けれど(Credo)

I:キリシタン信仰と殉教 II:ファチマと現代世界 III:カトリック典礼、グレゴリオ聖歌 IV:「聖と俗」雑感

ファチマ・クルーセイダー

2012年12月31日 | Weblog

「あなたの貞操を守りなさい」 - チモテオ前5:22

私は善悪の区別ができる少女です

The Fatima Crusader Issue 92, May 2009 より

私のキスはパーティあるいは映画よりももっと価値があります。
私の身体は天主の宮居です - 慰みものではありません。
最初の「ノー」は難しいかもしれません - その後では易しいです。
純潔は今なお一つの徳です;官能的欲望は今なお大罪です。
私が着る、行為する、そして話す仕方は私のボーイ・フレンドにとって一つの誘惑であるかもしれません。私は彼を守るため、そして私自身を守るために節度を守ります。
私の両親は私ためにたいそう多くのことをしてくれました。私は常に両親にとって自慢の種でありたいと思います。
私のボーイ・フレンドはいつか夫や父親となるでしょう。彼は彼の妻と子どもたちの目に一人の英雄でなければなりません。私は、彼のところを訪問するときにそのことを妨げることは何もしないつもりです。
私は妻や母親であることを望みます。私は私の夫や子どもたちのために私の純潔と愛情を保ちたいと思います。
もし、私の弱さによって妊娠するようなことになれば、私の胎児を殺すことによって「安易な抜け道」を選ばないようにします。

両親のために

「生めよ、殖えよ」(創世記1:28)不自然な避妊あるいは不妊の処置をしてはなりません(それは結婚における姦淫です)。「皆婚姻を尊び、寝床をけがすな。淫行者と姦通者を天主は裁かれる(断罪される)からである。」(ヘブライ人への手紙13:4)「天主は子孫を残すことを拒否したためにオナンを殺された。」(創世記38:10)そして「[イエズスは]いちじくの木が実をつけなかったのでそれを呪われた。」(マテオ21:19)

そして、心においてさえ、すべての人に対してしとやかさ。「肉のおこない...慎みのなさ...そのようなことを行う人は神の国を嗣がない。」(ガラツィア人への手紙5:19-21)純潔は祈りなしには不可能である。ソロモンはこう言いました:「私は、性欲を抑えることができないということを知ったので、主のところへ行き、そして主に嘆願した。」(知恵の書8:21)

司牧者たちのために

「みことばを説教せよ...よい折りがあろうとなかろうと」(ティモテオへの後の手紙4:2)


ファチマ・クルーセイダー

2012年12月29日 | Weblog

グルーナー神父があなたの質問に答える(続き)

The Fatima Crusader Issue 92, May 2009 より

共産主義は教会に潜入した

しかしながら、日の終わりに、彼らは彼らだけではありません。レーニンは自分は潜入によって教会を破壊するであろう、と言いました。彼はそのことをまったく公的に言いました。あなたたちはベッラ・ドッド Bella Dodd の証言を持っています。彼女はカトリック教徒でしたが、共産主義者になりました。そしてフルトン・シーン司教 Bishop Fulton Sheen によって回心して再びカトリック信仰に戻りました。そして彼女は、彼女が教会を内部から破壊するために1000人以上の青年たちを諸々の神学校へ送り込んだと、公的に証言しました。そして彼女は、その公的な証言をしたとき、こう言いました:「すでに、彼らのうちの何人かは、司教です。」そして彼女はそのことを1940年代の終わりそして1950年代の初めに話しているのです。

それでは、彼女は彼らを何処へ送り込んだのでしょうか?

彼女は合衆国にいました。そして私の知る限り、彼女は彼らをそこにある諸神学校を堕落させるために送り込んだのです。彼女は1940年代の初めに共産党に指名された法務長官でした。彼らがもし選挙で勝利したならば、彼女は合衆国司法長官となっていたことでしょう。

しかし、彼女は彼女独りだけではありません。マニング・ジョンソン Manning Johnson は同様の証言をしました。あなたたちはまた、中国共産党員たちによって公表された証拠書類を見出すでしょう。それは、キューバで公表されました。われわれは、その大部分を概略して、『ファチマ・クルーセイダー』第19号において公表しました。

私は共産主義者であった一人の司祭に個人的に会いました。私が1970年代にローマの神学校にいたとき、彼は私のイタリア語 - 私のイタリア語はそれ以来改善されました - を間違って理解しました。彼は私が言ったある事柄を間違って理解しました。それで彼は何をやっていたかを私に語りました。それで、私は、私についての彼の考えについて彼の迷いを解きませんでした。私はそれから先の6時間の間情報のために彼に教え込みました。これらの人々は実際にいます。

AA-1025 と呼ばれる書物があります。その書物がたとい文学形式において書かれているとはいえ、私はその書物の実体は真実であると考えています。その主題についてはさまざまの書物があります。

なぜこのことは起こっているのか?

そのことが起こっているのは、われわれの敵どもが一つの目的を持っているからです。それはそれ自身によってただ起こったのではありません。それが、ファチマの聖母が、教会に対する危険についてわれわれに告げるために、まず第一に来られた理由です。そしてわれわれが注意を払わなければならない、そしてわれわれは本当にそのことをすべてわれわれ自身によってはすることができないということを告げるために聖母が来られた理由です。

このこと、そして彼らの研究の努力によって私が言ったこと以上に多くのことを知っている人々がいます。これらの事柄を自分たち自身で学んでいる彼らに私はまったく賛成です。しかし諸事実を知るだけでは十分ではありません。あなたたちはまたその解決を知らなければなりませんが、聖母なしにはわれわれはそうすることができないのです。

伝統的であるあるいは正統的である多くのカトリック司祭たちでさえ、彼らが教会において聖母の役割に十分な場を与えているとは、私は思いません。なぜなら、彼らは、レオ十三世が言われたように、祝せられたおとめを通じイエズス・キリストの聖なる人間性を通じて御父なる天主からすべての恩寵がわれわれのところに来るということを正しく理解していないからです。

われわれが受ける恩寵で聖母の御手を通じて来ない恩寵は一つもありません。注3)聖母がすべての恩寵の仲介者 Mediatrix of all graces であるということは専門的な用語においてはまだ定義されて来ませんでした。しかしそれは200年間にわたって諸教皇によって教えられて来ました。それは明日、神学的に定義され得るでしょう。人々は準備が整っていないかもしれません。しかしそれは通常のそして普遍的な教導権によってカトリック教会の教えなのです。

あなたたちがその教義の真理を適用するとき、そのときあなたたちは救いにおける祝せられたおとめの中心的な重要性を理解します。あなたたちは、天主の外では、いかなる救いもないということを知っています。聖パウロはヘブレオ書11:6の中でこう言っています:天主が存在し、そして天主を求め奉る人を報い給うということを信じない限り、誰も天主に近づき奉ること能わず、と。イエズス・キリストの聖なる人間性の外には、いなかる救いも存在しません。天下には、イエズスの名以外に、それによりて人の救わるるいかなる名も存在せず(使徒行録4:12)。

同様にまた、祝せられたおとめマリアの外にはいかなる救いもありません。あなたたちは、聖アルフォンソ・リグオリによってそのことがまったく完璧に証明されているのを見出されるでしょう。彼は『マリアの栄光』の中でその主題に関して多くの聖人たちを引用しています。そのことに関して一つの章があります。それに従えば、カトリック教会の外にはいかなる救いもありません。

事柄の順序はこうです:天主;その聖なる人間性におけるわれらの主イエズス・キリスト;祝せられたおとめマリア;それから教会、その順序です。祝せられたおとめはただ単に敬虔な人々のためだけではありません。すべての人はその霊魂を救うためには聖母に献身しなければなりません。マリアの子どもであること、それは教会の子どもであることよりももっと重要です。そして教会の子どもであることはあなたの霊魂を救うために必要です。

何があなたをカトリックとするのか?

