けれど(Credo)

I:キリシタン信仰と殉教 II:ファチマと現代世界 III:カトリック典礼、グレゴリオ聖歌 IV:「聖と俗」雑感

ファチマ・クルーセイダー

2014年02月19日 | Weblog

第三の秘密(続き)

The Fatima Crusader Issue 26, Autumn / Winter 1988より

ジョン・コロラフィ

第2部:ファチマ第三の秘密と教会における異端

私たちはファチマの秘密の最も苦痛な局面の一つに入って行っています。なぜなら、もし秘密が真に聖職者のある者たちによる裏切りを予告しているならば、もしそれが奉献された霊魂たち(すなわち、司祭や司教たち)の多くが誘惑に陥り、教皇に対する彼らの従順を拒否し、彼らの神学的な異議を通じて敵に仕え、教会の一致を弱め、その信仰を掘り崩しているということを予告しているならば、そして印象的な数のファチマ学者たちによって共有されている意見である、アロンゾ神父の意見によれば、秘密はまさに、なぜ諸教皇がそのようなメッセージを明かすことを嫌がったかは理解され得るものなのです。

しかしながら、もし私たちがメッセージのこの局面について論争を避けるということを口実にして、沈黙を守るべきであるとするならば、私たちは教皇、ローマの教皇と完全に一致している私たちの合法的な司牧者たち、司祭たち、司教たちに重大な害を与えることになるでしょう。聖トマス・アクィナスは彼自身の時代に、反キリストの世界的な支配に対する主要な障碍は教皇の強い霊的な権威、ローマの首位性であると指摘しました。* この霊的権威が司祭の独身制、あるいは宗教的な従順と清貧のような教会の長い間かかって確立されてきた規律に対する反逆によってか、あるいは教義的な秩序の諸真理に対する異議によってか、非常に多くの神学校や大学で教えられている反三位一体神学やアリウス派的キリスト論によってか、認可されていない典礼刷新を通じての恩寵の源泉を毒することによってか、そのいずれかで弱められるとすれば、サタンの王国の拡大に対する巨大な障碍が取り除かれてしまうでしょう。

黙示録の偽の子羊と淫婦

第三の秘密のその優れた研究において、フレール・ミッシェル・ド・サント・トリニテは一つのショッキングな問いを提出しています。すなわち、近代主義と「キリスト教的マルキシズム」の偽預言者たちは黙示録において非難されているか?という問いです。なぜなら、黙示録を通してずっと、私たちの神である主は「子羊」として言及されているからです。というのは、彼は私たちの真の救い主であり、大祭司そしてあらゆる秘蹟の不可視的な奉仕者であるからです。復活祭のための序誦が言っているように、「彼は真の子羊であって、世の罪を取り除き、死ぬことによって私たちの死を破壊し、復活することによって私たちの生命を回復された」のです。ところで、反キリストがキリストの反定立であるように、また黙示録は「偽預言者」(黙示録 19,20)、真の子羊たるキリストの地獄的戯画を記述しています。聖ヨハネが言っているように、それは子羊の角のような2本の角を持っていました。しかし、それは「竜のように」話しました(黙示録 13,11)。換言すれば、それは子羊、救世主になりすましますが、しかし実際にはサタンの働きをします。ところで、私たちがカトリックの聖職者たちがある場所で、姦淫は悪ではない、手淫は悪ではない、避妊は重大なことではないと説教しているのを見るとき、彼らは外面的にはキリストの使徒たちのように見えているが、実際には敵に仕えているこの「偽の子羊」に似ていないでしょうか?フレール・サント・ミッシェルは、「偽預言者」は教会内部の「キリスト教的マルクス主義者」や他の偽預言者たちを表すための集合的な用語であると考えています。黙示録の他のショッキングな像は女、聖なる著者が言っていますが、「聖なる人々の血とイエズスの証人たちの血に酔いしれている」(黙示録 17,6)バビロンの大淫婦です。私たちがミサの間に、聖体拝領の直後にさえ、神を汚す歌を許す司祭たちを見るとき、私たちが、聖なる典礼の間に、他の多くの人たちが教会において見てきたように、私たち自身の目で道化師の服装をした少女たちや司祭たちを見るとき、恐ろしいことに、彼らは「酔いしれて」、狂気になり、「聖なる人々の血とイエズスの証人たちの血に酔いしれている」のではないでしょうか?なぜなら、まさに忌むべきことがイエズス・キリストの聖人たちや殉教者たちの冒涜された聖遺物の上、聖所において犯されているからです。

教会における異議と反逆の危機はますます先鋭になっています。背教はペトロの岩にさえ近づいています。教皇自身の国務省長官、カザロリ枢機卿でさえ、教皇のいないところで、近代主義者で偽預言者であるテイヤール・ド・シャルダンを敢えて称賛しました。クッランやボッフのような他の偽預言者たちは司教団の中に彼らの擁護者をもっています。さらに他の人々は彼ら自身の目で、ミルウォーキーの大司教がその大司教区の中で姦淫と猥褻を公然と教えることをどのように許したかを報告しています。証拠が聖座へ送られました。そして証拠のうちのあるものはミルウォーキーの公共テレビで見られました。そのことを公然と明らかに言うべき時が来ました。異議申し立てをする者たちと異端者たちは教皇および教皇に一致した司教たちに反対して、一つの新しい教会、教義、あるいは道徳あるいは恩寵のない教会、を建てたいと望みました。

この新しい教会は生ける反キリスト、バビロンの淫婦、絶えることのないスキャンダルの教会です。しかし、黙示録において言っているように、最後には火が天から降りかかり、淫婦を破滅させるでしょう。

危機についてのシスター・ルシアの見解

シスター・ルシアは、教皇御自身が都合のよい時と考えるまでは聖母の最後の秘密を明かすことを許されていません。他方において、何ものも原理的には、宗教的従順の範囲内で、個人として危機に関する彼女の意見を述べることを妨げません。シスター・ルシアはこのことを1969年から1971年の間に書いた一連の手紙の中でしました。その手紙はファチマの司教の印刷出版許可つきで2年後に公表されました。フレール・サント・ミッシェルは秘密に関する彼の書物の中でこれらの手紙の背景を述べています。ある神学者たちはよく知られた反対を繰り返しながら、ロザリオ反対のキャンペーンを張りました。いわく、「ロザリオは十分に典礼的ではない。ロザリオは第二ヴァチカン公会議の後には時代遅れである。ロザリオは単調すぎる。」

彼女の手紙の中で、シスター・ルシアはこれらすべての偽のテーゼに精力的に反対しました。それは彼女がこれまでの用いた最も強い言葉でした。彼女はロザリオ反対のキャンペーンを「悪魔的」と呼ぶことを躊躇しませんでした。彼女には司祭である三人の甥がいます。彼女はそのうちの一人に、1969年12月29日こう書きました。「....見当識をなくしてしまったある人々がロザリオに反対して言っていることは誤りです。太陽の光はロザリオを唱えることよりは古いです。しかし、彼らはそれでもなおその光から利益を得たいと望んでいます....詩編もまたより古いものです。(しかし、それは今もなお)聖なる典礼の一部です。」

「めでたし、天にまします、栄光唱は私たちを神のところにまで引き上げ、ちょうどパンをよく噛むことが私たちのうちの自然的生命を支えるように、私たちに神の生命への参加を与えながら、私たちを神に結びつける鎖ですから、誰もそれを時代遅れだと呼びません!」

「この方向を逸らすことは悪魔的です!欺かれてはいけません。」

彼女のもう一人別の甥に、ロザリオについて話しながら、彼女はこう書きました。

「神が私たちに教えてくださり、私たちにそのように暖かく推奨してくださった祈りがなぜ時代遅れなのですか?ここに、彼らに祈りを無視させることによって霊魂を神から離れるように導きたいと望んでいる悪魔とその弟子どもの計略を見ることは容易です....だまされてはいけません。あなたに委ねられた霊魂たちに対する一つの光でありなさい。そして彼らと共に毎日ロザリオを唱えなさい。」

「教会で、通りでロザリオを祈りなさい....もしできるならば、人々と共にロザリオを祈り、歌いながら通りを歩きなさい。そして教会で聖体降福式をもって終わりなさい。これは教会のために平和を求めるために祈りと痛悔の精神において為されるべきです....」

彼女は甥たちのうちの別の者にこう書きました。

「非常に多くの人々が世界中に押し寄せている悪魔的な波によって自らを支配させているのは悲しいことです!そして彼らは誤りを見ることができないところまで見えなくさせられています!彼らの主たる過ちは彼らが祈りを放棄したということです....」

1970年4月4日に彼女はこう書きました。

方向を逸れてしまった者の教義によって邪道に導かれないことが必要です....(ロザリオ反対の)キャンペーンは悪魔的です。私たちはそれに恐れずに立ち向かわなければなりません....私たちは霊魂たちに対して、今、これまで以上に、私たちに賛成する人々と私たちに反対する人々のために祈らなければならないと言わなければなりません!私たちは毎日ロザリオを唱えなければなりません。これは、悪魔的なキャンペーンが続けられている現在を予見して私たちに警告なさるかのように、私たちの主が最も推奨なさった祈りです!....御聖体を顕示し、そのみ前でロザリオを唱えることを恐れてはいけません。」

「これが典礼的でないと言うことは誤りです。というのは、ロザリオの祈りは聖なる典礼のすべての部分だからです。そしてもしロザリオの祈りが、私たちが聖なる犠牲[ミサ]を祝うように、ロザリオを唱えるとき神を不快にさせるものでないならば、同じように私たちが、主の現存において[御聖体の顕示の前で]、主が私たちの礼拝のために顕示されておられるとき、ロザリオを唱えるとき、その祈りは主を不快にさせるものではありません。反対に、これは神を最も喜ばせる祈りです。というのはそれは私たちがそれによって神を最もよく称賛する祈りだからです。」

シスター・ルシアは通常は決してそのような強烈な言葉を使いませんでした。彼女はほとんど、あたかも祝せられたおとめが秘密において、1917年に現在世界に押し寄せているこの「悪魔的な波」を明らかにされたかのように、話しています。最も悲しい部分は、シスター・ルシアによれば、そのように多くの奉献された霊魂たち、司祭、修道者、司教たちが混乱のうちに押し流されているということです。

「そのように大きな方向逸脱、そして責任ある地位を占めているそのように多くの人々のうちに、それを見ることは悲しいことです!....悪魔は善を装って悪の中に連れ込むことに成功しました。そして、主がその福音の中で私たちに告げておられるように、目の見えない人々が他の人々を導き始めています....」

私たちが、シスター・ルシアによれば、秘密は<福音のうちに>含まれているということを考えるとき、彼女がこの文脈において福音を引用する仕方は意味深長です....そして明白に不吉な輪を帯び始めます。第三の秘密に関する600ページの書物の著者であるフレール・サント・ミッシェルは彼の研究の諸発見を私たちに分かちます。

おとめマリアの腹心の友にとって、悪は単に私たちの世界のうちに退廃においてあるばかりでなく、不道徳と高慢の誤りの暗闇の中へと突入しています。悪はまた教会そのものの中にもあります。そこでは悪魔が彼の「追随者たち」と彼の「別働隊」を持っています。彼らは常に「大胆不敵さをもって前進しています」。彼らに直面して、反撃する勇気を持たない非常に多くの「臆病な人々」がいます。そしてシスター・ルシアは多くの司教たちが彼らの数の中にいると述べることを恐れていません。さらに、それは単に生ぬるさ、あるいは司牧的な怠慢の問題だけではありません。シスター・ルシアは攻撃されているのは信仰それ自身であるということをはっきり理解させます。彼女は「誤った教義」について、「悪魔的な混乱」について、「目の見えないこと」について話しています。そしてこれは教会において「大きな責任を持っている」まさにそれらの人々の間でのことです。彼女はそのように多くの司牧者たちが「世界に侵入している悪魔的な波によって自らを支配されるに委せている」という事実を遺憾に思っています。サタンがその主君である世界に自らを開いた教会の危機をもっとよく記述できる者がいるでしょうか?

しかし、シスター・ルシアはこう主張しています。「聖母はこれらの悪魔的な方向逸脱の時代が来るべきことをご存じでした。」幻視者のこれらすべての言葉と私たちが引用することができる他の多くの言葉は1917年7月13日に、彼女の第三の秘密において、もし聖母が、もし彼女の要求が従われなかったならば、教会を突然襲うであろうこの悪魔的方向逸脱を予告なさったならば、完全に説明され、大きな顕著さを帯びます。

最後の戦い:太陽をまとった女対黙示録の竜

シスター・ルシアは明らかに、その手紙の中で彼女が明らかにすることができたよりもはるかに多くのことを知ることができました。しかしながら、本質的なことに関して私たちは十分に知っています。明らかに、悪魔の戦略は教会を誤り導くこと、もちろん、そのようなことがもし可能ならば教会を破壊することです。それは奉献された霊魂である司祭、修道者、兄弟たち、そして実際教会の司牧者たち自身を誤り導き、方向逸脱させることによってではありません。もう一度、私たちは度外れにショックを受けるべきではありません。ここには新しいことは何もありません。これは常に敵の戦略でした。1517年にキリスト教世界の3分の1が大部分は堕落した司祭たちであった改革者たちによって教会から引き離されました。同じことはアリウス派の異端についても真です。それはそれが行ったあらゆるところで腐敗させる伝染性の病原菌のように、数世紀の長きにわたって教会を苦しませました。ですから、悪魔のこの戦略には新しいものは何もありません。それは福音....そして黙示録と同じように古いものです。

大きなしるし

黙示録の第12章において、福音書の著者である聖ヨハネは天に大きなしるしが現われたと私たちに告げています。「一人の女が太陽をまとい、その足の下には月を踏み、その頭には十二の星の冠を戴いていた。」(黙示録 12,1)。その女は、もちろん、祝せられたおとめマリアです。フレール・サント・ミッシェルが私たちに告げているように、最良の解釈学者たちは常にこの事実を認めてきました。尊者アグレダのマリアはそれを祝せられたおとめの生涯についての彼女の幻視において確証しています。そして教会自身この女を、被昇天のミサおよび日課祈祷において聖母だと認めています。その女は竜、サタン、悪魔、古い蛇との死闘の中に閉じこめられています。大きな赤い竜はその尾で天の星の3分の1を地に打ち落としました。しかし、彼らは何を求めて戦っているのでしょうか?空にある生命のない小惑星を求めてでしょうか?いいえ、それは人間たちの霊魂、そして特に神の民の奉献された指導者たちの霊魂:すなわち、司祭、司教そして修道者たちの霊魂です。なぜなら、他の人間たちの霊魂のための戦いは大幅にこの第一の戦いにかかっているからです。なぜなら、シスター・ルシアが言っているように、「司牧者が正しい道において彼らをどのように導くかを知っているとき、羊は一般に従うからです。」

そこで、これは私たちが教会のまさに核心で目撃している大きな戦いです。それは宗教的生活において神に奉献したすべての人々の霊魂のためです。私たちは今、司祭たちと教皇のために祈る小さなジャシンタの没頭を理解し始めています。今また私たちはシスター・ルシアがなぜ次のように書いたかを理解し始めています。「私は喜んで、神の教会における平和のために、司祭たちのためにそしてすべての奉献された霊魂のために、私自身を犠牲にし、神に私の生命を捧げます....」

秋田の聖母は、意味深長にも10月13日に与えられたその最後のメッセージの中で言っておられます。

「教皇、司教たち、司祭たちのために毎日ロザリオを祈りなさい。悪魔の働きが教会の中へさえ侵入するでしょう....教会の中には妥協を受け入れる多くの人がいるようになるでしょう。悪魔は主への奉仕を離れるように多くの司祭たちと奉献された霊魂たちを圧迫するでしょう。悪魔は特に神に奉献された霊魂たちに対して怒り狂うでしょう。人間の霊魂の喪失を考えると私は気が狂いそうになります...」

「論争の的となる」秘密

際限のない論争を必ず引き起こす秘密についての最後の問いがあります。すなわち、それは公に明らかにされるべきか、それともされるべきでないか?という問いです。それを別の仕方で提出するならば、こうです。もしシスター・ルシアが祝せられたおとめの望みに従って、秘密は1960年には明らかにされるべきであったと指摘したとするならば、なぜ教皇たちはそうしなかったのでしょうか?私たちはそれについて間違いをしてはなりません。ファチマの秘密を明らかにすることは教会にとってより苦い薬となるでしょう。しかし、それは必要な薬です。それが苦いほど健康にはよいものです。それは楽しいことではないでしょう。しかし、それは28年間神秘的な身体を苦しめている傷を焼き、恐るべき熱を癒すことへ向けての第一歩となるでしょう。旧約聖書における預言者の声、「来て、主に立ち戻ろう、なぜなら、主は私たちを引き受けられたからである。そして主は私たちを癒してくださるであろう。主は打ち、私たちを癒してくださるであろう。主は二日後に私たちを生き返らせてくださるであろう。三日目に主は私たちを復活させ、そして私たちは主のみ前で生きるであろう」(ホセア 6:1-2)という声に耳を傾けるように、教会の子どもたち全てがそれに耳を傾けるものであればよいが。

* Huchede, History of Antichrist, TAN Books を見よ。


ファチマ・クルーセイダー

2014年02月18日 | Weblog

第三の秘密

The Fatima Crusader Issue 26, Autumn / Winter 1988より

ジョン・コロラフィ

「大勢の反キリストが現われました」(1ヨハ 2:18)

第1部:ファチマの第三の秘密、終わりの時と教会における危機

「私の使命は、もし私たちが罪のうちに頑固にとどまるならば、永遠にわたった私たちの霊魂を失う差し迫った危険の中に私たちがいるということをすべての人に示すことです。」

ファチマのシスター・ルシア

1917年7月13日、ファチマでの第3回目の御出現の間に、聖母は三人の幻視者たちに大きな秘密を打ち明けられました。秘密の存在は最初から知られていましたが、しかし秘密のその部分が公式に明らかにされたのはシスター・ルシアが第三の手記を書いた1941年7月か8月になってです。

「その秘密は三つの異なった問題から成っています。そしてそのうちの二つを明らかにします。」と彼女は書いています。私たちが見るように、最初の部分は地獄の幻視と、私たち可哀想な罪人の救いのために神によって提供された至高の救済策としてのマリアの汚れなき御心の明示です。「あなたたちは地獄を見ました。そこへは可哀想な罪人たちの霊魂が行くのです。彼らを救うために、神は世界の中に私の汚れなき御心への信心を確立することを望んでおられます。」*

秘密の第二の部分はソビエト・ロシアの興隆に関係しています。ロシアは戦争と教会の迫害を引き起こしながら、その誤りを世界中に広めるでしょう。「さまざまの民族が全滅させられるでしょう」と聖母は警告されました。しかし、聖母は大きな救済策をお与えになりました。すなわち、教会位階に聖母がお求めになった彼女の汚れなき御心へのロシアの奉献、すべてのキリスト教徒にお求めになった償いのための5回の土曜日です。私たちは最後に、教皇が決定の言葉を述べられ、ロシアが奉献され、そして汚れなき御心が世界において勝利するであろうということを知っています。フレール・ミッシェル・ド・サント・トリニテがそのいつもの洞察でもってそれを表現したように、「グーラーグ[強制収容所]かそれともキリスト教か!」です。なぜなら、その間には何も存在しないからです....

「第三の秘密」

一般に「ファチマ第三の秘密」と呼ばれているものは、1917年7月13日に聖母が三人の子どもたちにお与えになった預言的秘密の最後の部分です。私たちは「第三の秘密」よりもむしろ「秘密の第三の部分」とそれを呼ぶことの方を選びます。というのは、正確に言えば、三つの異なった部分に分けられるただ一つの秘密だけが存在するからです。秘密の最初の二つの部分はすでに長い間公共の知識となっていました。

フレール・ミッシェル・ド・サント・トリニテによって報告された余り知られていない事実は、1944年1月2日に聖母御自身が司教の公式的な命令に従うようにシスター・ルシアに再び御出現になったということです。聖母はシスター・ルシアが今や秘密を書き下ろすことは実際真に神の御意志であるということを説明なさいました。聖母はまたシスター・ルシアに、ダ・シルヴァ司教は教皇ピオ十二世がそうできたのと同じようにそれを直ちに読むことができるとも告げられました。祝せられたおとめはまたファチマの秘密のこの第三の部分は1960年に信徒たちに明らかにされるべきであるということをも指示なさいました。

ダ・シルヴァ司教が秘密の入っている封筒を開けることを望んでいないということを確認して、シスター・ルシアは、カノン・ガランバの言葉によれば、「彼女の死か、あるいは1960年になるか、そのいずれかのことが最初に起こる場合には、第三の秘密は開けられ、読まれるということを司教に約束させた」のです。もしダ・シルヴァ司教が最初に死んだならば、秘密はリスボンの大司教である枢機卿に打ち明けられるということが同意されました。第三の部分は公式に決して明らかにされてきませんでした。

ラッツィンガー枢機卿の証言

1960年以来ずっと、途方もない推測が秘密の内容をめぐって集中しました。その主題に関して公表されたもののほんのわずかのものだけが十分に信頼し得るものです。一般にそこには両極端があります。第一の極端は秘密をあらゆる種類の地殻の大変動や惨事と同一視する傾向のある途方もない推測です。この要素はさまざまな悪ふざけをする人々や無節操なジャーナリストたちが真のファチマのテキストとして前面へと押し出した「典拠の疑わしい」あるいは偽の秘密において特に傑出しています。もう一つの極端は「それがまだ公表されていないので、私たちは秘密については何も知らない」という言うことです。これは1917年においては真であったかもしれません。しかし、それは今日もはや真ではありません。

私たちは今、秘密の真のテキストについてかなり多くのことを知っています。ヨアキム・アロンゾ神父、フレール・ミッシェル・ド・サント・トリニテのようなさまざなのファチマ学者たちの仕事はこの文書に対する貴重な洞察を私たちに与えました。論証し得るものして、最も価値あるそして啓発的な証言はラッツィンガー枢機卿の証言です。というのは、彼は秘密を実際に読んだからです。1984年11月に公表された有名なインタビューの中で、イタリアのジャーナリスト、ヴィットリオ・メッソーリは枢機卿にこう尋ねました。「ラッツィンガー枢機卿、あなたは、シスター・ルシアがヨハネ教皇に送り、教皇が明きらかにすることを望まず、史料保管所に仕舞うことを命じたファチマ第三の秘密と呼ばれるものを読みましたか?」

「ええ、私はそれを読みました。」

「なぜそれは明らかにされてこなかったのですか?」

「教皇たちの判断によれば、それはキリスト者が啓示から知るべきものに何もつけ加えないからです。それは、回心への根本的な呼びかけ、歴史の絶対的な重大さ、キリスト者の、そしてそれゆえに世界の信仰と生活を脅かす危険です。そしてまた終わりの時の重要性です。」それから、枢機卿は意味ありげにつけ加えられました。

「もしそれが公表されないとすれば -- 少なくと当分の間は -- それは宗教的な預言を人騒がせなやり方と混同することを避けるためです。しかし、第三の秘密に含まれている事柄は聖書において告知されてきたことであり、他の多くのマリアの御出現によって 確証されてきたことに合致しています....」*

「回心への根本的な呼びかけ」

もちろん、ラッツィンガー枢機卿は教皇御自身がそれが明らかにされ得ると決断されないかぎり、秘密の明白な内容を明らかにすることを許されていません。しかし、みごとな遠回しの言い方を使うことによって、彼は私たちに秘密の尋常でない重大さを見ることを許しています。秘密が、教皇たちの判断において、他のマリア御出現から私たちが知っていることに、それらの知られた内容において、合致するということは重要なことです。これは第三の秘密の理解にとってその鍵の一つです。

「他のマリア御出現によって確証されている」

その書物において、枢機卿は世界至る所でのマリア御出現の報告が急激に増加していると私たちに告げておられます。これらの事例のあるものは教会の権威によって確証されました。なお他のものは見せかけのものとして退けられました。多くのものはまだ決定が出ていません。

これらのマリア御出現において繰り返されている一つの要素は、もし人類が悔い改めないならば、人類の大部分の上に落ちかかる恐るべき懲罰についての警告です。ここでは、もう一度、メッセージは楽しいものからはほど遠いものです。しかし、それは私たちがすでに福音書から知っていることを確証するものです。「あなたがたも悔い改めないと、皆同じように滅びる」(ルカ 13:3)。神は平均的な人間から異常な苦行をお求めになっているのではありません。神は比較的小さな犠牲を求めておられます。イエズスが要求なさっている主要な犠牲は神の律法に対する従順です。

秋田における恐るべき警告

ラッツィンガー枢機卿が言及しておられるマリア御出現の一つは日本、秋田の聖母です。私たちはそれが地方の司教、伊藤司教によって是認されてきたので、このメッセージを選びます。懲罰は誤り得ない言葉で予告されています。

「もし人々が悔い改めず、その生活を変えないならば、御父は人類全体の上に恐るべき懲罰を加えようとなさっています。それは大洪水よりもはるかに大きな懲罰でしょう....天から火が落ちかかり、人類の大部分を絶滅させるでしょう....」

第三の秘密は懲罰をほのめかしているのでしょうか?私たちは真正のテキストが公表されないかぎり、それが確かであると言うことはできません。しかしすでに明かされた秘密の部分は、聖母の警告が聞かれないならば、「さまざまの民族が絶滅させられるでしょう」と警告しています。ラッツィンガー枢機卿の言葉によれば、「厳しい警告が支配的な浅薄さに対して発せられた。生活の、そして歴史の重大性に対する呼びかけ、人類を脅かしている危険に関する警告が出されている。」*

しかしながら、懲罰は、もし司教たちや司祭たちが悔い改めの力強いメッセージを説教し、信徒たちがその呼びかけに注意を払うならば、避けることができます。ヒステリーあるいは行き過ぎた警鐘の必要はありませんが、しかし、また自己満足にも理由はありません。

