において慣習的に用いられる受け取られそして承認された典礼は誰であれいかなる教会司牧者によっても他の新しい典礼へと変えられてもよい」という命題を異端として荘厳に断罪したのである[第七セッション、第十三カノン]。この堅固な教義的基礎に基づいて、教皇ピオ六世は「それ(典礼)をその国固有の言語において表現することによって、あるいはそれを、あたかも教会によって受け取られそして承認された典礼の現在の秩序がある部分において、それによってそれが規制せられるべき諸原理の忘却から生じたかのように、大きな声において発声されることによって、その典礼を思い出す」という考えを、「軽率であり、敬虔な耳には不快なもの、教会を侮辱するもの、異端者たちの攻撃に好都合なもの」 - Auctorem Fidei[33]として、断罪なさった。

信じがたいことに、パウロ六世がなさったことは、まさにトリエント公会議が非難し、そしてピオ六世が非難されたことであった:パウロ六世は尊重すべきローマ典礼を、パウロ六世御自身が「ミサの新しい典礼」であると認められたものへと再編成したクリア委員会を設立された。 [1969年11月19日]パウロ六世によって制度化された典礼改革が第二バチカン公会議の典礼憲章の規定に従って遂行されると言われて以来、公会議後の諸教皇と位階はその改革が合法的なものであると断固として公言されてきた。彼らは(彼らの精神を問題に対して開くことを拒否されているがゆえに)第二バチカン公会議によって明白に規定された典礼の単純化と再編成が、その同じ公会議が典礼の修正のためのガイドラインとして打ち出した基本的諸原理にただ違反しているだけでなくて、また教会の不可謬的な教権の最も荘厳な教義決定にも違反しているということを未だに理解されなかった。

不幸なことに、公会議後の権力者たちは諸々の反対を考慮することを頑固に拒否している。あるいは新しい典礼に対する妥当な教義上の諸反対の可能性を認めることさえ拒否している。そうすることは彼ら自身の立場が間違っているかもしれない - あるいはもっと悪いことに - 第二バチカン公会議が間違っているかもしれないということを認めることに等しいのであろう。このようにして、彼らは伝統主義者たちのまじめな反対に耳をかすこと、あるいは考慮することを盲目的に拒否することによって、教会に激しい分裂をもたらしてきた。

公会議教会の権力者たちは自分たちを、告訴人と判事との両方であるという立場に置いた - 彼らは伝統主義者たちに対する裁判の席に坐っていると考えた。彼らは、被告人に発言の機会を許すことを拒否する一方で、伝統主義者たちを不従順、不忠実、そして分派とさえ、非難した。信じられないほどの盲目さと不寛容を露呈しながら、公会議教皇たちと位階は伝統主義者たちの教義上の諸反対に一つの完全なそして突き通すことのできない沈黙をもって答えてきた。その一方で彼らは伝統主義者の人格を非難し、そして伝統主義的な立場に対する知的に不誠実な攻撃を公表する方を選んだ。* この種の知的不誠実のすばらしい例は 30 Days の1996年11月9日号に現れた。

ノーヴス・オルド典礼に対する反対者たちのうちの最初の、そして確かに最も明らかで考えの明確な人の一人はマルセル・ルフェーブル大司教であった。大司教に発言の機会を許すこと(教会法によれば大司教にはその資格があった)をバチカンが拒否したということ、公会議後の諸改革を受け入れることを拒否する人には誰でも頼みと訴えのすべての道を完全にふさぐということ、は公会議後の教会の永続的な政策に典型的なものである。

ルフェーブル大司教は公会議後の諸改革を、カトリック信仰に反するものとして拒否した最初の人 - そして確かに最後の人ではない - の一人であった。もし大司教の立場が神学的に正しいものであったならば、そのとき、大司教の一連の行動は道徳的に正しいものであっただけではなく、また公会議後の教会における諸々の変化を受け入れることを拒否するすべての人は同じように、新しい教会を彼らが拒否することそして彼らが伝統に厳格に固着することにおいても道徳的に正当化されるであろうということが、まったく論理的に帰結する。

1995年6月に、ルフェーブル問題はマニラ大司教区における一つの主要な問題点となった。聖ピオ十世会は信奉者たちを獲得しつつあった。それは地方の位階に警告を発した展開であった。フィリッピンのカトリック司教協議会は聖ピオ十世会に反対するその1992年11月警告を再び出した。私は非常に急いでフィリッピン司教団に私の回答 Response の文書を書いた。そして同年暮れに、私はミサに関する論攷ローマ・カトリック伝統主義の神学的弁護 A Theological Vindication of Roman Catholic Traditionalism を執筆した。それは私の Response の少しだけ改訂された版を含んでいた。ハイメ・アチャコーゾ神父(Father Jaime Achacoso)は、1995年9月に私の Response に対する彼の極端に不誠実な攻撃を公表したとき、私に、私の Response の基本的な議論を神学的に発展させるさらなる機会を私に与えてくれた。アチャコーゾ神父に対する私の回答は1996年半ばに最初に出版された。

私は、私の最も重要な著作、ローマ・カトリック伝統主義の神学的弁護の徹底的な改訂版を完成した。この著作の中で、私は、ノーヴス・オルド・ミサが神法に反するということ、そしてエキュメニズムと宗教的自由に関する第二バチカン公会議の教説が異端的であるということを、神学的に論証している。1995年6月24日の CBCP Advisory に対する私の Response には、少しばかり再び改訂されて、新しい表題をもった、1992年11月18日の CBCP 警告に対する回答 Response to CBCP Admonition of Nov. 18, 1992 という論攷が続いている。公会議の諸々の誤謬に反対する Against the Errors of the Council という表題の下に最初に出版されたアチャコーゾ神父に対する私の回答は最終的には攻撃に対する回答 Response to an Attack という新しい表題をもって新しく改訂され簡約化されたこの巻の第二部第二章に発表されている。

私はこれら三つの論攷を一つの表題信仰を変えるという自殺行為 The Suicide of Altering the Faith の下に出版することを決めた。というのは、三つの論攷は、それらがルフェーブル大司教と大司教が設立した聖ピオ十世会だけに関係するのではなくて、それらがすべての伝統的なカトリック教徒たち、そして最も重要な、新しいミサ対伝統的なローマ典礼という問題、同様にまた第二バチカン公会議や公会議後の諸教皇の異端的神学の問題に関係しているように、分派と破門宣告の問題に対してお互いに神学的に補完し合っているからである。第一部はローマ・カトリック伝統主義の神学的弁護 A Theological Vindication of Roman Catholic Traditionalism である。そしてフィリッピン司教協議会とアチャコーゾ神父に対する私の回答を含んでいる第二部の表題は公会議教会に対する一つのカトリック的な答 A Catholic Answer to the Conciliar Church であり、副題は聖ピオ十世会の地位について On the Status of the Society of St. Pius X である。最後に、私はジョン・ヴェナリによる第三千年紀のエキュメニカルな教会 The Ecumenical Church of the Third Millennium というエッセイを加えた。それは私が書物を通じて述べた諸々の点を具体的な仕方で例証している。

この書物が公会議教会の位階にある人々との長い間必要とされてきた対話をもたらすためのなんらかの助けとなり、その結果彼らが今度は彼らの良心を吟味し、そして支持すると誓った伝統への回帰をすることになるということが私の望みである。

クレイマー神父の書物の表題は教皇ピオ十二世の有名な次の言葉から来ている:「私はファチマのルチアに対する祝せられたおとめのメッセージによって当惑している。教会に脅威を与える諸々の危険についてのマリアのこの固執は教会の典礼における信仰を変えるという自殺行為に対する神の警告である...」聖母のこの警告はファチマの第三の秘密の公表されていない部分の中にある。

ファチマ・クルーセイダー

2012年12月16日 | Weblog
あるプロテスタントの「めでたしマリア」

The Fatima Crusader Issue 91, February 2009 より

この論攷はタックウエル神父による説教の間に与えられた一つの真の説明である。そしてそれはリーフレットの形式において数年にわたって出回って来たものである。あなたは教皇ヨハネ・パウロ二世が次のように言われたことを思い起こすかも知れない:「ファチマのメッセージは人類すべてに宛てられている。」この事実から、人は「めでたしマリア」とおとめマリアのいとも聖なるロザリオは人類すべてが、彼らの人生における状態にかかわらず、また彼らがカトリック教徒であるか、それともそうでないかにかかわらず、毎日用いるべき大切な祈りであるということを推定することができるであろう。

一人の6歳になるプロテスタントの少年は彼のカトリックの友だちが「めでたしマリア」の祈りを唱えているのをしばしば聞いて来た。彼はその祈りが非常に好きだったので、それをコピーし、暗唱し、毎日それを唱えるのであった。「ねえ、ママ、何と美しい祈りでしょう」と彼はある日母親に言った。

「再びその祈りを唱えてはいけません」とその母親は答えた。「それは偶像を礼拝し、マリアを女神だと考えるカトリック教徒たちの迷信的な祈りですよ。結局のところ、彼女は他の女と同じような一人の女です。ごらんなさい。この聖書を取って読みなさい。聖書は私たちがする義務のあること、またしなければならないことをすべて含んでいます。」その日からその少年は彼の毎日の「めでたしマリア」の祈りを中止した。そしてその代わりに聖書を読むことにもっと多くの時間を費やした。

ある日のこと、福音書を読んでいる間に、彼は聖母への天使のお告げについての箇所を偶然見つけた。喜びでいっぱいになり、その少年は母親のところへ走って行ってこう言った:「ママ、僕、聖書の中に『めでたしマリア』を見つけたよ。それはこう言っているよ:『めでたし、聖寵充ち満てる[マリア]、主御身と共にまします、御身は女のうちにて祝せられ...』って。ママはどうしてそれを迷信的な祈りだと言うの?」

別の機会に彼はおとめマリアへの聖エリザベトのあの美しい挨拶とその中でマリアが「万代(よろずよ)まで、人われを幸いなる者ととなえん」と予言なさったすばらしい賛美歌マニフィカトとを見つけた。

彼はもうそのことについて母親には何も言わなかった。しかし前と同じように、毎日「めでたしマリア」を唱え始めた。彼はわれらの救い主、イエズスの御母に対するこれらの魅力的な言葉を述べることに喜びを感じた。

