けれど(Credo)

I:キリシタン信仰と殉教 II:ファチマと現代世界 III:カトリック典礼、グレゴリオ聖歌 IV:「聖と俗」雑感

ファチマ・クルーセイダー

2012年12月06日 | Weblog
今や時が来た

ロシアを奉献することはカトリック・正教の
対話を害さず、助けるであろう(続き)

The Fatima Crusader Issue 91, February 2009 より

キャシー・ピアソン

再び、思索はいくつかの可能な説明を思いつかせる:

教会法上の領域。ロシアにはカトリック教徒よりは数的にはるかに多くの正教徒がいるがゆえに、とりわけロシアについての教皇のどのような行為も生意気なもの、「正教のなわばり」への侵入だと思われるのであろうか?もしこのことが問題であるならば、今はカトリックの教区の存在が少なくともそこでは受け入れられているから、そして活動はまず第一にカトリック教徒のロシア人たちに関係することとして見られ得るから、諸々の利益(もしそれらが、カトリック教徒たちが期待しているように起こるならば)はすべての人によって感じられるであろう。ロシアのカトリック教徒たちが1950年代にピオ十二世に奉献を請願したとき、彼らは単に数的に小グループであっただけではなく、抑圧されそして大部分は地下組織の少数派であった。

自尊心。ロシア人たちは、彼らが他の国の人々よりももっと回心する必要があるという提案によって侮辱されるのであろうか?ロシアの奉献をという聖母の要求は、単に回心へのその必要(すべての人々が、恩寵の状態にある人々でさえ、絶えず努力する必要がある事柄)ばかりでなく、またその未来の諸々の誤謬、迫害、殉教そして諸民族の絶滅をも議論するという文脈において語られた。この文脈は奉献を、それがそれ自身の本性によってそうでないとしても、一つの非難あるいは悪魔払いのように思わせるのか?しかし先に挙げた諸悪は一民族としてのロシア人たちと同一視されるよりもむしろソビエト共産主義と非常に広範囲に同一視されるからして、正教会のキリスト教徒たち - 彼らの多くはまたソビエト政権の下で大いに苦しめられた - はたぶん何らかの非難を彼ら自身に対してよりはむしろ彼らの以前の抑圧者たちに対して向けられたものと見るであろう。
聖母に奉献されるということ - 自らによってであれ、あるいは他の誰かによってであれ - がある個人の、あるいはある国の自由を制限するために何事をもなさず、そしてただ彼らを神の御母の愛すべき保護の特別の受益者とするということを明らかにすることは可能なはずである。この考えは無神論的な政権に対する呪いであるかもしれない。しかしロシアそしてロシア正教会がこれまでそうであったようにマリア信心に浸ってきた文化にとっては一つのより自然的な名誉であり得るであろう。実際、「聖なるロシア」がキリスト教世界そして救いの歴史において真に独自の役割を受け継いできたという考えを常に促進してきたのはロシア正教会である。

分派。「ロシアの回心」を目指している何らかのカトリックの祈り - 特に、ある人々がソビエトはすでに共産主義から回心したと感じているこのポスト・ソビエト時代に - は正教会からカトリックへの回心を目指しているものと解釈されるだろうか?(正教会からカトリックへの回心は、カトリック教徒の側では一つの完全に適切な要求と祈りの意向ではあるけれども、正教会にとっては神経過敏となる点であることは理解し得ることであろう。)
このことは、「縄張り」問題以上にさえ、単にロシア人としてだけではなくて、正教徒としてのロシア人正教徒に、そして異なった宗教統一体としての、そしてこのようにして信徒たちの心に対する可能的なライバルとしてのカトリック教会と正教会との間の関係に真に影響を及ぼす一つの可能的な反対である。宗教的回心問題がファチマ奉献に対する反対の基礎にある程度において、カトリック・正教会間対話が何らかの出来事において対決しなければならないであろうということは一つの根底にあるそして真正の論争の一つの徴候であるにすぎない。しかし以下に示されるであろうように、正教会 - あるいはカトリック - のロシア人たちが他の教会への回心によって彼ら自身の信徒を失うことについて持つであろう何らかの関心は、逆説的に、マリアの汚れなき御心へのロシアの奉献によって悪化させられるよりはむしろ改善されるであろう。