教会の子どもであることを、教会の子どもとしてとどまるためには、あなたはある司祭、司教、枢機卿あるいは教皇が、その命令が罪深いものである、あるいはあなたに命令する人の権威の、神に与えられた限界の外にあるとき、あなたに与えるすべての命令に従わなければならないという誤った意見と混同してはなりません。

あなたをカトリックとするものは、まず第一に、カトリック信仰へのあなたの信仰、そしてそれをしっかりと保つことです。第二に、教会の中へと受け入れられるためのあなたの洗礼です。そして、第三に、合法的な権威をあなたが認めることです。しかし、もし、私自身を含めて、ある司祭、あるいはある司教、あるいはある枢機卿あるいはある教皇が天主の掟に反する何かあることがらをするようにあなたに告げるならば、あなたが彼に従わないとしてもあなたは不従順ではありません。なぜなら、あなたの従順は第一に天主に対して捧げられなければならないからです。聖ペトロは、人に従うよりは天主に従うべし(使徒行録5;29)と言っています。それが、多くの神学者たちが実践において躓く区別です。しかし、私は彼らがすべて原理においては私に同意すると確信しています。

最近、ある人々が私にこう言いました:「そうです、私たちは教会に、あるいは司教に従属していません。私たちは伝統的な聖堂を持っています」と。私はこう言いました:「一つの聖堂を持っていることはあなたたちを不従順にはしません。司教はトリエント・ミサを持つことをあなたたちに禁じる権利を持っていません。そのことは法において確立されていることです。」すべての権威は、たとい教皇の権威でさえ、制限されています。天主御自身でさえ、御自分の権威を制限なさいます。天主は御自分が天主であられるがゆえに、そして御自分が道理を弁えた御方であるがゆえに、そうなさいます。しかし、確かに、もし天主の権威が制限されているならば、確かに、天主の下にいる他のすべてのものは制限されているのです。そしてそのことは教会の法の全目的です:すなわち、どの事柄において誰が権威を持っているか、そしてどれだけの権威を持っているかを決定することです。

そのことは明白にされることが必要である何かある事柄です。なぜなら、あなたをカトリックでない者とするのはあなたはカトリックではないと言う誰かある人ではないからです。あなたが洗礼を受けるべきだということを知っているときに洗礼を受けないのはあなたであるか、それとも正当な権威を認めないあなたであるかのどちらかです。それを与える人の権威を越えているのは、この、あるいはあの命令に従わないことではありません。たといあなたが人々に従っていないとしても、あなたが天主に従うとき、あなたはカトリックです。

最初のイギリスの殉教者たちは「不従順」の雲の下で殉教した数人のカルトゥジオ会の修道士たちでした。[ロンドンの]カルトゥジオ修道院にいたフランスにおける彼らの上長たちは彼らにヘンリー八世に屈服するよう彼らに告げました。彼らの上長たちの意図が非常によいものであったと私は確信しています。しかし彼らは知らされていませんでした。1535年5月4日に絞首台に登ったカルトゥジオ会士たちは彼らの直接の上長たちに不従順でした。しかしながら、彼らは殉教して亡くなり、そしてそのために今日列聖されています。適切な区別をすることは大切です。確かに、彼らはカトリック教徒として死にました。そして彼らは彼らの創設者の従順な息子たちとして、教会の従順な息子たちとして死にました。しかし、その事柄を学ばなかった人々に対する人間的な外見に対してはそうではありませんでした。

注:(1)The Whole Truth About Fatima,Vol. III: The Third Secret, (Immaculate Heart Publications, Buffalo, New York, 1990), pp.749-762.(2)The Devil's Final Battle, (The Missionary Association, Terryville, Conneticut, 2002), p. 34. (3)われわれが語ってきた安堵を与える黙想の法則、そしてシエナの聖ベルナルディンが次のように表明した黙想の法則はこのようにして確証される:「人間に与えられるすべての恩寵はその順序において三つの度合いを持っている:なぜなら、天主によって、それはキリストに伝えられ、キリストからそれはおとめ[マリア]へ渡され、そしておとめ[マリア]からそれはわれわれのところに下って来る。」Jucunda Semper Expectatione, 5.


ファチマ・クルーセイダー

2012年12月28日 | Weblog

グルーナー神父があなたの質問に答える

The Fatima Crusader Issue 92, May 2009 より

全体参加の罪の赦し
質問:私たちの小教区では、復活祭とクリスマスに、悔い改め(全体参加の罪の赦し)の儀式が行われます。そこでは、私たちが祭壇の周りに立っている司祭たちの一人のところまで行ってこう言います:「私のすべての罪を後悔しています。どうか私を赦してください」と。私は非常に心配です。そして私は私たちの司教様に手紙を書きました。しかし非常に満足のゆかない返事をいただきました。どうか、簡単な説明をしてくださいませんか?

[グルーナー神父]まず第一に、教皇とバチカンは何度も、いわゆる悔い改めの儀式は許されていない、と言ってきました。それは止められるべきです。カナダの司教たちは、合衆国および世界の他の所の司教たちと同じように、そうするように話してきました。そのことの理由は告白に関する変えることのできないカトリック教義です。多くの人々は告白は罪の赦しのために必要ではないと考えています。しかし彼らは間違っています。それは、われらの主が使徒たちにこう告げられたからです:「汝らたれの罪を許さんも、その罪許されん、たれの罪を留めんもその罪留められたるなり」(ヨハネ20:23)と。

ところで、司祭が、あなたが彼に告げる前にあなたの罪を知ることができるパードレ・ピオのような人でない限り、あなたが罪を告白しないならば、司祭はあなたの罪を許すべきか、それとも留めるべきかを知りません。告白は赦しの秘蹟の不可欠の部分です。それゆえ、あなたが告白に行かない限り、あなたがあなたの罪を赦されないということは最もありそうなことです。

さて、それには一つの例外があります。そしてその例外とは死の危険、あるいは緊急事態がある場合です。そのことが何を意味するかを説明してみましょう:それは、早ミサがある、そして誰もがそれに行きたい、そしてテレビを見たい、あるいはなされるべき他の重要な事柄があるからではありません。例外の二つの種類とは次のようなことです。地震、あるいは何らかの軍事的な死の危険があるとき、そして個別的な告白を聞くために十分な時間がないとき、そのときには司祭は最初に告白を聞くことなしに全体参加の罪の赦しを与えることができます。そして次の二つの条件で罪を赦します:

[1] 赦しを受ける人が、まず第一に、超自然的な悲しみをもって(単に自然的な後悔ではない)その罪を悲しんでいること。このことは最も本質的な部分です。そして罪を再び犯さないと固く決心すること。

[2] 赦しを受ける人が、最初の機会にその罪を告白する義務を果たすことを決心していること。

それゆえ、あなたが、最初の機会に、あなたの罪 - われわれが話しているのは大罪のことです - を告白する責任を受け入れるという条件なしには、赦しはあなたのためには効力を持ちません。それゆえ、告白なしの赦しは決して一つの可能性ではありません。二つの緊急の状況(私は上に、そして以下にそれについて概略します)において告白の前に赦しを受けるためには、あなたはなお告白に行き、そしてそれをあなたの最初の機会にすることを決心しなければなりません。

もし死の何らの危険もないならば、あなたは規則に対する例外措置を与えられることはできません。あるいは他のもう一つの例外がありますが、それを私は今またあなたに説明しましょう。

数年前に私がイタリアで宣教にあたっていたとき、年老いた司祭、メルロ神父がおられました。彼は95歳でした。彼は私に、自分はかつてブラジルで宣教師だった、そして3年間の司牧訪問をしていた、と話されました。彼は村から村へと足を運び、各々の村で3日を過ごされました。それらの3日間、毎日彼はミサを捧げ、そしてそれから一日中ずっと告白を聴き、自分の祈りを唱えることと食事を摂る以外には何一つしませんでした。

それから、3日の後に彼は次の村へ行くために出発しなければなりませんでした。そしてこれらの村の住民たちはあと3年が過ぎ去るまでは再び彼を見ることはないのでした。

彼らは告白を聴いてもらうことを望んでいました。彼らは告白の秘蹟のために行列をつくりました。しかし、告白の3日後に、彼が告白を聴くことができたのはその行列をつくっている人々がすべてでした。それで、彼らにその秘蹟の恩恵を与えるために、彼は3日間に告白することができなかった人々に全体参加の赦しを与えました。

彼はこのことをいくつかの条件の下で行いました。それは、彼が3年後に戻って来たときには彼らが[告白をするために並ぶ]行列の最初の方にいるということ、そして彼が彼らに赦しを与えたその彼らの罪を告白するという、そういう理解に基づいてでした。

しかしこれらの条件(すなわち、痛悔者たちが告白に行くために1年あるいはそれ以上の年月を待たなければならないほどのそのような司祭の不足)は北米あるいはヨーロッパでは行き渡っていない、ということに、私は注目しています。それゆえ、全体参加の赦しは許されていないのです。ところで、もしここで戦争あるいは地震が起こるならば、そのときそのことは起こり得るでしょう。そのような場合には、そのとき、そのことは許容されるでしょう。しかしそのこと以外には、全体参加の赦しは許されません。そしてそれは教皇の単なる気まぐれな思いつきではないのです。その秘蹟の制定は天主の御意志なのです。

さて、すべての教皇、そしてそこに居合わせている教皇の助言者たちが、この実践を強く非難するとき、彼らがしていること、それは彼らがそうしなければならないからであり、それが、イエズス・キリストと彼の教会の教えによって許されていないからです。そしてもしあなたが、告白なしに全体参加の赦しを受けながら、そのようなそれらの儀式の一つに与ったことがあるならば、もしあなたがあなたの霊魂に何らかの大罪を持っていたならば、あなたの最初の機会にそれらの大罪を告白する義務がある - なぜなら、あなたはその義務を負っているからである - と考えなさい。そしてもしあなたがそうしないならば、それらの罪はなおあなたの霊魂に留まっているのです。

何人かの自分を見失った人々を除いては、罪の赦しの秘蹟には何らの変化もありませんでした。シスター・ルチアは、悪魔的な混乱で自分を見失った何人かの司教たちや枢機卿たちを含む教会において高位にある人々がいると言っています。彼女はその多くの書簡の中で、彼女がそのことを1970年代に書いたと言っています。あなたはフレール・ミッシェルのうちにそれらを読むことができます。注1)あなたはまた同じように、『悪魔の最後の戦い』のいくつかの箇所においてもそれを読むことができます。注2)

フリーメーソン、共産主義そして手による聖体拝領

質問:教皇パウロ六世は手による聖体拝領を非難している回勅 Memoriale Domini を書かれました。なぜわれわれはそれ[手による聖体拝領]を行っているのですか?


[グルーナー神父]『悪魔の最後の戦い』は教会の敵どもがどのように200年間にわたって教会を転覆させようと努力してきたかを記述しています。あなたは、かれらがそうしてきた、と言っているフリーメーソンと共産主義者たちの両方の証言を持っています。

フリーメーソンは教会に潜入した

私はプッティ神父 Father Putti についてあなたたちに話すことができます。プッティ神父はイタリア、ローマで発刊されているSi Si, No No[然り、然り、否、否]という雑誌の創刊者であり、編集者でした。私は彼に1976年に会いました。この雑誌の12の異なる号において、その表題は「枢機卿...(彼はその名前を挙げています)はフリーメーソンである」と言っていました。彼の論攷は誰それ枢機卿が何をしたを記述することから始め、そして次に、「彼はフリーメーソンである。彼はかくかくしかじかの日に加入した。彼のコード・ネームはかくかくしかじかである」と言うことによってその論攷を閉じました。そして彼はそれを世間に公表しました。

さて、プッティ神父がバチカンにいるある人によって新聞の中での公的告知において間接的に脅かされたとき、プッティ神父は翌日、次のように言いながら声明文を公表しました:「今までのところ、私はただ事実を公表したにすぎない。しかしもし私が司祭職停止を受けるか、あるいは破門宣告されるならば、私はその諸々の文書を公表するであろう」と。まさにその翌日、あるバチカンのスポークスマンはこう言いました:「プッティ神父の司祭職停止あるいは破門の意図はない」と。それが議論の結末でした。

オッセルヴァトーレ・ロマーノの編集者はそのときプッティ神父の名声に反するあることを言いました。プッティ神父は彼を法廷に訴えて、そして勝訴しました。そしてそのオッセルヴァトーレ・ロマーノの編集者は損害賠償を支払わなければなりませんでした。

プッティ神父はこれらの事柄を公に言いそしてそれらを用意しました。彼はこう言いました:「私は、それらを公表する前に、聖座にそれらを持って行き、彼らにそれらの文書を見せました。それは教会法における私の義務ですから。彼らは私に『それらを公表するな』とは一度も言ったことがありません。それで、私はそれらを公表したのです。」そして彼は約12名の枢機卿の名前を[フリーメーソンとして]挙げました。