彼が14歳だったとき、ある日家族の人々の間で聖母に関する議論を聞いた。皆はマリアが他の女と同じような普通の女である、と言った。その少年は、彼らの誤った理屈を聴いた後に、もう我慢できなくなり、怒りでいっぱいになって、彼らを遮りこう言った:

「マリアは罪で汚れた他のどのアダムの子どもたちとも似ていません。違います!天使はマリアを聖寵充ち満てる方、そして女のうちにて祝せられた方と呼びました。マリアはイエズス・キリストの御母であり、そしてそれゆえに神の御母です。被造物が上げられることができるそれ以上に高い尊厳はありません。福音書は万代がマリアを祝せられた方と宣言するであろうと言っています。それなのに、あなたたちはマリアを軽蔑し見下そうとしています。あなたの精神は、あなたがキリスト教の基盤だと宣言する福音書あるいは聖書の精神ではありません。」

その少年の話が与えた印象は非常に深いものだったので、彼の母親は何度も悲しそうに大声で叫んだ:「おお、何てことでしょう!私のこの息子がいつかカトリックの宗教、教皇たちの宗教に加わることが怖いわ!」そして実際、その後それほど日を経ずに、プロテスタンティズムとカトリシズムの両方について熱心に勉強した後、その少年はカトリシズムが真の宗教であることを見出し、それに帰依し、そしてその最も熱心な使徒の一人となった。

回心の後しばらしくて、彼は結婚した姉と出会ったが、彼女は彼を強く非難し、そして怒ってこう言った:「あなたは私がどれほど深く私の子どもたちを愛しているか、ほとんど知らないわ。彼らのうちの誰かがカトリックになろうとでも望んだならば、私は、彼に教皇たちの宗教に帰依することを許すよりはむしろ彼の心臓を短刀で突き刺す方を選ぶでしょう!」

彼女の怒りと機嫌は聖パウロの回心前のそれと同じように激しかった。しかしながら、彼女は、ちょうど聖パウロがダマスコへの途上でそうしたのと同じように、彼女のやり方を変えることになるであろう。それは次のように起こった。すなわち、彼女の息子たちの一人が重病にかかり、医師たちが回復の希望を捨てたのである。彼女の弟はそこで彼女に話を持ちかけ、次のように言いながら、彼女に愛を込めて話した:「お姉さん、あなたはもちろん子どもが癒されることを望んでいます。そうです、それでは僕があなたにするように求めることをしてください。僕のあとについて来てください。『めでたし、マリア』を一回祈りましょう。そして神様に、もしあなたの子どもが健康を回復するならば、あなたがまじめにカトリックの教義を勉強し、そしてカトリシズムが唯一の真の宗教であるという結論に達したならば、犠牲がどのようなものであろうとも、それに帰依する、と約束してください。」

姉は最初は幾分気が進まないようであったが、しかし彼女は息子の回復を望んだので、弟の提案を受け入れ、彼と一緒に「めでたし、マリア」を唱えた。翌日彼女の息子は完全に癒された。この母親はその約束を守り、カトリック教義を勉強した。長い準備の後に、彼女は、弟が彼女にとって一人の使徒であったことに感謝しながら、家族全員と一緒に洗礼を受けた。

この話は神父タックウェル師によってなされた説教の間に話された。彼は先を続けてこう言った:「兄弟たち、カトリック信者となり、そして彼の姉をカトリックへと回心させたその少年はその全生涯を神の奉仕に捧げました。彼とは、今あなたたちに話している司祭のことです。私が今あることを私は聖母に負っているのです。」

「私の親愛なる兄弟の皆さん、あなたたちもまた、聖母に完全に身を委ね、美しい祈り『めでたし、マリア』とあなたのロザリオとを唱えることなしに一日も過ごすことがないようにしてください。聖母に、岩(ペトロ)の上に建てられ、そして『地獄の門もこれに勝たざるべし』と言われたキリストの真の教会から分離されているプロテスタントたちを照らしてくださるよう願いなさい。」

ファチマ・クルーセイダー

2012年12月15日 | Weblog
バチカン・ニュースペーパーは言う:

教皇はもはや手に御聖体を与えられないであろう

The Fatima Crusader Issue 91, February 2009 より

ジョン・ヴェナリ

今日の第二バチカン公会議後の混沌からのわれわれの教会の大いに必要とされている回復について話しているときに、一人の賢明な大司教は20年前こう述べられた:「われわれの未来はわれわれの過去のうちにある。」換言すれば、悪魔的方向感覚喪失の時代にわれわれのカトリック的な平衡を取り戻すために、教会の未来は過去の堅固な教えと実践を取り戻すことに存する。

数十世紀の時の経過を越えて合法的に発展してきた過去の教義的、道徳的そして典礼的な実践は第二バチカン公会議および第二バチカン公会議後のいわゆる諸改革のために猛烈な断絶を被った。

教会によって常に断罪されてきたエキュメニズム:キリストは政府や社会機構の上に君臨すべきではないと主張する近代的な教えは広く受け入れられるようになった。新しいプロテスタント化された典礼が信者たちに押しつけられた。

典礼上の革命の最も際だった局面の一つは手への御聖体という実践である。ファチマ・クルーセイダーはこの神聖冒涜に反対して繰り返し声を挙げてきた。さて、ローマからの二つの最近のニュースはこの悪用を抑制することにおける一つの慎ましい始まりであるかもしれないものを示している。

2008年初めに、バチカンのランジス大司教 Archbishop Ranjith は、ある書物への序文を書かれたが、その中で手への御聖体という実践そして聖体拝領を立って行うという実践の再評価を求めておられる。

次に、2008年の春の終わりにバチカンは、教皇ベネディクト十六世からその教皇ミサで御聖体を拝領するすべての人は跪いて舌の上に御聖体を受けなければならないであろうということを知らしめた。

ランジス大司教

2008年1月頃、リブレリア・エディトリーチェ・バチカーナ Libreria Editrice Vaticana (バチカンの公式出版社)はアタナシウス・シュナイダー(Athanasius Schneider)司教による Dominus est (主はいます)という書物を出版した。その中で司教は跪き、舌の上に受けられる御聖体拝領の問題を分析しておられる。バチカンの神の礼拝聖省長官マルコルム・ランジス大司教はその書物の序文を書かれた。

ランジス大司教はその序文を、旧約、新約両聖書を通じてすべて、跪くことが神の前に出る人々の適切な態度であるということに注目しながら、始めておられる。大司教はソロモン、聖ペトロ、そして黙示録における福音記者聖ヨハネの例を出しておられる。

ランジス大司教は次に、直接的な適用をしておられる:「教会においてさえ、御聖体の[パンと葡萄酒の]形色のうちに主が真にそして実際に現存しておられるという深い確信は、聖櫃の中にこの聖なる秘跡[御聖体]を保存するというますます増大する実践と共に、御聖体のうちにまします主を謙遜に礼拝するという態度において跪く実践に貢献した。」

大司教は次に手への御聖体の授与という現代の悪用のことを次のように述べられる。彼はこう書いておられる:「...手への御聖体について話すとき、その実践が、大昔からの実践を変え、そしてその実践が、全教会のための通常の実践となりながら、公会議後にすぐに教会のいくつかの場所に不当にまた素早く導入されたということが認識されなければならない。」

大司教はこう言っておられる。「この実践の理由が何であれ、われわれはこの実践が実行されてきたところで世界的に起こっていることを無視することはできない。この態度は、以前の実践が崇敬の感覚をよりよく守って来たのに、聖なる御聖体の形色に対する尊敬の態度を徐々に弱めることに貢献して来た。その代わりにそこに起こったのは、記憶の不安にさせるような欠如と不注意の一般的精神である。われわれは、あたかも並々ならぬことが何も起こらなかったかのように、しばしば自分たちの席へと戻る聖体拝領者たちを見る...多くの場合、人は霊魂における神の現存の証拠とならなければならない真剣さの感覚と内的沈黙を見分けることができない。」

ランジス大司教はシュナイダー司教に、「御聖体を跪いて舌の上に受ける実践が長い時の間に教会においてどのように受け入れられて来たかを明らかにする」歴史的・神学的な考察に焦点を当てることを推賞しておられる。

ランジス大司教はこう結論される:「今はそのようなよい実践を再検討し、再評価し、そしてもし必要ならば、Sacrosanctum Conciliumによっても、また[第二バチカン公会議の]教父たちによっても要求されず、ただ数カ国におけるその非合法な導入の後にのみ受け入れられた現在の実践を放棄する絶好の機会である。今、かつてより以上に、われわれは、教会の生命を強化し、そしてそれを、この状況が引き起こし続けている信仰の危険な歪曲のただ中で、防衛するために、御聖体の形色におけるキリストの真の現存に対する深い信仰を新たにするよう信徒たちを助けなければならない。」

教皇のキリストの御聖体の祝日のミサ

今年の5月22日に聖ヨハネ・ラテラノ・バジリカの外で行われた教皇ベネディクト十六世のキリストの御聖体の祝日のミサの間に、二人の案内係は祭壇の前に跪き台を置いた。そして選ばれた聖体拝領者たちはすべて跪き、教皇の手から舌の上に御聖体を受けた。

6月15日の南イタリア港湾都市ブリンディジでのミサで、教皇は再び、信徒たちに、御聖体を跪いている間に舌の上にのみ与えられた。

それから6月26日に、バチカンの公式新聞オッセルヴァトーレ・ロマーノ紙は教皇つきの新しい儀典長、モンシニョール・グイド・マリーニとのインタビューを掲載した。

モンシニョール・マリーニは、教皇の前では跪いている間に舌の上に御聖体を受けることが教皇の典礼での規範となるであろうと指摘された。

モンシニョール・マリーニは、跪いて舌の上に御聖体を受けるとことは御聖体における(キリストの)真の現存の真理」を強調し、「信徒の信心を助け、そして神秘の感覚をより容易に導入する」と説明された。

彼はこう言われた:司牧的言って、現代における御聖体の聖性と神秘のこれらの局面を「強調し、そして回復することは緊急を要することである。」

オッセルヴァトーレ・ロマーノ紙とのインタビューの中で、モンシニョール・マリーニは、この実践がすべての教皇の儀式において規範となるかどうかを尋ねられ、こう答えられた。「私は本当にそうだと思う。」