4. 世俗的な諸々の筋からの圧力。諸教皇あるいは他のバチカン高官たちが、奉献がもたらすであろう超自然的な諸利益を止めることに熱心である教会の外部のそして教会に敵対する脅しを行使する諸勢力からの圧力のためにロシアを奉献することを恐れたということが可能であるのと同じように、またバチカンが単に正教会に不快感を与えることを恐れたにすぎないのに、ロシアの正教徒たち自身はロシア内部の脅しを行使する非教会的な諸勢力からの圧力によって、彼らの反対において、刺激され得るであろう。このことがどのようにソビエト時代の間にそうであったかを見ることは容易である。例えば、教皇ヨハネ二十三世がバチカン公会議へのロシア正教会の参加のために交渉していた間がそうである。そのとき、ロシアにおける正教会は - 非常に多くの生命を奪った非道な迫害と殉教を生き延びた少数の人々 - はソビエト国家によってきつく統制され、そしてある場合には KGB 秘密情報部員たちによって潜入されていた。バチカンの交渉者たちにとって、彼らの正教会の交渉相手たちからの要求が教会人としての彼らから出たものかどうか - 例えば、神学的あるいは分派的な問題に関して - それとも国家からの要求として出て来たものかどうか、を知ることは困難であったであろう。教会人たちは微妙なあるいはあからさまな圧力によって前に進むことを強制されていたのである。
USSR ソビエト社会主義連邦共和国が歴史であるという事実は、ロシア正教会が敵対的なあるいは利己主義的な世俗の諸々の筋からの可能的な圧力 - 政治的、軍事的あるいは経済的な性質のものであれ - を免れていたということを意味しない。同じようにそれ自身のバチカン市国家において影響を与える有利さはカトリック教会を不適切な非教会的に動機づけられた外部の諸勢力からの似たような圧力から免れさせたわけではない。またバチカンは潜入を受ける恐れがなかったわけではない。諸々の事例が明らかにしているように、冷戦の最高潮のときにはソビエトのスパイたちが潜入していた。そしてある人々は羊の衣をかぶった悪魔主義者たちがバチカン官僚政治の内部へと徐々に取り入ろうとした、と言っている。キリスト教は絶えざる霊的戦争状態にあるから、サタンが現代戦争の師であり、そして可能であればどこででも彼の敵どもを - 特に聖職者の地位あるいはキリスト教共同体において他の指導的な立場にいる人々を - 攻撃するための隠された作戦を利用しているということを理解することは、カトリック教徒であれあるいは正教徒であれ、誰をも驚かすこと、また不快感を与えることであるはずがない。

あなたの友人たちと協同し、あなたの敵どもを理解すること

興味深いことに、人はファチマのロシア奉献に対する可能的な妨害の両方のグループについて - バチカンを思いとどまらせている諸理由と正教会に反対するよう動機づけている諸理由 - 振り返って見ることができる。そして妨害は実際には三つのタイプのものであるということを見ることができる:(1) 神の御母の力を退けるあるいは疑うタイプ;(2)聖母の力を認めそしてそれに反対する人々の圧力(彼らがその圧力を聖座あるいは正教会に、あるいはその両方に及ぼすかどうか);そして(3)カトリックと正教会との間の可能的な不一致の見せかけでない諸点、カトリックも正教会も両方とも神の御母を認め、たとえ彼らがそれがどこであるかについて必ずしもいつも相互に一致してはいないとしても、自分たちが聖母の側に立っていると考えている。

第一の問題は信仰の問題である。それは、例えば、反抗的な司教たち、マリアに対して否定的な教会イデオローグたち、あるいはもしロシアが奉献されてそして次に何事も起こらないならば、というスキャンダルを恐れる教皇たちのような、そのような可能的な諸問題を含んでいる。人がすることができることは少ない。しかしそれがどんなものであろうと、その過程において一つの役割を持ったすべての聖職者が彼らの職務に対して正しい態度をもたらす恩寵を与えられるように祈りなさい。

第二と第三の部類は行動 - お互いに非常に異なった種類の行動ではあるけれども - を要求する。しかしながら、両方とも、カトリックと正教の指導者たちが克服するために共働することができまたすべきである諸々の障害を表している。この陳述は両者にとって一つの驚きとして現れるかもしれない。しかしもっと綿密に見るならば、キリスト教の偉大な東方および西方の両者を結びつける可能性は両者を更に別れさせる可能性よりははるかに大きい。



バチカン広場でファチマの聖母のメッセージを広めているグル
ーナー神父(左)とダマスコおよびアンティオキアのメルカイト東
方帰一カトリック教会総主教、グレゴリオス3世ラハム閣下(右)。
大分派の悲劇はカトリック教会と正教会が信仰、祈り、文化、信心、典礼および秘跡の生活において非常に近いということ、そしてにもかかわらず何世紀にもわたって分かれたままであり続けたということである。両者はその神学と位階制度の起源を使徒時代のルーツにまで遡らせている。両者の信仰箇条は無数の信仰箇条のうちのただ一握りのものにおいて異なっている。両者は共通の歴史をもつそれぞれの千年間に分かち持っていた共通の聖人たちに共に祈願している。両者の典礼慣行は - 特にカトリシズムの東方典礼と平行する正教会を見れば - 無頓着な外部の人々にとっては区別することが困難であろう。神の御母の高い地位 - 神学、個人的な信心においてばかりでなく、歴史および人々の生活への聖母の介入の実際の経験においてさえ - はカトリック教会と正教会が分かち持つ一つの強力な統一の次元である。