彼がフリーメーソンだと呼ばなかった彼らのうちの一人はガッローネ枢機卿 Cardinal Garrone でした。それが、私が彼に会いに行った理由です。彼はガッローネ枢機卿をフリーメーソンとは呼びませんでした。しかし彼は彼の論攷の最後にこう言いました:「ところで、もしガッローネ枢機卿が教会の敵、例えば、フリーメーソンの長、あるいは悪魔自身によって一つの任務を与えられていたならば、彼は世界中のカトリック教育を破壊するというもっとよい仕事をすることはできなかったであろう。」

福者教皇ピオ九世、教皇レオ十三世、教皇聖ピオ十世そして教皇ピオ十二世のような過去の偉大な教皇たちは正格カトリック・ミサ authentic Catholic Mass のような新しい典礼を認められなかったであろう。実際、ゲリノー神父 Father Gelineau は新しいミサが作られたことと共に、ローマ典礼は破壊されてしまったと言った。

私は言いました:「プッティ神父様、あなたはガッローネ枢機卿がフリーメーソンであるとは言っておられません。しかしあなたは確かにそのことを暗に意味しておられます。」彼はこう言いました:「その通り。私はそうしています。私は証拠となる書類を持っていません。それで私は彼がフリーメーソンであると主張することができません。最もあり得ることは彼がフランスで加入したということです。私はそれらに関する証拠書類を手に入れていません。」「しかし」と彼は言いました:「彼の実績をごらんなさい。フリーメーソンであるが、彼らのもとを去った、あるいはフリーメーソンが彼らにするように望んでいることをもはや何もしていない他の多くの聖職者たちがいます。そして私はそのような人々をそっとしています。」しかし教会の中でフリーメーソンのアジェンダ(行動指針)を促進し続けている人々を、彼は公に暴露することを正当だと考えています。彼がある枢機卿の名前ををフリーメーソンとして挙げたとき、これまで誰一人そのことに反対した人はいません。彼らのうちのどの一人に関しても彼が間違っていると証明した人はいません。これは1970年代のことでした。

私はプッティ神父に言いました:「神父様、もしあなたがこのことをずっと続けられるならば、いつか死体となって終わるかもしれません。」彼はこう言いました:「そうならもっとよい。そのとき私は殉教者でしょう。私は煉獄を素通りして天国に直行するでしょう。」

教会の中にはフリーメーソンがいるのでしょうか?かつてはいました。そして私は今日もなおいると思っています。プッティ神父が言ったように、われらの主御自身が言われたように、「その結ぶ実によりて彼らを知るべし」(マテオ7:16)なのです。それゆえ、もし彼らがフリーメーソンの理想を促進するならば、そのとき、彼らが[フリーメーソンの]会員証を携帯しているメンバーであるかどうかはまったく問題になりません。そしてあなたたちはそのことを証明することができます。事実は、彼らがフリーメーソンたちのために、そして悪魔のために、働いているとうことです。

もしあなたたちがフリーメーソンについて多くを知らないならば、アイルランドの偉大な司祭であるファヘイ神父 Father Fahey がフリーメーソンについて、そして彼らがどのように教会に反対して、そして悪魔のために、働いているか、を沢山書きました。しかし同じようにまたそのことについての他の書物があります。レオ十三世は、フリーメーソンの「神」は悪魔である、彼らは第33階級においてルチフェルを礼拝していると書かれました。ある悪魔的な人々はルチフェルとサタンとの間を区別するでしょうが、しかしそれは同一の悪霊です。(続く)


ファチマ・クルーセイダー

2012年12月27日 | Weblog

祝せられた聖母の親切と礼儀正しさ

The Fatima Crusader Issue 92, May 2009 より

モンテ・コロナの隠遁者、D. ロベルト

パルテニウス(おとめ[マリア]に属している人)よ、あなたはびっくり仰天している。あなたは落胆し、恐れている。私があなたの前に置いた天主の御母の偉大な高貴さ、威厳そして風格は疑いもなくあなたの中に、天主の下にそれ以上に大きなものは何も存在しないそのように卓越した崇高な方に対する尊敬、敬愛そして最も深い敬意を起こさせた。しかし、それは、他方において、聖母の愛を熱望するには、あるいは自分の目をそのように高く上げるには自分はまったく相応しくないと考えて、あなたがあの愛すべき御方に対して感じた情熱を消した、あるいは少なくとも冷やしたかもしれない。そしてあなたはおそらく、そのように尊敬に値する、そのように高貴な方はあなたの低劣さに一瞥を与えることさえなさらないであろうと自分自身を納得させさえしたかもしれない。

しかし、パルテニウスよ、勇気を出しなさい。まず第一に、私が言ったことを思い起こし、マリアを愛することの幸福と甘美さに関する二つの章を熟考し、マリアが、彼らの地位や身分の高さにそれに等しい獰猛さ、傲慢そして軽蔑を加える高慢な有力者たちの一人であられたことは決してないし、またこれからもないであろうことは確実であると考えなさい。

そのような者が、この世の高慢な君主たちである。彼らは彼らの威厳の一点を低めるようなことをすることはない。そして彼らが自分たちに当然与えられるべきだと考えている尊敬や崇敬の最小部分においてさえ、不本意にではあっても、欠いていると思われる人に禍いあれ。

そのようなものがアレキサンダー王の命令によってその首を切られたあの哀れな従者の運命であった。なぜなら、王の月桂冠を取り戻すために川の中へ身を投じた彼は、より容易に泳いで戻ってくることができるようにと、王の月桂冠を自分の頭の上にのせたからである。

マケドニアのバジリウスによって死刑に処せられたあの不幸な将軍もまたそうであった。なぜなら、彼は王の陣地よりも少し高い陣地に露営したからである。ドミティアンはたんなる嫉妬から、征服されなかったアグリコラを絞め殺させた。なぜなら、アグリコラはブリトン人たちに対する勝利を博したからである。また一人のローマの騎士を殺させた。なぜならその騎士は世界地図を携えていたからである。

アッシリア王、ラボロソアルコドは自分の気に入っていた重要人物を死刑に処した。王は自分自身の妹を彼と結婚させようと考えていたのであるが、死刑に処した理由は、狩猟において、王が数度の打撃でもっても殺すこたができなかった一頭のライオンを即座に仕留めたというただそれだけのことであった。

マリアの親切で優しい謙虚さ

しかし、そのような傲慢の考え、疑いはマリアからははるかに遠い。しかしマリアは、偉大であると同じように、親切であり、優しい。そして私はマリアが謙虚であるとほとんど言おうとしている。そして私がそう言ってもよいであろう。なぜなら、マリアは、マリアが今享受しておられる最も卓越した地位においてなおそれを実行するために、地上においてマリアにとってそのように親しいものであった徳を天国に携えられたと思われるからである。

パルテニウスよ、注意して私の言うことを聞きなさい。そうすれば、私が真実を告げているかどうか分かるでしょう。愛想のよさ、優しさ、親切そして謙遜は諸徳のなかで、心を惹きつけ、意志を魅了し、最も残酷な本性をもやわらげ、そして最も敵意に満ちた精神の持ち主から最も真心のこもった愛情と優しさを得ます。

しかしもしそのような愛すべき徳が高貴さと偉大さとに結びつけられるならば、それが獲得する拍手喝采とそれに与えられる賞賛とを誰が告げることができるでしょうか?