モンシニョール・マリーニは法律的な見地から、手の中に御聖体を配ることは「今は免除(indult)」、一般的な要求からの一つの義務免除「にとどまっている」と指摘しておられる。彼は御聖体配布の伝統的な実践の教皇による採用は「全教会のために正当な規範の力を強調することを目的としている」と説明されている。

真のカトリック神学および典礼に従って回復される必要のある多くのことが教会にはある。聖マキシミリアノ・コルベが正当にも「無原罪である方[マリア]の敵」と呼んだ今日のエキュメニズムを除去する特別の必要性がある。

われわれはただローマからの諸々の報告が、聖体拝領のために立つという実践、そして手による聖体拝領の実践が抑制される - そしてゆくゆくは廃止される - 真の第一歩を示すものであることを希望するだけである。

ファチマ・クルーセイダー

2012年12月14日 | Weblog
われわれにのしかかるロシアの諸々の誤謬

The Fatima Crusader Issue 91, February 2009 より

ロシアは戦略核の生産高を四倍に高める

「ガーディアン紙」、2008年12月24日(www.gurdian.co.uk)
トム・パーフィット(モスクワ)とジュリアン・ボーガー(外交編集者)

70基の ICBM は条約交渉において合衆国に圧力をかけることを意図していた。
1500億ドルの荷物は戦車、船そして飛行機を含んでいる。

ロシアは戦略敵核ミサイルの生産を急に増加させるであろうという告知でもってバラク・オバマに新しい挑戦をしかけた。

最近のクレムリンによる一連の好戦的な動きにおいて、モスクワの政府高官はロシア軍が、また短距離ミサイル、300台の戦車、14隻の軍艦と50機の飛行機をも含むであろう大量再軍備計画の一部として、この先3年間に70基の戦略ミサイルを就役させるであろう、と語った。

軍事専門家たちは計画されている新しい兵器は潜水艦から発射されるミサイルよりはむしろ陸上基地発信の大陸間弾道弾(ICBM)からなっていると推定されると述べた。もしそうだとすれば、その計画は ICBM 配備の割合において四倍の増加を意味する。その兵器は RS-24 と呼ばれる新しい世代の多弾頭 ICBM を含むであろう。それは2007年に最初の試験発射が行われたが、それは「いかなる現存するあるいは将来のミサイル防衛システムをも圧倒することができる」と、首相第一補佐官セルゲイ・イヴァノフが自慢したものである。

その新しいミサイル群は2009年-20011年のための1500億ドルの防衛調達の一部であろう。これは内閣の軍需産業委員会のウラディーミル・プーティリンによれば、軍事支出における 28% の増大である。これから先2年間のさらなる増大があるであろう。

インドにおける迫害

20歳の女性ラジニ・マジは暴徒たちが見守り喝采を送っているなか、オリッサにおいて迫害者たちによって焼き殺された。そのシーンはカトリック孤児院への攻撃であった。

病院で健康を回復しつつあるエドワード・セクエイラ神父。神言会(SVD)に属するセクエイラ神父は彼の宣教会がオリッサにおいて暴徒たちによって攻撃された時にひどく障害を受けた人々のうちの一人だった。セクエイラ神父が孤児院に到着したとき、暴徒たちは彼を部屋に鍵をかけて閉じこめ、そしてラジニ・マジ(20歳の看護婦)を別の部屋に鍵をかけて閉じこめた。そして子どもたちに孤児院を立ち退くよう命令した。暴徒たちはそれから孤児院に火を放った。「私は炎の中に飲み込まれました。私はラジニの叫び声を聞くことができました。そして暴徒たちは窓越しに喜びの声を挙げ、叫んでいました」とセクエイラ神父は思い起こしている。彼はやっとのことで風呂場に逃げ込み、炎から逃れることができた。

クリスチャン・セキュリティ・ネットワーク、メディア顧問
(www.christiansecuritynetwork.org)

キリスト教教会に対する継続した暴力
シンシナチ、オハイオ - 2008年だけで、一人のシンシナチの司祭が葬儀に参列している間に殺された。アラスカでは州知事のサラ・パリンの教会が放火された。ペンシルヴァニア州ではあるキリスト教のラジオ局が一人の発狂したガンマンによって攻撃された。テネシー州ノックスヴィルにある射撃する教会は全国的にキリスト教共同体のいたるところに恐怖の波紋を起こした。

「諸々の危険はただキリスト教共同体にとってのみ高まっている。合衆国国務省は今や信仰に基づいた諸組織を今日の世界における上位5つに入る『危険に瀕している』組織の一つとして分類している」と行政官のジェフリー・ホーキンズは述べた

ファチマ・クルーセイダー

2012年12月13日 | Weblog
しかし奉献は既になされたのではないか?

The Fatima Crusader Issue 91, February 2009 より

過去70年にわたって、少なくとも3人の教皇たちが多くの機会にマリアの汚れなき御心に、ロシアが明らかにその一部である世界の奉献を行って来られた。これらはロシアを奉献しなさいという聖母の御要求に対する一つの適切な応答だと考えられたか?

バチカンが「そうだ」と言っており、そして多くの人々がそうだ、あるいはそうでない、とあれこれ推測しているけれども、最も啓発的な拠り所はシスター・ルチア - これらすべての教皇たちの在位期間を通じて生きたファチマ幻視者 - と教皇たち自身である。

1989年まで1942年のピオ十二世による世界の最初の奉献から1984年のヨハネ・パウロ二世教皇の当時最も新しかった試みを通じてずっと、シスター・ルチア自身は常にそれらの奉献が重要ではなかったと述べて来た。なぜなら、ロシアは明確に名を挙げられなければならないから(そしてまた司教たちが参加しなければならない)からである。

1936年に戻れば、彼女は自分の聴罪司祭に彼女自身、われらの主との彼女の特別扱いの会話の一つの間に、なぜ主はその奉献を行う教皇なしにロシアを回心させられないのかを尋ねた、そして主が彼女に次のようにお答になった、と告げた。

「それは、その奉献を全教会がマリアの汚れなき御心の勝利として認め、そしてその結果、それが後にその崇敬を広め、そしてその信心を私の聖心への信心と並んでこの汚れなき御心に対して置くようになることを、私が望んでいるからである。」

1982年に、シスター・ルチアをよく知っていたサレジオ会のウンベルト・パスクアーレ神父が彼女に、聖母がかつて彼女に御自分の汚れなき御心への世界の奉献について話されたかどうか、を尋ねたとき、彼女はこう答えた。「いいえ、ウンベルト神父様、話されたことは一度もありません。」そして聖母の御要求はただロシアだけに関わっていた、と何度も繰り返して言った。ローマはシスター・ルチアのコメントを心地よく思わなかった。ピオ十二世の時代においてさえ、バチカンは、もしシスター・ルチアがこの問題に関してもっと沈黙を守るならば、そしてもし人々が、ファチマの奉献は1942年と1954年の世界の奉献を通じて効果的に果たされたと考えてくれるならば、もっと幸せであろうということをそれとなく知らせた。しかし彼女はまだ公に話すことを許可されていた。そして彼女は奉献に関して、1960年に公開されると期待されていた「第三の秘密」そして他のファチマ諸問題に関して、まったく公然と話した。

しかし1960年に、教皇ヨハネ二十三世の下で、バチカンは第三の秘密はそのとき、あるいはそれ以後も決して公表されることはないであろうと発表した。

同時に、ローマからの命令に従順に、シスター・ルチアはファチマについて公然と話すことをやめた。彼女は、司祭たちとの会話において、そして私的な手紙の中で、ロシアの奉献はなされていない - そして緊急の - 課題にとどまっていると強く主張し続けていたけれども、また今や大部分の訪問者を受けることを制限された。

1989年7月に一つの劇的な変化が起こった。シスター・ルチアに近いある司祭がファチマにおいて、彼女がバチカンの匿名の筋から、彼女が今や1984年の奉献の儀式がロシアの奉献を達成したと認めなければならない、という指示を受けたと発表した。

その後、彼女は従順から、沈黙のままにとどまるか、あるいは神が1984年奉献に満足なさっているということを指摘するか、そのいずれかの態度に引き下がった。

そうすることにおいて、ルチア自身は彼女が半世紀以上にもわたって一貫して主張して来た立場から180度の転換をしたと思われた。過去にシスター・ルチアの言葉を引用して来た第三者の証人たちでさえ、突然彼らの証言を取り消した。新しい立場を提起するルチアからのタイプ書きの何通かの手紙が反対者たちによってインチキだとして公然と非難されたけれども、彼女は明確に「そのプログラムに取り組んだ」。そして少なくとも公式の線を公然と否定することを従順に差し控えながら、そしてそれを彼女自身の理解と彼女にできる限り和解させようと努めながら、彼女の生の残りの16年の間、そこにとどまった。

タルシジオ・ベルトーネ枢機卿はやっと2001年に彼女にインタビューを行ったと報告した。そのインタビューの間に、彼女は彼に、「聖母によって望まれた奉献は1984年になされた、そして天において受け入れられた」と告げた。

その文章の前半部が、ロシアは名を挙げられなければならないという彼女の積年の主張と完全に調和させることは不可能であるけれども、それが「天において受け入れられた」という後半部は、彼女がずっと取って来た立場 - 神と祝せられた御母は、たとえそれらが聖母の御要求に不足する、そしてそのようにして約束された諸々の恩恵に達しないとしても、聖母のお望みに従おうとする損なわれた試みでさえ歓迎なさる、という立場 - と完全に不一致であるわけではない。