地上においてそのように多くのことを共通に持っていること - そして天国においてそのように強力な一人の友人を持っていること - はカトリック教徒と正教徒が彼らを分けている諸々の点に誠実に取り組むという一つの共通の協議事項をもってお互いに対面し、そして両者が真の敵として認めている諸勢力に共に対面することを要求している。二つの挑戦を識別し、そして適切に対応することは注目に値する重要性を持っている。

エキュメニカルな袋小路を突破すること

最初に両友の間の諸々の区別を見てみよう。ファチマは正教の諸教会をローマと和解させないできた数世紀にわたる袋小路を突破する可能性を持っている。われわれは、両方の側によって明言された統一への欲求にもかかわらず、対話と神学的な議論に捧げられてきた多くの時間にもかかわらず、最近の諸教皇がこの使命に喜んで応じてきた最優先事項にもかかわらず、そして現在の教皇職においてさえの主要な打開にもかかわらず、事実は、統一がこれまでになかったほどにとらえどころのないものにとどまっているということである。諸世紀は、カトリックとオーソドックスを分けているわずかの、しかし主要な教会論の上での、そして教義の上での諸々の区別についてほんの僅かの運動しか見て来なかった。皮肉なことに、両者は、まさに、すでに非常に近接しているがゆえに、お互いに近づくことができないのである。

もし、カトリックとオーソドックスがプロテスタントの諸派、キリスト教諸派、神学的諸運動、あるいは自ら制定した牧師たちの集まりであったならば、彼らはテーブルの周りに坐り、そして彼らの諸々の教義を再考し、彼らの諸々の相違を妥協させることができたであろう。なぜなら、これらすべては人間によって造り出されたものだからである。しかし、正教の諸教会も、カトリック教会も彼らが教義、礼拝あるいは管轄権に関して妥協する権利を持っているとは感じない。

カトリシズムと正教はそれぞれ、自分が使徒の時代から真正のキリスト教教義を忠実に受け伝えて来た、そしてその典礼が最も初期の時代から有機的に発展して来た、そしてその位階によって主張され実行されて来た権威が連続した使徒的由来の権利と責任である、と公言している。

不変の真理と権威に対するこれらの主張はキリスト教世界のその他の諸派とは際だった対照をなしているので、それらはカトリックと正教の間に、両者を一緒にする一つの強力な紐帯を造りあげるであろう。そしてそれらはそうなっている。しかしただ、両者が忠実であるために、それ以上の妥協が不可能であると主張しなければらない点にいたるまで、そうなのである。そのような袋小路が単なる人間的な手段のみによって解決され得ないということは明白である。

そのことは、両者が同じ地理的領土において、あるいはおなじ人々の心におて、自分たちの影響力を増進させようと努めるときには、その並行的な努力が福音宣教をしなさいというキリストの呼びかけに忠実であろうとする二つの敵対的な教会を可能的な対立へと導くことになる。この事例においてはロシアとロシア人がそうである。例えば、どの程度まで、カトリック教会はロシア社会における推定された主要な声としてロシア正教会に譲るべきか?単に国外追放された諸々の共同体、あるいは「民族的なカトリック少数派」に奉仕するだけではなくて、ロシア人口の主流の間で、どの程度まで、ロシア正教会はカトリックの諸修道会、教区の諸々の構造そして宣教の諸努力のための余地を作るべきか?それぞれの教会はお互いの信者からの個人的な回心をどの程度まで受け入れるべきか?

ここ十数年の間に両方の方向における優れた個人の回心が見られた - ニューマンのように個人的にローマへの彼らの道を見出す正教の信者たち、そして彼ら自身の小教区における典礼上の大変動を逃れて正教の中に居場所を見出した少数の西欧のカトリック信者たちがそうである。

もし正教会が、彼らが、ロシアにおけるすべてのキリスト教徒たちが正教会に固着するのを見ることよりよいことは何も好まないということを認めたならば、そしてもしカトリック教徒たちが、彼らが、世界においてあらゆるキリスト教徒がカトリシズムを告白するのを見ることよりよいことは何も好まないということを認めたならば、友好的なカトリック・ロシア正教関係にとっていかなる障害もないであろう。カトリックと正教の両方の指導者たちは、結局のところ、彼らが実際、諸個人の大量回心かそれとも現在そうであるような分離を単に続けさせるか、そのどちらかに反対するものとして、かつての分派的な教会のアイデンティティを消すことなしに分裂を終わらせるであろう一つの解決をさえ、選ぶであろう。

しかし一方では、対話のテーブルにおける進歩は、結局のところ、神の真理に固着する義務から個人を軽減させることはできない。そこでは神の真理はその十全性において見出され得る。あるいは、自分は他の人々と共に分かち持つ真理を所有していると信じている人についてもそうである。真理に対する相矛盾する主張が提出されるところでは、神の永遠の真理に一致しないものは何であれ誤っているのであり、すべての真摯な信仰者はただ、彼らが実際は間違っていると主張するいかなる信念からも彼らが、そして他の側の人々が変えられるようにただ祈ることができるだけである。(続く)