アレキサンダーが、リシマクスの傷ついた額を彼自身の頭に巻いたディアデム(冠)でもって巻き、そしてリシマクスの鍛冶屋に畏れ多くも手紙を書いたがゆえに、どのように歴史によって誉め称えられているであろうか;ユリウス・カエサルが彼の庭師に対して、アウグストゥスが彼の大工に対して、ティベリウスが彼の水車屋に対して示した同じ腰の低さのために、同じようにそうである。ポンペイウスが皇帝の権威を象徴する束桿(そっかん)を持たずにパンドシウスを訪ねて行ったがゆえに、ヴェスパシアーヌスが熱で苦しんでいる間も彼の臣下たちに対して長時間の謁見を与えたがゆえに、アンティオクスが彼の病気の兵士たちを彼ら自身の住まいに訪れ、彼らの傷を調べ、自らの手でバルサム(鎮痛剤)を与え、王の包帯でしばったがゆえに、同じようにそうである。また、それぞれ異なった仕方で、彼らの高位を博愛と親切のある行為のために低くした他の多くの人々もそうである。

何がマリアに比較され得るか?

しかし、すでに塵に変えられ、風によって散らされ、あるいは彼らの上を通って行く最も卑しい人々によって、そしてあらゆる動物によって足の下に踏みつけられた地上のこれらの惨めな高官たちの威厳とあらゆる時代にわたってセラフィムの最高の頭たちを越えて栄光に満ちて生きておられ、これからも生きて行かれる宇宙の至高の女王の偉大さとの間にいかなる比較があり得るだろうか?そしてさっき挙げた人々の目下の者へのわずかのそして軽い腰の低さ、そして歴史が言及している何であれ他の事柄と、天主の御母が、地上の最も卑しいそして惨めな者、聖母の敵ども、天主に反抗する者ども、サタンの奴隷たちさえ、に対して、過去のために用いられた、日々用いておられる、そして未来のために用いられるであろう腰の低さ - 私はほとんど屈辱と言った - との間にいかなる比較があり得るだろうか?

われらを慰める方、マリア

地は、そして世界は、そのような不思議な事柄に満ちている。すべての言語はそれらについて話している。すべての歴史はそれらについて語っている。すべての民族、すべての世代はそれらを激賞している。もし私がそれらの一部分を書くべきであるとすれば、私は多くの書物で地を覆うことになるであろう。そして誰がそれらすべてを知ることができるであろうか?そしていかなるペンが、あるいはいかなる精神が、たとい天使的であるとしても、それらを語ることができようか、あるいは語るに十分であり得ようか?

パルテニウスよ、私はそれらを数え上げると約束することはできない。なぜなら、私は決して終えることがないであろうからである。あなたはそれらのうちの多くをすでに知っている。あなたは、聖母がどのようにしばしば、畏れ多くも、御自分のしもべたちを慰め、喜ばせられたか、聖母がどのようにしばしば彼らを御自分の子どもたちと呼ばれたか、聖母がどのようにしばしば、彼らの危険において彼らを助けるため、彼らの疑いにおいて彼らに忠告するため、彼らの労働や困難において彼らを慰めるため、彼らの欠乏において金銭をさえ彼らに準備するため、彼らの苦役を断ち切り、彼らの病気を癒し、彼らの傷を治し、彼らの敵の手から彼らを救い出し、彼らに健康を与え、現世のそして永遠の死から彼らを守り、彼らに配慮し仕えるために彼らのところへ急いで行かれたかを、非常によく知っている。私は、聖母が一人の母親や姉妹としてそうなさった、とは言わず、一人のしもめとしてそうなさった、と言おう。

聖母はすべての者の女王であられるけれども、一人のしもめと何ら変わられない。聖母はある日、聖ブリジェットに、私は、そこで地上にいたときと同じ謙遜を保っている栄光の至高の玉座に座っているので、すべての人の祈りを受けます、と言われた。そしてドメニカ・ダル・パラディーゾが聖母に捧げた何か花の香りを嗅がせてくださいと聖母に祈ったところ、聖母は彼らが聖母を喜ばせた一つの感じ得るしるしをお与えになった。

われわれがすでに話したシトー会の修道士トマスは聖母を見ることを熱心に望んだ。そして聖母は御自分の愛すべき現前でもって彼を慰められた。イエズス会の福者アルフォンスス・ロドリゲスは年齢と道の苦労そして非常に暑い季節のために、疲れ汗びっしょりになった。この愛すべき女王は彼を慰め、元気づけ、彼を支え、彼の額から汗を拭うことさえなさった。

クレルヴォーの修道士たちはマリアを賛美しながら、野原で働く。そして聖母は彼らの賛美を受け入れ、それに報いられる。聖母の悲しみに対する最も熱烈な信心を持っていた一人の聖なる司祭、そして一人の貧しい未亡人は死の床で苦しんでいる。聖母は情け深く彼らをお助けになり、彼らの苦しみを喜びにお変えになる。タラントの聖なる司教は貧者を助けるために費やした金貨10スクーディを彼の甥に返却しなければならない。そして聖母は彼の負債を返す手段を彼にお与えになる。

聖母の七つの悲しみへの信心はわれらの主イエズス・キリストに最も喜ばれる信心である。聖母はこの信心を実践し促進することに対して11の約束をなさった。
スウェーデンの聖ブリジェットに対する聖母の第7番目の約束において、聖母はこう言われた:「私はこの恵みを私の天主なる御子から得ました。すなわち、私の涙と悲しみへのこの信心を広める人々はこの地上の生から永遠の幸福へと直行するでしょう。というのは、彼らのすべての罪は赦され、そして私の御子は彼らの永遠の慰めと喜びであるでしょうから。」
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マリアの愛

敬虔なヨルダンが言っているように、聖母が御自分を愛する人々を愛されるということ、そして聖母に仕える人々に仕えられさえするということは何と真実なことであろう。ある貧しい未亡人はその苦痛において彼女の熱の暴力によって気が狂いそうになった。そしてマリアは彼女を慰めるために来られる。

聖ドミニコは、彼がその日説教したが何の効果もなかったアルビジョワ派の異端者たちの救済のために泣き、断食し、自らを罰するために森の中に引きこもる。そして弱さと苦しみによってほとんど失神しそうになりながら、彼はおとめなる御母が思いがけなく彼の前に御出現になり、そして愛情を込めて彼にこう言われるのを見た:

「わが愛する息子、ドミニコよ、あなたが呼び求めた私はあなたを助ける用意ができています。」

聖母はセッローネのフランセスに御出現になった。フランセスは、ある夜彼女の家から追い出されて、ある高い崖から身を投げる誘惑にかられた。マリアは彼女の絶望的な決心から彼女を救い出して、表現し得ないほどの慰めをいっぱい与えながら、セッローネに戻るように彼女に説得なさった。マリアは聖ドミニコ修道会の、福者ミラノのコロンバのために、彼が他のすべての人によって無視されてある家の中に閉じ込められたとき、毎日パンをお与えになった。