例えば、シスター・ルチアは、ピオ十二世の1942年の世界の奉献が第二次世界大戦を終わらせることに役立った、と主張した。今日多くの人々はヨハネ・パウロ[二世]教皇の奉献をソビエト共産主義の崩壊をもたらすことに役立ったと考えてさえいる。しかしながら、それらの祝福は大きなものではあるけれども、もし教皇が聖母の要求なさったとおりにロシアを奉献されたならば、聖母が約束なさったそのロシアの回心でも平和の時期でもない。もし教皇たち自身が、特にピオ十二世とヨハネ・パウロ二世が - 彼ら自身それを起こさせるために必要とされた諸々の処置をすることができないときに、それを熱心に望んでいると思われなかったならば、おそらく、世界全体は、「ファチマ信奉者たち」でさえ、ずっと前にマリアの3部のシナリオ - ロシアの奉献、ロシアの回心、世界平和の時代 - の展開を見ることをあきらめてしまったであろう。もしそれがはっきりと最初の時に正しくなされていたならば、なぜ二人の教皇は各自、繰り返し何度も、少なくとも、それぞれ三度も、努力され続けたのか?なぜヨハネ・パウロ二世教皇は1982年奉献の後一週間も経たないときに、自分は「具体的な諸事情の中でできる限りのあらゆることをするよう努めた」という - オッセルヴァトーレ・ロマーノにおいて引用された - 言葉でもってロシアに言及することに失敗したことを説明されたのか?2年後に、なぜヨハネ・パウロ二世教皇は、1984年の奉献定式文を全部終えられた後に、文書にはなかった余分の祈り - 「あなた御自身がその奉献と委任をわれわれから待っておられる人々を特に照らしてください」という祈り - を付け加えざるを得ないと感じられたのか?そのことはピオ十二世が1942年のその世界奉献において名指されなかったロシアへの隠されたほのめかしをされたこと以上に重要である。なぜヨハネ・パウロ二世教皇は、シスター・ルチアでさえ1984年奉献は必要とされたすべてであったと裏書きしなければならなかったと、バチカンが1989年以来主張してきた後に、2000年になおもう一つ別の奉献をしなければならないと感じられたのか?なぜこれら二人の教皇は、聖母が正確には何を要求なさったのかについてシスター・ルチアに質問するために繰り返し上層部にいる特使を送られたのか、そしてなぜヨハネ・パウロ二世はその世界奉献の一つあるいは他の奉献の後に、側近の補佐官たちに繰り返し、教皇のなしたことがロシアの奉献のための聖母の諸条件を満足させていたかどうかを、尋ねられたのか?

明らかに、彼らはより以上のことが必要であると感じた。彼らは従うとことを望んだ。しかし彼らはそうできないことを感じた。彼らは名によってロシアに言及することなしに彼らにできる限りの多くのことをしようと努めた。- それは彼らが敢えて超えようとしなかった見えない線であった。

この論攷は最初 p.3 の「今や時が来た」という論攷と一緒に「インサイド・ザ・バチカン」(ITV)という雑誌によって発表された。両論攷は許可を得てここに採録された。ITV の連絡先の情報は p.59 を見てください。

ファチマ・クルーセイダー

2012年12月12日 | Weblog
ファチマ・メッセージを生きる(続き)

The Fatima Crusader Issue 91, February 2009 より

ニコラス・グルーナー神父、S.T.L., S.T.D.(Cand.)

われわれは教会が常に教えて来たことに従わなければならない

第二バチカン公会議の秘書官が指摘したように、われわれは、教会が常に教えて来たすべてのことにおいて第二バチカン公会議に従わなければなりません。しかし、新しい事柄においてはわれわれは注意を用いなければなりません。もし新しい事柄が、教会が常に教えて来たことに矛盾するならば、そのときわれわれは、教会が常に教えて来たことに従わなければなりません。なぜなら、第二バチカン公会議は不可謬的に教えるためにその権威を約束することを拒否したからです。公会議は熟慮して、そして明白にそうしました。あなたたちは、1964年11月21日の第三セッションの終わりに出された序文の注のうちにそのことを見出すでしょう。教皇パウロ六世はこれを公会議文書の一部とされました。

神は預言者たちをあらゆる時代に送られる

それゆえわれわれは再びファチマのメッセージに到達します。その役割は何でしょうか?聖トマスは他のこともいろいろありますが、神学大全 II-II, QQ 171-176において、神はあらゆる時代に預言者たちを送られると告げています。神がそうなさるのは、一つの新しい教義を与えるためではなく、信者に、彼らがその霊魂を救うためになさなければならないことを思い起こさせるためです。

私の祖父は癌研究者でした。1915年に彼がした仕事のために彼は1965年に賞を受けました。あなたたちは彼が時代に先駆けていたと言われるかもしれません。彼は、医師たち - 彼らのうちのある者、あるいは彼らのうちの多くの者 - は製薬会社の手の中に、あるいはそのポケットの中にいる、と言いました。彼らは製薬会社が、その錠剤を売るために、彼らにするように告げることをしています。(私は医師たちをいじめることを望んではいません。私の二人の祖父たちは医師でした。一人の兄弟は医師です。そして医師たちは多くのよい仕事をしています。)しかし、それが医学であれ、あるいはそれが法律であれ、人々は時々、彼らのよりよい判断に反してさえ、彼らを取り巻く人々によって左右されることを自らに許します。

例えば、法律家たちは時々、被害者たちの権利よりも被告人の権利にいっそう関心を持つところまで行きます。あなたたちはそのことを経理のうちに見出すでしょう。そしてあなたたちはまたそれを聖職者のうちに見出すでしょう。専門家たちでさえ、彼らがもっとよく知っているべきときに、その犠牲になる気まぐれがあります。それは彼らが内部密告者 - 彼らの誤りを訂正し、そして彼らに彼らの義務について、そして何が正しいかについて思い起こさせる誰かある人 - を必要とするときです。

預言の声

教会の場合に、司祭たちの場合に、そして神学者たちの場合に、われわれは預言の声と呼ばれている神が送り給うた矯正するものを持っています。聖書の中でわれわれは教会が使徒たちと預言者たちの上に建てられていると告げられています。ところで、現代の最も預言的なメッセージ、最も信頼できるメッセージ、そして最も権威を持ったメッセージは検討され証明されたファチマのメッセージです。それゆえ、われわれは、教会において何が起こっているか、世界において何が起こっているかを見るとき、ファチマ・メッセージを心に留めるように忠告されていますが、そのことは正しいことです。われわれはこれらの事柄をファチマの光に照らして見る必要があります。教会における、そして世界における現代の諸々の出来事はファチマ・メッセージによって説明されます。信仰とファチマの外部でのいかなる他の説明も何ら現実的な意味をなしません。

戦争か、それとも平和か?

教会は、そしてわれわれ一人ひとりは一つの選択に直面しています。誰もが見ることができるように、われわれは戦争を持とうとしているか、それとも平和を持とうとしているか、そのいずれかです。われわれに平和を与えるということについてのフリーメーソンの考えはわれわれにとっては教義を捨てることです。根本的なものとしての宗教的真理を捨てることです。そしてこう言います:「われわれは、われわれ自身が至高のものとして任命した世俗的な諸権威を受け入れる。そしてもしあなたたちが良心あるいは決定された教義に基づいてわれわれに反抗して立ち上がるならば、あなたたちは投獄され、あるいは殺されるであろう。」それが彼らの解決です。それが彼らがわれわれに提供するもの、そしてそれが彼らが今日教会に提供しているものです。

あなたの敵どもを回心させよ

もうひとつ別の解決はファチマの聖母の解決です。それは:あなたの敵どもを信仰の真理に、そして信仰の実践に回心させる - 単にロシアだけでなく、全世界を - 回心させよ、ということです。

ファチマのメッセージの中で、単にロシアだけではなくて、全世界が回心を必要としていると言われています。しかし神はこのことをある順序においてなそうとしておられます。神はまず第一に、聖母の御命令に従う教皇と司教たちによってロシアを回心させることによって、そのことをなそうとしておられます。そのことが起こるとき、そのとき世界の残りの部分は回心し、イザヤ書2:3-4 の預言が実現されるでしょう。イザヤ書は、最終的に教皇と司教たちがファチマの命令に従うわれわれの時を予告しています。

イザヤ書をやさしく言い換えるとこうです:「行って主の山に登ろう。われわれにとって神の御意志が何であるかを見よう。それは世界のすべての民族が教会の中へと入るときである。」平和のうちに生きるすべての国家と人々、そしてすべての人々がカトリック信仰へと回心するというこの預言はロシアの奉献という手段によって実現されるでしょう。

偽りのエキュメニズム

同じことはエキュメニズムについての言えます。偽りのエキュメニズムのフリーメーソン的な道とファチマを目指した、真のエキュメニズムの道とが存在します。ファチマに従うことによって、すべての諸宗教はカトリック信仰へと回心するでしょう。しかしそれは、ただ神の仕方においてのみそうであって、人間の仕方においてではありません。それは真理を水で薄めることあるいは否定することによってではないでしょう。これは「あまり本質的ではない」ということによってではないでしょう。そうです、諸真理の一つのヒエラルキーがあります。しかしこれらの真理が決定された教義であるときには、あなたはそれらを否定することはできません。そうです、もちろん、あなたは、近代主義者たちに従えばそれらが二次的なものであるがゆえに、決定された教義を否定することができます。しかしそのようなことをすること、何らかの決定された教義を知りつつ否定することは、もしあなたがそのことを悔い改めないならば、なおあなたを地獄へと送るでしょう。

それゆえ、われわれにとって決定された教義のすべてはわれわれの救いにとって不可欠であって、われわれはそのたった一つでも見逃すことはできないのです。奉献がまず行われて、ただロシアの奉献と回心が起こるときにのみ、われわれは真の世界平和を持つでしょう。

さもなければ、フリーメーソンたちや近代主義者たちによって教会に提供される選択肢はこう言うのです:「真理を水で薄めよ。宗教的な教義については話さないようにしよう。これらの事柄については話さないことにしよう。それらはただわれわれを分裂させるだけである」と。しかしそうすることにおいてわれわれはキリストを否定しているのです。

キリストはピラトに言われました:「私は真理を証明するために生まれ、そのためにこの世に来た。真理につく者は私の声を聞く」(ヨハネ18:37)。

それゆえ、われわれは一つの新しい世界秩序 - それは福音とキリストの真理に基づく、キリストが欲しておられる一つの新しい世界秩序を建設するか、それともジョージ・ブッシュ・シニアとジョージ・ブッシュ・ジュニアそして彼らの友人たちが世界中に促進しているフリーメーソンの新世界秩序を建設するか、のいずれかでしょう。

それが剣、あるいはロシア軍隊の力によってなされるか、それともアメリカの影響力と帝国主義の力とによってなされるか、ということはどうと言うことではありません。それはなおサタンの支配の下にある一つのフリーメーソンの新世界秩序なのです!