「キリスト者たちの....そしてそれゆえに世界の信仰と生活に対する危険」

「第三の秘密」の最初の行は聖母が三人の幻視者たちになさった慰めの約束で始まっています。「ポルトガルにおいては信仰の教義は常に保たれるでしょう。」* 「聖マリアの土地」であるポルトガルにおいて信仰の教義が常に保たれると考えることは人を感動させるものです。しかし、このことは多くの他の国々が、おそらく全大陸でさえ、信仰の真の危機を経験するという真の可能性を高めます。1976年にすでにファチマの公文書保管人であるアロンゾ神父はファチマに関するさまざまの問題についてシスター・ルシアに質問した後に、その可能性を真剣に取り上げました。

「その節(すなわち、秘密の最初の行)は最も明白に、ポルトガルがその信仰を保つ一方で、他の国々が被るであろう信仰の危機的な状態、すなわち、信仰の危機を含意しています。」* 数ページ後に学識あるこの公文書保管人はこう続けています。

「もしポルトガルにおいて信仰の教義が常に保たれるならば、このことから、教会の他の部分においてはこれらの教義が曖昧になる、あるいはまったく失われるようになるということが明白に推定され得ます。メッセージが....カトリック信者たちの間での内部的な戦いと司祭や修道者たちの諸欠陥に具体的に言及しているということはまったくありそうなことです....それは教会位階の高位の段階の間でさえの諸欠陥を意味するでしょう。」*

「終わりの時の重要性」

これは秘密に関するラッツィンガー枢機卿の短い陳述の中の最も目新しい要素です。秘密は「聖書のうちに告知されたものに合致する」、そして特に、聖書が「終わりの時」について言っていることに合致します。もちろん、それは世の終わりが近いということを意味しません。それは論外です。というのは、私たちはロシアの回心をまだ見てしまったのではないからです。いいえ、枢機卿は、聖書が教会の聖人たちや博士たちと並んで、「終わりの時」のために告知している、教会と世界にとっての一つの危機的な時期に言及しておられるのです。そしてラッツィンガー枢機卿によれば、この教義の全体は「重要」です。それは重大です。それは研究に値します。

「第三の秘密」について質問されたとき、シスター・ルシアが「それは福音書の中に、そして黙示録の中にあります。それらを読んでください!」と言ったとフレール・サント・ミッシェルは報告しています。それから彼女は第8章-第13章を指示したとフレール・サント・ミッシェルは述べています。シスター・ルシアが問題を避けていたと私たちが考えないために、彼女の全生涯が完全な従順、教会当局が彼女に許可を与えないかぎり、彼女に秘密をあかすことを禁じる従順によって特徴づけられてきたということを思い出さなければなりません。ところで、彼女の確実なしるし、シスター・ルシアと今日の教会における多くの誤った神秘家たちの間の境界設定の明確な線であるのはまさにこの従順です。イエズス御自身と同じように、彼女は自分自身の栄光を求めずに、うるさく要求したり、扇動したりせずに、決定の言葉を話すように忍耐強く当局を待ちながら、「御父の意志だけ」を求めています。

シスター・ルシアのこのコメントは他の重要な点を述べています。教会の内外両方のある人々はこう尋ねるでしょう。「<秘密> や封印された手紙についてのこのすべての神秘主義はなぜなのですか?」秘密は「福音書のうちに、そして黙示録のうちにある」ということを私たちに告げることによって、シスター・ルシアは私たちに一つの重要な真理を思い起こさせます。すなわち、秘密はすでに公的啓示の中に含まれている、それは聖書が教えていることに合致するという真理です。聖母は新しい教義を教えるために来られたのではありません。また彼女はそうできませんでした。彼女は公的啓示、福音書、そして教会の教えの中にすでに見出されるものを確証するために来られたのです。特にわれわれの時代に言及している黙示録のあれらの部分を明らかにすることによって、聖母はこの混乱の時代に私たちの信仰を保つように私たちを助けることを予定されている一つの特別の助けを提供しておられたのです。このように、「第三の秘密」は単にキリストと使徒たちの教えであるカトリック教会の教えを確証していますから、私たちが今検討しなければならないのは、教えのこの部分です。

「背教が最初に来る」(1テサ 2,3)

私たちの主はその説教の一つにおいて、終わりの時になると、そしてより特殊的に言えば再臨 -- キリストの第二の来臨 -- の前に、危機の時が教会に来るであろうと予告されました。「人の子が来るとき、地上に信仰が見出されるであろうか。」(ルカ 18,8)それは、控え目に言って、一つの非常に挑発的な問い、使徒たちが確かに決して忘れない問いです。なぜなら、彼ら自身の書簡の中に、主のこの教えはそのしるしを残したからです。

その第二の手紙において、聖ペトロはこう書きました。「終わりの時、欲望のままに生活するあざける人たちが現われて、言うでしょう。主の来臨の約束はどうなったのか。父たちは眠りについたが、すべては創造の時からずっと何も変わっていない。」(2ペト 3,3-4)。

聖ユードはまさに同じことを言っています。「時の終わりにあざける人たちが来て、その不敬虔な欲望に従って歩むであろう。」(ユード v.17)

聖パウロ自身他の使徒たちの教えを確証しています。「終わりの日」には、困難な時が来る。このことを悟りなさい。そのとき、人々は自分だけを愛し、金銭をむさぼり、大言壮語し、高ぶり、ののしり、親に逆らい、恩を知らず、神を汚すものとなるでしょう。また、非人情で、人と和解せず、中傷し、節度がなく、狂暴で善を好まないもととなり、人を裏切り、無謀で、おごり高ぶり、神よりも快楽を愛し、うわべは宗教に熱心に見えるが、実際は宗教の力を否定するものとなるでしょう。」(2テモ 3,1-5)。

聖パウロはテサロニケ人への第二の手紙の中で他の重要な細部をつけ加えています。最初に彼は彼らにキリストの切迫した再臨あるいは第二の来臨を期待してはならないと警告しています。大きな危機あるいは逸脱が最初に来ます。もともとのギリシャ語のテキストはそれを「背教」と呼んでいます。

「だれにも、また、どんな手段によっても、だまされてはいけません。なぜなら、まず初めに、神への反逆が起こり、神のおきてに逆らう人、いわゆる<滅びの子>が現われ出なければならないからです。彼は、神と名の付くもの、あるいは、礼拝の対象となるものすべてに敵対して傲然と立ち、ついには自分自身を神であるとして神の聖所に座を占めるまでになります。」(2テサ 2,3-4)。

「次ぎに滅びの子が現われるでしょう」(2テサ 2,3)

聖パウロのこのテキストは預言の正しい評価と相互関係のために非常に重要なものです。最初に大背教が現われなければならない、と彼は私たちに告げます。そして次ぎに、おそらく、不正と無神論があらゆる限度を超えて多くなったとき、罪の人、滅びの子が現われるでしょう。この神秘的な個人は誰でしょうか?教会の教父たちや博士たち、そしてすべての神学者たちの著作においては、彼は一つの名を与えられています。彼は....反キリストと呼ばれています。

私たちの古い読者たちの多く、特に司祭や司教たちは少なくとも反キリストに関する教義のある種の最小のものを教えられたことを思い出すでしょう。聖ヨハネ・ダマスケーヌスがこう言っているように:

神の御子の受肉を否定するすべての者、そしてイエズス・キリストが真の神であり完全な人間であるということを否定するすべての者、そのような人間は反キリストです。しかし、もっと特殊的なそして主要な仕方では反キリストは世の終わりころに来るでしょう。*

反キリストは教父たちに従えば、滅びの子、「獣」(黙示録 13)、666(黙示録 13,18)であり、ペテン、暴力そして偽の驚嘆すべき行為を通じて全世界を支配しに来るでしょう。

「この獣には、すべての種族、民族、言語の異なる人々と国民とを支配する権力が与えられた」(黙示録 13,7)。

反キリストは冒涜の者でしょう。彼は聖あるいは神的と考えられているすべてのもの嘲笑うでしょう。彼は自分自身神であると主張するでしょう。そしてすべての人々によって礼拝されることを望むでしょう。彼は黙示録に従えば、3年半の間支配するでしょう。

「この獣には大言と冒涜の言葉を吐くことが許され、四十二か月の間活躍する権力が与えられた。そこで、獣は口を開いて神に対して冒涜の言葉を吐き、神の名と、その幕屋、また天に住む者たちを冒涜した。この獣は聖なる人々に戦いをいどんで、これに勝つ力を与えられ....」(黙示録 13,5-7)。

「多くの反キリストが現われた」(2ヨハ 7)

次ぎに、これは「滅びの子」の短いスケッチです。彼は教父たちに従えば、すべての不正の一種の集計(recapitulatio universae iniquitatis)である不幸な個人です。それはちょうど私たちの主がすべての善の充溢を含んでいるのと同じです。彼は、私たちの主イエズス・キリストが御父の御意志を行われるのと同じように、サタンの意志をいつも行うでしょう。彼はキリストの正反対のものでしょう。ですから、その名は反キリストなのです。

すべての教父たちや神学者たちは一人の個人を反キリストとして記述することにおいて一致していますけれども、この名前が一人の個人に限定されない別の意味があります。私たちはこのことを神の啓示からはっきりと知っています。

「愛する子どもたち、今は終わりの時です。そして反キリストが来ているとあなたたちが聞いたように、今は多くの反キリストが起こっています。そのことから私たちは今は終わりの時であるということが分かります。」

「父と子を否定する人は反キリストです。そしてイエズスを分けるすべての霊は神からのものではなく、反キリストです。彼についてあなたたちは彼が来ているということを聞きました。そして今はすでに世にいます。」

「イエズスを肉において来られているキリストとして告白しない多くの欺く人々が世に来ました。これは欺く人であり、反キリストです。」(2ヨハ 7)。

聖ヨハネのこの教えの光に照らして見れば、非常に多くの神学者や聖職者たちが今日キリストの神性を明白に受け入れていないというラッツィンガー枢機卿の報告を聞くことはいよいよ憂慮すべきことです。枢機卿自身の言葉によれば、私たちは「まさに基礎そのものに関わる危機...三一神への信仰....イエズスの人間性が一面的に強調され....神的なものが曖昧にされる....創造主たる神の観念もまた曖昧にされる」危機を持っています。ラッツィンガー枢機卿の書物、ラッツィンガー報告はそれが現れたとき大変なセンセーションを引き起こしました。それは決定的に論争の的になるものでした。しかしながら、もし私たちが彼の証言(多くの神学者がキリストの神性と神の真の父性を否定している)を聖ヨハネの証言そして聖書の証言(御父と御子を否定する人は反キリストである)と比較するならば、その結果は呆然とさせるものです....比較によって、枢機卿の言葉を過小評価の見本のようなものにする結果です。

* フレール・サント・ミッシェル、第1巻および第2巻の至る所に(続く)


ファチマ・クルーセイダー

2014年02月17日 | Weblog

聖母はその勝利のために私たちの従順をまだ待っておられる(続き)

The Fatima Crusader Issue 42, Autumn 1992より

ニコラウス・グルーナー神父 B.Comm., S.T.L.,S.T.D.(Cand.)

ロシア:神の懲罰の道具それとも祝福!

世俗的なヒューマニストたちは、自分たちは世話をしている、自分たちは歴史の主人公であると考えています。私たちがファチマのうちに見出す歴史神学は非常に啓発的であり、そしてそれは世俗的ヒューマニズムの誤りを訂正します。もし私たちがあの可哀想な民の回心を手に入れないならば、神が単にロシアの人々だけでなく、全世界の人々を罰するために懲罰の一つの道具としてロシアを選ばれたということは非常に興味深いことです。

それがシスター・ルシアがフエンテス神父とのあの有名なインタビューの中で再び私たちに語っていることです。「祝せられたおとめは何度も私自身、私の従兄弟のジャシンタとフランシスコに、もし私たちがあの可哀想な民の回心を手に入れていないならば、ロシアは全世界を罰するために天によって選ばれた懲罰の道具ですと語られました。」

トーマス・ウォルシュ氏は1946年7月15日にシスター・ルシアにインタビューをして、今日私たちは預言のどの段階にいるのかと彼女に尋ねました。彼女はこう言いました。「私たちはロシアが全世界にその誤りを広めている段階にいます。」

それで彼は言いました。「これはロシアが全世界を奴隷化するという意味ですか?」彼女は答えました。「そうです。」彼は通訳を通して彼女に話していましたので、彼は質問を誤解しているかもしれないと考えました。それで彼は再びその質問をしました。そして彼はこうつけ加えました。「それはアメリカ合衆国を含みますか?」そして彼女は再び言いました。「はい。」

シスター・ルシアと教皇の間の関係

世界平和を獲得し、諸民族の奴隷化と絶滅を避ける唯一の道はファチマの聖母のメッセージを通じてです。そしてもっと正確に言えば、そのメッセージを通じて彼らに与えられた命令に教皇と司教たちが従うことを通じてです。

人はこう尋ねるかもしれません。「シスター・ルシアは教皇よりも重要なのですか?私はどこにも彼女が教会の頭として決定されたということを読んだ記憶がありません。」私たちはその答えを指摘したことに対してジョセフ・サント・マリー神父に感謝しなければなりません。1985年に亡くなったローマ、テレジアーヌムの一人の偉大な神学者は、使徒たちの教会には預言のカリスマが使徒たちのカリスマと並んでいた、と指摘しました。

たとえ使徒たち自身が私たちの主を見、主によって直接権限を与えられたとしても、それにもかかわらず、あることがらにおいて、彼らは当時生きていた預言者たちによって指導されていました。そしてそれがあなたたちが『エフェソの信徒への手紙』第2章第20節において、聖パウロが私たちに教会は使徒たちと預言者たちの基礎の上に建てられていると告げているのを見出す理由です。

ところで、私たちは皆私たちの教義神学から、教会は使徒たちと彼らの後継者たち、そして聖ペトロの後継者たち、教皇の位階制の上に建てられているということを知っています。しかし、私は教会がまた預言者たちの基礎の上にも建てられているという事実を私の初期の教育において大いに学んだという記憶がありません。聖パウロが話しているのは新約聖書の預言者たちです。事実、聖パウロの使徒としての委託はある意味において預言的カリスマ、すなわち預言の賜物を通じてなされたのです。

数人のカトリックの人々が一緒に祈っていました。そして彼らの中にパウロ、あるいは彼が知られていたようにサウロ、とバルナバがいました。そして彼らが祈っていると、預言者たちの一人が話し、言いました。「聖霊の御名において、私はサウロとバルナバが私の奉仕のために取って置かれることを望む。」そしてそのように彼らは祈り、そして断食しました。それから彼らは神の奉仕のためにパウロとバルナバを「聖別」し、あるいは換言すれば、「取って置き」ました。そしてパウロが司教に聖別されたのはただそのようにしてでした。聖パウロが司教としての彼の権限を受けたのは使徒たちと並んで働いているカトリック教会における初期の預言者たちの預言的カリスマを通じてでした。

そして聖パウロが聖書において指摘しているように、すべての使徒たちのなかでも彼は教会を迫害したので、使徒と呼ばれるに相応しくありません。彼ら全部の中で彼は、彼の宣教の努力の成功に関するかぎり、教会のために、他のすべての人々全部を合わせたよりももっとよいものを産み出しました。

                                             ですから、カトリック教会における預言者の役割は使徒たちの時代に遡り、そして私たちの時代にまで続いています。聖トマス・アクィナスはその著『神学大全』(II-II, q.186)において、神は新しい教義を与えるためではなく、信徒たちに彼らがその霊魂を救うためにしなければならないことを思い起こさせるために、あらゆる世代のために預言者たちを立てられると私たちに告げています。

神は、ある人々が考えていることにもかかわらず、ただ神が聖書において言われたこと、あるいはただ聖なる伝統において、それが2000年前に預けられたように、手渡されてきただけのものを私たちに話すことを強制されておられるのではありません。神はまた認可された預言者たちを通じて私たちとコミュニケーションをなさることがお出来になり、そしてそれが聖なる伝統と聖書の一部なのです。

それでは預言者と使徒との関係は何でしょうか?神の御名において話すことは預言者の役割です。預言者が実際に神から来ているということを吟味し、見ることは使徒の役割です。

ですから、それは教会がファチマの預言的メッセージを検討する義務を持っているということです。そしてそれがよいものであると見出したとき、それは従う義務を持つのです。それは預言者に従うこととしてではなく、預言者を通じて話された神に従うこととしてです。

ファチマの預言的メッセージは従順を要求する

それがファチマのメッセージが単なる敬虔な選択でないのは、聖母への信心が単に敬虔な選択でないのと同じ理由です。ファチマのメッセージなしには私たちは世界における平和、あるいは教会における平和を達成しないでしょう。私たちは私たちの共同体および私たちの国にいて、神が意図されたものとして、典礼的な平和を達成することについて、私たち自身のために立てた限定された目標を、もし私たちがそれを達成するための神の御計画の中へ入って行かないならば、達成しないでしょう。

「ただ私だけがあなたたちを救うことができます」と祝せられたおとめは私たちに告げておられます。これは私たちが働くべきでない、私たちが話すべきでない、使徒職を引き受けるべきでない、そして私たちの限定された目標を達成するために努力をすべきでない、ということを意味しません。しかし、それはもし私たちがその目的を達成することを望むならば、私たちはまたそれを神が私たちにお与えになった御計画の文脈と概略内でなすべきであるということを意味します。

「主が家を建てられないならば、それを建てる彼らの労働は無駄になる。主が町を守られないならば、見張りが見張りを続けることは無駄である。」そしてそのように、もし私たちが、神がそれをするように私たちにお求めになる仕方で神に願わないならば、神は家をお建てにならないでしょうし、町を守られないでしょう。

それが、1935-1936年にシスター・ルシアが教皇にメッセージに注意を払ってもらうように試みた6年後に私たちの主に尋ねた理由です。彼女はなぜ私たちの主がロシアの奉献を固執なさるのかを不思議に思いました。「主よ、他の方法はないのですか?」彼女は正確にこのように言いませんでした。しかし、彼女は主がなぜ世界に平和をもたらすためにロシアの奉献に固執なさるのか、その理由を尋ねたのです。

私たちの主は彼女に「あなたは誤解したね、わが娘よ」とはおっしゃいませんでした。主はむしろ彼女の理解を確証なさり、こう言われました。「私は全教会がその奉献を汚れなき御心の勝利として認めることを望んでいるからです。それによって後に、私の聖心に対する信心と並んで私の母の汚れなき御心に対する信心を建てるのです。」

霊魂たちを救うために

それは聖母が1917年に言われたことに戻ります。「神は世界の中に汚れなき御心に対する信心を確立することを望んでおられます。」そしてその指摘の文脈は地獄の幻視です。

あなたたちはファチマという言葉がモハメッドの娘の名前であるということを知らないかもしれません。しかし、その言葉の意味は「地獄から救われること」、地獄の火から救われることです。ファチマの秘密のまさに始まりそのものは事実地獄の幻視です。この恐ろしい幻視の後に、ルシアは、彼女と彼女の二人の従兄弟たちが、もし聖母が彼らが見ているときに彼らと一緒にそこに立っておられなかったら、恐怖のために死んでいたでしょうと私たちに告げています。

もし聖母が彼らを天国に連れて行くと約束なさらなかったならば、彼らは恐怖のために死んでいたでしょう。この幻視の後、子どもたちは彼女の方を見上げ、そして彼女はこう言われました。「あなたたちは可哀想な霊魂たちが行く地獄を見ました。神が私の汚れなき御心に対する信心を世界中に確立することを望んでおられるのは彼らを救うためです。」そしてそうなのです。神の第一の目的はもちろん神の栄光です。

その後の第一の目的は霊魂たちの救いです。霊魂たちを救うというその目的を達成するために、神はマリアの汚れなき御心に対する新しい世界信心を確立することを望まれます。そして神はこの信心をどのように確立しようとなさるのでしょうか?ロシアの奉献によってです。

私は私たちが今現在いる歴史の瞬間は、モーセと神の民が旧約聖書の中で、紅海のほとりで自分たちを見出している瞬間と何か似ているものであるということを指摘したいと思います。モーセは神の特定の民(そして私たちは後継者です)が、そこに一人の預言者が来る、そしてもし彼らがその預言者を受け入れないならば、そのとき彼らは神の民から切り離される、と告げました。

それで自らをユダヤ人と呼ぶこれらの人々は聖書的な意味ではユダヤ人ではありません。彼らはイエズス・キリストの十字架を拒否しましたから、神の民から切り離されました。彼らは預言者イエズスを拒否しました。そしてそれゆえに、神の民から切り離されました。そして私たちは、教皇ピオ十一世が指摘されたように、霊的なセム人、アブラハムへの約束の相続人です。

その類比は完全に適用可能です。カトリック教会、カトリック信者は紅海のほとりに立っています。彼らは完全に取り囲まれ、そして彼らは武器を持っていません。そして私たちの敵は抜き身の剣を持っていて、もし私たちが「新しい世界秩序」に、そして神のない一つの世界宗教に回心しないならば、殺そうと準備を整えています。それは文字通り真実です。

私はKGBエージェントについて読んできました。そしてそのように彼らが勢いを得るとき、彼らは30人以上を誰でも抹殺することを意図していると指摘してきました。というのは、彼らは新しい思考様式には容易に洗脳され得ないからです。

そのように、私たちは紅海のほとりに立っています。私たちは完全に取り囲まれ、そして私たちはどこにも行き場を持っていません。あなたたちは思い起こすでしょうが、神はまたその民を紅海へ導かれました。そして彼らは、私たちが自分たち自身の罪によってこの危機の中に置かれているように、あの危機の中に置かれていました。

神は民を救出されました。しかし、それが一人の人間を通じてであったということを思い起こしてください。それは彼らに対する神の至高の権威を認識することを通じてでした。私たちは神があのモーセに命令されたということを認めます。そしてひとりモーセだけがその杖をもって海の上に彼の腕を伸ばさなければなりませんでした。そして神は従順というこの簡単な行為によって彼らを救われたのだということを私たちは認めます。

海の上に伸ばされたモーセの手の中の一片の木をもってしての神の民の救出は、剣、戦車、馬、弓矢をもった人々を止めるにはとうてい十分ではありませんでした。同じように、この国にねらいを定められた2万発の核弾頭(8対1)は確かにアメリカが別の方法に直面しながら持っているよりもずっと多いのです。

神の民の指導者、聖なる父である教皇のたった一つの従順の行為は私たちに反対しているすべてのことに比較して人間的な言葉において不釣り合いです。しかし、1990年代における新約聖書の神の民が救われるのはその一つの従順の行為によってです。そして他のどんな道もないでしょう。というのは、神は世界の中に汚れなき御心に対する信心を確立することを望まれているからです。そしてこれが神がなさろうとしているやり方です。それは他のどんな仕方でも起こらないでしょう。

私たちはそのことを喜んで受け入れ、それのために働くことができます。あるいは私たちはそれを拒否し、あるいはそれは重要ではないと考えることができます。そして私たちの血、私たちの自由、私たちの解放、そしておそらく私たちの霊魂で支払うでしょう。

「聖霊の火を消してはいけません。預言を軽んじてはいけません。すべてを吟味し、そしてよいものを大切に保ちなさい。」(1テサ 5:19-22)。ファチマの預言的メッセージは神からのものです。神はそれが従われることを望んでおられます。それは従われるでしょう。

私たちは、最後に教皇(私たちはどの教皇がそうなさるかを告げられていません。しかし私たちは教皇がそうなさるということを告げられています)はそれをなさるでしょう。「最後に」と彼女は言われます。そして聖母が話されるとき、多くの言葉を用いられないということを注意することは興味深いことです。しかし、彼女は、明らかにそれが直ちに起こらないであろうということを示されながら、「最後に」という三つの語をつけ加えておられます。

「最後に私の汚れなき御心は勝利するでしょう。」それから彼女はこのことがどのように達成されるか、そしてこの勝利に何が含まれるか、を続いて述べられます。「最後に私の汚れなき御心は勝利するでしょう。教皇はロシアを私に奉献するでしょう。」それは彼女の第一の勝利です。彼女の第一の勝利は教皇の心の上にあります。彼女は最後に教皇はロシアを私に奉献し、そして私の汚れなき御心は勝利するでしょう、とは言われませんでした。彼女はこう言われたのです。「最後に私の汚れなき御心は勝利するでしょう。教皇はロシアを私に奉献するでしょう。」

ですから、勝利は教皇の従順を含んでいます。「最後に私の汚れなき御心は勝利するでしょう。教皇はロシアを私に奉献するでしょう。ロシアは回心し、そして平和の一時期が人類に与えられるでしょう。」

ここには三つの勝利があります。第一の勝利は教会の心の上に、教皇の上にあります。そしてそのことに関するかぎりでは、私たち一人ひとりの上にあります。私はまず第一に私自身を含む教会がまだ、ファチマの預言的メッセージにおける神の御意志によって示されているような聖母の勝利をもたらすために理解し、あるいは働くことを十分に果たしてこなかったと主張します。

シスター・ルシアはフエンテス神父のあの有名なインタビューにおいて再び話しながら、祝せられたおとめマリアは悲しんでおられると言いました。あなたたちは、私が見たように、そしてあなたたちの中のある人々が見たように、聖母の像が泣いている絵を見ました。シスター・ルシアは1957年に言いました。「聖母はよい人も悪い人も彼女のメッセージに何の注意も払わないので、悲しんでおられます。」

悪い人たちは彼らの上に落ちかかる災厄を見ずに、彼らの道を進みます。しかし、聖母は彼女のメッセージに何の注意も払わない人々としてよい人をさえ含めておられます。それが私たちが私たちの時代に衰えた理由です。私たちの主は10タラント、5タラント、そして1タラントをもった人々について話しておられます。1タラントを持った人はそれを地面に埋めました。そして彼がそれを主人に戻したとき、彼はそれを10タラント持っていた人に与えるように言われました。しかし、彼らは抗議しました。「主よ、彼はすでに10タラント持っています。そして他の人は何も持ちません。」しかし、イエズスは、タラントを持っていたが、それらを投資しなかった人は彼からそれらを取り去られるであろう、と説明なさいました。