これ以上に何が求められ得ようか?悪魔に憑かれたある賭博師は、壁にかけられたカンヴァスに描かれたマリアの胸を、怒り狂って石で打った。それには恐ろしい冒涜と侮辱の強打が伴っていた。そして傷は大量に血を流した。彼はそのことのために天主によって見せしめのためそして恐ろしく罰せられた。天主は彼の首をねじり、彼の顔を背中の方へ向けられた。そして人間の裁判によって彼は直ちに死刑を宣告された。しかし最も親切であわれみ深いマリアは、嘆かわしい侮辱を気になさらずに、最もすばらしい親切によって、彼がそれに値した死から彼を解放なさった。

そしてこの偉大な女王は慈悲深さとあわれみの何という過剰にまで御自身を低くされたことであろうか!聖母は、御自分の召使いたちのために、どれほど低く、卑しくそしてみすぼらしいものであろうと、いかなる役目をも軽蔑することなく、母親、姉妹、召使い、施し物の分配者となられた。おお、限界なき腰の低さよ!例のない屈辱の超過よ!おお、マリア、愛の溶鉱炉、太陽よりももっと美しく、蜂蜜よりももっと甘いマリアよ、誰があなたを愛そうとしないであろうか?善性の宝よ!あなたはすべての者にとって愛すべき御方、すべての者にとってあなたは思いやりのある御方、すべての者にとって喜びにあふれた御方である、と聖ボナヴェントゥーラは言っている。

そして、パルテニウスよ、あなたは何と言うのか?あなたの心がそのように偉大な甘美さ、そのように偉大な優しさによって魅惑されるとあなたは感じないのか?そのように高貴な、そのように偉大な、そのように崇高な、謙遜な人物を凝視して、敬服で仰天したと感じないのか?聖母が愛する人々や信心深い友人たちに対してだけでなく、聖母の召使いたち、聖母の敵ども、反抗する人々、そして悪魔の奴隷たちに対して、実行なさった聖母の腰の低さ、その好意、その愛想のよさ、その礼儀正しさ、その屈辱、控えめな奉仕において、あなたは面目を失う者となるとは感じないのか?人は、ただ慈悲深さ、甘美さ、あわれみ、柔和、愛、そして善性だけがそのうちに見出されるそのように愛すべき御方に対して愛をもって彼自身が燃え、火をつけられると感じないためには、動かされないための石の心を持たなければならない。

善性に満ちたマリア

私にとって、おお、マリアよ、あなたは愛すべき御方であり、そして常に望まれるべき御方である、なぜなら、あなたは善性に満ちた御方であるから、とカルトジオ会修道士聖デニスは言っている。そしてマリアを愛し所有すること以上に、あなたは何を望むことができるか?マリアはそのように親切で礼儀正しい方であられるから、いつもあなたと共におられ、孤独においてあなたに伴われ、あなたの旅においてあなたに同伴され、疑いにおいてあなたに忠告なさり、苦悩においてあなたを慰められ、病気においてあなたを助けられ、見える敵と見えざる敵どもからあなたを守られ、恐れにおいてあなたを勇気づけられ、天主の怒りと復讐からあなたを保護される。もしあなたが聖母を呼ぶならば、聖母は即座にお答えになる。もしあなたが聖母に挨拶するならば、聖母はあなたの挨拶に礼儀ただしく返答なさる。もしあなたが聖母を賞賛するならば、聖母は親切にあなたに感謝なさる。もしあなたが聖母になにかの奉仕をするならば、聖母はあなたにふんだんに報いてくださる。もしあなたが聖母にあなたの信仰と愛を捧げるならば、聖母は愛情をこめてあなたを抱擁なさる。そしてあなたに御自分の一致の最も愛情のこもったしるしと最も不屈の愛情とをお与えになる。

しかしなぜ私はそれを記述し続けているのか?あなたがしばしばそれを経験してきたということで十分である。そして私は、天主がシエナのカタリナに言われたように、マリアが人々の心をとらえるために天主によって選ばれ、準備されそして定められた最も甘美なおとりである、と結論してもよいであろう。おお、マリアよ、全世界が御身を知らんことを、すべての人々が御身を愛さんことを!


ファチマ・クルーセイダー

2012年12月25日 | Weblog

救われる人々の数の少なさ(続き)

The Fatima Crusader Issue 92, May 2009 より

ポート・モーリスの聖レオナード

天主を非難してはならない

しかしもしその罪人が、そのすべてのことにもかかわらず、自分自身を地獄へと投げ入れることを望むならば、天主は何をなさるでしょうか?天主は彼をお見捨てになるでしょうか?いいえ。天主は彼の片手をお取りになり、そして彼が片一方の足を地獄に踏み入れ、もう一方の足を地獄の外にしているとき、天主はなお、御自分の恩寵を悪用しないように彼に説諭なさり、懇願なさいます。さて、私はあなたたちに尋ねます、もしその人が地獄に落とされるならば、彼は天主の御意志に反して地獄に落とされるのであり、そしてそれは彼が地獄に落とされることを望んでいるからであるということは真ではないでしょうか?来て、今私に尋ねてください:もし天主が私を地獄に落とすことをお望みであったならば、なぜ天主は私を創造なさったのですか?と。

恩知らずの罪人よ、もしあなたが地獄に落とされるならば、非難されるべきは天主ではなくて、あなたとあなたの身勝手がそうである、ということを今日学びなさい。このことについてあなた自身を説得するためには、深淵の深みにまでさえ下りて行きなさい、そうすればそこで私は、彼がこの真理をあなたに説明できるように、地獄において燃えているあれらの悲惨な、地獄に落とされた霊魂たちのうちの一人をあなたのところへ連れて行きましょう。ここに今一人います:「私に言いなさい、あなたは誰ですか?」「私はある見知らぬ土地に生まれた一人の哀れな偶像崇拝者です。私は天国や地獄について、また私が今苦しんでいることについても一度も聞いたことがありませんでした。」「哀れで見下げ果てた者よ!立ち去りなさい、あなたは私が探している者ではない。」もう一人別の人がやって来ます。そこに彼がいます:「あなたは誰ですか?」「私はダッタン国の果てから来た教会分離論者です。私は、天主が存在するということをかろうじて知っているある未開の国に常に住んでいました。」「あなたは私が望んでいる人ではありません。」ここに別の人がいます。「そしてあなたは誰ですか?」「私は北方から来た一人の哀れな異端者です。私は北極の下に生まれました。そして太陽の光もまた信仰の光もいずれも一度も見たことがありません。」「私が探している人はあなたでもありません、地獄に戻りなさい。」兄弟の皆さん、私の心は、地獄に落とされた者たちの間で真の信仰を一度も知らなかったこれらの惨めな人々を見て、打ちひしがれます。そうであっても、有罪の宣告は彼らに対して下されるということを知りなさい。そして彼らはこう告げられるのです:「汝が地獄に落ちるのは汝から来るのだ」と。彼らは地獄に落とされることを望んだがゆえに地獄に落とされたのです。彼らは救われるために天主からそのように多くの助けを受けたのです!われわれは彼らが何であったかを知りません。しかし彼らは自分たちをよく知っています。そして今彼らはこう叫びます:「おお、主よ、御身は正しい、そして御身の裁きは公正である」と。