われわれは他の選択肢を持っていません!あなたは別の選択肢を持っていると考えるかもしれません。しかし、私に言わせてください、あなたは別の選択肢を持っていません。あなたは神に従わなければなりません。「御旨の天に行わるる如く地にも行われんことを。」

ファチマ・メッセージ全体に対して戦うことを選ぶことは実際サタンの新世界秩序を進展させることです。

あなたは決断しなければならない

今日われわれはファチマの聖母によって一つのさらなる決断をするように求められています。私は司祭たち - もちろん、司教たちを含みます - にファチマのための司祭たちの運動 - 司祭たちのファチマ運動 The Fatima Movement of Priestsに参加なさるように求めたいと思います。これは聖母のメッセージにその全体において忠実であろうとする人々の運動です。これに参加する人々は毎日ロザリオを祈り、茶色のスカプラリオを身につけ、マリアの汚れなき御心に自らを奉献することによって、自らメッセージを生きることになるでしょう。神があなたを祝福してくださいますように。そしてあなたが決断するように聖母があなたを導いてくださいますように。どうもありがとうございました。


ファチマ・クルーセイダー

2012年12月11日 | Weblog
ファチマ・メッセージを生きる

The Fatima Crusader Issue 91, February 2009 より

ニコラス・グルーナー神父、S.T.L., S.T.D.(Cand.)

この論攷はスペイン、トゥイで行われた「世界平和のための最後のチャンス」会議に聴き入った数百人の司教たち、司祭たちそして平信徒たちにニコラス・グルーナー神父によってなされた講話の編集された書写である。

われわれは毎日ロザリオ5連を祈り、祝せられたおとめ[マリア]が10月13日、3人の子どもたちへの最後の御出現において差し出されたカルメル山のスカプラリオを身につけることによってファチマ・メッセージを生きるでしょう。聖母はロザリオとスカプラリオは並行するものであると説明なさいました。

私自身を含めて多くの人々はこの恵み、すなわち、あなたは、あなたのスカプラリオを取り出し、それをいつも身につけるとき、毎日ロザリオの祈りをすることがいっそう容易であることを見出すという恵みを得て来ました。私は聖母がスカプラリオの約束をなさった場所でスカプラリオを身につけたことを思い起こします。1251年に聖母は聖シモン・ストックに御出現になり、こう言われました:「このスカプラリオを取りなさい。それは救いのしるし、危険のときの保護そして平和の堅い約束となるでしょう。このスカプラリオを身につけて死ぬ人は誰でも永遠の火に苦しむことはありません。」1280年以来の教皇は皆カルメル山の聖母のスカプラリオを身につけていました。

スカプラリオはカルメル会員のマントの切りつめられた変形です。エリアのマントは聖書の中に書かれています。エリアは、ヨルダン川を渡りたいと思ったとき、自分のマントを脱ぎ、川に触れ、そして足を濡らすことなく川を渡りました。エリアが天に上げられたとき、そして彼の後の預言者が彼の力を求めたとき、彼はこう言いました:「もし私がマントをうしろに残すならば、あなたが私の預言の権威を受けたということを知りなさい。」そして火の二輪馬車がエリアとエリゼウスとを分けたとき、エリアのマントはエリゼウスのためにうしろに残されました。

なぜエリアか?

そのマントはそれゆえにエリアの象徴です。なぜエリアなのでしょうか?エリアは旱魃があるようにと祈っていた人でした。

エリアは、すべての預言者たちと同じように、人々の注意を引くという問題をもっていた、と私は想像します。そしてそれゆえに、しばらく後に、彼が人々の注意を他の何らかの仕方で引くことができなかったとき、彼は雨を降らせることを止めてくださるよう神に願いました。それで3年半の間雨は降りませんでした。エリアは成功したのです。彼は最終的に人々の注意を引きました!

エリアはそれから神に雨を降らせてくださるよう願いました。結局、人々は飢えていました。エリアはカルメル山の頂上にいました。彼は助手を伴っていました。そして彼は雨を求めて祈りました。そして彼は助手をカルメル山の頂上から下って海へ送りました。助手は山に戻って来て言いました:「雨は降りません。」エリアは二回、三回、四回、五回そして六回祈りました。その度毎に、彼は助手を山から降ろして送りました。そしてその度毎に助手は同じメッセージ、「雨はありません」をもって山に帰って来ました。

それで、エリアは七回目に雨を送ってくださるよう神に願いました。彼の助手は山を下り、海に行きました。すると、見なさい、塩水の海から一つの小さな雲がわきあがるのを見ました。それは一本の足の形をしていました。この雲はだんだん大きくなってイスラエル全土を覆いました。助手は雨についてエリアに告げようとして山に駆け上りました。雲は助手よりも前にそこにつきました。しかしエリアはこの雲からあることを理解しました。

彼女の足は蛇の頭を砕くであろう

彼の祈りに対する応答から離れて、彼はこの雲が祝せられたおとめマリアを象徴していると理解しました。なぜなら、それは一本の足の形をしていたからです。それは蛇の頭を砕くであろう足、創世記3:15 で神によって約束されていた女の足を象徴していました。それは、なぜエリアが救世主とその御母の到来を準備するためにカルメル山上に生活する隠遁者たちのグループを設立したか、その理由です。隠遁者たちのそのグループは何世紀にもわたってカルメル山上に居続けました。そして現在のカルメル会となったのです。

聖ボナヴェントゥーラはわれわれに、その雲がなぜ祝せられたおとめ[マリア]を意味しているか、そのもう一つの理由があると告げています。その雲は真水の雲でしたが、しかしそれは塩水の海から来たものでした。この塩水の海によって表されている罪深い人類から、おとめ[マリア]が時々そう呼ばれているように、われわれのたった一人の自然の誇りとする御方が来られたのです。なぜなら、彼女は汚れなき御宿りであるからです。

他の教会博士たちは、聖母がその同じ雲によって予め示されていることを見るための第三の理由を識別しました。雨がやってきたのは一つの雲からでした。その一つの雲は旱魃に襲われた土地のためのすべての雨の源でした。そして水は象徴的に恩寵を表しています。人類に来るすべての恩寵は祝せられたおとめマリアを通して、すべての恩寵の仲介者である聖母を通して来ます。

あなたはマリアの子どもであるか?

何十世紀も後に、聖母はカルメル山の隠遁者たちの後継者であったカルメル会修道士たちの総長のところに来られました。聖母は、もしあなたがスカプラリオ - それはそうと、マントのように、肩の上に前と後ろにはおられるスカプラリオ - を身につけるならば、あなたはあなた自身を聖母の保護の下に、聖母のマントの下に置くのだ、と約束なさいました。

1970年代にローマでドミニコ会員たちのための私の論題において、私は、あなた自身を聖母のマントの下に置くことによって、あなたは、あなたがあなた自身を聖母の子どもにしているということを象徴的に認めているのだということを指摘しました。聖ルイ・ドゥ・モンフォールと聖アウグスティヌスはわれわれに、ちょうどわれわれがキリストと共に死に、キリストと共に復活するのと同じように、そのようにわれわれは、キリストと共に、祝せられたおとめマリアの御胎のうちに宿される、そしてわれわれが天国に行くとき、われわれは祝せられたおとめから生まれるのだ、と告げています。

われわれの自然的な父母は天国においてはわれわれの兄弟姉妹でしょうが、しかしわれらの天上の御母マリアは天国におけるわれらの御母であり続けられます。なぜなら、われわれが天国に入るとき、われわれは聖母から生まれるからです。われわれは神秘的な仕方で聖母の御胎のうちに宿されます。そしてそのことは聖母のスカプラリオを身につけることによって象徴されています。あなたは聖母のマントの下にいるのです。

そしてそれゆえに、聖母はマント - カルメル山のスカプラリオ - を差し出され、そしてわれわれ皆にそれを身につけるように求められます。それは聖母のファチマ要求の一部です。そこでわれわれ皆は心の中でこの約束を聖母にすることができます。

まず何よりも、われわれは個人的に聖母がわれわれ一人ひとりに求めておられることをしましょう。それから、個人的に:

毎日少なくともロザリオの祈り5連を唱え、カルメル山のスカプラリオを身につけ、われわれの毎日の義務を果たし、十戒を守り、そして自分自身を聖母の汚れなき御心に奉献しましょう。

それから、聖母をすべての人に知らせましょう。

第二に、個人的に聖母のファチマ・メッセージを知らせるために、われわれがいるところではどこでも、われわれができるすべてのことをしましょう。社会学者たちはわれわれに、われわれが皆少なくとも200人の人々を知っている、と告げています。われわれのうちのある人々は個人的に5000人もの多くの人々を知っています。われわれは皆、他の人々を通して、一万人あるいは百万人でないとしても、数千人の人々に影響を与えることができます。

神はわれわれ一人ひとりに一つの小さな世界をお与えになりました。ですからわれわれは、われわれがいるところではどこでも、他の人々に祝せられたおとめのメッセージを届けるために、神がわれわれにお与えになった影響力を用いるためにわれわれの役割を果たさなければなりません。

われわれはどちらかの側を選ばなければならない

それゆえに、われわれは悪魔の側に立つよりはむしろ神の側に立つことを選ばなければなりません。私は悪魔祓いの仕事をしたことがあります。そして私は、その時間の大部分悪魔は自らの身を隠している、とあなたたちに告げることができます。悪魔の働きは、もしあなたが非常に注意深く見るならば、明白です。しかし悪魔は、あなたが悪魔祓いにおいて見るように、自らを明らかにしません。それは一つの美しい絵ではありません。悪魔はよい師ではありません。しかしわれわれはわれわれの師を選ぶことを求められています。われわれは神と悪魔との間でどちらか一方を選ばなければなりません。

それから次に、われわれはわれわれの役割を果たそう、と言いましょう。

司祭たちのファチマ運動

私は今われわれの「司祭たちのファチマ運動」についてもっとあなたたちに告げたいと思います。ロキューション[イエズスや聖母マリアとの間の対話]に依存している他の司祭たちの運動があります。私はロキューションを持っていません。メッセージは単に祝せられたおとめマリアによって光を与えられたものとしてのカトリック信仰に基づいているだけです。私は、近代主義者の意味においてではなく、聖トマス・アクィナスの古典的伝統的な教えにおいて理解されたものとしてのカトリック信仰のことを言っています。聖トマスは教会のすべての博士や教父たちの教えをただ総括し総合しただけです。