聖母は第三の秘密において霊的な懲罰について話しておられます。私たちは、私たちが自分たちのものであると考え、私たちが投資しなかったものを私たちから取り去られました。私たちはマリアの汚れなき御心に対して世界の中に信心を確立するために十分に私たちの役割を果たしませんでした。1950年代にカトリック教会はとてつもなく大きな成長と活力を経験していました。今日世界の多くの箇所で私たちは後退しています。そしてラッツィンガー枢機卿が指摘しておられるように、信仰は世界中で危機に陥っています。

今は私たちが他の人々と共にせよ、あるいは私たち自身でにせよ、汚れなき御心の旗印の下に列する時です。しかし、私たちは、少なくとも祈りによって以外には何もないとしても、私たちにできることをしなければなりません。そして、主御自身が言われたように、私たちの祈りなしにでないことは確かです。「教皇のために祈りなさい、たくさん祈りなさい。彼はそうするであろう。しかし、それは遅いだろう。」

トゥリンチャード神父はその著『恐るべきファチマの奉献』において、シスター・ルシアへのリアンジョでの私たちの主の言葉を指摘しています。「私の命令の実行を遅らせることにおいてフランス王の例に彼らが従うならば、彼らはフランス王に従って不幸に落ちるであろうと、私の僕たちに知らせなさい。彼らはそれを後悔するであろう。そしてそれをするであろう。しかし、それは遅いだろう。」

フランス王は1793年に首をはねられました。というのは、彼はフランスをイエズスの聖心に奉献するようにという聖心の命令に従わなかったからです。一つの預言的メッセージに対する不従順のその行為のために、王は首をはねられたのです。預言的メッセージを通じて与えられた神の命令に従わないことに対してそれは軽い罰ではありません。

聖マルガリタ・マリアは王が聖マルガリタ・マリアを通じて彼に与えられたメッセージに従わなかったためにその首をはねられたとき、まだ列聖されていなかったということを思い起こしてください。そして聖マルガリタ・マリアは王に与えられた一つの預言的メッセージについての彼女の主張を裏づける一つの公的な太陽の奇跡を決して持ちませんでした。フランス王と同じように、彼らは不幸へと彼の後を追うでしょう。「私の僕たちにそれを知らせなさい。」

神はそれが知られるようにすることを誰によって期待しておられるのでしょうか?神はその僕たちにそれを知らせることを一人の小さな修道女だけに求めておられるのでしょうか?私たちはそれを私たちの司教たちに知らせることによって私たちの役割を果たすことができます。彼らもまた、ロシアを奉献するように教皇に加わるという彼らに対する命令に従うことを拒否したために彼らの首をはねられるか、あるいはもっと悪いことがおこるかもしれません。

私は反対の意味において曖昧な陳述をなさっているテープの録音を持っていますけれども、教皇は、自分が心の奥底ではそれをしなかったということを知っておられます。しかし、彼が率直に話されるとき、彼がそれをされなかったということを知っておられること、そして彼が司教たちに彼に加わることを待っておられるということは明らかです。私の意見では、教皇はそうする必要はないと思います。というのは、聖母御自身が私たちに神の御名において、教皇は命令を与えなければならないと私たちに告げておられるからです。

教皇は彼らが従うかどうかを決定することを求められませんでした。彼は命令を発すること、そして彼自身従うことを求められました。私は、私たちがこのことにおいて利害関係を持っている、私たちはヴァチカン公会議が私たちに呼びかけているように、神の民の部分であるということを指摘したいと思います。

事実は、神の民という語が聖書において用いられたように、それはカトリック教会にその固有の意味において適用されることができるし、そして適用可能であるということです。私たちは紅海のほとりに立っています。私たちは取り囲まれています。私たちは武器を持っていません。そして私たちはただ一つの希望、ファチマで与えられた命令に対する教皇の従順、を持っています。その中にはどんな変化もないでしょう。そしてそれゆえに、私たちはただ一つの真の選択肢しか持ちません。そしてそれは奉献のこの行為をするために教会の従順をもたらすために私たちの役割を果たすことです。私は5回の初土曜日について話しませんでした。しかし、確かに私たちの霊的生活において、それは一つの非常に強力な手段です。奉献をする教皇のために恩寵をもたらすのは5回の初土曜日を生きる十分な私たちを通じてです。どうぞあなたの役割を果たしてください。私は彼女の完全なファチマ・メッセージに従うよう、そして使徒たちの後継者たちのために、天の元后が命令されたようにロシアの奉献に対する彼らの厳かな義務を遂行するよう、教会の従順をもたらすために、あなたたちのできることをすべてするようにあなたたちに強調し、願います。


ファチマ・クルーセイダー

2014年02月16日 | Weblog

聖母はその勝利のために私たちの従順をまだ待っておられる

The Fatima Crusader Issue 42, Autumn 1992より

ニコラウス・グルーナー神父 B.Comm., S.T.L.,S.T.D.(Cand.)

以下の論考は司教平和会議のための準備としてニコラス・グルーナー神父によって為された最近の講演の写しに基づいています。
北アメリカからシカゴに集まった多くの関心を持ったカトリック司祭および平信徒に対して、グルーナー神父は彼らの質問に答え、教会と世界を取り囲む重大なそして緊急の諸問題への唯一の真の長期的な解決のための概略を与えました。

ある人々は私たちに、私たちは聖母に帰せられる平和の時期をすでに持っていると告げようとしています。しかしそれほど真理から遠いものはあり得ないでしょう。私たちのうちの誰一人、それが私たちに与えられるときに私たちは個人としてそこにいるでしょうと言うことはできませんが、彼女はそれを人類に約束なさいました。しかし、それはただ彼女の要求が従われるときだけです。

平和のこの時期はもちろん聖母が話された文脈において理解されなければなりません。彼女が平和について話されるとき、彼女は「平和」という言葉を世がそれを用いるようには用いておられません。彼女はその御子の平和について話しておられます。「私はあなたたちに平和を与える。しかし世がそれを与えるようにではない。」

もちろん、彼女が与えられるあの第一の平和は霊的あるいは内的な平和です。しかし、キリストの平和の十全性は単に内的なまた霊的なものであるだけでなく、また外的なものでもあります。それは単に個人のためばかりではなくて、また社会のためでもあります。言葉を換えて言えば、キリストの平和は個人としての人間に利益を与えるだけではなく、また共同体、社会に生きているすべての人間にも利益を与えます。キリストの平和の十全性はまた公共的、外的です。そしてそれは各々の、そしてあらゆる家庭、町、国、そして全世界のすべての成員に利益を与えます。

神が個人を創造されたように、また神は社会を創造されました。もし神が望まれたならば、神は私たちを隠者として生きるようにお作りになることもできたでしょう。しかし神は事実私たちを社会において生きるように創造なさいました。ですから神は私たち一人ひとりの作者であると同様に社会の作者です。

神は世界における秩序のために諸規則と一つ御計画を持っておられます。そしてその御計画に反対のものはサタンの計画です。私たちが平和について語るとき、私たちは、聖母がその御子がそれを用いられる意味において平和について話されるのであって、世がそれを用いる意味においてではないということを理解しなければなりません。

私たちはいわゆる共産主義の崩壊を見ています。しかし、教皇ヨハネ・パウロ二世が指摘されたように、無神論のある別の形式によって取って代わられたものです。1991年5月にファチマに行かれたとき、教皇はマルキシズムは無神論の別の形式によって取って代わられる危険にあると言われました。

彼らがロシアにおいてマルクス・レーニン主義的共産主義あるいは社会主義を持つか、それとも西欧自由主義を、あるいはもっと正確に言えば無神論的ヒューマニズム(それは確かに人間的でも自由でもありませんが)を持つかどうかは、究極的には問題ではありません。というのは、いずれの道も社会に対してサタンとその支配がなおそこでは王座につくからです。

社会における王たるキリストの支配はサタンとその追随者たちの支配の下でのそれらの社会や制度によって直接的に反対されます。このことは『ファチマ・クルーセイダー』第40号においてデニス・ファヘイ神父によって明らかに示されています。

もしあなたたちがロシア(そしてソビエト帝国の他の諸部分、「かつての」U.S.S.R.と鉄のカーテン諸国)において起こっていることはロシアの約束された回心であると考えることへと欺かれているならば、あなたたちはだまされたのです。ファチマの聖母の敵どもはあなたたちを欺くことに成功してきました。彼らはこのことを部分的に為すことができました。というのはあなたたちは王たるキリストの社会的な支配が本当には何を意味するのかについて適切な理解を欠いていたからです。

この欺かれていること、そして理解の欠如はあなたの過ちではないということはまったくありそうなことです。というのは、王たるキリストの社会的支配に適用されるあなたのカトリック信仰の部分が決してあなたに教えられなかったか、あるいはあなたに適切に教えられなかったかのどちらかであるからです。それは不幸にして多くのカトリックの司祭たちや教授たちが全然知らずにさえいるカトリック神学の一領域です。

あなたたちは単にほんの昨日あるいは昨年ではなく、あなたの成人の生活のほとんどの間、欺かれていたのです。あなたたちはまず第一に,少なくともそれが、どのように神は世界が組織されることを望んでおられるかということに適用されるようには、カトリック信仰を学ばなかったのです。世界平和のために一つの非常に明確な計画があります。そしてそれは過去百年間諸教皇によって明確に表現されてきませんでした。

聖トマスは平和を秩序の静けさと定義しています。聖アウグスティヌスは神は秩序の作者であると私たちに告げています。ですから、もし秩序が存在するようになるとすれば、それはキリストの計画、神の御計画に従っていなければなりません。

そしてもちろん、私たちは聖書の中ですべての事物はキリストにおいて新たにされるということを告げられています。教皇ピオ十一世はキリストは頭である、そしてそれゆえに、社会のすべてにおいてキリストは王であると指摘しておられます。

それは単に一つの敬虔な称号ではなくて、事実イエズス・キリストは合衆国大統領の王として世界平和の時代に認められるでしょう。彼はあなたたちが属しているあらゆる国の支配者の王として認められるでしょう。彼はあなたたち自身の議員あるいは上院議員の王として認められるでしょう。

そのことは、あなたたちの代表者が壁に王たるキリストの敬虔な御絵を掛けているからではないでしょう。それは非常にすばらしいことでしょう。しかしそれはそれ以上のことでしょう。それは、事実上院議員、議員が、よく知らされた良心をもって事実、神の意志であるものとして彼が認める事柄のためにだけ投票するということを意味するでしょう。

同様に、合衆国の大統領、あるいはカナダの首相、あるいは英国の女王、あるいはこれらの人々の後を継いだ人々、あるいは彼らが引き受ける職務が何であれ(問題になるのは政治の形態ではありませんし、あるいは彼らが属している政党ではありません)、は事実、言葉においてだけでなく、行為において神の側にいます。

教皇ピウス十一世が指摘されたように、国会議員たちは胎児を保護する厳かで積極的な義務を持っています。否定的な義務に対立するものとしての積極的な義務とは何でしょうか?私たちはどんな悪も為さないように告げられています。そして私たちは善を為すように告げられています。国会議員の積極的な義務が果たされるためには、「私は個人的に中絶には反対です。しかし、私は私の道徳性を押し付けたくはない」と言うことは十分ではありません。

一人の国会議員として、もし彼が中絶の罪に反対する適切な法律と制裁を制定することによって、胎児の保護をもたらすことができるすべてのことをする積極的な義務を果たさないならば、彼は地獄へ行くでしょう。それは一つの劇的な例です。というのは、2500万人以上のアメリカ人は胎児に対する戦争において過去20年間に彼らの生命を失ったからです。

しかし、それは確かに唯一の例ではありません。冒涜は王たるキリストの支配のもとでは一つの犯罪です。それはある人がそのために刑務所へ入れられるはずの一つの犯罪です。それは厳格に響くかもしれません。それは不合理に響くかもしれません。しかし、それはただ私たちがその程度にまで世俗化されてしまったからにすぎません。

私たちは、ファチマの聖母が私たちに約束なさった世界平和について話しているとき、それを真のキリスト教的な平和の用語において理解しなければなりません - そこではイエズスの支配が社会にあまねく真に尊重されており、そして王たるキリストに相応しい栄誉が生活のあらゆる場において社会のすべての成員によって与えられています。

私たちは教会の内部と外部の両方で、私たちの中にある世俗の新聞や世俗的なヒューマニストたちが私たちに押しつけた誤った観念やいわゆる理想から私たちの精神を空にしなければなりません。私たちはイエズスとマリアの基準によって事柄を判断し、世俗的ヒューマニズムによって汚染されている考えから脱しなければなりません。世俗主義は私たちをすっかり取り囲んでいます。そして私たちの大部分は私たちの発達のなかである点においてそれによって痛めつけられてきました。(毎日ロザリオの祈りをしなさい。それは私たち自身を世俗主義の幻想から解放する最善の手段の一つです。)祝せられたおとめによって約束された平和の君臨を私たちは持っていると私たちに告げる人々の欺瞞は一つの冒涜のようなものです。

ポーランドにおけるポルノショップとより西欧的(キリスト教ではなく、むしろメーソン的な)ヒューマニズムの隆盛を祝せられたおとめの支配 - 勝利に帰することは実際一つの冒涜です。

たとえ私たちがそのような宣伝によって欺かれていたとしても、私たちはなぜ私たちが欺かれていたのかということの霊的および教育的な、第一の諸原因に立ち戻るべきです。私が半分ペラギウス主義者であったと私が認めたのは私の二年目の神学[を学んでいた時]にしかすぎなかったということを私は告白しなければなりません。そしてあなたたちのうちのある人はこのように今日でもなおその影響を受けているかもしれないと私は思っています。

それは批判ではなくて、事実は私たちのうちの多くの者がペラギウス主義によって影響を受けながら、生活しているということです。タンクレーは今世紀初頭の有名な神学者でした。彼は霊性神学について一冊の書物を書きました。そしてペラギウス主義あるいはまたそうも呼ばれているように、自然主義は「今日の」カトリック思想の大部分を侵していると指摘しました。そして彼はそれを1920年代に書いていました!今日それはもっと悪化しています。

あなたがトレント公会議における恩寵についての小冊子を読むとき、あなたが恩寵なしによく生きることができるよりも、空気なしにもっとよく生きることができるということを認めるでしょう。私たちが持っているどんなよいものもただ神の恩寵のゆえにのみよいのです。そして私たちはファリサイ主義あるいは霊的高慢は単に自由主義者の没落ばかりではなく、また保守派あるいは正統派の没落でもあるということを認めなければなりません。

私たちは、たとえ私たちが何らかの光を持っているとしても、それは神の恩寵のゆえにであるということを認めなければなりません。この恩寵は、主としてそしてまず何よりも私たちがそれに値することなしに、私たちに与えられたのです。

聖パウロは私たちにこう言っています。「あなたたちが何か強さあるいは何かよいものをあなたたちのうちに持っているとしても、あなたたちはそれを神から以外にどこで得たのか?そしてもしあなたがそれを神から得たのであれば、あたかもそれがあなた自身から来たかのように、なぜあなたはそのことに高慢になるのか?」

そしてそのように、私はおそらくそう見えるでしょう。そしておそらく私は、事実、高慢なのでしょう。私はそうでないことを望みます。しかし、いずれにせよ、私が高慢であるにせよ、あるいはそうでないにせよ、問題はファチマの謙遜なおとめ、ナザレトの謙遜な乙女である聖母のメッセージは人間の権利ではなく、神の権利を認めるようにという私たちに対する一つの呼びかけであるということです。教皇レオ十三世は、私たちは人間の権利について十分に聞いた、今は神の権利について聞く時であると指摘されました。

神の権利は神が主権者であり、至高であるということです。私たちは、私たちが所有している車、あるいは私たちが住んでいる家に関して、もし私たちがそれのために支払ったのであれば、私たちが欲することをすることができると考えています。しかし、それが神に関わるときには、どういうわけか私たちは神の権利を神に属することでもって神にできることに限定します。事実は、何かあるものについての私たちの所有権はただ一つの制限された所有権にしかすぎません。しかし、神の所有権は絶対的です。というのは結局神は私たちを無から創造なさったからです。

そしてそのように、私たちが、私たちはこのことについてまだロシア人たちの議決権を持っていなかったのだから、神はロシアの奉献を要求なさることはできないということを聞くとき、神が御自身の被造物に対する支配権を持っておられないと言うことは冒涜することに等しいことです。私たちが神の意志を受け入れるか否かということは神が意志されること、あるいは神が最終的になさろうとしておられることを変えようとすることではありません。

もし私たちが神の御計画をその全体性において受け入れるならばそれは私たちを大いに助けるでしょう。というのは、ひとたび私たちがそれを知的に受け入れるならば、私たちは第一歩を踏み出したからです。私たちの精神を用いることによって理解することは必要です。そこで終わることは十分ではありません。しかし、確かに私たちは理解しないかぎり、神があらましをお述べになったこと、神が私たちにお教えになることを受け入れないかぎり、どこにも行こうとしません。

これが救いのために信仰が必要である理由です。信仰は最大の徳ではありません。しかし、それは確かに、それなしには私たちが自分たちの霊魂を救うことができない不可欠のものです。信仰なしには私たちは光を持たないでしょう。そして私はさらに、ファチマの光なしには、私たちは私たちが生きている時代を理解しないであろうと言うでしょう。

私たちが信仰を理解するのと同じように、今生きている時代を理解しないならば、私たちは解決の部分ではなく、おそらく問題の部分であるでしょう。

1951年に教皇ピウス十二世は世界は今日 - (1951年)- 大洪水の前よりももっと悪い、そして人類は以前には決して見たことがないような懲罰のために身構えるべきである、と言われました。1951年について彼がそう言われたのであれば、1992年については何と言われることであろうか?

中絶は西欧世界においては立法化されてさえいませんでしたし、言うまでもなく、決して実行されてはいませんでした。しかし、それが今日ある程度に確かに立法化され、確かに制度化されてはいませんでした。

十分に理解されていない聖母の役割

私は、伝統的、保守的、正統的な神学のサークルの中で、そして彼らの実践的な適用の中で見過ごされていると私が考えているあることがらをあなたたちに表明したいと思います。そしてそれは祝せられたおとめマリアの役割です。

これは、カトリック者が聖母に捧げられていないと言うことではありません。しかし、私は、私たちが祝せられた乙女に捧げられるべきであるその程度を私たちが理解しているとは考えません。聖母は7月13日にファチマでこう言われました。「ただ私だけがあなたたちを救うことができます。」聖母の正確な言葉を欲する言語潔癖主義者たちのために、彼女は第三人称で話しておられます。そして彼女はロザリオの聖母について話されました。しかし、彼女はまだ御自身をロザリオの聖母として同定されませんでした。そして彼女はこう言われたのです。「ただロザリオの聖母だけがあなたたちを救うことができます。」

あるプロテスタントの人たち、そしてあるカトリック者たち、そして保守的カトリック者たちでさえ、このこと、すなわち、ただ祝せられた乙女だけが私たちを救うことが出来るということ、はどうも冒涜に近いように思われると言います。彼らは神はどうなのだ、と言うでしょう。

重要なことは、もちろん、絶対的に必然的な唯一の存在は神であるということを理解することです。残りの私たちすべては、もちろん、非必然的なものです。すなわち、絶対的に言うならば、それは被造物であることのまさに本性そのものです。神はその御意志によって、人類と世界を創造することを決定なさいました。そして神は、その同じ御意志によって、また救いのために何が必要であるか、そして世界に平和をもたらす御自分の方法をも確立なさいました。

これらの事柄の一つは神が王のうちの王、主のうちの主であるイエズス・キリストの私的な承認と同様に社会的、公的な承認を通じて以外には世界に平和をもたらすおつもりはないということです。

しかし、それはまた祝せられたおとめマリアがまた世界の女王、教会の女王であるということ、そして敬虔なしぐさとしてだけではなく、認められる主権者としてそうであるということをも含んでいます。

それでは、祝せられたおとめと教皇と教会の間の関係は何でしょうか?祝せられたおとめは教皇よりも上位であり、そして彼女は教会よりも上位です。彼女は女王であり母です。そしてそのようなものとして、彼女はただ敬虔をもってばかりでなく、また私たちの行為と従順において栄誉を受けるべきです。

それが、祝せられたおとめマリアが実践において十分に認められてこなかったすべての恩寵の仲介者であるという真理と同じように、この真理です。特に私たちの時代における救いの歴史において(そして救いの経済において)神によって与えられた聖母の位置の認識のこの重大な欠落、それは究極的に今日の教会におけるすべての諸問題の根にあります。それは世界的な中絶問題の根にあります。それは飢饉と戦争の問題の核心にあります。

救いにおける、そして歴史におけるマリアの唯一のしかし必要な役割についての教義的真理の理解のこの欠如は世界における、そして今日の教会におけるすべての問題の核心にあります。この教義的な真理、すなわち、祝せられたおとめが事実すべての恩寵の仲介者であるという真理、は教会の通例の、そして普遍的な教導職によって教えられています。

もしあなたが私がしたのと同じくらいそれを研究したならば、あなたは信仰においてそれを破門される苦痛の下に信じる義務を負うでしょう。しかし、あなたたちのうちのすべてがその機会を持っていないでしょう。そしてそれゆえに、その義務はあなたたちにとって同一ではないでしょう。

事実は、もし私がそうしたようにこの部屋の中へ入って来ることを望むならば、私は扉を通って来たのです。もし私が壁を通って歩こうとするならば、私はまじめであるかもしれません、私はよい意向を持っていて、一生懸命働いているかもしれません。しかし、私が壁を通ってこの部屋の中へ歩いて来ようとするならば、この部屋の中へ入ることは非常に困難でしょう。そしてどこに扉があるかの真理を認めることが私たちが行こうと望んでいるところへ行くことを助けるように、同じように私たちは祝せられたおとめマリアが救いのために必要な扉であるということを認めなければなりません。そして彼女は神がそれを望んでおられるがゆえに従われなければなりません。

神は絶対的な権利を持っておられます。私たちの主は聖ヤコブと聖ヨハネに言われました。「あなたたちは私の右に座ることを願った。しかしこれをお決めになるのは御父だけである。」そして御父は権力と権威においてその右に座ることを祝せられたおとめにお決めになりました。そしてそれを認めることが私たちの義務です。

これはあなたたちのうちのほとんどの人がこのことを認めていないと言っているのではありません。しかし、むしろそれは、私たちは実践的にそれを十分に認めていないということを指摘しています。そのことはそれが単にこの世代だけでなく、教会の歴史にとって、それが十分に認められてこなかった理由です。それは、聖母が、今までそれが確立されてこなかったという意味で、「神が確立することを望んでおられます」と言われたとき、ファチマの聖母の言葉を私が理解する仕方です。「神は世界の中に私の汚れなき御心に対する信心を確立することを望んでおられます。」そのように1917年まで、そして1992年まで、神が世界の中に確立したいとお望みになっている聖母に対する信心はまだ確立されていなかったのです。

神は一つの御計画、それについてその御決心を変えようとなさらない一つの御計画を持っておられます。それは実現されるであろう一つの計画、しかし私自身を含む私たち全てが、それが成し遂げられているということを見るために十分にはなされなかった一つの計画です。その計画は非常に簡単です。しかし、それが神の御意志でありますから、それは絶対的に必要です。他の何物も働くことはないでしょう。

その御計画とは何でしょうか?その御計画はファチマの聖母の預言的メッセージにおいて私たちに概略が示されました。

ファチマの公的預言的啓示

ファチマはある人々があなたたちに信じさせようとしているような一つの私的啓示ではありません。不幸なことに、保守的で正統的な、そして他の点では非常に学識のある人々でさえ、ファチマを一つの私的な啓示と呼ぶこの誤りを犯してきました。それは彼らがこの言葉を使っている意味において一つの私的啓示ではありません。それは一つの預言的啓示です。その違いは何でしょうか?