兄弟の皆さん、あなたたちは最も古い信念は天主の掟であるということそしてわれわれは皆われわれの心のうちに書かれているその掟を持っているということ、それはどんな教師もなしに学ばれることができるということ、そしてその掟のすべての指針を知るためには理性の光を持つことで十分であるということを知らなければなりません。それが、野蛮人たちでさえ彼らが罪を犯したときに包み隠した理由です。なぜなら、彼らは自分たちが悪をなしていたということを知っていたからです。そして彼らは彼らの心の中に書かれた自然法を守らなかったために地獄に落とされるということを知っていたのです。なぜなら、もし彼らがそれを守っていたならば、天主は彼らを地獄に落とさせるよりはむしろ一つの奇蹟を行われたでしょうから。天主は、彼らを教えるために誰かある人を彼らのところへ送り、そして彼らに他の諸々の援助を与えられたことでしょう。その援助に関しては、彼らは、彼ら自身の良心に一致して生きないことによって彼ら自身を相応しくないものとしたのです。彼らの良心は彼らがなすべき善そして彼らが避けるべき悪について彼らに警告することに決して失敗することはなかったのです。それゆえ、天主の法廷において彼らを告発したのは彼らの良心なのです。そして良心は地獄において絶えず彼らにこう告げるのです:「汝が地獄に落ちるのは汝から来るのだ」と。彼らは何と答えるべきなのかを知りません。そして彼らが彼らの運命に値するということを告白せざるを得ないのです。ところで、もしこれらの無信仰者たちがどんな言い訳をも持たないとするならば、そのように多くの秘蹟、そのように多くの説教、そのように多くの援助を自由に使えるものとして持っていたカトリック教徒にとってどのような言い訳があるのでしょうか?彼はどのようにして敢えてこう言おうとするのでしょうか?「天主がもし私を地獄に落とそうとされるならば、それでは天主はなぜ私を創造されたのですか?」と。天主が、救われるために彼にそのように多くの援助を与えておられるときに、彼はどのようにして敢えてこのような仕方で話そうとするのでしょうか?それゆえ、彼を当惑させることを終えましょう。

深淵において苦しんでいるあなたたち、私に答えて下さい!あなたたちの間にカトリック教徒がいますか?「確かにいます!」何人いますか?彼らのうちの一人をここに来させてください!「それは不可能です。彼らは下の方のずっと遠くのところにいます。そして彼らを上に上がって来させることは地獄全体を混乱したものに変えてしまうでしょう。彼らのうちのある者を彼が落ちて来るときに止める方が容易でしょう。」そこで、私は大罪の習慣のうちに、憎しみのうちに、不潔の悪徳のぬかるみのうちに生きているあなたたち、そして毎日地獄へ近づきつつあるあなたたちに話しています。止まりなさい。そして方向転換をしなさい。あなたたちを呼んでおられるのは、そしてその御傷をもって、そのように多くの雄弁な声をもって、あなたに呼びかけておられるのは、イエズスです。「わが子よ、もしあなたが地獄に落とされるならば、あなたはただ非難すべきあなた自身を持つだけである」「汝が地獄に落ちるのは汝から来るのだ。」目を上げなさい、そしてあなたの永遠の救いを確実なものとするために私があなたをそれによって豊にしたすべての恩寵を見なさい。私はあなたをバーバリ[アフリカ北部地域]の森の中で生まれさせることもできたであろう。それは私が多くの他の人々に対してしたことである。しかし私はあなたをカトリック信仰のうちに生まれさせた。私はそのようによき父親、そのように優れた母親によって、最も純粋な教授と教育をもって、あなたが育てられるようにさせた。そのことにもかかわらずもしあなたが地獄に落とされるならば、それは誰の責任であるのか?わが子よ、あなた自身の責任、あなた自身の責任なのだ。「汝が地獄に落ちるのは汝から来るのだ。」

「私は、あなたが犯した最初の大罪の後に、第二の大罪を待つことなしに、あなたを地獄へ投げ込むことができたであろう。私はそのように多くの他の人々にそうした。しかし私はあなたについては忍耐強かった。私は長年月の間あなたを待った。私は今日もなお痛悔のうちにあるあなたを待っている。そのすべてのことにもかかわらず、もしあなたが地獄に落とされるならば、それは誰の責任であるか?わが子よ、それはあなた自身の責任、あなた自身の責任なのだ:汝が地獄に落ちるのは汝から来るのだ。あなたはいかに多くの人々がまさにあなたの目の前で死んだか、そして地獄に落とされたかを知っている。それはあなたにとって一つの警告であった。あなたはいかに多くの他の人々を、あなたによき模範を与えるために、私が正しい道に引き戻したか、を知っている。あなたは、あの優れた聴罪司祭があなたに何と告げたかを覚えているか?私は彼にそれを言わせた者である。彼は、あなたを生活を変えるよう、よい告解をするよう、あなたに命じなかったか?私は彼にその鼓舞を与えさせた者である。あなたの心を動かしたあの説教を覚えているか?私はあなたをそこへ導いた者である。そしてあなたの心の秘密の中であなたと私の間に起こったこと...それはあなたが決して忘れることができないことである。」

「あれらの内的な霊感、あの明確な知識、あの絶えざる良心の呵責、あなたはそれらを敢えて否定するであろうか?これらすべては私の恩寵のそのように多くの援助であった。なぜなら、私はあなたを救うことを望んだからである。私は多くの他の人々にそれらを与えることを拒んだ。そして私は、あなたを愛情をこめて愛したがゆえに、それらをあなたに与えた。わが子よ、わが子よ、もし私が、今日あなたに話しているように愛情をこめて彼らに話したならば、どれだけ多くの他の霊魂たちが正しい道に立ち帰ったことであろうか!そしてあなたは...あなたは私に対して背を向けた。私がこれからあなたに告げようとしていることに耳を傾けなさい。なぜなら、これらは私の最後の言葉だからである:あなたは私に私の血を支払わせた。私があなたのために流した血にもかかわらず地獄に落とされることをもしあなたが望むならば、私を非難するな。あなたはただ非難すべきあなた自身を持つだけである。そしてそれは全永遠を通じてそうなのである。私にもかかわらずもしあなたが地獄に落とされるならば、あなたは、あなたが地獄に落とされることを望んでいるがゆえに、地獄に落とされるのであるということを忘れるな:『汝が地獄に落ちるのは汝から来るのだ。』」

おお、わがよきイエズスよ、そのように甘美な言葉、そのように優しい表現を聞けば、石そのものも割れるでしょう。そのように多くの恩寵や援助をもってして、地獄に落とされることを望む人が誰かここにおられますか?もしそういう人がおられるならば、彼が私に耳を傾けるようにさせて下さい。そしてそれから、もし彼にできるならば、彼が抵抗するようにさせてください。