ファチマのメッセージをわれわれの光として取り上げながら、われわれは諸真理のヒエラルキーとわれわれが誰にまた何に従わなければならないかということのヒエラルキーを理解することができます。第一に、われわれは御父なる神に従わなければなりません。それからもちろん、その聖なる人間性における御子たる神に等しく従わなければなりません。そしてそれから、その順序において、祝せられたおとめマリアに従わなければなりません。次に、われわれはあらゆる時代にわたって教えられ、理解されて来たカトリック信仰を信じなければなりません。それは教会が今日われわれに教えていることを含みます。しかし、カトリック教会が常に教えて来たことと一致するものだけです。教会の諸々の伝統的な教えは、もちろん、イエズスと彼の祝せられた御母マリアがファチマ・メッセージにおいてわれわれに教えられたことと一致します。(続く)

ファチマ・クルーセイダー

2012年12月10日 | Weblog
聖人にふさわしい霊魂への窓

The Fatima Crusader Issue 91, February 2009 より

コラリー・グレアム、ファチマ・クルーセイダー編集者

私は「ファチマの真実の物語」についての書評を書き始めた。しかしいかなる詩人も、いかなる学者も、いかなる著者も、ファチマで聖母が御出現になった三人の子どもたちの霊魂の美しさと単純さを記述することはできなかった。この書物はジョン・ドゥ・マルキ神父、I.M.C.によって書かれた。彼は司祭であって、家族、友人たちそしてファチマの諸々の出来事への目撃者たちにインタビューをしながら、3年半を過ごした。彼はその間ずっと彼らの間で生活した。

彼の書物は実際は一つの物語ではない、それはこれまでに書かれることのできた最も美しいおとぎ話あるいは愛の物語ですらない。それは独特の、ある種の物語 - そこで、われわれが、彼らの考え方、彼らの優しい性格そして彼らの生活において神を第一に置こうとする彼らの子どもらしい望みを分かち持つことができる三人の幻視者たちの霊魂への一つの単純な窓 - である。神に対する、そして聖母の諸々の御要求に対する彼らの従順は絶大なものである - それはしかしそれでも子どもらしいものであり、われわれ自身にとって手の届かないものではない。

あなたは特に、彼らの犠牲と罪の償いの精神に注目するであろう。その精神は彼ら自身の霊魂を救うためばかりではなく、同様にまたわれわれ自身を含む他の霊魂たちのためでもあった。

そしてそれゆえに、この宝、この書物についての私自身の評論はここで終わる。そして私は「ファチマの真の物語」からのいくつかの引用を選んだ。なぜなら、私が言ったように、子どもたちが彼ら自身の言葉で語ったものよりももっとよく、誰もそれを書くことにおいて、その美しさ、恩寵、われらの主そして聖母に対する信心をこれまでに描くことができなかったからである。

以下は「ファチマの真実の物語」からの引用である。

先駆者である天使

1916年に(ファチマでのおとめマリアの御出現に先立って)一人の先駆者である天使が子どもたちに出現した。

「天使が近づいたとき、私たちは彼の姿を識別し始めました。私たちはたいそう驚き、そして夢中になったので、一言も発することができませんでした。天使は私たちに近づき、そしてこう言いました:

『恐れてはいけない!私は平和の天使である。私と一緒に祈りなさい!』」

天使は地に跪き、非常に深くお辞儀をした。ある霊感によって、彼らは天使を真似て、天使が発言するのを聴いた言葉を繰り返した:

「私の神よ、私はあなたを信じ、あなたを礼拝し、あなたに希望し、そしてあなたを愛します。私は、あなたを信じない、あなたを礼拝しない、あなたに希望しない、そしてあなたを愛さないすべての人のために赦しを願います。」

天使はこの祈りを三度繰り返した。それから天使は立ち上がり、言った:

「このように祈りなさい。イエズスとマリアの御心はあなたたちの嘆願の声に耳を傾けておられます。」

天使は消え、そして超自然的なものの意識が非常に強烈だったので、長い間子どもたちは、その同じ祈りを何度も繰り返しながら、自分たちの存在そのものを意識せずに、天使が彼らを残して立ち去ったその同じ姿勢のままそこにいた。

「私たちは神の現前をそのように強烈に、そのように心の底から感じたので、お互いに敢えて話そうとはしませんでした。」

天使の言葉は光のようであった

後年、ルチアは次のことを明らかにした:「天使の言葉は神がいかなる方であるか、神が私たちをいかに愛しておられ、そして私たちからいかに愛されたいと望んでおられるか、犠牲の価値、それが神をいかに喜ばせるものであるか、そしてそれが罪人たちの回心でいかに報われるか、を私たちに理解させる光のようでした。その瞬間から、私たちは、天使が私たちに教えてくださった祈りを繰り返しながら、地面に頭を下げて、何時間も過ごすこと以外には苦行あるいは罪の償いの他のいかなる方法をも見出そうとすることもなく、私たちを禁欲や苦行によって抑えたあらゆることを主に捧げ始めました。」

聖母が御出現になった

ルチアはこう記録している:「それは、太陽の燃える光線に刺し貫かれた最もきらきら輝く水で満たされた水晶のグラスよりももっと明瞭でもっと強い光線を注ぎながら、太陽よりももっと光り輝いた真っ白な衣装をつけられた婦人でした。」

「恐れないで!」聖母は言われました。「私はあなたに害を加えるつもりはありません。」

「私は天からの者です。」とその美しい婦人は優しく答えられました。

「あなたは、神がそれによって背かれておられる罪の償いの行為として、そして罪人たちの回心のための嘆願として神があなたに送るためにお選びになるすべての苦しみに耐えるためにあなた自身を捧げることを望みますか?」

直ちにルチアは三人を代表して答えた:「はい、私たちはそう望みます。」

「それではあなたたちは大いに苦しむことになるでしょう。しかし神の恩寵があなたの慰めとなるでしょう」とその婦人は約束なさいました。

聖母への従順における諸々の犠牲

「私は今日遊びたくない!」

「なぜ?」

「聖母が私たちにロザリオを祈り、罪人たちの回心のために犠牲を捧げるように告げられたと思っているからよ。」

「そうね」とルチアは同意した。「でも、私たちはどのように犠牲を捧げましょうか?」

「羊に僕たちのお昼ご飯を与えることができるよ」とフランシスコが提案した。

正午になったとき、彼らは昼ご飯を羊に与えた。数日が過ぎて、彼らは自分たちの昼ご飯を羊の代わりに数人の貧しい子どもたちに与える方が聖母にはもっと喜ばれると考えた。彼らが空腹になったとき、フランシスコはトキワガシの木に登り、まだ緑であったけれどもそのドングリを摘んだ。しかしそれはヤチンタにとっては十分な犠牲ではなかった。彼女は、樫の木からのドングリを選ぶべきである、なぜなら、それはもっと苦いから、と提案した。

地獄から霊魂たちを救うために

ヤチンタの顔に影をさしている悲しみの雲に気づいて、ある朝ルチアはこう尋ねた:「何について考えているの?」

「地獄と可哀想な罪人たちのことについて考えているの。地獄に行く霊魂たちのためにどのように私は悲しいことでしょう...人々はそこで、火の中に投げ込まれた木材のように生きながら焼かれているわ...ルチア、聖母が地獄を罪人たちにお示しにならないのはなぜなのでしょうか?もし地獄を見たなら、彼らは、そこに行かないために、もうどんな罪も犯さないでしょうに。」

...「なぜあなたは聖母に、地獄をこれらすべての人々に示してくださるよう言わなかったの?」

そのときヤチンタは地面に跪いた。その間に、彼女は聖母が祈るように教えてくださった祈りをため息をつきながら祈って折り畳んだ彼女の手を天に向かって上げた。ルチアとフランシスコは二人とも、ヤチンタと共に聖母の祈りを唱えたとき、跪きながら、ヤチンタに従った。「ルチア、フランシスコ、あなたたちは私と一緒に祈っているの?私たちは地獄から霊魂たちを救うためにたくさん祈らなければならないわ。余りにも多くの人がそこに行くからよ!」

地獄とその火の中で苦しむ霊魂たちについての考えがヤチンタの心をそのようにいっぱいにしたので、彼女はその理由を理解することができなかった。「ルチア、これらの人々は地獄に行くために何をしたの?」

「知らないわ!たぶん、彼らは日曜日にミサに行かなかったことによって罪を犯したかもしれないわ。たぶん、彼らは醜い言葉を言ったり、盗みをしたり、誓いを立てたりしたのだわ...」

「そして彼らはたった一つの言葉のために地獄に行くの?」

「もしそれが大罪なら...]

「彼らにとって彼らの舌を制することあるいはミサに行くことはどんなに易しかったことでしょう!彼らのために私はどんなに悲しいでしょう!私が彼らに地獄を見せることができさえすればいいのに...」

回心のための犠牲

子どもたちはたくさん祈った。しかし彼らはそれ以上にさえ自らを犠牲にした。彼らは罪人たちの回心のために苦しみの新しい方法を発見するために彼らの心を訓練した。他の人々が彼らの苦行の動機を誤解することがないように、そして地獄から霊魂たちを救うことから妨げられないように、彼らはこのことを彼ら自身と聖母との間の秘密として保った。ずっと後年になって上長からの命令の下でだけ、ルチアは彼らの若いときの祈りと犠牲の程度を語った。

暑い荒涼とした丘の上で羊の番をしながら、彼らは神と聖母とに彼らの燃えるような渇きを捧げた。子どもたちは野原に独りでいた間、何日もの間何も飲まずに過ごした。これは彼らの最大のそして最も難しい犠牲のうちの一つであった。実際、それは彼らが水なしに8月の月全部を過ごした夏であった。

フランシスコの最後の時

フランシスコのベッドの側に坐っていたとき、ルチアは彼に優しく囁いた:「フランシスコ、あなたはたくさん苦しんでいる?」

「はい、苦しんでいるよ。僕はそれを全部われらの主と聖母のために苦しむ。僕はもっとたくさん苦しみたいが、しかしできない。」彼はドアがしっかり閉められているかどうかを見るために少しばかり身を持ち上げた。彼は枕の下に罪の償いのための縄を手探りした。そしてそれをルチアに手渡した。「僕のためにそれを持っていてください。母がそれを見つけることを恐れています。もし再び元気になったら、もう一度返してほしい。」聖母は彼らに、神は彼らがベッドで縄を身につけることを望んでおられないと、告げられた。しかしフランシスコはただ彼が回復する場合のために近くに置いておいた。