ドイツのグレイバー司教は神から来る三種類の啓示があるということを指摘しました。第一の種類は信仰の遺産のうちに含まれているものです。そしてそれは聖書あるいは聖伝のうちに見出されます。 信仰の遺産は神によって啓示され、すべての世代の信者たちによって、彼らの霊魂を救うために、信じられなければなりません。信仰の遺産は使徒たちあるいは彼らの後継者たちによって(あるいは教会における他の誰によっても)変えられることはできず、ただ次の世代へ全体的に完全に説明され、伝えられることができるだけです。信仰の遺産のうちに含まれているもののすべては、最後の使徒、聖ヨハネの死の時、紀元100年頃までに、神によって啓示されました。

第二の種類は私的な啓示です。もし私が聖母の幻視を受け、そしてあなたに私が幻視を受けたということを告げるならば、それは私に対する一つの私的な啓示であり、そしてあなたは、たとえ私があなたにそう告げたとしても、私がこの幻視を見たと信じる義務はないでしょう。

第三の種類は、公的な預言的啓示と呼ばれます。それは単に幻視者あるいはそのメッセージを受けた人ばかりでなく、また同様に教会に義務を与えます。これは聖書の中で多くの箇所に見出されます。私たちの義務はまた聖書のうちに言及されています。

私が気づいている最善の節の一つは『テサロニケの信徒への手紙 第一』の第5章第22節にある聖パウロのそれです。彼はそこにおいて私たちすべてにとって記憶することが非常によいと私が考える簡潔な仕方でそれをまとめています。「聖霊の火を消してはいけません。」それが彼の第一の命令です。

シスター・ルシアはファチマのメッセージの事実的な軽蔑について、それを聖霊に反する罪として言及しています。あなたはなぜ彼女が32年間以上にわたって沈黙させられてきたかを理解することができます。それは彼女が公に語った最後の時でした。彼女はあまりにも明らかに話しました。

ほとんどの人は、おそらく教会においても、彼女が言わなければならないことを本当に聞きたくはありません。しかし、私たちは彼女が私たち自身の危険に対して言わなければならないことを聞いていません。彼女が言ったように、「教会における私の使命は人々に、もし私たちが改めないならば、確かに起こるはずの物質的な懲罰について告げることではありません。」いいえ、彼女の使命は、もし私たちが罪のうちに頑固にとどまるならば、私たちは皆地獄に行く危険の中にいるということを私たち皆に告げることであると、彼女は言いました。

彼女はファチマのメッセージに聞かないことを聖霊に反する罪と呼んでいます。おそらくそれは彼女の言葉についてのあまりにも広すぎる一つの解釈であるでしょう。しかし、あなたはそれらを、フエンテス神父のインタビューに関するフレール・ミッシェルの書物の第3巻のうちに読むことができます。(504-508ページを見てください。また、『ファチマ・クルーセイダー』誌第19号をも見てください。)「聖霊の火を消してはいけません。預言を軽んじてはいけません。」預言を軽んじることは聖パウロの頭の中では聖霊の火を消すことと同等です。ところで、もし私たちが、ファチマに関して、それは単に一つの私的啓示である、そしてそれゆえに、あなたはそれに注意を払わなくてもよいという明白な、あるいは暗黙の内の、そのいずれかのほのめかしという態度を取るならば、あなたはまさに聖パウロがあなたにしてはならないと言ったことをしたのです。あなたは預言を軽んじたのです。

私たちは信仰の遺産のうちにあるものに耳を傾ける義務を持っています。ファチマが信仰の遺産であるかどうかという問いに関心を持っている人々のために、私はただ、「あなたはファチマを信じなくてもよい」という議論によって私を攻撃していた、やり方において冷たい私の教授を途方に暮れさせた一つの知的な問いと共にあなたを残して行くだけです。彼は私がローマで神学の修士号を取るための最後の学年で勉強していたとき、私にこう言ったのです。私はこう言いました。「あなたはどうしてファチマの聖母が聖書の中にはいないということを知っているのですか?黙示録の第12章における太陽をまとった女が、シスター・ルシアによって太陽よりも明るい存在として記述されているように、ファチマで太陽をまとった女に他ならないということをあなたはどのようにして知るのですか?」彼はもちろんそれに対していかなる答えも持ちませんでした。というのは彼は知らないからです。

事実教皇パウロ六世はその回勅の中で、彼がファチマに行ったとき、ファチマの祝せられたおとめマリアが黙示録第12章における太陽をまとった女に他ならないということを非常にはっきりと示唆されました。

もしそれが真ならば、、そのときファチマにおける祝せられたおとめの御出現は神的な信仰の遺産に属するものです。キリストの時代のファリサイ派とユダヤ人たちはアブラハムと預言者たちを彼らの指導者および父たちとして主張することによってキリストへの信仰を受け入れることを拒否しました。そして私たちの主は、もしあなたたちが預言者たちとアブラハムを信じるならば、あなたたちは私を認めたであろう、というのは彼らは私について語ったからである、と言われました。

もし私たちが、聖書にあるあらゆることを信じるということを意味するカトリック信仰を主張し、そして聖書に預言された太陽をまとった女を信じることを拒否するならば、そのとき私たちはカトリック信仰が偽善的であるということを主張しているのです。それはほとんどのカトリック、そしてほとんどの保守派の人々、そしてほとんどの正統的神学者たちには強すぎます。それにもかかわらず、彼らは私の問いに答えることはできません。私はそれをあなたたちに一つの問いとして残しておきます。しかし、それが神的な信仰の遺産のうちにあることに依存しているにせよ、あるいは単に一つの預言的啓示であるにせよ、結果は実践的秩序においては同じです。

私たちはそれを信じなければならず、そしてそれに基づいて行為しなければなりません。聖パウロは私たちに「聖霊の火を消してはいけません、預言を軽んじてはいけません、すべてのものを吟味し、そしてよいものをしっかり保ちなさい。」と告げています。吟味するということによって彼は何を意味しているのでしょうか?あらゆる霊が神からのものではない、そしてそれゆえに、預言的メッセージを主張するあらゆる人が神からのものではないと彼は私たちに告げているのです。

そしてそれゆえに、私たちは吟味しなければなりません。教会はファチマのメッセージを吟味しました。そしてそれがよいものであるということを見出しました。それがよいものであることが見出されたからには、私たちの義務は明白です。それをしっかりと保ちなさい。

教会によって認可されなかった他の出現を私が促進しない理由は、聖母が他のところに出現することがおできにならなかったからではあありません。彼女はお出来になったでしょうし、そしておそらく御出現になります。しかし、彼女が他のところに御出現になっているにせよ、そうでないにせよ、それらはまだ吟味され、認可されてこなかったのです。

私が知っている最後の認可された御出現は1930年代のボーランあるいはバヌーでした。それゆえに、もし聖母が他のところに御出現になっているならば、彼女は、それがなおファチマを通じる道へ連れ戻すはずであるということをファチマのメッセージの中で十分に明らかにされました。彼女はここで平和への道はただ彼女がファチマでお与えになった彼女のメッセージに聴き、そして従うことによってだけであると私たちに告げておられます。

ヨシプ・テレリャは『証言』という書物の中で、聖母がフルシウにおいて御出現になっていると私たちに告げています。私はあるウクライナの司教に、私のテレビに出て貰いました。そして私は彼にフルシウについて尋ねました。そして確かにウクライナの司教たちは好意的であり、彼らは賛成して宣言はしませんでした。しかし彼らはそれに対して決定的に好意的です。

この御出現においてヨシプは、もしロシアが王たるキリストを受け入れないならば、ロシアは世界にとって不幸をもたらすものとなるであろうと私たちに告げています。それは第三次世界大戦を意味するでしょう。私がまだ認可されていないが、しかし好意的に受け取られているフルシウに言及する理由は、それにもかかわらずそれは今世紀にファチマ以後のどの御出現に対しても見ている一つのリトマス試験をバスしているということです。

聖母は、「私は他のところでロシアがどのように回心するかについて話しました」と言われましたが、それはファチマのメッセージにおけるロシアの回心への明らかな言及です。そしてフルシウにおけるメッセージなしに、人はシスター・ルシアが私たちに告げているように、簡単にロシアは懲罰の道具、全世界をその罪のために罰するために天によって選ばれた罰の道具であると言うことができるでしょう。(続く)


ファチマ・クルーセイダー

2014年02月15日 | Weblog

聖母は非常に悲しんでおられる
私たちは彼女を慰めなければならない(続き)

The Fatima Crusader Issue 53, 1996より

ニコラウス・グルーナー神父 B.Comm., S.T.L.,S.T.D.(Cand.)

聖ペトロと聖パウロの例

最も有名な事例は聖書そのものの中にあります。そこでは聖パウロがガラテアの人々に書きながら、彼自身と最初の教皇聖ペトロとの間に、アンティオキアにおいて起こったことを述べています。その例は、聖ペトロが最初の教皇として、決して異端を教えなかったのですが、しかしそれにもかかわらず、彼の行為によって異端を促進しましたから、説明に役立ちます。それはそのような言葉では、多分、あなたに示されてはいませんが、しかし、まったく正確な記述です。

そのとき聖ペトロと聖パウロとに何が起こったかを思い起こして見ましょう。

エルサレムの最初の公会議において、キリスト者、カトリック教徒は「割礼の律法」という言葉に要約されているようなモーセの儀礼上の律法に従う必要はないということが厳かに、誤り得ない仕方で決定されました。カトリック教徒は彼らがそう呼ばれていたような、ユダヤ化するグループが言ったように、救われるために割礼を受ける必要はありませんでした。使徒たちは紀元51年頃、最初の公会議を開催しました。彼らはそれを厳かに決定し、そして聖ペトロは最初の教皇としてそれを確認しました。

しかし、そのしばらく後に、聖ペトロがアンティオキアに行ったとき、そこには最初の公会議の教えを受け入れていなかったユダヤ化するグループの人々がまだいました。聖ペトロがそこへ行ったとき、彼は平和の人であり、騒ぎを起こすことを望まなかったので、それについて彼は何も言いませんでした。しかし、さらに、聖ペトロはただユダヤ人たちとだけ、あるいは割礼を受けた人々とだけ食事をしました。

聖ペトロは、救われるためにあなたは割礼を受けなければならないとは決して言いませんでした。しかし、彼がその行為によって為したことは誤った印象を引き起こすはずのものでした。あなたは教皇の任務がそのように影響を及ぼすものであり、そのように強力であって、教皇がすること、あるいはしないことでさえ、信仰に反してさえ、間違った印象を与えることができる、ということを見ます。この場合には、割礼を受けていない人々と食事をしないことによって、ユダヤ化するグループは言ったのです。「ご覧なさい、彼は私たちに同意しています。もしあなたたちが救われることを望むならば、あなたたちは割礼を受けなければなりません。それが彼があなたたちと交際しない理由です。というのは、もし彼があなたたちと交際したならば、モーセの律法は彼は汚れたものとなったと言うでしょうから。割礼を受けない人は皆汚れており、そして彼は自ら律法を破ることになるだろうからです。それが彼があなたたちと食事をしない理由です。」

ところで、聖ペトロが彼らと食事を共にしなかったのは単純に彼が対決をしたくなかったからだというのが最もありそうなことです。しかし、それはどうもよくないことでした。信仰は怠慢という教皇の行為によって危険にさらされました。聖パウロは立ち上がって、聖ペトロの面前で彼を公に非難しました。そしてここでの原理は何でしょうか?信仰が聖ペトロの沈黙によって危険に陥りました。そして聖パウロはそれを認めたのです。しかしながら、聖パウロは決してこう言いませんでした。「よろしい、あなたはよい教皇ではない。それで私はあなたを引き継ごう。私が教皇になろう。」あるいはまた彼はこうも言いませんでした。「あなたの座は今や空位である。あなたはもはや教皇ではない。」同様にまた聖パウロはただそこに座って、こう言ったのでもありません。「私は彼が間違っているのを知っている。しかし、私はそれについて何もするつもりはない。私はただ私の平和を維持するだけで、何もするつもりはない。」

聖パウロは抵抗しました。しかし、それは節度のある抵抗でした。彼は教皇を退位させませんでした。彼は、あたかも自分が教皇であるかのように教会に命令し始めながら、[教皇職を]引き継いだのではありません。しかし、彼は教皇が抵抗を受ける必要のある領域で抵抗しました。信仰が危険に陥りました。そして聖パウロは立ち上がって、そして信仰を明瞭に擁護しないことに対して教皇を公に非難しました。

教会史の中には他のいくつかの例があります。私は1111年から一つの例を挙げることにしましょう。これは稀な出来事ですが、1111年に教皇パスカル二世はすべての司教たちとすべての修道会上長たち、すなわちすべての修道院長たちに、辞表を提出するように命令しました。そしてなぜ彼は彼らが辞職することを望んだのでしょうか?X司教あるいはY司教が辞めるように求められるというそのようなことは信仰には反することではありません。

しかし、教皇がその命令を出したことの動機は何だったのでしょうか?その動機は彼が神聖ローマ帝国皇帝と平和のうちに生きることを望んだということ、そして皇帝は新しい司教たち - 彼の友人たち - を任命することを望んだということでした。そして1111年から1116年まですべての司教たちが一人の人間に対して従わず、抵抗しました。そして彼らは正しかったのです。なぜでしょうか?たとえそれが信仰の問題ではなかったとしても、教会が危険に陥っていたからです。もしすべての司教が皇帝によって任命されることになったとすれば - 明らかに皇帝は彼らを指名推薦したでしょうし、そして教皇は皇帝が望んだすべての人間に同意し、そして任命したでしょうが - 教会は国家の政策の道具となってしまうでしょう。教会はその超自然的な使命を失うでしょう。それは神がそれを取り去られるからではなく、事実、教会を管理する人間たちが何であれ世俗の支配者のアジェンダ[協議事項]に有利なものという見地から教会を管理することになるからです。

そしてそのように司教たちは抵抗しました。その結果、1116年に教皇パスカル二世は彼がその命令を与えた日を呪いました - そして彼はそれを取り下げました。しかし、それは司教たちからの抵抗の5年間を必要としました。不幸にして、今日私たちはたいていそのような司教たちを持っていません。むしろ、教皇が信仰を擁護しているときに、教皇に抵抗する司教たちの事例がもっと多くあります。

信仰が第一に来る!

私がここで強調したいことは第一の規則であり、そしてそのことは信仰は教皇の職務の基礎であるということです。信仰は司教の職務の基礎です。信仰は司祭の職務の基礎です。信仰なしには私たちは教会を持ちません。信仰なしには私たちは教皇の職務を持ちません。信仰なしには私たちは司祭あるいは司教の職務を持ちません。もし信仰を攻撃する教皇、あるいは司教あるいは司祭がいるとすればどうでしょうか。私は、それは一人の人間を身動きのとれない状態にするというふうに理解します。私たちは彼らが持っている職務のゆえに教皇、司教、司祭を尊敬しなければなりません。同時にこの職務を持っている人間が信仰を攻撃しているまさにその人なのです。

私たちはどうすればよいでしょうか?聖書は明快です。聖パウロがしたことをしなさい。エフェソの司教がマリアは神の母ではないという異端を宣言した紀元429年に平信徒がしたことをしなさい。司教座聖堂は司教たちと司祭たちでいっぱいでした。一人の単純な平信徒が立ち上がり、こう言いました。「それは異端です!」彼は教会を去りました。そして教会の半分が彼に従いました。紀元431年に、エフェソの公会議はまさに、一人の平信徒が教義の問題で彼の司教に抵抗したために召集されました。この教説を宣言した異端者であるネストリウスは公会議で破門され、そしてその平信徒は彼の抵抗のために擁護されました。

聖書は司教たちに警告している:悪しき司教たちよ、あなたの群を誤った教義から護りなさい

教会は諸々の例を持っています。教会史は神学の偉大な教師です。もしあなたが教会史と並んであなたの神学を知っているならば、それは非常に教訓的です。聖母は今日の危険は聖パウロが聖書において約2000年前に私たちの時代のために予言したことです、と私たちに告げておられます。聖パウロは司教たちに教えています(使徒行録 20:28-30)。「あなたがたは、自分自身に気をつけ、また、群れのすべてに心を配りなさい。聖霊は....神の教会を牧させるために、あなたがたをその群れの監督者[司教]にお定めになったのです。....凶暴なおおかみがあなたがたの中に入り込んできて、群れを荒らす....また、あなたがた自身の中からも、よこしまなことをとなえ、弟子たちを自分の方に引き込もうとする者が起こることでしょう。」このように、聖パウロはそれは聖職者そして司教たちから来るであろうと私たちに告げています。

司祭たちと司教たちは彼らが聖パウロの忠告を忘れるほどに合議制になるべきではありません。あなたたちの群れを見張りなさい。聖職者のうちのある者はよこしまな教義によって信徒を彼らの方に引き込もうとするでしょう。聖パウロは次のように言うとき、自分自身をさえ含めています。「たとえわたしたち自身であれ、天からの使いであれ、わたしたちが宣べ伝えたものと違ったことを福音として宣べ伝えるなら、その者にのろいがあるように。」(ガラテア 1:8)

カトリック信仰は守られなければならない

信仰は守られなければなりません。信仰なしには私たちは教会を持ちません。あなたは洗礼を授けられなければなりません。しかし、あなたはまた信仰を持たなければなりません。あなたは洗礼を受けることができます。そして信仰を失うことができます。そしてあなたは教会の外にいます。あなたは信仰を失ったことのために神によって破門されます。ひとたび異端者となると、あなたはもはや教会の成員ではありません。これは神人であるキリストが設立された教会における会員であることのまさに本性そのものによってそうです。そしてそのように信仰は私たちの救いの基礎です。

アタナシウス信条における聖アタナシウスの最初の言葉に注意を払いましょう。「救われることを望む者はとりわけカトリック信仰に全体として完全にすがりつかなければならない。」よい働きの前に、秘蹟の前に、他のすべてのものの前に、救われることを望む者はカトリック信仰に全体として完全にすがりつかなければなりません。信仰だけではあなたを救うために十分ではありません。しかし、信仰なしにはあなたは救われることができません。

聖母は、私たちの救いの基礎は掘り崩されているという驚くべき事実について、教皇が私たちに、彼女が私たちに警告しておられると告げているように、私たちに告げておられます。その基礎は何でしょうか?それは明らかにカトリック信仰です。それは掘り崩されています。フレール・サン・ミッシェルはその著『第三の秘密』の中で、それは不幸なことに、司教たち - 彼らのすべてではありませんが、しかし、彼らの多くの者 - 、そしてまた司祭たち、そして枢機卿たちによって掘り崩されているということを論証しています。これは無差別に司教たち、司祭たち、あるいは枢機卿たちを攻撃しているものではありません。むしろ私たちの優先順位をひたすら守りましょう。私たちの優先順位は何よりもまずすべてのものに対してカトリック信仰にすがりつくことです。聖ロベルト・ベラルミンは、もしそのようなことが起こるならば、教皇をさえ含めるでしょう。

あなたは信仰を擁護しなければならない

あなたの信仰はあなたの救いにとって根本的です。そして堅振の秘蹟によってあなたができる程度まで信仰を擁護する義務を持っています。聖ヨハネ・ヴィアンネーはかつてあるパーティに行くということである人を非難しました。そのパーティはその中間に一つの会を持っていましたが、しかしこの人は参加しませんでした。聖ヨハネ・ヴィアンネーがこの人を見たとき、彼はこう言いました。「告解に行きなさい。」その人はほんの数日前に行ったばかりですと言いました。聖人は「告解に行きなさい」と繰り返しました。「私は何かしたでしょうか?」そのひとは訊ねました。アルスの司祭は会があるこのパーティに自分はいたと答えました。しかしその人は言いました。「いいでしょう。私はそれを期待していませんでした。」司祭はうなづきました。「あなたが期待していなかったことは知っています。」その人は力説しました。「しかし、私は参加しませんでした。」そして司祭は答えました。「そのことも知っています。しかし、あなたは抵抗しなかった - そしてそのためにあなたは告解に行かなければならないのです。」

聖母はあなたが第三の秘密を知ることを望んでおられる

要約しますと、聖母は私たちが第三の秘密を知ること、少なくともそれについて私たちにできるかぎり知るようになることを望んでおられます。そして次ぎに、どの方面からも、信仰を擁護すること、私たち自身の信仰、そして私たちの周りの人々の信仰を擁護することを望んでおられます。同時に私たちは今日の時代に注意深くあるべきです。今日はアリウス派の異端の時代と非常によく似た何かあるものです。ニューマン枢機卿が指摘しているように、司教たちの約85パーセントがアリウス派であったこの時期の間、教導職の光は、彼らのアリウス派教義への積極的な固着によってではないとしても、少なくとも彼らの沈黙によって、しばらくの間非常に暗くなりました。聖ヒエロニムスは教会史のこの時期についてこう書いています。「教会は一夜カトリックとしてベッドに行き、翌朝アリウス派として起きた。」

アリウス派異端の時代に、教皇たちが明瞭に語らなかったために混乱させられた多くの人々がいました。少なくとも明瞭でない文書にサインすることへと誤り導かれた教皇さえいました。ですから、信徒たちは彼らが司牧者たちから与えられることができ、あるいは与えられるべき指導を与えられなかったのです。

それでも、私たちは誤りに落ちている人々、私たちの仲間のカトリック者たちに対して裁く者であるべきではありません。彼らは実質的異端[4]に陥っています。しかし、同時に私たちは教導職の光の暗くなる時代において裁く者でないように非常に注意深くなければなりません。私たちは、同時にカトリック信仰の諸真理を擁護する一方で愛徳を持つ者であるべきです。私たちは私たち自身よりも情報を少なくしか得られない人々について裁く者でないように努力しなければなりません。しかしながら、私たちの時代には、今は教会の外に出ているマッシュウ・フォックスのような、まったくよく知られた、そして真理を知っているべき何人かの大異端者たち、作家、そしていわゆる「神学者たち」がいます。フォックスは彼の著作から明らかな異端者です。そして彼は彼の立場に対する無知を主張することはできませんでした。彼は決して唯一の人間ではありません。しかし、もし私たちが、誤りに陥っているこれらの人々のうちの何人かは善意の持ち主であるということを信じる理由をもっているならば、私たちは愛徳において彼らの意図について判断を差し控えなければなりません。それにもかかわらず、信仰はなお、たとえ誤りに陥っている人が真摯であるとしても、機会が要求するように明瞭にそして力強く擁護されなければなりません。

彼女の秘密が公式に明らかにされていないから....

聖母は特に、彼女の秘密が明らかにされなかったので悲しんでおられます。そしてその明らかにされないことがそのように多くの霊魂の喪失という悲劇の原因であるということ - というのは彼らは信仰を失ったからです - を悲しんでおられます。彼女は、彼らを救うための最善の努力にもかかわらず、これらの哀れな霊魂が永遠に失われたので、非常に悲しんでおられます。同じ原因のためにもっと多くの霊魂が失われるという過程は今なお続いています。このように、もし私たちが彼女を慰めたいと思うならば、私たちは私たちの周りの信仰の浸食に抵抗する私たちの役割を果たすべきです。そして聖ベラルミンが言うように、私たちは、それが教皇たち、司教たちそして司祭たちに来るときでさえ、抵抗する義務を持っています。単にそれに巻き込まれないだけでなく、抵抗する義務を持っています。聖人たちは私たちに抵抗のための規則を与えました。

私はあなたたちに、「私たちは自分たち自身の公会議によって教皇をたった今退位させました」とあなたたちに告げる教皇座を空位にする人々(Sedevacantists)の道を取らないように警告します。自分自身を教皇として選ばせた合衆国の一人の男について聞いたことがあります。彼の母親は彼と他の三人のカトリックの人々 - 彼らの考えによれば、彼らは全教会に残された唯一のカトリック者です - と共にコンクラーヴェにいました。この自己宣言をした教皇は自らを「教皇マイケル一世」と呼んでいます。現在約5ないし6人の反教皇がいます。私はあなたがあなた自身の教皇制を始めることを推奨しません。私が言っていることは、私たちはそれでもやはり、いかなる方面からの信仰の浸食にも抵抗しなければならないということです。

聖母のメッセージを知らせなさい

これが聖母が第三の秘密において私たちに警告しておられることです。そしてこれが教皇ヨハネ・パウロ二世が聖母がこうおっしゃっていると私たちに告げていることです。「彼女が聖霊において培われた愛のすべての力をもった、そしてすべての人の救いに対する望みをもった御母、その御母は彼女の子どもたちの救いのまさに基礎そのものが掘り崩されるのをご覧になって沈黙したままでいることがお出来になるであろうか?いいえ、彼女は沈黙したままでいることはお出来にならない。」あなたたちもまた沈黙したままでいるべきではありません。聖母を慰める単純な方法は償いの行いをすること、5回の初土曜日[の信心]を実行すること、そして罪人たちのために私たちの祈りと犠牲を捧げることです。聖母を慰めるために私たちはまた私たち自身を知らせることです。明らかに彼女は私たちに一つのメッセージを与えるために[天から]降られました。彼女はこのメッセージが何であるかを見出すように私たちに望んでおられます。それに注意を払うことを望んでおられます。

ファチマを軽んじてはいけない

フエンテス神父とのインタビューの中で、シスター・ルシアは知られた真理に抵抗することは聖霊に反する罪であるということを指摘しています。ファチマの御出現がそのような公的な奇跡によって、そしてそのようにずっと以前から為された多くの預言によって確証され、そして今多くの預言がすでに実現されたとき、聖母のメッセージに注意を払わないことは重大な結果を伴う重大な誤りです。このことは私の著書『世界の奴隷化か、それとも平和か』の中で説明されています。そこで私はファチマの聖母に従う教会の義務について話しています。私が教会と言うとき、私は教皇と司教たちを含めています。そこには聖パウロが私たちに告げている一つの義務があります。「霊の火を消してはいけません。預言を軽んじてはいけません。」(1テサ 5:19-22)教会は一つの預言的メッセージを与えられました。教会によって確証されたメッセージを簡単に退け、「私たちはそれに注意を払わなくてもよい、それは私的啓示である、そして私たちはそれによって縛られていない」と言うことは霊の火を消し、預言を軽んじることです。

私はそれが、不幸なことに、今日教会におけるすべての問題が、少なくとも霊的なレベルにおいて、全部一つの事柄に基づいている理由です。すべては一つの事柄から来ています。教会のこの二十世紀の世代は、全体的に見て、ファチマの聖母の預言を無視し、軽んじてきました。私たちが、典礼、教義、道徳あるいはカテケージスに関して混沌のうちにあるにしろ、悪しき枢機卿たち、司教たち、あるいは司祭たちに苦しむにしろ、私たちは皆一つの共通の根に、霊的に言えば、ファチマの聖母のメッセージを軽んじていることに、帰着します。

完全なファチマ・メッセージを促進しなさい

ですから、私たち自身のやり方で、ファチマの聖母の完全なメッセージを促進することは私たちの義務です。フレール・サン・ミッシェルが先に挙げた彼の書物の中で指摘しているように、彼女のメッセージは1960年以来公に軽んじられてきました。少なくとも私たちは、私たちが彼女のメッセージを軽んじ、このようにして彼女の人格に傷をつけることにくみしないことによって私たちにできる程度に私たちの役割を果たすことができます。私たちは少なくとも聖母のメッセージを知らせるために私たちの役割を果たし、それを知らせ、そして私たち自身によって、そして私たちの周りの人々によってそれを生きるようにさせることができます。

脚注:

[1] この点に関して完全に確信を得るためには、Iota Unum という書物を読みなさい。

[2] 『明らかにされたファチマの秘密』、p.32

[3] この論考のコピーは$1.00 P&H で入手可能、あるいはWeb siteから無料で入手可能。

[4] 実質的異端は誤った教義あるいは真の教義の誤った解釈を無意識のうちに主張する行為です。


ファチマ・クルーセイダー

2014年02月13日 | Weblog

聖母は非常に悲しんでおられる
私たちは彼女を慰めなければならない

The Fatima Crusader Issue 53, 1996より

ニコラウス・グルーナー神父 B.Comm., S.T.L.,S.T.D.(Cand.)

以下はグルーナー神父によって最近なされた話の第二部です。

聖母を慰める一つの非常に重要な方法は彼女のメッセージを知らせることです。私はしばらくの間、ラ・サレットの聖母のメッセージを取り上げましょう。人々はときどき私にこう尋ねます。「シスター・ルシアは、教会位階の許可なしでさえ、第三の秘密を明らかにすべきではないのですか?」私はそれは一つの非常に興味深い、そして魅力のある問いだと思います。私はラ・サレットの秘密を伴った聖母、教会そしてメラニーの経験を思い起こしました。

出版されたラ・サレットの秘密、その最も重要な行の一つで、こう言われています。「ローマは信仰を失い、アンチ・キリストの座となる。」一つのやや強力なメッセージです!その秘密は1846年に与えられました。教皇ピオ九世は秘密 - 彼はそれが公衆に明らかにされる前に読みましたが - を読むことによって、1840年代から1870年代までの彼の長い教皇在任中に教会の行政において多くの誤りを予防したと言われました。

メラニーは1879年、当時彼女がいたイタリアにおいてレッチェの司教の[教会]印刷出版許可をもったラ・サレットの秘密を出版しました。

しかし、その秘密は全体的に見て教会によって無視されました。それは確かに反撃されました。1900年代の初め、二三年間は聖座によって反対の布告さえ出されました。私はそれは後で禁制が解除されたと思います。

ラッツィンガー枢機卿は私たちに油断ならない危険について告げておられる

ラ・サレットの秘密はファチマの秘密の先駆者として考えることができるでしょう。ラ・サレットの秘密はファチマ第三の秘密が私たちに警告しているものに似た、私たちが現代に経験している諸問題についてすでに非常にあからさまに言い表されたものです。ファチマ第三の秘密は明らかに、ラッツィンガー枢機卿が1984年のインタビューでそうだと私たちに告げているように、「信仰に対する危険」について語っています。「信仰の危険」から彼は「キリスト教徒の生命の危険」について語ることへと進んでいます。「信仰の危険」がなぜ「キリスト教徒の生命の危険」へ導くのでしょうか?そしてそのことから「世界の生命の危険」へ進むのでしょうか?私たちの主は私たちに、私たちは地の塩であると告げておられます。しかしもし塩がその味を失うならば、投げ捨てられ、人に踏まれることからそれを守るものが何かあるでしょうか?カトリック教会の塩、たとえ大抵のカトリック者でなくても、多くの人の信仰は薄められ、水で薄められてきました。そしてそのように世界は神にはあまり心地よいものではありません。塩はその味を失いつつあります。投げ捨てられ、人に踏まれる以外にそれは何の役に立つのでしょうか?

カトリック信仰に対する攻撃

カトリック教会がその鋭さを失い、その味を失って行きつつあるのはなぜでしょうか?信仰が単に攻撃にさらされているているばかりでなく - 内部から掘り崩されているからです。教皇ヨハネ・パウロ二世は1982年にファチマに行かれたとき、こう言われました。「彼女が聖霊において培われた愛のすべての力をもった、そしてすべての人の救いに対する望みをもった御母、その御母は彼女の子どもたちの救いのまさに基礎そのものが掘り崩されるのをご覧になって沈黙したままでいることがお出来になるであろうか?」そして教皇は彼自身の修辞的問いにこう答えておられる。「いいえ、彼女は沈黙したままでいることはお出来にならない。」

祝せられたおとめはファチマで彼女の子どもたちに、彼らの救いのまさに基礎そのものが掘り崩されていると大声を上げられ、警告されました。教皇ヨハネ・パウロ二世が説明しておられないことは、私たちの救いのまさに基礎そのものが何であるかということです。私たちはそのことを信仰から知っています。私たちの救いの基礎は私たちの信仰です。聖ヨハネの第一の手紙、第5章、4,5節において彼はこう問うています。世に勝つものは何か?それは私たちの信仰です。サタンは信仰は、もし信じられ、実行されるならば、世に勝つ、そして同様にまた彼自身の王国に勝つであろうということを知っています。神の敵ども、そして私たち自身の敵どももまたそのことを理解しています。たとえ彼らは信仰を持たないとしても、彼らは私たちを強くするものが何であるかを理解しています。

危険は内部からである

私たちはどのようにして信仰に対する攻撃が内部からであると知るのでしょうか?教皇が「掘り崩される」という言葉を用いられるとき、彼は明らかに私たちの信仰に対する攻撃が内部からであるということを示しておられます。というのは、あなたが信仰を掘り崩すことができるのは、ただ内部からだけですから。

このことは、たとえ信仰に対する攻撃が教会の外部からであったとしても、キリストが教会に一つの「免疫システム」- すなわち、教皇、司教たち、司祭たち、そして信仰教義聖省 - に信徒たちがこの油断のならない攻撃から彼らの霊魂を救うために警告されるように、危険について彼らに警告を発するために信徒たちに叫びを上げる厳格な義務を与えになりましたから、そうです。しかし、もし「免疫システム」が効果的に叫びを上げないならば、それはそれが掘り崩されているからです。

霊魂を守る絶対的な必要性

私たちの司牧者たちの多くは、不幸なことに、信仰が擁護されなければならないということを理解しませんでした。そのことは根本的なことです。彼らは政治的あるいは典礼的なアジェンダ(協議事項)のために、多くの実質的異端者[4]たちが司教座を占拠し、信仰に対して大きな害を及ぼしているということを理解しませんでした。信仰は内部から掘り崩されているのです[1]。それがファチマの聖母と教皇ヨハネ・パウロ二世が二人ともファチマ・メッセージにおいて私たちに告げておられることです。

それは何であり、なぜ今日秘密が隠されているのか

しかし、それはファチマのメッセージのどこにあるのでしょうか?それは第三の秘密のうちにあります。それは好奇心あるいは人を騒がせるやり方の問題ではありません。それは霊魂の救いの問題です。なたはこう言うかもしれません。「あなたは、それを読んだことがないときに、第三の秘密を知ることについてどうしてそのように確信を持つことができるのですか?」多くの人々はフレール・サン・ミッシェルの『第三の秘密』という900ページの書物を読む忍耐心を持っていないでしょう。ファチマ・メッセージに関する世界的に有名な権威であるフレール・サン・ミッシェルはその問題について、特に第三の秘密に関して広範囲の研究を行いました。私は、この書物を読み、来て、私に、あなたはなお第三の秘密は信仰に対する危険には関わっていないと信じることができると言ってくれる誰かにやってごらんと言います。しかし、あなたが彼の900ページの書物を読む時間を持たないとしても、あなたは彼の32ページの要約『ファチマの秘密』を読むことができます....それは同じ主題に関して明らかにされたものです。しかしながら、その書物はその中にそれ以上のものを持っています。しかし、この要約はなおまったく人を納得させるものです[2]。

しかしながら、第三の秘密は単に信仰に対する危険 - そして危険は内部からであるということ - に言及しているばかりでなく、また教会の内部から破壊され、掘り崩されている信仰に対する上位の位階の罪にも言及しています。これもまた第三の秘密の部分です。そしてこれが、第三の秘密が明らかにされてこなかった唯一の理由です。秘密を明らかにしないことに対してヴァチカンによって提供されているすべての理由は研究の光に持ちこたえないものです。

信仰の最悪の危機

ラッツィンガー枢機卿は1984年のインタビューにおける彼の説明において非常に慎重でした。そのインタビューは後に『信仰の危機』と呼ばれる一冊の書物にされました。あるいは英語でそう呼ばれているように、『ラッツィンガー報告』になりました。この書物は百万部以上が刷られました。現在は信仰教義聖省と呼ばれているものの枢機卿である長官がそのように重大な問題に関してそのように公に語ったのは聖ロベルト・ベラルミンが最初の長官であった1540年代の検邪聖省としてのその始まり以来、最初にして唯一の時です。彼は単にインタビューを許したばかりでなく、またそれについて一冊の書物を書いたのです。

彼のインタビューと彼の書物の主旨は、信仰が世界至る所で危機に瀕しているということです。世界中の信仰の状況を誰か理解しているとすれば、それは信仰の維持を監視するために教皇によって任命された人でしょう。そして教会におけるその省の全歴史において始めて、枢機卿たる長官が出て来てこう言ったのです。「信仰は世界中で危機に瀕している。」

1984年に何がラッツィンガー枢機卿をしてこの有名なインタビューをさせたのでしょうか?彼はインタビューの原稿を、そのすべての言葉について、それが公表される前に認可しました。彼はまたそれが出版される前に彼の書物のあらゆる言葉を是認しました。何が彼にそのようなことをさせる原因だったのでしょうか?そうですね、信仰が世界中で(十分に明らかに)危機に瀕しているという事実に加えて、それはまたファチマの聖母御自身が、その第三の秘密において、これが彼女が私たちに警告するために1960年以後,来たことであると言われたと私は考えます。ラッツィンガー枢機卿は、彼自身、自分自身の言葉で、ファチマの第三の秘密の主旨あるいは主題が何であるか、こう私たちに語っています。「秘密は信仰に対する危険に関わっています。」彼はこう言っています。「私はそれを読みました。そしてそれが何であるかについて言えば、信仰に対する危険です。」

聖母は今日の危険について警告しておられる

聖母は私たちを危険の中に見ておられます。そして彼女は私たちのよい、そして最も聖なる無原罪の御母ですから、沈黙したままでいることがお出来にならないのです。彼女はまず何よりも危険について私たちに警告なさいます。このように、私たちはまた私たちの仲間のカトリック者にも警告を発すべきです。特に聖母がその第三の秘密において、1960年以来諸教皇によって、そしてまた信仰を擁護するために任命された枢機卿である長官たち - 彼ら全部、オッタヴィアーニ枢機卿、セペル枢機卿そしてラッツィンガー枢機卿 - によって沈黙させられてきましたから、そうです。それゆえ、1960年以来の三人の教皇 -33日間しか教皇でなかったヨハネ・パウロ一世を数えないで - および信仰教義聖省の三人の長官はすべて、私たちが皆少なくとも1960年までにはそれが為されるであろうと約束されていたように、第三の秘密が公開されることを阻止することによって、聖母を沈黙させたのです。

弁解?

ラッツィンガー枢機卿の書物の中で、彼は諸教皇が第三の秘密を明かされなかったことに対して示された理由を指摘しました。彼は、これらの理由は諸教皇が提出された理由であるということを明らかにするように気をつけていますが、しかしこれらの理由を彼自身裏づけしないように気をつけています。私は彼がその主題は防御不可能であるということを本能的に理解していると思います。

『ファチマ・クルーセイダー』第18号において、私たちはローマにあるテレジアーヌムのカルメル会士で教授であるジョセフ・ド・サント・マリー神父による非常に短い論説を公表しました。

その直ぐ後に、あるイタリアの雑誌がラッツィンガー枢機卿の第三の秘密についての短評を公表しました。ジョセフ・ド・サント・マリー神父は第三の秘密とそれについてのラッツィンガー枢機卿の短評について論説を書きました。私がジョセフ・ド・サント・マリー神父に言及するのは、彼が教皇の職務と人格を非常に尊敬しておられた人だからです。それでも彼は第三の秘密が明らかにされないことに対してこれらの薄弱な弁解が提出されたとき、同意できないと公に述べることが義務であると考えたのです[3]。

世間を騒がせる!

その論説において、ジョセフ・ド・サント・マリー神父はラッツィンガー枢機卿が、諸教皇は世間を騒がせるやり方で宗教的な預言を混乱させることを望まれないのだ、と言われたということを指摘しました。しかし、明らかにその理由は、旧約聖書において預言者たちは幾分世間を騒がせるものであったという単純な理由で、うまく行きません。神はエレミヤに群衆を集め、そしてエルサレムを取り囲んでいる壁に穴をうがち、そしてこれが彼らに起ころうとしていることであると彼らに告げなさいと言われました。神はエレミヤに、そして同様に他の預言者たちにも、人々の注意を引くために、むしろ人を騒がせるものである事柄をするように告げられました。同様にまた神がお与えになったメッセージはかなり破壊的なものでした。私たちの主御自身も幾分人目を引くことをおっしゃいました。

好奇心ではない

同様にまた、ときどき人々は好奇心があるから秘密を求めているのだと言われました。私たちの創造主である神は知識への渇きの賜物をお与えになりました。そして知識を探求することは悪いことではありません。それは、ちょうど私たちの目が見ることを、私たちの耳が聞くことを - 私たちの精神が知ることを予定されているのと同じように、私たちの本性の一部です。しかしながら、私たちが知るべきでない事柄を知ろうと求めるとき、それは好奇心のあやまちです。あるいは私たちが見るべきでないないものを見ようとするとき、それは私たちの目を制しないあやまちです。好奇心は私たちが知るべきでない事柄を無秩序に知ろうとします。しかし、神が私たちに明らかにすることを望んでおられる事柄をあなたが知ろうとするとき、それは好奇心があるのではありませんし、少なくとも、そこには好奇心のあやまちは存在しません。

私たちはまた、人々を情緒的に乱す、あるいは混乱させることはよくない、とも言われます。しかし、もし私を追いかけている一匹の大きな熊がいたならば、私は確かにあなたが、たとえそれが私を怖がらせたとしても、私に警告してくれることを望みます。たとえ私が恐れの感情を経験するのが好きではないとしても、私はもう少し長く生きるほうがよいと思います。

そのようにそうなのです。聖母がそうなさったようにメッセージを聞くことは私たちにとって少しばかり心配になることであるのは大いにあり得ることでしょう。しかし、それは有益なことでしょう。人々は目覚めるでしょうし、それについて何かをするでしょう。

彼女を慰めなさい。彼女の全メッセージを伝えなさい

それが彼女が第三の秘密をくださった理由です。彼女は私たちが危険に陥っていることを見ておられるのです。そしてその危険は、危険が私たちから隠されているということです。それは信仰に対する攻撃です。そしてそれは公然と来ているのではない攻撃です。450年前、トレント公会議の後に、カトリック信者は彼らの信仰がプロテスタントによって攻撃されているということを知っていたでしょう。彼らはもし彼らがカトリック信仰を重んじるならば、ルターをも、あるいはこれらの他のいわゆる「改革者たち」をも信じるべきではないということを知っていたでしょう。しかし、今日、その相違は牧者たちが羊に危険について警告していないということです。

そしてそれで、羊飼いたちの御母、彼女のすべての霊魂たちの御母は私たちにその危険について警告するために来られたのです。しかし、彼女もまた沈黙させられてきました。私がすでに述べましたように、聖母を慰める方法のうちの一つは確かに彼女のメッセージを伝えることです。私は、あなたが自分自身で彼女の真のメッセージであると確信していない何かあることを伝えるようにあなたに求めているのではありません。ですから、私は手に入れ得る最善の記録文書や研究から秘密について読み、そして知るようにあなたたちに強く勧めたいと思います。私は、私がそうであるのと同じように、あなたが、第三の秘密は信仰に対する危険に関わっているということを確信なさると思います。そして私たちがそこに到達するのは単にフレール・サン・ミッシェルの推論によってばかりではありません。私たちは同じことを私たちに告げているラッツィンガー枢機卿の証言を持っているのです。

真の従順の徳

しかしながら、メッセージの第二の部分 - ラッツィンガー枢機卿はそれについて私たちに語りませんでしたが - はその危険が、彼らが枢機卿であれ、司教であれ、司祭であれ、悪しき羊飼いたちから来るということです。ところで、あなたたちは従順の徳について今日多く聞きます。そして確かに従順は一つの徳です。しかし、私たちが「従順とは何か?なぜ私たちは従うのか?なぜ子どもは母や父に従うべきであるのか?なぜ市民は交通警官に従うべきであるのか?なぜ私は司教あるいは教皇に従う べきであるのか?」と自問するならば、その答えはあらゆる場合に、いとも簡単です。神が彼らに権威をお与えになったからです。そのように私が人間に従うとき、それが私の親であれ、私の牧者であれ、私の首相であれ、私の管理者であれ、あるいは一人の警官であれ、私は神に従っているのです。

しかし、神が教義において御自身に矛盾したことを言われることはないのと同じように、私たちは50年後に、あるいは100年後に、あるいは1000年後に、他の公会議によって、あるいは他の教皇によって反駁される一つの決定された教会の教義を持つことはできません。神はまったく真実なお方ですから、私たちは明らかに同時にそして同じ意味において真である二つのまったく対立した命題を持つことはできません。ですから、教会は何が信仰に関することであるか、神が聖書において、そして伝統において何を教会に啓示されたか、そして信仰について何が保持されるべきかを決定しますから、これらの真理は後の決定によって反駁されることはできないのです。また神は御自分が私たちにお与えになる命令において御自分に矛盾することを言うことはお出来になりません。

「人間によりもむしろ神に従いなさい。」

もし私が私の父に従うならば、あるいはもし私が首相に従うならば、あるいはもし私が教皇あるいは司教に従うならば、私は私の従順が、神が彼らに権威をお与えになったから、彼らに与えられるということを覚えておかなければなりません。しかし、神は、神御自身の権威を反駁するために彼らに権威をお与えにはなりませんでした。最初の教皇、聖ペトロの言葉にありますように、「私たちは人間によりもむしろ神に従わなければならない」のです。私は、市民社会には私たちがいわゆる法律が許している堕胎を持っているということを見ることは十分に容易である、といつも言います。よろしい。その法律は全然法律ではありません。神は堕胎を合法化する権威を国家に、あるいは最高裁に、あるいは他の誰かにお与えになりませんでした。その法律は従われるべきではありません。あるいは尊重されるべきではありません。

確かに、これらの「法律」を作った人間の立法者たちに神がお与えになった権限を超える多くの他の法律 - 私たちはそれについて語ることができるでしょう - があります。しかし、私たちはここでは教会における法、あるいはむしろ教会における諸命令に話を限定することにします。従順の徳が人間によりもむしろ神に従うように私たちに命令するある場合があります。そして私たちの従順は教皇、司教、枢機卿、司祭の命令に従わないこと、そして抵抗することさえ私たちに命令することができます。それは私の教えではありません。それはカトリック教会の教えです。

聖ベラルミンの教え

あなたはそれを聖ロベルト・ベラルミンの著作の中に見出すでしょう。聖母は、彼の祝日である5月13日を、彼女のファチマでの最初の御出現のために選ばれました。彼は単なる一聖人ではありません。彼は単なる信仰教義聖省の最初の長官ではなく、また教会博士です。ところで、約35人の教会博士がいます。彼らはそれぞれの専門を持っています。トマス・アクィナスは共通博士です。しかし、聖トマスを除いて、他のすべての博士はカトリック神学の一つの局面あるいは他の局面の専門を持っています。例えば、アヴィラの聖テレジアは十字架の聖ヨハネがそうであるように、霊性神学の専門家です。

しかし、聖ロベルト・ベラルミンは教皇および司教たちの権威を擁護することを専門としています。教皇あるいは司教たちの不道徳な、あるいは非合法的な命令に従わない、あるいは抵抗しさえする場合があるということを説明することは聖ロベルト・ベラルミンに残されました。彼は、スアレスがそうしているのと同じように、以下に述べる例を与えています。スアレスは列聖はされなかったけれども、確かに偉大な神学者と考えられていました。しかし、聖ロベルト・ベラルミンは同じことを言っています。

彼はこう言っています。もし聖職者の一員、司祭であれ、司教であれ、枢機卿であれ、あるいは教皇であれ、彼らがある人に彼らと一緒に罪を犯させるようにその人を物理的に攻撃するようなことがあるならば - そしてあなたは聖職者を打つことは破門に値する罪であるということ、あるいは教皇を打つことは当時はそうであったし、今日もなおそうであるということ、を知っているでしょう - あなたは物理的な力で抵抗しなければならない、と。彼は、もしそのことが真であるならば、そしてそれはそうですが、そのとき、もし教皇、司教、司祭、あるいは助祭が、そのことに関して、霊魂を攻撃するとしたら、よりいっそう真である、と言っています。霊魂に対する攻撃はあなたを異端の中へ引き入れようとする試みである、と彼は言います。そしてあなたは何であれ抵抗が必要であるものをもって、そのような攻撃に - 物理的な力をもってさえ - 抵抗しなければなりません。

聖ロベルト・ベラルミンは続けて、私たちはここで私たちの上長を裁いてはいけないということを指摘します。誰も教皇を裁くことはできません。ですから、教皇を退位させること、あるいは司教を退位させることは私たちの仕事ではありません。司教は教皇によって退位させられます。教皇はただ神によってだけ退位させられます。しかし、抵抗は単に従わないことだけではありません。それは積極的な抵抗でさえあります。歴史の中にはそのような事例がありました。(続く)


ファチマ・クルーセイダー

2014年02月12日 | Weblog

「預言を軽んじてはいけない」(続き)

The Fatima Crusader Issue 54, Winter 1997より

ニコラウス・グルーナー神父 B.Comm., S.T.L.,S.T.D.(Cand.)

「地獄のように低い」

私たちが神から一つのしるしを得るとき一つの義務があります。この義務はまた私たちの主によっても言及されています。彼は聖書の中でこう言っておられます。「おまえカファルナウムよ、おまえベトサイダよ、おまえは天にまで上げられると思っているのか?」私たちの主はこれらの二つの町、ベトサイダとカファルナウムについて、御自分の問いにこう答えられます。「いや、おまえはよみにまで落とされるであろう。」[訳者注:マタイ 11:23、ルカ 10:15]非常に強い言葉です。

主がよみにまで落とされるであろうと言われている二つの町がここにあります。なぜ主はそう言われるのでしょうか?主は御自身で説明なさいます。主はこう言われます。「もし、おまえたちの間で行なわれたあの奇跡が、おまえたちの間で行なわれたしるしが、ソドムとゴモラで行なわれていたならば、これらの町は悔い改めて、きょうまで残ったにちがいない。」

ソドムとゴモラは、あなたたちが知っているように、同性愛のために天から彼らの上に火を降らせられました。そしてにもかかわらず、私たちの主は、もし彼らが奇跡を見ていたならば、彼らが、私たちの主がカファルナウムとベトサイダで行なわれたしるしを見ていたならば、アブラハムがその中に五人の義人を見出すことができなかったあのソドムとゴモラの町、あれらの町は悔い改めていたであろう、と言われます。

そしてそのように、聴かず、従わないことによって私たちの主がカファルナウムとベトサイダにおいて行なわれたようなそのようなしるしを認めることを拒否することはよみにまで落とされることの理由です。これらは主御自身の言葉です。

神は私たちに何を言われるでしょうか?