「ヤチンタはただ罪人たちの回心にのみ関心を持っているように見えました。彼女は人々を地獄から救いたいと望んでいました、」とルチアは後年言った。「しかし、フランシスコの唯一の望みは、彼に非常に悲しみに満ちておられると思われたわれらの主と聖母を慰めることでした。」

彼はルチアに打ち明けた:「僕は気分がとても悪い。でも、まもなく天国に行くでしょう。」

「では、あなたが罪人たちのため、そして教皇様、ヤチンタ、そして私のためにたくさん祈ってくださることを約束してね。」

「はい、祈ります。でも、あなたはむしろそのことをヤチンタにお願いすべきです。僕がわれらの主を見るときにすべてのことを忘れることを恐れています。結局のところ、僕はむしろイエズスとマリアを慰めることを望むでしょう。」

フランシスコが死につつあるのを感じたとき、彼はシスター・ルチアを呼んだ。「ルチア、今告解をし、そして死にたいと思います。あなたがこれまでに僕が何らかの罪を犯しているのを見たのならば、僕に言ってほしい。」

「時々、あなたはお母さんが家にとどまるように望んだとき、従わなかったわ。あなたは私と一緒にいるため、あるいは隠れるために、家をこっそり出たわ。」

「それは本当です。僕はその罪を犯しました。今行って、ヤチンタに、彼女が何か覚えているかどうか尋ねてください。」

ルチアは彼女に尋ねに行った。ある考えの後にヤチンタは答えた:「ええ、ごらんなさい。彼に、聖母が私たちに御出現になる前に、彼が10セント盗んだと告げてください。そして少年たちがボレイロから来た少年たちに石を投げたとき、彼は彼らを助けました。」

ルチアはフランシスコにこのことを告げた。すると彼はこう言った:「僕はこれらのことをもう告解した。でももう一度告解するよ。たぶん、それらの罪はわれらの主がそのように悲しまれる理由なのだ。僕に関して言えば、たとえ僕が死ぬことがないとしても、それをもう一度したくはない。僕は悲しい。わがイエズス、われらを赦し給え。」彼は両手を合わせて祈り始めた:「われらを赦し給え。われらを地獄の火より救い給え。」

ヤチンタの最後の時

聖母がヤチンタに、彼女はまもなく死ぬでしょうと告げられたけれども、医師たちは手術を強く要求した。彼女がついに手術室に連れて来られたとき、ガスを吸うには余りにも弱っていた。その当時は今日そうである麻酔は施されなかったので、局部に打たれた注射は彼女の苦痛を全然取り除かなかった。

医師たちは2本の肋骨を切除した。そして彼らは、彼女の胸部に開いた傷がこぶしほどの大きさであったにもかかわらず、成功の望みを持っているように見えた。傷は頻繁に水に浸して洗浄されなければならなかった。そしてそのことは最も苦痛なことであった。ヤチンタは彼女の口から漏れるただ一度のうめき声だけを許した。「おお、聖母よ!おお!聖母よ!辛抱・私たちは天国に行くために苦しまなければなりません。」

彼女はたいそう苦しんだけれども、それを幸せをもって受け入れながら、決して不平を言わなかった。なぜなら、彼女は、それが地獄の火から逃れるために多くの霊魂を助けることになるであろうということを理解していたからである。「今あなたは多くの罪人たちを回心させることがおできになります。なぜなら、わがイエズスよ、私はたくさん苦しんでいるからです」と彼女はわれらの主に話した。

編集者注:さて、あなたはご自身で、言葉では私が決して適切に記述することのできない恩寵を経験された。そして今、われわれは、われらの主が聖書の中でなぜ次のように言われたか、その理由をもっとよく理解することができる:「われ誠に汝らに告ぐ、汝ら、もし翻りて幼子のごとくにならずば、天国に入らざるべし、されば、すべてこの幼子のごとく、自らへりくだる人は天国にて大いなる者なり。」(マテオ18:3-4)

もしあなたがすでに「ファチマの真実の物語」のコピーを持っておられないならば、すぐにファチマ・センターに連絡してください(p. 63 を見てください)。あなたは、イエズスとマリアをもっと親密にうけいれるために、この書物を心をこめて読み、子どもの純粋さと無垢をあなたの心に広げさせなければなりません。これはあなたの霊魂が失することのできない恩寵に満たされた書物です。

ファチマ・クルーセイダー

2012年12月07日 | Weblog
今や時が来た

ロシアを奉献することはカトリック・正教の
対話を害さず、助けるであろう(続き)

The Fatima Crusader Issue 91, February 2009 より

キャシー・ピアソン

聖母の驚くべき解決

ファチマの聖母とロシアの回心についての聖母の御約束のことに入ろう。一見して、聖母は正教会がしりごみするであろうまさにその地盤を歩いておられるように見える。ロシアの回心のためのカトリックの祈りは、ロシア人が皆正教会を見捨ててカトリック教徒になることを意味しているのか?カトリック教徒たちは実際そのようなシナリオを予想するかもしれない。しかし問題は、カトリック教徒たちが考えていることが起こるということは重要なことではないということである。彼らは決定する者ではない。マリアが決定なさるであろう。

カトリックのマリア、そして正教のマリアがおられるのではない。ただ一人の神の御母がおられるのであって、その御方を両者はキリスト教の歴史を通じて頼みとしてきたのである。そして両者はその御方に全くの信頼をもって目を注いできたのである。何であれ教義あるいは教会管理についての誤った解釈にカトリックあるいは正教会が陥った - 実際に、あるいはお互いの目から見て - としても、マリアは神の御意志以外のことを何かなさることはおできにならない。確かに敬虔なカトリック教徒あるいは敬虔なロシア正教徒のどちらかが神の御意志そしてマリアの御心の望みを実際に知ることができたとしても、それは、彼らの予断が何であったとしても、彼らが望むだろうことである。

いかなるタイプの回心を神がロシアからお求めになっておられるのか?カトリック教徒と正教徒は疑いもなく、もしそう尋ねられたならば、それに異なった仕方で答えるであろう。しかしファチマの美しさは、それをもたらすためにだれが権利を持っているかを誰も考え出す必要がないということである。その鍵はファチマの聖母の要求と約束についての実際の言葉遣いのうちにある。

「私は私の汚れなき御心へのロシアの奉献を求めるために戻って来るでしょう。...もし私の要求が聞き入れられるならば、ロシアは回心するでしょう。そして平和がやってくるでしょう。...教皇はロシアを私に奉献するでしょう。そしてロシアは回心し、平和の一時期が世界に与えられるでしょう。」

誰が負担になる役目を課されたのかに注目してください。聖母は「もしあなたがロシアを回心させるならば、平和をもたらしましょう」とは言っておられない。教皇は単に聖母にロシアを奉献するよう、この行為を行うことにおいて神の道具となるよう、求められているだけである。教皇はロシアを回心させること、あるいはいかなるタイプの回心をロシアが必要としているかを決定することを求められていない。またカトリック教徒、あるいはロシア正教徒あるいは他の何らかの人間的な機関もそのことを求められていない。

そうではなくて、その回心は、聖母がお返しに約束なさっていることの一部である:「ロシアは回心するでしょう。」それは聖母の仕事であって、われわれの仕事ではない。

この区別は非常に重要である。それは、まず第一に、聖母が、その御要求を実現し、聖母の御約束を要求なさるために、いかなるタイプの回心を心に抱いておられたか、に関して誰も考え出したり、決定したりあるいは共に同意したりしてはならないということを意味する。

聖母がまさに要求なさったとおりに、ロシアがすべてのカトリック司教たちと共に教皇によって奉献されるということを考えてみよう。カトリック教徒と正教徒とは同じように、次に何が起こるかを注目することによって、彼らの関係において神の御意志に一致するための彼らの手がかりを得ることができるであろう。

もし最もよく見える諸変化が、その代わりに、公共的な領域においてであったならば、 - 公益事業の異なった基準、あらゆるタイプの権利乱用の終焉、社会正義の全盛、管理に関する調和的な諸制度の出現、諸地域や民族諸集団の間の和解、政治的堕落と組織された犯罪の消失、平和への深く根付いた市民的および軍事的な参加を反映する国際政治、核兵器の説明と棄却、公的領域における神の尊重 - そのとき、それは聖母が心に抱いておられた回心のタイプである。

あるいは、もし正教会の指導者たちや一般信徒たちが突然ローマと和解する欲求に捕らわれている自分たちを見出し、もはや教皇の権威や教権の教えに従うことに対する障害を感じないならば、それは実際神が望んでおられた回心のタイプであるということを示唆するであろう。

あるいは、もし - 宗教的にどこに所属するかということを離れて - 一つの大きな道徳的な再生が人々の間に個人的なレベルで自発的に起こり、中絶、ポルノ、酔っぱらいのようなそのような悪徳から強い嫌悪感をもってロシア人が立ち返らせることを押し進め、貞節と生涯続く結婚の義務に対する大きな望みをかき立て、商業や教育のやり方を革命的に変化させ、慈善の行為と子どもたちを望むことによって特徴づけられる滅私の高められた水準において自らを現し、信仰と宗教的な熱心の開花でもって上述のすべてのことを結合するならば、そのときその種の回心は明らかにマリアが意図なさったことであろう。

そしてもし、そのような再生の文脈において、宗教的召命の急上昇、修道生活の再生、典礼や諸秘跡への参加の増大があるならば、そしてもしこのことがロシアにおけるカトリック教徒たちの間でばかりでなく、また、あるいは特に正教徒たちの間でさえ、起こるならば、そのとき、カトリック並びに正教の指導者たちには、神が大いなる支持をもってロシア正教を眺め、それを普遍教会の内部である特別な仕方において保存しようと望まれたということは明らかであろう。

ロシアの回心は、それがいかなる形を取ろうとも、人類に大いなる希望をもって次の約束 - 平和の一時期 - の実現を眺めさせるであろう。そして確実にわれらの主がシスター・ルチアに語られた結果:すなわち、マリアの汚れなき御心に対する感謝と信心の大きな流出、をも持たせるであろう。