それでは私たちの主は二十世紀について何を言われるでしょうか?神は御自分がカファルナウムとベトサイダで行なわれたよりも大きな一つの奇跡を行なわれました。神はファリサイ派の人々が彼らを回心させるために求めた奇跡を行なわれました。神はその奇跡をファチマで行なわれました。一つの奇跡が三ヶ月も前に予告されたのは人類の歴史において始めてのことです。

巡礼者たちがひとつのしるしを彼女に求めたので、ルシアが一つのしるしを求めたのは1917年6月13日のことでした。彼女はその日に、このメッセージが本当に神から来ているということを証明し、実証し、示すために、神が10月13日に一つの奇跡を行なわれるであろうと予言しました。

ひとたび神がそのようなしるしを与えられたからには、メッセージを無視すること、聴かないこと、それに従わないことに対しては支払うべき値があります。

そしてそれゆえに、私たちはファチマの聖母を信じなくてもよいと言うことは、たとえ私が「異端的」という言葉を使うことができないとしても、私は「ばかげた」、「危険な」ことであると言うでしょう。それはファチマ自体が信仰の遺産の部分であるからではなく、信仰の遺産が、私たちはファチマのメッセージのような預言的メッセージを信じ、それに従う厳格な義務を持っていると私たちに告げるからです。

一つの重要な神学的脱線

さて一つの議論、あるいは推理の線があります。私はあなたたちにそれを与えたいと思います。しかし、私は私の話の論点を確立するためにこの議論に頼るのではありません。ファチマの聖母に耳を傾け、それを信じ、それに従う私たちの義務はこの推理の線には依存していません。ファチマの全メッセージに従う私たちの義務、教会の義務を主張するためには私は上述の他の証明を挙げました。

しかし、それにもかかわらずこの次のような思考の線を省察することは私たちにとって有益です。1967年にこの御像をファチマで祝福なさった教皇パウロ六世はファチマに行かれる前の日に、"Signum Magnum" - それは「大きなしるし」を意味しますが - と題する非常に短い回勅を書かれました。教皇パウロ六世はこの回勅を黙示録の第12章を引用することによって始めておられます。それはこうです。「私は天に一つの大きなしるしが現れるのを見た。一人の女が太陽をまとっていた。」

教皇パウロ六世はその回勅の最初のパラグラフにおいて、太陽をまとった一人の女が単に、聖書学者たちが何度もあなたたちに証明することができる聖母であるばかりでなく、黙示録の第12章において予言されているのはファチマの聖母であるということを主張はしておられませんが、しかしそのことを非常に強く示唆されています。太陽をまとった女はファチマの聖母に他なりません。

もしそうであるならば、そしてパウロ六世が確かにそれを信じるように私たちに望んでおられるならば、そのときファチマのメッセージは実際神の啓示の一部分であるでしょう。

ところでファリサイ派の人々は旧約聖書について、彼らはアブラハムを彼らの父として持っている、彼らはモーセを彼らの教師として持っている、そしてナザレト出身のこの青年は誰なのか?と主張しました。彼らは律法を知っていました。そして彼は学んだことさえない単なる一人の「無知な人間」でしかありませんでした。それでも神の啓示を支持している、そして神のために存在しているというまさに彼らの主張において、彼らは神御自身を否定しました。そして彼らは旧約聖書におけるキリストに関するすべての予言を事実上否定しました。私たちの主は、もしあなたたちが真に神をあなたの父として持っているならば、そのときあなたたちは私を認めるであろう、というのは私は私の父の似姿であるから、と彼らに言われました。

同じようにして、私たちは私たちの時代に、過去30年間以上にわたって、「あなたたちはファチマを必要としない。あなたたちは聖書を持っている。」と私たちに告げてきた人々を持っています。そして彼らが聖書を持っているというまさに彼らの主張において、彼らは明らかに、ファチマは重要ではないということを意味しているのです。

私はここローマにおいて、マリアーヌムで、「あなたはファチマを信じなくてもよい」と言った一人の教授に会いました。

私は彼を止めてこう言いました。「あなたはどうして知っているのですか?ファチマの聖母が聖書に預言された太陽をまとった女でないということをあなたはどのようにして無条件的に主張することができるのですか?」彼は私に答えることができませんでした。私は言いました。「ではよろしい。もし彼女がそうであるならば、そのとき彼女は聖書の中にいます。彼女はその預言において神の啓示の部分です。そしてあなたはファチマの聖母に私たちは聴かなくてもよい、と言うことはできません。」彼は答えられませんでした。

その議論には最終的にいかなる答えもありません。ファチマの聖母が太陽をまとった女であるということを、教導職からの不可謬の宣言なしには、私が論証することができないとしても、です。そして教皇パウロ六世はそれ以上先へは進まれませんでした。しかし彼は彼女がそうであったと明らかに示唆しておられます。

他方において、誰も、彼女は黙示録の第12章において予言された女ではないということをあなたに告げることはできません。そしてもしファチマが真に聖書の預言の成就であるならば、そのとき彼女は啓示の部分です。

聖トマスは、私が信じなければならないことは神が啓示なさったすべてのことである、と指摘しています。信仰の行為は啓示の遺産において神が啓示なさったすべてに及びます。そしてそのように、聖トマスはまさにこの例を用います。すなわち、もしあなたが、聖書はあなたにダビデが70人の息子を持っていた、69人でも71人でもなくて、ダビデは70人の息子を持っていた、と告げるということを知るならば、そのとき、あなたはそのことを神的な信仰をもって信じなければなりません。

ところで、平信徒は司祭、あるいは司教、あるいは神学者と同じように、神学や啓示に関するすべての書物を知ることを期待されていません。しかし、もしあなたがこれらの事実を知っているならば、そのときあなたはそれらを信じなければなりません。この歴史的事実に対するあなたの信仰はあなたが歴史書一般において持っているのと同じ種類の信念ではありません。あなたはこの歴史的事実を神学的な信仰の徳の行為をもって信じるでしょう。それはその書物が歴史的書物であるからではなく、それが神の言葉であるから、神御自身がそれを啓示なさったからです。確かにその書物は歴史的なものです。しかし、私はそれを確実性をもって信じなければなりません。恐らく私はそれを信じるでしょうと言ってはいけません。神がこれを啓示なさったということをひとたび私たちが知るならば、私たちはそれを神の権威において信じなければなりません。

もし私たちが神学的信仰をもって、神がそれを私たちに啓示なさったから、ダビデ王が70人の息子を持っていたという事実を信じなければならないならば、そのとき私たちはまた、同じ種類の信仰をもって、聖書のうちに含まれていると私たちが知っている他のすべての事実をも信じなければなりません。ダビデの70人の息子たちという事実は聖書における他の多くの事実と同じように論理的に重要ではありませんが、しかし私たちはそれを神学的信仰をもって信じなければなりません。

このように、私たちにとってはるかに重要であることについて聖書の中に受け継がれている事実を私たちが信じることはもっと重要なことです。ですから、もし私たちがまた、未来に神は太陽をまとった神の御母を送られるであろうということを神が啓示なさったということ、そしてその預言の成就はファチマの聖母であるということを知るならば、そのとき私たちはそれは信仰の神的な啓示の一部である、それは神的啓示のうちにあるということを信じなければなりません。

さて、私はこれによってあなたたちが今日それを信じなければならないと言っているのではありません。というのはそのことに関して教導職の公式宣言を持っていないからです。しかし、私たちはまた私たちの反対者たちに対して、あなたたちはその反対のことを主張することはできない、と言うことができます。このように私をへこましたかったあの教授は答えることができなかったのです。というのは、私はそれに対してはいかなる答えもないということを知っているからです。そして私は教皇パウロ六世が事実、ファチマの聖母は黙示録の第12章における太陽をまとった女に他ならないということを非常に強く示唆なさったということを知っています。

結論

私たちの主要な論点、すなわち、ファチマの啓示は聖書に書かれた預言のうちに含まれているか否か、という点に戻るならば、問題の事実は私たちはファチマの聖母を信じ、それに従わ<なければならない>ということです。私たちの義務はなお存在します。というのは私たちは「テサロニケの信徒への手紙」において「預言を軽んじてはいけない。霊の火を消してはいけない」と告げられているからです。

私たちは、教会は新約聖書の使徒たちと預言者たちの基礎の上に建てられている、と告げられています。シスター・ルシアはその謙遜において、自分自身を一人の預言者として語ってはいません。しかし、厳密に言うならば、言葉の定義によって彼女は一人の預言者です。彼女は教会全体に伝えるために神からメッセージを受けました。そして神は一つの公的な奇跡でもってこのことを証明なさいました。それは世界と教会が御復活以来見たことがない重要性をもった一つの公的な奇跡です。

私たちは、カファルナウムとベトサイダの人々が、神がひとたび大きな公的奇跡をもってそれを証明されたからには、神のメッセージを信じ、それに従うことを拒否したことに対してよみにまで落とされるということを私たちに告げておられる私たちの主御自身の言葉を持っています。そして私たちは、カトリック信仰はすべての学問とは独立した二つの事柄によって知られることができる民に対する一つの光であるということを私たちに告げる第一ヴァチカン公会議の決定を持っています。

私は学問をこきおろしているのではありません。そして学問は確かに私たちを助けます。しかし、学問とは独立に、最も教育を受けていない人でさえ、最も教育を受けた人とまったく同じように、カトリック教会は真の教会であるということ、カトリック信仰は二つの事柄によって真の信仰であるということを知ることができます。これは第一ヴァチカン公会議によって決定されています。私たちはこれらの真理を公的な奇跡と実現された公的な預言によって知ることができます。あなたたちはそれらを二つともファチマのメッセージのうちに見出すでしょう。ですから、真の奇跡と真の預言がカトリック信仰を信じる義務を課すとするならば、それらはまた神がお送りになった預言者たちを信じる義務をも課すのです。

私たちの時代はより重大な危険のうちにある

ですから、その義務は重大であり、非常に重要です。私たちは、シスター・ルシアが1957年12月26日のフエンテス神父との話の中で、知られた真理に抵抗することは聖霊に対する罪であると指摘したということを忘れてはなりません。

彼女はまた同じときに’人間的な仕方で語るならば’、私たちの主は、教会と人類の注意と従順を得る他のすべての手段を使い尽くされたことをご覧になって、”ある種のおののき”をもって、この最後の手段 - それは彼の御母ですが - を用いておられる、と言いました。私たちの主は最後にもう一度私たちの注意と私たちの従順を得ようと試みておられるのです。しかし、彼は御母に来るように頼むことを「恐れて」おられます。というのは、もし私たちが彼女に注意を払うことを拒絶するならば、もし私たちが彼女にしかるべき尊敬と、彼女がそれに値する栄誉を払うことを拒否するならば、そのとき、主は最初に彼女を送られなかった場合よりももっと厳しく私たちを罰しなければならないからです。

事実は、主がその御母をファチマに六回送られたということです。それは五回の初土曜日、ロシアの奉献を求めるトゥイとポンテヴェドラでの御要求と一緒になっています。そしてもし私たちが聖母のこれらの仲裁を拒絶したならば、私たちの主であり、祝せられた三位一体の第二のペルソナ、御子なる神、彼がそうであるその御母のよき息子である神はその御母の栄誉を要求なさるでしょう。主の言葉と奇跡を私たちが拒絶することは、聖母にしかるべき栄誉を払うことの拒否と共に、私たちがファチマのメッセージを一度も受けなかった場合よりも、私たちをもっと罪深い者とするでしょう。

それは一つの恵みであることが意図されています。それは私たちにとって憐れみの一つの手段であることが意図されています。しかし、もし私たちが拒絶するならば、そしてもし私たちが、私たちは信じ、従う義務を持っていないと言う人々を信じるならば、そのとき私たちは、私たちにとってのまさに恵みの手段、私たちのためのまさに憐れみの手段を私たちの罰のためのもっと大きな理由へと変えるのです。

自明的な諸々の理由は私たちがファチマに従わなければならないことを示している

ファチマの聖母に従うべき教会の義務を論証している聖書から取られた上述の理由から離れて、私は今自然的理性の光に基づいた自明的であるはずの諸々の理由を述べたいと思います。

あなたの隣の扉の隣人があなたのところに来て、あなたの家が火事である、消防を呼びなさい、そしてあなたの子どもたちを救い出しなさいと言った、そしてあなたが次のように言ったとしたら、それは非常に思慮分別に欠けたことでしょう。「よろしい、私は私の家が火事であるという公式宣言、教皇からの決定を持っていない。ある人が私に、あなたは信用できないと言いました。私はあなたに聴かないことにします。私は外に出て、見、この人物が正しいかどうかを調べるつもりはありません。私は見るつもりはありません。結局、どこかのある新聞で、あなたは信用できないと私に言われたことがあったからです。」

私はここで子ども、家あるいは彼らが価値あるものと考えている何かあるものを持っている人は誰でも、もしあなたが泥棒あるいは火事があった、あるいは彼らを危険に陥れる何かあることがあったと告げられたら、少なくとも言われていることが何であったかを検証する用心をするだろう、と考えます。少なくともそれだけはするでしょう。私たちは皆アダムとエヴァの子どもたちです。そして私たちは、彼が真理を告げていないということを信じるための妥当な諸根拠がないかぎり、私たちの仲間の人間を少なくとも信じる義務を持っています。

私たちが7万人の目撃者を信じなければならない理由

嘘を言う人々がいます。しかし、神は私たちの心の中に、人間本性の中へ人々が嘘を言うときでさえ、彼らはともかくも彼らが真理を告げているのではないということを示すということを定められました。彼らはその声を変え、神経質になります。彼らはあらゆる種類のことをします。人々は非常に熟練した嘘つきを除いて、彼らがある仕方で嘘をついているという事実を示すことなしに嘘をつくことはできません。人々が嘘つきであるときでさえ、真理を語るという強い衝動はこれらの人々でさえいつも嘘をつくことができないほどのものです。それは不可能です。道徳的に不可能です。

それが、多くの目撃者の声の中から、あなたが真理の知識に達することができる理由です。それが、私たちが、一つの奇跡が起こったということを私たちに告げている7万人の目撃者を持っているとき、子どもたちを笑いものにし、ファチマに行ったすべての巡礼者たちを笑いものにしている一人の無神論者が翌日彼の新聞の第一面に、彼はこの奇跡を見たということを印刷せざるを得なかったとき、彼が言っていることを無視することは、控え目に言って、愚かであろう理由です。

これらの人々のすべて、彼らのうちの7万人が私たちに嘘をついたと言うことは賢明に反する一つの罪でありましょう。非常に単純な人々がそこにはいました。そしてそこには非常に学識のある人々がいました。そこには非常にカトリック的な人々がいました。そしてそこには非常に反カトリック的な人々がいました。彼らはすべて同じことを証言しました。自分たち自身を反対の者にしなければならないことによっておおっぴらに困惑させられたであろう人々でさえ、この奇跡が起こったという真理に対して証言しました。それがカファルナウムとベトサイダの人々が、たとえ彼らのうちの全部が私たちの主が働かれたしるしを見なかったとしても、信じないことのために罪とされた理由です。しかし、全市がそれが起こったということを知るに十分な目撃者がそこにはいたのです。

私たちが医者あるいは他の誰かのところに行く場合、彼があなたに何かあることを告げ、あなたが彼の証言に反対する、あるいはそれを疑問視する何らの理由も持たないときには、この人間を信じる、ということを私たちは知っています。そしてファチマのしるし、そして私たちの主のしるしがたとえ反対を受けるとしても、私たちはこれが真理であるということを知るに十分な証拠を持っています。知られた真理に抵抗することは聖霊に反する一つの罪です。もし私たちが真理の知識へのこの抵抗を続け、固執するならば、そのときその罪の赦しは存在しません。そして最終的な固執はもちろん私たちの死に到るまでの固執です。

重大な義務

それは一つの非常に重大な義務です。それは良心において拘束します。そして彼がファチマのメッセージは教会に一つの義務を課していると言われたとき、軽々しくその陳述をされたのではありません。それは聖書に基づいています。それは理性にも基づいています。それは、起こったということを私たちが知っており、神から来たものと確証されたことを私たちが知っている奇跡と預言に基づいています。

神がそのようなメッセージをお送りになるとき、もし私たちが神を無視することができるならば、そのとき私たちは預言を軽んじているのです。私たちは聖霊の火を消しているのです。私たちは聖霊に抵抗しているのです。私たちは聖霊に対して罪を犯しているのです。そしてもしこのことを続けるならば、そして私が私たちと言うとき、 - 私はここにいる私たちのうちの誰一人その態度を持っていないと思いますが - しかし、支払うべき値があるということ、そしてそれは地獄の火であるということを記録にとどめておくことは重要です。

聖霊に対して罪を犯すことはそれを犯す人を地獄に送ることによって終わります。それは一つの非常に重大な義務です。それは軽い義務ではありません。それは単に私にだけ課されているのではありません。それは単にあなたにだけ課されているのではありません。この義務は全教会に課されています。ファチマに従う義務は教会における私たちの場に従って異なった仕方で果たされます。しかしわたしたちのすべてが、彼女のメッセージが私たちの具体的な状況に適用されるように、ファチマの聖母に従わなければなりません。

この話の中で要点を述べた立場は8年間問題にされていない

私はスペイン語、ポルトガル語、フランス語そして英語に翻訳された私の書物の中で信じそして従うこの義務について書きました。私はそれについて私の書物の約75ページを費やしました。

私はその書物を世界中のすべての司教とブラジルのすべての司祭に送りました。私はそれを読むと約束するどの神学者にもそれを喜んで送ります。彼らのうちの誰かがその中に一つの実質的な誤りでも見つけてくれますように。それは今8年以上にわたって出版されてきました。そして今までにファチマの聖母を信じ、それに従う私たちの義務について私が言ったことに反対する一つの意味ある議論はありませんでした。

私がこれまでに聞いた唯一の議論は、あなたは私的啓示を信じなくてもよい、ということです。しかし、グレーバー司教はファチマは私的啓示ではないと指摘されました。それは一つの公的な預言的啓示です。そしてファチマを信じなくてもよいということについてあなたたちが聞くすべての議論はファチマは単に一つの私的な啓示であるという誤った主張に基づいています。

ファチマは一つの私的啓示ではありません。7万人の人々は私的である何かあるものを構成していません。3ヶ月も前に告知された一つの奇跡に対する7万人の目撃者は教会のための一つの公的な奇跡です。それは一つの公的な預言的メッセージであり、そしてそれは教会に対して一つの義務を課します。そしてわたしたちは皆聖母の主張を促進し、彼女に従うために私たちができることを、まず私たち自身がする義務、そして次ぎに他の人々にファチマの聖母とそのメッセージを知り、評価し、愛し、従うようにさせるために私たちができることをする義務があります。

私たちの主は「それを私の僕たちに知らせなさい」と言っておられます。今話しておられるのは聖母ではありません。「それが知られるようにしなさい」と言われているのは私たちの主御自身です。それはまた私たちがファチマのメッセージを通じて持っている義務です。


ファチマ・クルーセイダー

2014年02月11日 | Weblog

「預言を軽んじてはいけない」

The Fatima Crusader Issue 54, Winter 1997より

ニコラウス・グルーナー神父 B.Comm., S.T.L.,S.T.D.(Cand.)

この論考はFatima 2000でグルーナー神父によって行われた講演に基づくものです。

ファチマ2000会議へのグルーナー神父の開会講演は私たちすべてが実行しなければならない重大な責任に関して私たちに一つの洞察を与えてくれます。教皇ヨハネ・パウロ二世が言っておられるように、「ファチマのメッセージは教会に一つの義務を課している」のです。この義務はすべての者、教皇、枢機卿たち、司教たち、司祭たち、修道者そして平信徒を含んでいます。

 完全なファチマ・メッセージを信じ、それに従う重大な義務があるということを理解することは非常に重要です。この義務は単に私たち一人ひとりに対してばかりでなく、教会に対しての義務です。これは単に敬虔な信心のためばかりではない、一つの義務です。確かに聖母に対する私たちの愛は私たちに義務を感じさせます。そして聖母が私たちの御母であるという事実は私たちに義務づけられているということを感じさせるでしょう。しかし、私は単に信心に関わる理由を詳しく述べたいのではなくて、正義と賢明さにおいて厳格に私たちを義務づける理由を述べたいと思います。私たちは自然法と神的啓示の光の両者のうちにそれらの理由を見出します。

 間違った帰依者たちの反対

ファチマのメッセージを奨励すると言う人々によってさえ提出される反対があります。彼らはこう言います。

「あなたたちはファチマを信じなくてもよい。あなたたちはファチマに従わなくてもよい。もちろん、私たち聖母への帰依者はそうしますが、しかし私たちはそうする義務はありません。」

私はこの反対そしてその陳述を訂正したいと思います。聖母が一つの特別の役割を持っておられると信じる人々にだけでなく、すべての人に、特に教会に一つの厳格な義務があります。

教皇様は1982年5月13日のファチマでのスピーチにおいて、ファチマのメッセージは教会に対して一つの義務を課していると言われました。それは私たちにとって十分にしかるべき理由でしょうけれども、それは単に教皇様の陳述に基づいているだけではありません。

 聖書はファチマに従う義務を課している

ファチマのメッセージが一つの義務を課していると言うことの根拠は聖書それ自身に基づいています。私たちは「テサロニケの信徒への手紙 一」5:19-22において聖パウロがこう言っているのを見出します。「霊の火を消してはいけません。預言を軽んじてはいけません。」言葉を換えて言えば、預言を軽んじることは霊の火を消すことと同じです。

私たちはすべての人の言葉を、彼らが「神が私に語り給うた」と言うたびに、彼らが言うようによい意図を持っているものと取ることはできません。それは真であるかもしれません。しかし、聖パウロは続けてこう言います。「すべてを吟味しなさい。」ですから、まず何よりも先に、神が預言の声を通じて語られることがあり得るという開かれた心を持つことは義務です。

しかし、そのとき私たちは、特に聖職者は、そのメッセージが本当に神から来ているかどうかを吟味する義務を持っています。

これが私がファチマのメッセージを促進する理由です。というのは、教会はファチマを吟味し、最近より多くなってきた他の御出現と違って、信じるに値するものであることを見出したからです。ファチマ以来教会の位階によって承認されていると私が気づいているのは非常にわずかです。

ファチマのメッセージは教会 - それは確かに真理の柱であり基礎です - によって認められたばかりでなく、また大きな奇跡によって、特に7万人の人々によって証言された太陽の奇跡によっても認められました。

聖パウロは言っています。「よいものを大事にしなさい。」ですから、私たちはファチマを大事にする義務があります。それはよいものであることが見出されました。聖パウロがこのことについて言っているのは単に「テサロニケの信徒への手紙」においてだけではなく、あなたたちもまた聖パウロが教会について語るときにそれを見出します。

私たちがファチマの聖母を信じ、従わなければならないかどうかを問うある人々はまたこう問います。「あなたは教皇様よりもシスター・ルシアの方がもっと大切だと言うのですか?」これは私たちの反対者たちが言う言い方です。

ここローマのテレジアーヌムの教授であるジョセフ・ド・サント・マリー神父はその問いに非常に興味ある答えを与えました。彼は「エフェソの信徒への手紙」2:20において、教会は使徒たちの基礎の上に建てられているということを指摘します。そして彼はそれはまた預言者たちの上にも建てられているということを指摘します。

預言者たちに聴き、従いなさい

ジョセフ神父はこう指摘します。預言者たちは新約聖書の預言者たちです。もしあなたが使徒行伝全体を読むならば、あなたは使徒たちのカリスマと共に新約聖書の預言者たちのカリスマがあるということを見ます。教会は単に使徒たちのカリスマの上に建てられているだけではありません。確かに、それはまた神的起源のものです。すなわち、使徒たちと彼らの後継者たちである司教たちはイエズス・キリスト御自身によって教会に本質的なものとして確立されました。このことは特に教皇制について真です。教皇制の聖書的設立についてはゲリー・マタティックによって後に話があるでしょう。私たちはこの話の中では問いを提出することさえしません。私たちは預言の真正の声に耳を傾け、従う義務について話しています。

三種類の啓示

あるメッセージが神から来ているかどうかを吟味し、見出し、決定するのは教会位階の役割です。事実、1515年頃に開催された第五回ラテラン公会議は預言の最終的解釈はローマの教皇に残されると言うカトリック教会の荘厳な定義を決定しました。教会によって認められる三種類の真正の啓示があります。それらは聖書と聖伝に含まれている神の啓示の公的な遺産、私的啓示、そして公的な預言的啓示です。神の啓示の公的な遺産を信じないことは信仰の神学的徳に反する罪です。

次に私たちが私的啓示と呼ぶものがあります。すなわち、もし私が聖母の幻視を持ったとするならば- 私は確かにそれを持ったことはなく、確かに私はそれに値いしませんが - しかし、もし私がそれを持ち、そして聖母が私にロザリオ15連を私自身のために祈るように言われたとするならば、それは私にとって私的啓示であるでしょう。

確かに、私自身以外の誰一人この私的啓示を信じるように期待されるべきではありません。しかし、ドイツ、レーゲンスブルクのグレイバー司教がずっと以前に指摘されたように、第三の種類の啓示があります。そしてそれが彼が「公的な預言的啓示」と呼んだものです。そしてそれは私的啓示とは異なり、また信仰の遺産とも異なります。

それが聖パウロが「テサロニケの信徒への手紙」および「エフェソの信徒への手紙」の中で語っているものです。聖トマス・アクィナスが『神学大全』第二部の第二、174問題、第6項(特にad 3 に注意してください)において指摘しているように、「神は新しい教義を与えるためではなく、信徒たちに彼らの霊魂を救うために彼らがしなければならないことを思い起こさせるためにあらゆる世代に預言者たちを送られる」のです。

知的、専門的な流行

確かに神は私たちに近づくために多くの方法を用いられましたし、また用い続けておられます。しかし時には神は私たちに近づくためにある障碍を打ち破られなければなりません。神学において、あるいは教会においてだけでなく、人間性の共通の経験である事柄の一つは流行、知的な流行です。

私の祖父は医者、ガンの研究者でした。そして医学的専門が流行に走るというのが彼の見解でした。私は同じことを疑いなく法律家についても言いたいと思います。そして同じことは計理士についても言えます。しかし私は、人間的活動におけるある種の理論あるいはある種の救済策が時に唯一の真の方法であると考えられますが、しかし後になって、私たちの一般的な理解が深まるとき、新しい救済策が適用されるという事実について、そこには何か人間的なものがある、ということを指摘しているのです。

医療の実践からいくつかの例を取ることによってこのことを例証してみましょう。

しばらくの間、外科はあらゆる問題への答えでした。「それを切り落とせ、それを切除せよ」が多くの問題に与えられた共通の解決でした。そして次にしばらく後にはそれはピルでした。このピル、あるいはあのピルを飲め。

これらの処置のすべてはそれらのうちに真理の一要素を持っています。医学を打ち倒すためではありません。しかし時に彼らは他の真理を犠牲にして一つの真理を過度に強調しました。そしてこのことは法律においても起こり得ます。ときどき私たちは犯罪者の権利について語ります。そしてしばらく後に犯罪者は被害者が持っているよりも多くの権利を持ちます。そして私たちは、確かにアメリカ社会において、被害者が権利を持っており、そして彼らは守られるべきであるということを今や指摘する世論の変動があるのを見ています。

しかし、私がこれらの例を持ち出しているのは、これらの他の職業について話すためではなく、教会の中にはときどき真である司牧的実践において強調されますが、しかし他のいくつかの真理を除外する点まで過度に強調されるある事柄があるという事実について話すためです。

預言者たちは反対に出会う

それが神があらゆる世代に預言者たちを送られる理由です。それは、こう言えばよいでしょうか、その時には通俗的でない事柄を信徒たちに思い起こさせるためです。そしてそれが預言者たちが歴史的に反対に出会う理由です。というのは、彼らは現代の傾向に反していることをしばしば言うからです。もし彼らが言ってみれば時流に反しなかったとしたら、神は第一に預言者を送られる必要はないことになるでしょう。

それが聖パウロの忠告「預言を軽んじてはいけません。霊の火を消してはいけません」を思い起こすことが私たちにとって重要である理由です。というのは、それがここにいる私たちであれ、あるいは教会における他の何らかのグループであれ、私たちは私たちの周りを見、そして「1千万人のフランス人が間違っていることはありえない」と言うことによって、私たちの主張について自信過剰に感じさせられることがあり得るからです。流行の先端を行く人々は、他のすべての人がそれを行い、それを信じてもいるから自分たちは正しいのだと考えることへと誘惑され得ます。

ラッツィンガー枢機卿が指摘されているように、真理はある問題を民主的な投票にゆだねることによって達せられるのではありません。むしろ、真理は真理であり、真理を認めることが精神のためです。それが神が預言者たちを送られる理由です。

逆に、もし私たちが議論を別の仕方で提出するとすればどうでしょうか。すなわち、もし神が一人の預言者を送り、そして一つの大きな奇跡を働くことがお出来になるとしたら、そして私たちが全くの善意で、「なるほど、それはよい。しかし、それは私的啓示にしかすぎない。私たちは注意を払う必要はない。私たちには福音書がある。私たちは聖書と伝統を持っている。そしてそれは私たちが必要とするすべてだ」と自らに言うことができるとしたら、どうでしょうか。ですから、私たちは神は私たちに一つのメッセージを送ることはおできにならないと言っているのです。私たちは、私たちすべてが自分たちの間で聞くことを同意していること以外には、神が私たちに言われることを何も聴く義務はない、と。

明らかにそれは霊の火を消し、預言を軽んじることでしょう。そしてそのことに対する一つの重大な忠告があるのです。

よい人々でさえ聖母を無視している

彼女が公式に話すことができた最後の時期の一つである1957年12月26日にシスター・ルシアはこう言いました。「聖母は非常に悲しんでおられます。聖母はよい人も悪い人も彼女のメッセージに何の注意も払わないので、非常に悲しんでおられます。」

ところで、聖母が悪い人について言われていることは理解できます。彼らは自分たちの上に落ちかかる神の罰を見ませんでした。彼らは聖母の言葉のうちに何の緊急性あるいは重要性をも見ませんから彼らの楽しい道をただ進んでいるだけです。そして彼らはもちろん何の注意も払いません。私は「もちろん」と言います。というのは、もし彼らがよい人であったならば、あなたは彼らが注意を払うと期待するでしょう。しかし、もし彼らが悪い人であったならば、よろしい、それは彼らがあるところのものであり、そしてそれゆえに聖母を無視することは彼らの選んだ道から多少とも論理的なことです。

しかし、なぜ聖母が悲しんでおられるかを説明するシスター・ルシアの陳述において私が驚くべきことだと思うことは、よい人が聖母のメッセージを無視するということです。それにもかかわらず、彼女はよい人がそうしていると言っているのです。

私が思うに、それはまさによい人がだまされたからです。彼らは一つの嘘を告げられました。彼らは注意を払う必要はないと告げられたのです。彼らは耳を傾ける必要はない、信じる必要はない、従う必要はないと告げられたのです。そしてそれは最も重大な誤りです。

「彼女だけがあなたたちを救うことができる」

それは私たちの救いを犠牲にし得る誤りです。それは確かに私たちの自由、そして私たち皆が大切であると考えている多くの事柄を犠牲にするでしょう。聖母は私たちが拒否することができない一つの申し出を私たちになさいました。すなわち、それは「あなたは私の言うことをするか、それとも死ぬかのどちらかです」ということです。

ところで、聖母は私たちを殺そうとしておられるのではありません。しかし、彼女は、人類の罪のために、現在までのところ、私たちは前代未聞の割合の危機に陥っており、その結果としてそこから「ただ彼女だけがあなたを救うことができる」と言っておられるのです。ただ彼女だけが、であって、他の誰かではありません。ある仕方では、おそらくこのことについてはショッキングでさえあるでしょうが、神でさえ、できません。というのは、神はこの恵みを聖母の取り次ぎに取って置かれたからです。

聖アウグスティヌスが指摘しているように、神は私たちをそのように非常に愛しておられますから、神は非常に善ですから、私たちにある種の大きな好意、大きな恵みを与えたいと望んでおられます。しかし、神は私たちがこれらの恵みに値する者ではないということをご存じです。それでもなお神はそれらの恵みを私たちに与えたいと望んでおられます。しかし、神は諸聖人の功績と取り次ぎを通じて以外にはそれらの恵みをお与えにはなりません。それは神が二つの事柄をご存じであるからです。すなわち、一つは、神は私たちがそれらに値しないということをご存じです。第二に、神はまた、もし神がそれらを直接に私たちにお与えになったならば、私たちが高慢になるであろうということをご存じです。私たちは「そうだ、私はそれをした。私はその恵みに値する」とともかくも考えるであろうということです。

平和と繁栄がただ聖母にだけ委ねられた理由

これらの恵みは非常に例外的でまた非常に驚くべきものであるので、神はこれらの恵みが私たちにとって高慢の機会となることをお望みになりません。神はまたそれが諸聖人の功績と取り次ぎを通じてであるということを私たちが認めることを望んでおられます。神は結局のところ、彼らの祈りと功績によって私たちのためにこれらの事柄を得ることができた神の友人たちに私たちが感謝することを望んでおられるのです。

それが私たちがファチマで、世界の平和はマリアの汚れなき御心に委ねられたと告げられた理由です。それが聖母がそのすべての文字どおりの真理において、「私だけがあなたたちを救うことができます」と言うことがお出来になる理由です。

それは私たちが、私たちに約束されたこの恵み、世界平和の恵み、ロシア回心の恵み、そしてロシアの回心を通じてカトリック信仰への全世界の回心の恵みに値しないからです。しかし、神はそれを私たちに与えることをお望みになり、そして神はそれを私たちの時代に私たちに与えることを望んでおられます。神はまた、私たちがこれらの恵みを得るのはただ聖母の功績と取り次ぎを通じてだけであるということが理解され、認められることを望んでおられます。

ほとんど偽りにも見えるほどに単純なこと

ですから、私たちが最後にロシアの奉献と世界平和を手に入れるとき、私たちはそれは私を通じて来たのではないということを覚えておかなければなりません。それはあなたたちのうちの誰か、あるいは私たちのすべてを通じてではありません。それは教皇の功績を通じてでさえありません。それは聖母の功績です。

同時に神はまた全世界が教皇の、そしてカトリックの司教たちの、また事実カトリック教会の重要性、そして独自の地位を見ることをも望んでおられます。そしてそれが、神が、回心させられるロシアとマリアの汚れなき御心に奉献のこの行為をした教皇および司教たちとの間の直接的な関係を見るように、それは単に教皇であるのではなくて、教皇と共にカトリックの司教たちであるということを強調された理由です。

人々は多くのことをするでしょう。彼らは、私たちが世界平和のこの恵みを受けたことで神と聖母に感謝がありますように、と言うでしょう。人となられ、その一つの真の教会、カトリック教会を建て、支えておられることに対して子である神に感謝がありますように、と。

彼らはまたこう言うでしょう。カトリックの位階の力、威信、重要性を、そして特に教皇が教会の司教たちに対して持っている首位性を明らかに示していることに対して感謝がありますように。というのは、この奉献は司教たちに命令する教皇の直接の命令によって起こるでしょうから、人々はそのとき教皇は司教たちの中で同等の者ではなくて、司教たちよりも上位におられる方であるということを見るでしょう。奉献のこの行為は最も奇跡的な仕方で全世界に、教皇制が神によって設立され、そして教皇は単に名誉の首位性だけでなく、また他のすべての司教たちに対する権限の首位性をも持っているという神の意志を明瞭に、公的に、そして決定的に明らかにするでしょう。

結局、神は教皇とカトリック司教たちが行う聖母マリアの汚れなき御心へのロシアの奉献によってだけ世界平和を手にするという御自分のこの変えられない御計画を教会と世界にお与えになったのです。全能の神は単に聖母への信心の必要性と重要性を教会と世界に示す示すようにお定めになっただけではなく、ロシアのこの奉献とその結果としての世界平和を通じて、神が唯一の教会、カトリック教会を設立されたということ、そして神がその中にカトリック教会の位階を確立され、そして神が教会における権威の首位性を教皇にお与えになったということをも示すようにお定めになりました。

その要求は非常に単純なので、それはほとんど偽りにも見えるほど単純でした。あなたが止まってそれについてしばらくの間考えないならば、それはほとんどあなたの側を通り過ぎてしまうことができます。その結果、あなたはこう考えるように誘惑されるかも知れません。「そこには他に何があるのか?もっと重要なことが何かあるに違いない。」

そしてそれがファチマの聖母が、トゥイに来られ、ロシアを奉献するというこの最も重要な命令を与えられたとき、至聖三位一体の現前において来られた理由です。聖母がファチマにおいて子どもたちに御出現になったとき、彼女は御自分でお話しになりました。しかし、彼女が至聖三位一体の現前において話されたとき、彼女は神の名において話されたのです。聖母が言われるすべてのことは神が聖母に言わせたいと望んでおられることです。しかし、彼女がロシアの奉献に対する彼女の要求をなさったとき、彼女はこう言われました。「神が教皇に、この手段によってロシアを救うことを約束なさりながら、世界の全司教たちと一緒に、ロシアの奉献を私の汚れなき御心に対して為すように求められる時が来ました。」

危機に瀕している家庭、自由、生命

そしてそれゆえに、あなたたちは、私たちが聖母の要求を満たすことによってすべてを得、彼女の要求を満たさないことによってすべてを失わなければならないということを見ることができます。それが単にあなたが自分の国を愛するから、あるいはあなたが自分の家庭を愛するから、あるいはあなたが自分の自由を愛するから、あるいはあなたがただ生きていることを愛するから、これらの理由のどれ一つのためであれ、それらの理由の全部のためであれ、彼女の要求を満たすことは賢明なことでしょう。単に自然的なレベルにおいてもそうすることは賢明なことであることは明らかです。

さし当たり数百万の霊魂を救うことの大きな善 - それは確かに私がさっき言及したこれらすべての善よりこはるかにもっと重要なのですが - の問題を扱うことをしなくてさえ、ただ自然的なレベルにおいてさえ、私は無神論者でさえ、彼はロシアの奉献を促進することによって何かを手に入れるであろうということを見ることができると、言うでしょう。

無神論者でさえ理解する

私は1984年のある時、一人の無神論者にこのことを説明したのを覚えています。彼は神を信じていませんでした。しかし、彼はそれにもかかわらずこの奉献の行為をすることの賢明さを理解することができました。彼は世界に対して彼が何らかの希望を見たのはこれが初めてであると言いました。無神論者でさえ、彼らの生命、彼らの人格、彼らが借金を20年間支払った彼らの家庭にただ注意するために、あるいは何であれ彼らが大切であると考えているものを守るために、他に何もないとしても、ただ生きている、そして彼らの自由を楽しむために適切に為されたロシアの奉献を持つことは最も賢明なことであると理解します。これらすべてのことはファチマの聖母のメッセージが聴かれ、従われることなしには危険にさらされるのです。

そしてそのように、無神論者の見地からでさえこの奉献の行為を前に進めることは完全に賢明なことです。他に何もないならば、そうすることによって何が失われるのでしょうか?絶対に何も失われません。起こるであろう最悪のことは奉献の行為をするために教皇と司教たち一緒の祈りが30分かかるということでしょう。そしてより大きな儀式になれば一時間半かかるということでしょう。そしてそれで終わりです。実際の祈りは宣言するために5分以上はかからないでしょう。そしてそのように賢明な見地からはそういうことです。それをすることによって得られるすべてのことがあります。そしてそうしないことによって失われるすべてのことがあります。

聖書は私たちに奇跡について教えている

しかし、この人間的な賢明さから離れて、私は私たちが聖書のうちに見出すいくつかの他の理由を述べたいと思います。私たちの主はファリサイ派の人々によって一つの奇跡を行なうように求められました。彼らはこう言いました。「私たちのために天に一つのしるしを行なってください。そうすれば私たちはあなたを信じましょう。私たちはあなたに従うでしょう。」私たちの主は言われました。「私はそれを行なわない。あなたたちが持つ唯一のしるしはヨナのしるしである。それは地中深くに三日いた後に再び命へと上げられる人の子である。」

しかし、これらのファリサイ派の人々は、主が天にしるしを行なってくれたなら信じるであろうと言いました。ところでファリサイ派の人々に拒否されたまさにこのしるしは聖母が、このメッセージが本当に神から来ているということを世に証明するために彼女の御子から得られたしるしでした。(続く)


ファチマ・クルーセイダー

2014年02月10日 | Weblog

「嵐の前の静けさ」(5)

The Fatima Crusader, Issue 56, Winter 1998より

ニコラウス・グルーナー神父 B.Comm., S.T.L.,S.T.D.(Cand.)

われわれのとてつもなく大きな責任

われわれはまたそれは一つのとてつもなく大きな責任であるということを理解しなければなりません。もしわれわれがこのメッセージとその憐れみを受け入れないならば、われわれの罪はそれだけよけいに大きなものとなるでしょう。われらの主はカファルナウムとベツサイダの町々に言われました。「そして今カファルナウムよ、そして今ベツサイダよ、おまえたちは天にまで上げられると思っているのか。否、おまえたちはよみにまで落とされるであろう。」そしてなぜわれらの主はカファルナウムとベツサイダについて言われたのでしょうか?彼は御自分ですぐに説明されました。「というのは、もしソドムとゴモラがあなたたちのうちに為されたしるしを見ていたならば、彼らは悔い改め、回心して、きょうまで残ったに違いない。」

われわれは、神が絶対的に正しくそして公平であられるけれども、均等ではない方であるということを理解しなければなりません。神はすべての人に同一の恵みをお与えになりません。神は御自分がカファルナウムとベツサイダにお与えになった恵みをソドムとゴモラにはお与えになりませんでした。そして神がお働きになった奇跡を見た後に、彼らが信じなかったので、神は彼らの罪はもっと重い、神が彼らの真ん中で行われた大きな奇跡を受け入れず、それに反応しなかったためによみにまで落とされるだろうと言われました。

ところで、カファルナウムとベツサイダにいるすべての人があれらの奇跡を見たのではありません。しかし、これらの奇跡が実際に起こったということを友人や隣人から知っていた十分な証人、十分に正直な人々がいました。そしてその照会を拒否し、その信仰に反応しなかったためにカファルナウムとベツサイダはよみにまで落とされなければなりませんでした。

もしそのことがこれら二つの町について真実であるならば、そのとき七万人の証人を持ち、過去八十年間私たちの目の前で実現されてきたファチマの預言を持つ二十世紀についてわれらの主は何と言われるでしょうか?そしてわれわれは、他の誰も何もしないから、坐りこんで何もしないのです。それとも、誰かが何か小さなうわさ、あるいは嘘、あるいは何であれあることを広めているからでしょうか。そしてロシアは回心しつつあるということをわれわれに告げているからでしょうか。あるいはグルーナー神父は悪いやつだから耳を傾けてはいけないのでしょうか?あなたが私を偉大な人間である、あるいはそうでないと考えるかどうかは問題ではないのです。私のような人々のことを考えることはよいことです。しかし重要なことはあなた自身で作品を調べて見て、どこかで私がファチマ・メッセージをその実質において誤って伝えたかどうかを見ることです。もし私がそうしたならば、どこでそうしたかをどうか示してください。もしそうしなかったのであれば、どうぞあなたたち自身でメッセージを広めてください。

教皇、司教たち、そして他のすべての者のために

ある人々はこれは教皇のための問題であり、これは司教たちの問題であるとわれわれに告げます。私は百パーセント同意します。もしあなたが自分の家の抵当を支払うために二十年間働いてきたならば、もしあなたが自分の子どもたちに教育を与え、彼らを養うために二十年間働いてきたならば、そのとき私はあなたが次の数年間彼らの福祉を見ることにおいて利害関係を持つと思います。もし何かが学校においてうまく行かないとき、あなたはPTAの集まりに出かけて行って、声を上げ何かが正されるように求めるでしょう。そしてそれは正しいことです。しかし、もしそのことがあなたが為すすべてのことについて真であるとするならば、われわれがファチマの聖母が求めておられることをしないならば、これらの事柄のすべてはどちらかというと無益です。私はだからこれらの他のよいことをしてはいけないと言うのではありません。「主が家を建てられないなら、それを造る者の働きはむなしい。主が町を守られないなら、番人の警戒はむなしい。」(詩編 126:1)

われわれの国を造り上げ、われわれの社会、われわれの家庭を造り上げる際のわれわれ自身のすべての努力は、もし神がわれわれの努力を祝福されないならば、すべて無益です。そして聖母はここでそして今後われわれに起こるであろう正確な諸結果をわれわれに告げておられます。「もし私の要求が聞き届けられるならば、多くの霊魂が救われるでしょう。そして平和があるでしょう。もし私の要求が聞き届けられないならば、ロシアは戦争と教会に対する迫害を起こしながら、その誤謬を世界中に広めるでしょう。善人が殉教し、教皇は多く苦しむでしょう。さまざまの民族が絶滅させられるでしょう。」

すべての人はこの情報を必要としている

これらの事柄を知ることが教会内部の一般の人々にとって重要でなかったならば、そのときファチマの聖母の敵どもがなぜ聖母が言っておられることについて嘘を広めることに固執しているのか、その間中自分たちは聖母への信心を広めているのだと偽善的に主張しながら、聖母の言葉を変え、それらを公に誤って引用することに固執しているのか、私には理解できません。この誤った情報を広めることが重要でなかったとするならば、そのとき彼らは苦にすることはないでしょう。

あなたがそれを理解しているにせよ、そうでないにせよ、あなたは戦場にいるのです。あなたはあなたの洗礼とあなたの堅信によって以外にはこの戦闘に加わることを求めませんでした。あなたの洗礼によってあなたは悪魔とその虚飾そしてその働きを断念しました。あなたはイエズス・キリストとその御母に対する忠誠を誓いました。なぜなら、われわれは敵、反キリストの支配を確立することを望んでいる敵、サタンの支配を確立することを望んでいる敵に直面しているからです。それが新世界秩序を装ってであれ、世俗的ヒューマニズムを装ってであれ、国連を装ってであれ、あるいはそれが他のどのような装いであれ、それは公にそして私的にわれわれの生活から神を排除することを望んでいます。そしてあなたはそれを支持するように求められているのです。そしてそこには中立の立場はないのです。

あなたは神に与するか、それとも神に反するか

神に与することを拒否することは悪魔の側に立つことを受け入れることです。「あなたは私に与するか、それとも反するかのいずれかである。」教会、単にあなただけでなく、教会のあらゆるメンバーは彼らがそれを理解するかどうかにかかわらず、同じ条件の下にいます。教会は攻撃にさらされています。教会は一つの選択に直面しています。この挑戦は単にマルクスによってばかりでなく、イルミナーティによって、フリーメーソンによって為されました。過去に戻ってフリーメーソンが教会をどのように破壊するかについて言ったことを読んでごらんなさい。--彼らは教会を敵と見ています--そして教皇制を破壊するために、彼らはわれわれは短剣を必要としないと言っています。スティレット(あなたが誰かの心臓を突き刺すことができる小さなナイフ)は十分ではない、それは教皇制を殺すためには十分ではない、とこの特定の文書は言っています。それは1840年代のアルタ・ヴェンディタというフリーメーソン・ロッジ運動から出ています。われわれがしなければならないこと、それはキリスト者の心を堕落させることだ、とこの文書は言っています。なぜなら、われわれがキリスト者の心を十分に堕落させるとき、教皇制はそれ自身で倒れるだろうからだ、と。

 ですから、教会を攻撃し、家庭の諸価値を攻撃するこれらの映画が金儲けにならないとしても、まったく頻繁に彼らはそれらの映画を作り続けます。というのは、目的は第一に金儲けではなくて、信者の堕落を促進することだからです。

間もなく聖母の勝利がすべての誤謬の上に

レオ十三世は1884年にフリーメーソンと共産主義は基本的に同盟している、彼らは同じ神に反する諸々の誤謬の親戚であると指摘されました。彼らは両方とも家庭に反対します。両者は離婚を権利として促進します。両者は教育に対する両親の権利は国家の権利よりも小さいと主張します。両者は神なき社会をもたらすことに賛成します。教会に対するこの戦争は共産主義ロシアの確立と共に今世紀に強化されました。教皇ピオ十二世は次のように指摘されました。1517年にルターは「神に対してイエス、キリストに対してイエス、そして教会の対してノー」と言いました。1717年にフリーメーソンは「神に対してイエス(しかし、彼らは神のことをさして言っていませんでした)、彼らはキリストに対してノー、そして教会に対してノー」と言いました。1917年にマルクス主義者は言いました。「神に対してノー」。

ロシアの奉献によって逆転させられるであろうのはこれらの「ノー」です。われらの主が言われたように、教会は主の花嫁です。あなたはそのことをエフェソ人への手紙の中に見出します。われわれはルターが教えたように、キリストに賛成して、彼の教会に反対することはできません。われわれは神に賛成して、キリストに反対することはできません。われらの主がファリサイ派の人々に言われたように、「もし神があなたたちの父であるならば、あなたたちは私を受け入れたであろう。というのは、私は私の父の似姿だからである。私と父とは一つである。否、あなたたちの父は悪魔である。」子なる神は父の似姿です。「フィリッポよ、あなたは私と父とが一つであることを知らないのか。あなたは私を見た。あなたは父を見たのである。」そしてそのようにある意味において、マルクスは神に対して「ノー」と言うことによって、キリストに対する「ノー」と彼の教会に対する「ノー」のうちに内在している論理をまさに実現していたのです。しかし、これらの事柄のすべてはロシアの奉献と回心によって逆転させられるでしょう。紀元1054年に教皇首位権を否定した正教会の「ノー」でさえ逆転させられるでしょう。

この戦闘において、教会は百年以上も前に出発した組織された戦闘的無神論に直面させられてきましたし、いまも直面させられています。キリスト教世界およびカトリック教会に対するこの全体的な、文化的、霊的、物理的、経済的そして政治的な戦いは(ときには軍事的な戦争と同様に)歴史においてその頂点に達しようとしており、そしてわれわれは頂点の瞬間にいるのです。数年前TANはイーヴ・デュポンによる一冊の書物を出版しました。その中で彼は来るべき懲罰について語りました。彼は紀元300年、紀元400年、紀元500年からの、事実過去1700年間のカトリックの列聖された聖人たちを引用しています。彼らは皆カトリック教会にとって、そして事実全人類にとって、最大の危機の瞬間としての二十世紀最後の四半世紀に注意を向けています。それはただいまわれわれが生きている時代です。

紀元二千年以前の勝利

これらすべての事柄は次の数年に集中しています。われわれはキトの聖母について、彼女自身の仕方で戦いは二千年までに終わるでしょうと私たちに告げておられる幸運の聖母についての預言を持っています。彼女は十九世紀の終わりの部分と二十世紀の大部分にわたって異端に屈する教会について話しておられます。しかし、異端は二十世紀全部を支配しないでしょう。

聖ヨハネ・ボスコの預言は勝利が勝ち取られるのは二千年以前であるとわれわれに告げています。彼は平和の支配が始まるのは二つの満月を持つ花の月が終わる以前であるとさえわれわれに告げています。あなたはこれらの預言についての説明を『悲劇と勝利』という書物の終わりのところに見出すでしょう。ある人に従えば、これは1999年3月のことでしょう。

困難の一部はわれわれにとって歴史的展望を得ることです。それは絵の上にあなたの鼻をくっつけて見ようとするようなものです。あなたがそのように絵に近づきすぎて、ただ一点しか見ないときには絵の残りの部分を見ることは非常に困難です。われわれの同時代人の多くがいるのはそのような場所です。というのは、彼らはわれわれ自身の時代に余りにも近すぎて、そのようにしてわれわれが非常に異常な時代にいることが認識できないのです。ですから、あなたが最終的に反応することができるように、この展望を得ることはあなたにとって大切です。もしあなたが今なお麻痺させられているならば、少なくとも、他の何もないならば、もっと熱心に、もっと頻繁にあなたのロザリオを祈りなさい。そして他にあなたのすることが何であれ、毎日ロザリオを祈ることを抜かしてはいけません。

説明された教会の唯一の真の選択

私はここで一つの考えで終わりたいと思います。われわれはマルクスと他の仲間の旅行者たちによって教会に対して宣言されたこの戦いの中にいます。教会は三つの選択肢を持っています。第四の選択肢は降伏してそれを忘れ、そしてあなたが勝った、われわれはあなたたちに加わると言うことです。もちろん、もしわれわれがそうするならば、それは背教です。ですから、もし神に忠実であることを望むならば、われわれは紙の上では三つの選択肢を持っています。第一の選択肢は私たちが迫害者たちから逃げることができるというものです。第二の選択肢は私たちが迫害者たちと戦うことができるというものです。そして第三の選択肢はわれわれは交渉することができるというものです。

ハンター(狩人)氏と未来のヴィクティム(犠牲者)氏の例を取ってみましょう。もしハンター氏がヴィクティム氏に「私はあなたを殺すつもりである」と言うとします。(未来の)ヴィクティム氏は、三つの選択肢を持っています。彼は逃げることができます。彼は戦うことができます。あるいは彼は交渉することができます。それが彼が持っているすべての選択肢です。そしてそれが教会が持っているすべての選択肢です。ただし、われわれはどこにも逃げることができません。というのは、教会に対するこの戦闘的無神論者の陰謀がそうであるのと同じように、教会は全世界に広まっていますから、教会は逃げることができないのです。そのことはわれわれに戦うか、それとも交渉するかのいずれかの選択肢を残します。そしてこれは決定的なことです。バチカンは交渉することの方を選択しました。バチカンは一つの協定、バチカン・モスクワ協定を結びました。聖母はあなたたちはその仕方では勝利することはできないと言っておられます。あなたたちはただ私があなたたちに与える武器で戦うことによってだけ勝利することができると言われるのです。そしてそのことがロシアの奉献についてのこのすべての混乱が関わっていることです。

おそらくあなたたちは以前にバチカン・モスクワ協定という言葉を聞いたことがないでしょう。しかし、それは非常に重要なことです。アメリカの政治家たちがワシントンでこのことについて話さなかったことに私は驚きました。しかしそれは教会ならびに市民社会の裏切りです。今私は存在論的に、すなわちそれ自身において、その本質において語っています。

私はそれを締結した人々がこの裏切りの行為を悪意をもってしたと言っているのではありません。私は自分の著作において彼らの意図を正当化しさえしています。彼らの動機を判断することは私の仕事ではありません。

われわれは裏切られている

それにもかかわらず、事実はバチカン・モスクワ協定が教会を裏切り、そしてわれわれ一人ひとりを裏切っているということです。私がバチカン・モスクワ協定を記述している裏切りという言葉を最初に見たとき、「それは強い言葉だ」と言いました。私は「私がそれに同意できるかどうか、確信がもてない」と言いました。なぜなら、私は自分自身でそれを考え抜かなければならなかったからです。私はそれについて考える時間をあなたたちよりも多く持っていました。それで私はこのことをあなたたちに説明しましょう。