ロシアの回心は、それがロシア人をカトリックの信仰を抱くことへと導くか、それとも彼らの正教信仰を深めるか、それともその両方であるか、そのいずれであろうとも、カトリック・正教間の対話に対して直接的なインパクトを持つかも知れないし、またそうでないかも知れない。正教はカトリックの立場により近づくように鼓舞され得るであろう。あるいはカトリックの位階と神学者たちは、ある種の問題を、両者をお互いに近づけさせる一つの新しい光において見るように鼓舞されるかも知れない。それとも、両者は彼らの諸々の相違を彼らの最善の人間的能力にまで仕上げ続けるために残され得るであろう。しかし徳、親切の新しいレベル、そして聖霊の真理への開放性は確かに、いずれにせよ、その仕事をより甘美なものそしてより生産的なものとするであろう。

ロシア正教は宗教的な諸理由でロシアの教皇による奉献に反対するための、何であれ、いかなる理由も持っていない。彼らにとっていかなる否定的側面も存在しない。もしそのジェスチャーが実際空虚、無意味、不適切であり、そして/あるいは真に神の御要求の実現ではないならば、あるいはいかなる見得る結果をももたらさかなったならば、それは全然何らのインパクトをも持たないであろう。

しかし、もし実際神がそれを望んでおられるならば、そしてそれが上に述べた諸々のインパクトのいくつかあるいはすべてを持っているならば、それはロシアの人々にとって、正教・カトリック関係にとって、そして全世界にとって一つの計り知れない祝福であったということを証明するであろう。

共通の敵に直面すること

われらの戦うべき - 聖霊は聖パウロを通してわれわれに告げておられる - は血肉に向かいてにはあらず、権勢および能力、この暗闇の世の司ら、天空の悪霊らに向かいてなればなり。(エフェゾ6:12)。実際、忠実な信徒たちは - カトリック教徒であれ、あるいは正教徒であれ - 聖母がそれを要求なさったようなロシアの奉献において、失うべきものを何ひとつ持たず、すべてのものを得るのだからして、彼ら両者が - ひとたび彼ら自身の恐れによって引き起こされた障害が克服されたならば - 教会の外部の誰が、あるいは何がそれが起こることを妨害するために働いているのかを、注意深く見ることは必要なことであろう。

外部の - おそらくわれわれは地獄の、と正当に言うべきであろう - 諸々の力はバチカンの内部においてか、それとも正教の位階の内部においてか、それともその両方においてかのいずれかで、圧力を加えることができるであろう。彼らはものすごい害の実際的な脅威を与えることができるであろう。あるいは彼らは、ロシアの奉献がさまざまの仕方で疑問の余地のある何かあるもの、そうしないことの方がよい、あるいは少なくとも現在のところしない方がよい何かあるものという考えを強めながら、他の人々の考えや恐れを操作することができる地位に自分たちを置くことが簡単にできるであろう。

タイミングは重要である

過去の諸悪から起こる人間の悲しみにおける被害について考えることは悲劇的である - 聖母が預言なさった「もっと悪い戦争」(第二次世界大戦)、ナチズムの災難、東ヨーロッパの征服、ロシア、スペイン、そしてなお今日の中国における教会の迫害、ボルシェヴィズムのパンドラの箱から吐き出される数え切れない数千万人の殺人(レーニン、スターリン、毛沢東、ポル・ポト、ロシアの諸々の誤謬が世界中に広まるにつれて多くの地方の革命) - 世界的な中絶ホロコーストさえその出発点はソビエト・ロシアであった。もし聖母の諸々の御要求が1930年代初期に満たされていたならば、これらすべてのことは避けられ得たであろう。

そして霊魂たちの敵は決して休まない。その敵がまさにこの瞬間にいかなる諸計画に微調整を加えているか、 - 新しいカリスマティックな暴君たちが明日の暴徒たちを世界のどこかで指導しようと準備しているか、新しいスキャンダルが諸政府を不安定にし打倒するために周到に用意されているか、悪の新しいビジョンがテロリストたちの頭の中で育まれているか、結婚と家庭生活を掘り崩す新しい方法、諸国家あるいは全文明の間の新しい戦争、教会をだめにするための新しいスキャンダルや迫害が準備されているか、を誰が知っているか?その敵が悪しき者たちの手に核兵器を渡そうと企んでそれらをどこに隠しているのを誰が知っているか?その敵が、ある知られていない実験室において、製図板から夕方のニュースに移動するためにほとんど用意のできたいかなるおぞましいこと - 新しい病気、新しいタイプの自然災害、遺伝子操作を施した巨大な怪物、あるいは新しい大量破壊兵器 - を完成したかもしれないことを誰が知っているか?

ゴールまでの競争

マリアとマリアの敵は歴史の曙以来時間のための競争をしている。カトリック教徒とロシア正教徒は独自にこの狡猾な敵に対する一つの先遣隊を形成するという位置にいる。

1990年代そして21世紀の現在はその敵が眠っていないという一定範囲の新しい証拠をもたらしてきた。世界的な道徳的危機は幾何級数的に悪化してきた - 胎児に対する戦争はクローニングと胎芽利用へと形を変えた。同性愛者の要求は性的倒錯の容認から反対する諸見解に対するアレルギーへと形を変えた。大衆文化は暴力と退廃の中へとますます深く沈んだ。地政学的な闘技場において、われわれは中近東における衰えることのない戦争、9月11日攻撃、戦闘的イスラム主義の全体的勃興、アフリカにおける集団殺戮、バルカン半島における民族的浄化、朝鮮における核の威嚇、テロの世界的な亡霊、を見てきた。人間の進歩のための可能性を提供しているがしかし、また諸個人をより無力なものにし、そして悪をもしかすると戦うのにより困難なものとするより少数者の手とより大きな実在に経済的、政治的な権力をますます集中しながら、グローバリゼーションの現象が起こっている。

「神の諸々の行為」が必ずしも容易に人間の手の仕事から分けることができない陰のある灰色の領域 - おそらく悪魔的な妨害によって助けられた人間の手 - において、われわれは人道主義的そしてエコロジカルな諸災害 - 飢餓、旱魃、砂漠化、奇妙な天気の型、高波、ハリケーン、地震、野火、電子工学上のスパイやデータ収集、ぞっとさせる新しい諸々の病気、デザイン化された赤ん坊、地球温暖化、そして化学生物兵器テクノロジーの進歩、を見て来た。

恐れてはならない!

もしこの危険で変わりやすい現代の環境の中に、世界の最大の諸国家の一つの大規模な回心そして全世界のための平和の一時期のような、そのような形を変える神の諸々の賜物を導入するための一つの手段があるならば、後でそうするよりもむしろ早くそうする方がもっとよいであろうということは明らかであると思われるであろう。そして悪魔の見地からは、短い遅れでさえ、もしそれが悪魔にまだ知られていない新しい伝染病 - 文字通りに、あるいは比喩的に - を人類の上に引き起こさせることを可能にするならば、そうであろう。

著者はおそらく、ラテン語の第一学年生として"time-bam"(この意味は「私は恐れた」である)という語に魅力を感じた唯一の人間ではないであろう。もし半分は英語で、半分はラテン語で発音されるならば、それは英語の"time-bomb"(時限爆弾)を呼び出す。それはどういうわけか、名前を挙げてロシアを奉献せよという聖座がしまい込んでしまった命令についての適切な再現であるように思われる。すなわち、それは、実際は「私はそれを処置したかったのだが、しかし私は恐れていたのだ」と言いながら、信管が取り除かれるように大声で叫んでいるカチカチと音を立てている時限爆弾なのだ。

明らかに、再び奉献をすることについてのいかなる当惑もある必要はない。なぜなら、それは以前にすでになされたと考えられているからである。その当惑は7回かそこらの以前の繰り返しのどれ一つをも、1984年になされた奉献がそのように決定的に神によって受容された後の2000年になされた奉献をさえ、とどめなかった。それは常に、単に一つの更新として、あるいは神の御意志と聖母の御望みにもっと完全に従いたいという欲求として公然としてさえ、提示され得る。その公表は、1917年のその主題に関する聖母の最初の言及:「...時が今や来ました」からの解明されていない12年の遅延の後の、1929年の聖母御自身の言葉を反響することができたであろう。

もし奉献が実際、すでに完全に果たされていたならば、不必要な繰り返しというものはもっと悪い仕方で無用のものであろう。そして実際、もしそれがロシア政府あるいはロシア正教会、あるいは他の誰か、をいらだたせていたならば、たとえそれが一つのつまずきを構成したとしても、彼らがどの程度長くそしてどれほど激しく、一つの無意味なジェスチャーに抗議すると予期され得たであろうか?もし真剣な対話がそのように薄弱な理由のために脱線させられ得るならば、それはいずれにせよどこへも行かなかったであろう。

上に詳しく述べたように、正教会の諸々の反対は - もし宗教的な関心に基づき、そして政治的な圧力から結果したのでないならば - 、もし真剣な努力が彼らの反対を詳しく調べるために彼らに届くようにされるならば、前もって克服され得るであろう。それが無意味であれ、あるいは効果的であれ、ロシア正教会にとって奉献に反対する、あるいは奉献によって脅かされると感じる何らの理由も理屈としてあり得ない。後者の場合には、ロシアにおける聖母の応答はカトリック教徒と正教徒の両方がもっとよく理解し、神の御意志にもっと完全に一致することを助けるであろう。それは両者がおそらく望んでいることである。もしロシア正教がこれまで実際奉献と戦ってきたとするならば、それはただ誤解の結果 - 真正の対話と議論がそれに対する一つの適切な救済策であるところのまさにそのタイプの問題点 - でのみあり得よう。

脚注:

1. ファチマ・クルーセイダー誌の編集者の注:「共産主義は致命傷を負って地に倒れた」("Communism has bitten the dust")は著者の正確な陳述である。ファチマ・クルーセイダーの読者はファチマの預言が、もしロシアが間に合うように適切に奉献されるならば、そのとき、ロシアは、全世界に平和をもたらすために役立つ、すべての人間にとって慈悲の神意による道具となるであろうとわれわれに明白に告げているということを知っている。他方において、もしロシアが間に合うように適切に奉献されないならば、シスター・ルチアが説明したように、そのときロシアは「(その罪のために)全世界を罰するために神によって選ばれた懲罰の道具」となるであろう。共産主義は1989-1991年に粗末なパイを食べ、「致命傷を負って地に倒れ」たかもしれないが、しかし、近未来にかつてよりも大きくなってカムバックするためにその歩を速めているという多くの証拠がすでに存在している。p.27 のニュースを見てください。