バチカン・モスクワ協定は非常に簡単に言えば、共産主義の諸々の誤謬を非難しないバチカンの側での同意です。この協定は1961年11月22日から交渉が行われ、1962年10月12日に締結されました。それは多くの場所で公表されています。私の著作とは独立にもしあなたがそれを読みたいならば、マラキ・マルタンの書物『イエズス会士たち』の85-88ページにそれを見るでしょう。また、ミシガン州、アン・ナーバーにあるアルディス出版から出ているフロリディ神父の書いた『モスクワとバチカン』という書物の中にそれを見つけるでしょう。彼の書物は1917年から1979年までのバチカンとモスクワの外交関係についてのものであり、彼はそこでバチカン・モスクワ協定のことを書いています。あなたはフランスの共産主義の出版物の中にそれを見出すでしょう。あなたはフランスのカトリック出版物の中にそれを見出すでしょう。あなたは1961年11月22日のデルフィ新聞の中に、概略の協定条件を見出すでしょう。その中でKGBエージェントであるモスクワの主席交渉者、ニコディム大司教はバチカンに対して彼らの同意の条件を主張しています。そしてバチカンは、1984年1月から9月までの短い期間を除いて、過去三十五年間文字通りこれらの条件を果たしてきました。その間を除いて、教会は、もっと正確に言えばバチカンは、共産主義の諸々の誤謬を非難しないというバチカン・モスクワ協定の条件を受け入れてきました。今ではそれは非常に軽い事柄のように思われます。しかし、ちょっとの間次のことを考えてみてください。第二次世界大戦の後、共産主義者たちがポーランドにおいて権力を握る前、彼らはポーランドの選挙において部分的勝利を得ていました。彼らは非共産主義政党との連立政権を持っていました。そして彼らはただ二つの事柄だけを要求しました。彼らは自分たちが内務省の仕事、すなわち警察力と軍隊を持つことを要求しました。それは彼らがその連立政権において大臣の地位を持つということです。そして彼らが要求した第二のことは共産主義が議会で非難されないということでした。そしてこれら二つの条件が受け入れられ、実践されて、1949年までに彼らはポーランドの権力を獲得していました。

お分かりのように、もし誰もロシアの、そして共産主義の誤謬を非難しないならば、しばらくすると人々は彼らについて忘れ、そして彼らは少しずつ人々を吸収し始めます。私が青年期だった頃には誰も、あなたはカトリックであり、同時に共産主義者であることができると言うことはできませんでした。もしあなたが今日カトリック大学の学生と話すならば、彼が一つの可能性としてそのことを擁護するのを見出すでしょう。もしバチカンが共産主義の危険について過去三十五年間沈黙していなかったならば、彼らは決してそのようなことはすることができなかったでしょう。

それでは私はなぜこれを裏切りと呼ぶことができるのでしょうか?それは純粋で単純な裏切りです。というのは、司教という言葉は見張り人を意味するからです。敵が近づいて来たときに叫び声を上げること以外に見張り人の目的は何でしょう。あなたが見張り人の義務を知らない場合には、神は旧約聖書のエゼキエル書にあることをわれわれに告げられます。「私はあなたを見張り人に任命した。さてもしあなたが敵がやって来るのを見るならば、そして私は見張り人に叫び声を上げるように言っておいたのだが、もしあなたが叫び声を上げないならば、私はあなたの仲間の市民たちの一人ひとりの死の責任を見張り人であるあなたに負わせる。というのはあなたは叫び声を上げなかったからである。」

見張り人を雇うこと、彼に職務の誓いをさせること、城壁で囲まれた町を見張ること、敵がやって来るのを見ること、他のすべての者が眠っている午前二時に見張りの塔から歩いて下りて来ること、そして叫び声を上げないために敵と密約を結ぶことは何の目的でしょうか?それは純粋で単純な裏切りです。

  それがバチカンがしたことです。バチカンは敵がやって来るのを見るときに叫び声を上げないことに同意しました。そしてバチカンは過去三十五年間そうしてきました。こう言うことのゆえに私は教皇に反抗しているのでしょうか?いいえ。全然そうではありません。私は、「私の命令の遂行を遅らせることにおいて彼らがフランス王の例に従うならば、彼らは彼のように、彼に従って不幸に陥るだろうということを私のしもべたちに知らせなさい」と私たちの主が言われているという単純な理由で教皇の首を救うように努めているのです。そしてそのようにあなたはこの問題を克服するために交渉を持つか(われわれは交渉が現在まで進まなかったことを知っています。そして聖母は交渉が進まないばかりでなく「善人が殉教し、教皇が多く苦しむでしょう」とわれわれに絶対的に確証しておられます)、それとも聖母があなたにお与えになる武器を取るかのいずれかです。あなたは奉献を行い、ロシアを回心させるか、それとも彼らと交渉するかのいずれかです。あなたは逃げることができませんから、そしてあなたは彼らと戦うために物理的な武器を持たなかったのですから、交渉するか、それとも聖母の武器を取るかのいずれかです。不幸なことに、これらのバチカンの高官たち、例えばカザロリ枢機卿は彼が聖母よりももっとよく知っている、われわれは交渉すべきだ、と考えるのです。共産主義が主張した交渉の条件は その誤謬に関する沈黙です。1984年におけるいわゆるロシアの奉献に対する聖母の要求の実現についての他のすべての混乱は無知によってか、あるいは悪意によってかのいずれかで、あなたがバチカン・モスクワ協定のどちらの側にいるかに関わっています。それはそのように単純です。それはそのように単純なので、人々はわれわれが教皇に反対していると考えていますが、われわれは実際反対しているのではありません。教皇御自身がロシアの奉献をしなかったことを認めておられます。教皇は自分の手が結ばれている、自分は何もできないと感じておられます。教皇が必要としておられるものは奉献のための祈りと公的な支持の両方の支持のうねりです。なぜ教皇はそれをなさらないのでしょうか。理由はひとつです。教皇は十分な数の司教たちの協力が得られないのではないかを恐れておられます。

よいニュース

そのことについて私はいくつかのよいニュースを持っています。全世界には約四千五百人のカトリックの司教がいます。過去十年間に私に手紙をくださった千九百人の司教たちのうち、81%の司教がわれわれのしていることに賛成しておられます。81%です。過去十年間にわれわれが言ったことに反対なさったのはわずか二十三人の司教、二十三人の司教と戦闘的に反対なさっている一人の司教です。長い年月の間にわれわれを支持してくださった多くの司教が亡くなられました。

今日奉献のためにわれわれがしていることに賛成なさっている六十人以上の枢機卿がおられます。それは全枢機卿のうちの45%です。司教たちのうちでわれわれはそれほど高いパーセンテイジを持っていませんが、この奉献に関してわれわれの側についておられる千二百人以上の司教をわれわれは持っています。教皇でさえそのことをまだ知っておられないと私は考えています。彼は間もなく知られるでしょう。ですから、私が公的にこれまで言ってきたことがまさに正確であるということを十分な人々が理解するようになるまで、これらの事柄を説明し続けようと考えているのです。これまでまだ誰も誤謬を見つけていません。彼らは私の人格、私の名声、私の意図を攻撃するでしょう。しかし彼らは神学的にも、また事実の上でも、私が言っていることを攻撃することができません。私が言っていることは真実ですから攻撃はないのです。

どうかあなた自身と他の人々を助けてください

目的は人々を憤慨させることではありません。目的は私がよりよいと言うことではありません。しかし、私はあなたたちに真理を告げないために害を及ぼすことになるでしょう。もし私がここにいるすべての人、どこにもいるすべての人に影響を及ぼす事柄において真理を告げないで、われわれの生命、自由そして霊魂が危険にさらされるならば、私は教皇と司教たちに害を与えることになるでしょう。私はあなたたちができる何らかの仕方でのあなたたちの継続した祈りと支持によって私を助けてくださるようお願いしたいと思います。しかし何よりもまず聖母が求めておられることをしてください。まず第一にロザリオの祈りをしてください。カルメル山の聖母のスカプラリオを身につけてください。あなたが誤解されるかもしれない事柄においてさえ共通善が危険にさらされるとき、あなたがまた無知な人あるいは狂信的な人から「カトリック以下」と考えられるために攻撃されるかもしれないとき、共通善に対するあなたの義務を含むあなたの日常の義務を果たしてください。私があなたに知ってほしいと勧めたいもっと多くのことがあります。ファチマのメッセージに関して言いたい多くのことがあります。私はあなたたちがファチマに関する優れた資料を読んで、いろいろ知り、またあなた自身の話によって、あなた自身の言葉によって、それを伝えることによって他の人々に対してあなたのできることを伝えるようにお勧めしたいと思います。


ファチマ・クルーセイダー

2014年02月09日 | Weblog

「嵐の前の静けさ」(4)

The Fatima Crusader, Issue 56, Winter 1998より

ニコラウス・グルーナー神父 B.Comm., S.T.L.,S.T.D.(Cand.)

蛇の頭を踏みつぶす創世記3:15の女性は彼女の汚れなき御宿りの最初の瞬間から悪魔に対して勝利された祝せられたおとめマリアです。われらの主は十字架の上から「女」として祝せられたおとめに言及されました。(ヨハネ 19:26)われわれはまた黙示録の第12章において語られた「女」を持っています。創世記第3章においてはこう書かれています。「お前と女、お前の子孫と女の子孫の間にわたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕く。」

「彼女はお前の頭を砕く」

起源約430年頃に亡くなった聖ヒエロニムスは今でもなお偉大な聖書学者です。彼は聖書を原典の霊感を受けたギリシャ語とヘブライ語からラテン語--今日ヴルガタと呼ばれている版--へと翻訳しました。ヴルガタには教義上の誤りはないと教えているのはトレント公会議です。聖ヒエロニムスは、今日の聖書学者とは違って、ヘブライ語原典のテキストを持っていました。聖霊諸教父たちのうちの初期の教父の一人はユダヤ教の改宗者で、彼の父親はラビでした。彼はラビたちが旧約聖書のテキストを変えたと指摘しています。それは非常に容易なことです。もしあなたがヘブライ語を読んだこと、あるいは見たことがあるならば、そう言えます。ヘブライ語は子音の間には母音の間にあるようなしるしがほとんどありません。それでヘブライ語においてはその言語のゆえにテキストを変えることは非常に容易です。そしてこの学者が言ったことはユダヤの学者たちが、キリストの死後百年あるいは二百年頃に、聖書のテキストを変えたということです。というのは、諸々の預言がナザレトのイエズスがメシアであるということしか意味しえないということがますます明白となったからです。イエズスはキリストです。そしてそれゆえに、自分たちの民に対して支配力を維持するためにユダヤの学者たちはテキストそのものを変えたのです。こう言っているのはその父親がラビであった一人のユダヤ教からの改宗者です。聖ヒエロニムスはテキストを損ないませんでした。そして彼はそのほかにももはや利用できないテキストを利用することができました。それらは時間が経つにつれて拭い去られました。そして聖ヒエロニムスは「彼女はお前の頭を砕くであろう」と言うことによって、その節を翻訳しました。その意味は女が砕くであろうということです。そしてそのように、ファチマの聖母が「ただ私だけがあなたたちを助けることができます」と言われるとき、ある意味において、神でさえわれわれを助けることがおできにならず、「ただ私だけが」助けることができると言っておられるのです。それがほとんど冒涜のように聞こえる、そして確かにプロテスタントの人にはそのように聞こえるでしょうが、しかし私はそのことをあなたたちに説明しましょう。

ある特別の恵みはただ聖母を通してだけ来る

聖アウグスティヌスはわれわれにこう言っています。神がその愛と憐れみにおいてわれわれに与えようと望まれるある種の好意、ある種の恵みがある。しかし、神はわれわれがそれらに相応しくないということを知っておられる。そして神はまた、われわれがそれらに値する、ないしそれらを自分で獲得すると考えて非常に高慢になることもあるということをも知っておられる、と。われわれにとってそうすることは非常に容易です。私はこの考えは非常に理解しやすいと思います。そしてわれわれは、自分たちはある特別の賜物--よりよい知性、あるいは見栄えのよさ、魅力、体育上の能力、話す能力等々のような--を持っているために他の人々よりも優れた者として自分自身について考える傾向のある他の人々(おそらくわれわれはそれを自分たち自身のうちにさえ認めました)を見ました。われわれの賜物について気づいたり知ったりすることは間違いではありません。しかしわれわれがこれらの能力を、あたかも前もって神から得たのではないかのように、それらをわれわれ自身に帰するとき、それは間違いです。聖パウロが指摘しているように、もしあなたが最初にすべてのものを神から受け取ったのでなかったならば、なぜあなたはあなたが持っているものに栄光を帰するのですか。しかしわれわれは不遜で高慢な人々を見出します。そしてそのようにそれは非常に一般的な感情です。

 そのように、神はわれわれがこれらの特別の恵みを得るとき、われわれがそれらを自分自身に帰するだろうということを知っておられます。それで神は一つのジレンマを持たれるのです。神はこれらの恵みをわれわれにどのように与えようとなさるのでしょうか。神はわれわれに与えることを望まれます。そしてなおそれらの恵みがわれわれにとって高慢の機会となったり、われわれが実際あるよりもよいと考えることへと導いたりすることがないようにされます。もしわれわれがこの高慢に陥るならば、われわれはぜひなんとかしてよりよくなろうとする試みを止めるでしょう。というのは、われわれは「ああああ、私は何をしたことだろう」それで「われわれはよくあるためにもっと辛いことをする必要はない」と独り言を言うでしょう。ですから、神はここで一つの問題を持たれるのです。神はなおその大きな恵みをわれわれに与えたいと望んでおられます。聖アウグスティヌスは神が一つの道を見出されたとわれわれに告げています。神がただ諸聖人の功績と取りなしを通じてだけお与えになるある種の好意、ある種の恵みがあります。他の道はありません。ですから、われわれがそのような大きな恵みを得るとき、われわれは容易にこの高慢の罪に陥ることはありません。

世界平和は絶対的にただマリアの汚れなき御心を通じてだけ来るでしょう

ファチマにおいてわれわれは世界の平和はマリアの汚れなき御心に委ねられたと告げられています。ですから世界における平和は聖母の功績と恵みを通じて、そして人類によるその同じことの承認以外の他の仕方で起こらないでしょう。ですから、聖母は真実にそして文字通り「私だけがあなたたちを救うことができます」と言うことができるのです。彼女は実際御自身について、この場合に第三人称で話されました。「ただ彼女だけがあなたたちを救うことができます。」しかし、彼女はロザリオの聖母について話されていました。「ただ彼女だけがあなたたちを救うことができます。」

なぜ彼女はそう言うことがおできになるのでしょうか?それはわれわれがこの恵みを彼女の取りなしを通じて以外には、彼女の功績を通じて以外には、そして彼女の信用を得ることを通じて以外には得ることができないからです。

ファチマは最初の聖書の預言の実現です

そしてそのように今われわれは、神が人類の始まりのときに「彼女はお前の頭(悪魔の頭)を砕くだろう」(創世記 3:15)と約束なさったことをもっとよく理解することができます。もちろん、祝せられたおとめがなさることは何でも神の力によって為されます。それにもかかわらず、神は彼女を蛇の頭を砕くための一つの道具として用いておられます。もしあなたが聖書における女についての最初の預言、創世記3:15「彼女はお前の頭を砕くだろう」について考えるならば、あなたは、彼女がわれわれの世紀に約束なさっている聖母の勝利が起こるときに、その預言が実現するだろうということを見ることができます。彼女は蛇の頭を砕かれるでしょう。そしてわれわれの最初の両親[アダムとイヴ]に約束された勝利はわれわれの時代に実現されるでしょう。

聖書において女について話された第二の時はカナの婚宴においてです。祝せられたおとめはその祈りによって一つの恵み、予定されていなかった一つの奇跡を得ておられます。それは彼の時ではありませんでした。しかし彼女の要求でイエズスはそれを彼女にお与えになりました。あなたたちはファチマのメッセージのうちに恵みと憐れみを見ます。われわれはこの恵みに値しません。われわれはこの憐れみに値しません。聖母の祈りにおいてそれは達成されるでしょう。しかし彼女でさえ、勝利が来るとき信用がそれに属するところに与えられるために何が問題であるかを人々に理解させるためにわれわれから何かあるものを必要とされます。しかしそれは恵みと憐れみを通じてであって、われわれの側での功績を通じてではないでしょう。ですから、人々がわれわれに必要なものはただより多くの祈りです、われわれはもっと多くのロザリオを必要としている、われわれはこのことをもっと多く持たなければならない....などと言うとき、われわれがそれをもっと多く持つべきであるということに、私は同意します。しかし、われわれがこの特別な恵みを得るのは、これらすべてのことを為すわれわれによってではないのです。それはわれわれのうちの誰かが為すことができるどんなこと、そしてわれわれ皆が一緒に為すどんなことをも超越しています。

聖アルフォンソは、一人の人間、一人の男あるいは一人の女にとって、彼ら自身の魂を救うために彼ら自身のよい業と神との協同によって十分な恵みを得ることは偉大なことであるとわれわれに告げています。それは彼が言っている偉大なことです。彼はある人が単に彼自身の魂を救うばかりでなく、彼の兄弟たち、姉妹たち、隣人たちの魂を救うために十分な恵みを得たときはそれはなお一つのもっと偉大なことであると言っています。そして彼の言っていることは聖人たちがしていることです。しかし、彼はすべてのことの中で最も偉大なことは一つの被造物、一人の人間が全人類を救うために十分な恵みを得るときであり、そしてそれをしたのはただ祝せられたおとめだけである、と言っています。

彼女はすでにこれらの恵みを得られました。しかし、それらの恵みを適用するために、神は彼女が信頼を得られるまではそれらの恵みを適用させられないでしょう。ですから、それは教皇が公的に荘厳に(カトリックの全司教と一緒に)特別にロシアをマリアの汚れなき御心に奉献するという従順と信仰のこの行為に取って置かれているのです。ですからわれわれは他のどんな仕方でも平和を持つことはないでしょう。われわれはそれに値しません。しかし、神はそれをわれわれに与えようと望んでおられます。神は祝せられたおとめが信用を得られることを望んでおられるのです。ですから、それは他のどんな仕方でも起こらないでしょう。1930年代半ばにシスター・ルシアがそれを得ようと試み、そして教皇たちがそれに注意を払わなかった七年後に、彼女はイエズスに、なぜ奉献のその行為を通じて以外の仕方でイエズスがロシアを回心させ、世界に平和をもたらされないのか、と尋ねました。イエズスは娘よ、あなたは誤解しているとは仰いませんでした。それらは実際条件ではありません。それは本当は必要ではありません。彼はそれについては何も言われませんでした。彼が言われたことはこうでした。「後になって教会が私の聖心への信心につけ加えてこの汚れなき御心への信心を建てるように、マリアの汚れなき御心の勝利として、私の全教会があの奉献を認めることを私が望んでいるからだ。」言葉を換えて言えば、イエズスはこう言っておられるのです。「あなたは正しい。」「あなたは私を正しく理解している。」「われわれは世界の中に平和を持たないであろう。」「教皇が奉献をされないかぎり、そして奉献されるまでは、われわれはロシアの回心を持たないであろう。」「私はまさに、この恵みが人類に与えられるのは汚れなき御心の功績と取りなしを通じてであるということを全教会が認めることを望んでいるから、この恵みを取って置いている。」ですから、それは他のどんな仕方でも起こらないでしょう。あなたたちはそのことをシスター・ルシアの著作のうちに見るでしょう。あなたたちはそれをフレール・ミッシェルやフレール・フランソワの著作のうちに見るでしょう。

「女」の勝利

そしてそのように「女」は十字架の上から語られました。「女よ、あなたの子を見なさい。」「息子よ、あなたの母を見なさい。」聖書の「女」は祝せられたおとめマリアにほかなりません。彼女はマリアだと同定されています。創世記3:15の「女」は十字架でイエズスの弟子たちの御母マリアと同定されています。彼女は聖書の「女」です。彼女は黙示録12:1の「女」です。彼女はローマにおける1946年の承認された御出現においてご自身を明らかにされました。そして彼女は「私は黙示録の女です」として御自分の名を与えられました。彼女はどのようにもっとはっきりと明らかにされることができるでしょうか?彼女は買ったばかりの七インチのナイフを持った、そして教皇の心臓をそれで刺そうとしていた一人のプロテスタントに御自身を明らかにされました。そして彼女は彼を回心させられ、御自身の身元を明らかにされました。彼は教皇を反キリストと見ていた原理主義的プロテスタントでした。この男は今日もまだ生きていると思います。彼は八十歳台です。彼の名前はブルーノでした。そしてそこには一つの小さな聖堂、黙示録の聖母の聖堂があります。教皇パウロ六世は1967年にファチマに行かれたとき、私が世界中に持ってまわっている聖母像を祝福されました。1967年5月13日ファチマに到着された日に、彼はSignum Magnum--「大いなるしるし」という意味ですが--として知られている彼の回勅を発表されました。彼の回勅は「私は太陽をまとった一人の女を見た」という言葉で始まっています。それは啓示を意味するギリシャ語であるアポカリプス(黙示録)から取られています。彼の回勅は、ファチマの聖母が「太陽をまとった女」という聖書の預言の実現にほかならないということを明らかに示しています。あるいは最も少なく見積もっても、明らかにそれを暗示しています。それは非常に短い回勅で、教皇が書かれた最も短い回勅のうちの一つです。私はあなたたちにその最初の一節のためだけにでもその回勅を読むことをお勧めします。

第三の秘密 -- 信仰は危機に瀕している

ラッツィンガー枢機卿は第三の秘密は聖書のうちに含まれているとわれわれに告げておられます。シスター・ルシアはある日こう言いました。「もしあなたたちがその秘密を知りたいならば、それは黙示録第八章から第十三章のうちにあります。」

教皇パウロ六世はファチマの聖母は太陽をまとった女についての聖書の預言の実現であるとはっきりと示唆されています。そしてそのように、あなたたちがこのすべてを一緒に結びつけるとき、われわれが背教の時代に生きているということは明らかです。

われわれは「信仰に関する報告」というラッツィンガー枢機卿の書物の内容を「信仰は世界中で危機に瀕している」というこの一節によって要約することができます。書物の残りはただそれが何からなっているかを説明しているだけです。

聖省の長官である枢機卿が信仰が世界中で危機に瀕していると言っている書物を書いたということは1540年聖省の創立以来現在に至るまで決して知られたことはありませんでした。ラッツィンガー枢機卿は1984年にそうしました。彼は1984年にインタビューに応じました。短い版が1984年に公表され、書物は1985年に出版されました。

われわれはここでもう希望がないとあなたたちに告げているのではありません。しかし、われわれはここでまたあなたたちに誤った希望を与えてはなりません。あなたたちは事実をありのままに見るべきでしょう。

歴史的展望

われわれのうちの多くの者はただ一日一日を生きているだけですから、われわれを助けてくれる歴史の展望を持っていません。ときどきわれわれの住んでいる時代を認識することはわれわれにとって困難です。しかし私がインドにいたとき(私はインドにはこれまでに五回行きました)、一人のインドの医師と話したことを覚えています。ところで彼女はパウロ六世が「フマネ・ヴィテ」(Humanae Vitae)を書かれたとき、その委員会に属していました。彼女は教会の教えに同意していた委員会の少数派の一人でした。そして教皇は最終的に彼の回勅「フマネ・ヴィテ」においてその委員会に従われました。彼女は異教徒のインド人たちでさえ中絶の罪を犯さないということを指摘しました。それは中絶する人が絶対的に誰もいないと言っているのではありません。しかし、中絶はそのように自然に反するものです。それは神が人間の心の中にお定めになった法に反しています。啓示は確かに助けてくれますが、しかしあなたたちはそれが悪であるということを知るために啓示を必要としません。現在インドに住んでいる九億の人々のことを考えてみるならば、彼らが一人当たり中絶によって殺すそのわずかの人数において、われわれを恥じ入らせます。

部分出産中絶がそうである残酷な殺人についてあなたが読むとき、もしあなたが部分出産中絶が何であるかを知らないならば、赤ん坊が吸引機によってその脳を吸引されたことによって処置される以前にはその子供は、おそらく一インチの頭部が母親の内部に残されていることだけを除けば、完全に生まれるのです。

今はわれわれにとって何らかのわれわれの無感覚を失う時期であり、われわれの周りを見ることを止め、ただ他のすべての人がそれを受け入れているがゆえに、他のすべての人がOKであるとして受け入れているものを受け入れることを止める時期です。今はわれわれにとってわれわれが一つの危機である歴史的瞬間に生きているということを理解する時です。それは危険でもあり、同時にまた機会でもあることを意味します。われわれにとっては、われわれがこれらの事柄に同意しないとしても、もしわれわれが何もしないならば、われわれの両手にこれらの子どもたちの血を持つというとてつもない危険が存在します。ただわれわれの声を上げないことだけによって、他のすべての人がそれをそのように受け入れているから、今あるように、すべてが正常であるかのように選挙を行うことによって、おそらくわれわれの両手に彼らの血を持ったことの受領証が来るでしょう。

最も異常な奇跡

聖母はわれわれが異常な時代にいるということをわれわれに警告しておられます。世界の始まり以来一つの奇跡が三ヶ月も前に予告されたことはかつてありませんでした。ファリサイ派の人々が天における一つのしるしとして自分たちに与えることをわれらの主に求めたその奇跡をわれらの主は彼らに与えることを拒否されました。彼は彼らに、あなたたちはヨナのしるしを見るであろうと言われました。しかし、ファリサイ派が求めたまさにそのしるしは聖母がわれわれの時代にわれわれに与えられたしるしです。それは以前には決して為されなかったことです。

それはわれわれが異常な危険にあるからであり、時代が異常であるということ、われわれがファチマのメッセージにおいて神がわれわれに与えられた大きな憐れみを理解しなければならないということです。(続く)