バロニウスは、背教者ユリアヌスの悪名高い背教の後に、彼が聖なる洗礼に対してそのように大きな憎しみを持ったので、彼は日夜、彼自身の洗礼を消し去る方法を探し求めたと、語っている。その目的のために、彼は山羊の血の浴槽を準備させ、そしてヴェヌスに捧げられた生け贄のこの汚れた血が彼の霊魂から洗礼の聖なる特性を消すことを望みながら、その中に自分自身を沈めたのです。そのような行動はあなたたちには嫌悪感を引き起こすものと思われるでしょうが、しかしもしユリアヌスの計画が成功することができたならば、地獄において彼の苦しみがはるかに少なかったであろうことは確実です。

罪人の皆さん、私があなたたちに与えたいと望む忠告はあなたたちには奇妙なものと思われるでしょう。しかしもしあなたたちがそれをよく理解するならば、反対に、それはあなたたちに対する優しい同情によって鼓舞されているのです。私は、キリストの御血によって、そしてマリアの御心によって、跪いてあなたたちに懇願します。あなたの生活を変えなさい、天国へと導く道に立ち帰りなさい。そして救われる人々の少ない数に属するためにあなたのできるすべてのことをしなさい。このことの代わりに、もしあなたが地獄へと導く道を歩み続けたいならば、少なくともあなたの洗礼を消し去る方法を見つけなさい。もしあなたが、イエズス・キリストの聖なる御名とあなたの霊魂に刻まれたキリスト教徒の聖なる特性を地獄へと持ち込むならば、あなたに禍いあれ!あなたの懲罰はいやが上にも大きいでしょう。ですから、私があなたにするように忠告することをしなさい:すなわち、もしあなたが回心することを望まないならば、まさに今日出かけて行ってあなたの司牧者に、洗礼台帳からあなたの名前を消してもらうように頼みなさい。それはあなたがかつてキリスト教徒であったことの何らの記憶も残らないようにするためです。あなたの守護の天使に、天主からの命令で天使があなたに与えた諸々の霊感や援助を彼の恩寵の書物から消してもらうように懇願しなさい。なぜなら、もし天使がそれらを思い出すならば、あなたにとって禍いだからです!われらの主に主の信仰、主の洗礼、主の諸秘蹟を取り返していただくよう言いなさい。

あなたはそのような考えにショックを受けています。それでは、イエズス・キリストの足許に身を投げて、目に涙を浮かべ悔恨の心をもってこう言いなさい:「主よ、今まで私はキリスト教徒として生きて来なかったことを告白します。私はあなたの選ばれた人々の中に数えられるに相応しくありません。私は、自分が地獄に落とされるに値する者であることを認めます。しかしあなたの憐れみは大きい。そして私はあなたの恩寵に対する全幅の信頼をもって、たとい私の財産、私の名誉、私の生命そのものを犠牲にしなければならないとしても、私が救われるかぎり、私の霊魂を救いたいと、あなたに申し上げます。もし私が今まで忠実でなかったのであれば、私は私の不忠実を後悔し、遺憾に思い、憎みます。私はそのことについて私を赦してくださるよう謙遜にお願いします。よきイエズスよ、私が救われるように、私を赦してください。そしてまた私を強めてください。私はあなたに富、名誉あるいは繁栄を願いません。私はただ一つのこと、私の霊魂を救ってくださることをあなたにお願いします。」

そしてあなた、おお、イエズスよ!あなたは何と言われますか?おお、よき牧者よ、あなたのところに戻ろうとしている迷える羊をご覧下さい。この痛悔している罪人を抱擁してください。彼のため息と涙を祝福して下さい。あるいはむしろよい性質を持ったこれらの人々、彼らの救い以外には何も望まないこれらの人々を祝福してください。兄弟の皆さん、われらの主の足許に身を投げて、われわれが、どれほどの犠牲を払っても、われわれの霊魂を救うことを望んでいるということを表明しましょう。目に涙を浮かべてわれわれ皆で主に言いましょう:「よきイエズスよ、私は私の霊魂を救うことを望んでいます」と。おお、祝福された涙、おお、祝福されたため息よ!

結論

兄弟の皆さん、私はあなたたち皆を元気づけて送り出したいと思っています。それで、もしあなたたちが私に救われる人々の数に関する私の感想をお求めになるならば、私の感想はこうです:救われる人々は多いのか、それとも少ないのか、救われたいと望む人は誰であれ救われるでしょう、と私は言います。そしてもし彼が地獄に落とされることを望まないならば、誰も地獄に落とされることはあり得ません。そして、少数の者が救われるということが真であるならば、それはよく生きる人が少ないからです。その他のことに関しては、以下の二つの意見を比較して下さい:第一の意見はカトリック教徒の大多数は地獄に落とされると言明します。第二の意見は、それとは反対に、カトリック教徒の大多数が救われると言い張ります。あなたたちに、大抵のカトリック教徒が地獄に落とされるだけではなく、ここに出席しているこの集まりのすべての人のうち、ただ一人だけが救われるであろうということをあなたたちに告げるために来て、第一の意見を確証するために天主によって遣わされた天使を想像してください。もしあなたが天主の十戒を守るならば、もしあなたが改悛の精神でイエズス・キリストの十字架を抱擁するならば、あなたは救われるあのただ一人の人であるでしょう。

今度はあなたの所へ戻って来て第二の意見を確証するさっきの同じ天使を想像して下さい。その天使はあなたに、単にカトリック教徒の大部分が救われるだけではなく、この集まりにいるすべての人の中からただ一人の人だけが地獄に落とされ、そして他のすべての人は救われると、告げます。その後で、もしあなたがあなたの法定利率以上の高利貸し、あなたの復讐、あなたの犯罪行為、あなたの不潔な行為を続けるならば、そのときあなたは地獄に落とされるあの一人の人であるでしょう。

救われる人が少ないか、多いかを知ることの利益は何でしょうか?聖ペトロはわれわれにこう言っています:「よい行いによってあなたの選びを確実なものとするよう努めなさい」と。聖トマスの妹が彼に天国に行くためには自分は何をしなければならないかと尋ねたとき、彼はこう言いました:「あなたが救われたいと望むならばあなたは救われるでしょう」と。私はあなたたちに同じことを言います、そしてここに私の宣言の証拠があります。誰も、彼が大罪を犯さない限り地獄に落とされることはありません。そして誰も、彼が大罪を犯そうと望まない限り大罪を犯しません。そのことは一つの否定し得ない神学的命題です。それゆえに、誰も、地獄に行くことを望まない限り、地獄に行きません。その結果は明白です。そのことはあなたたちを慰めるに十分ではありませんか?過去の諸々の罪を嘆きなさい、よい告解をしなさい。将来もう罪を犯さないでください。そうすればあなたたちは皆救われるでしょう。なぜあなた自身を苦しめるのですか?なぜなら、地獄に行くためにはあなたは大罪を犯さなければならず、そして大罪を犯すためにはあなたは大罪を犯すことを望まなければならず、またその結果誰も、地獄に行くことを望まない限り地獄に行くことはない、ということは確実だからです。そのことは単なる一つの意見ではなくて、否定し得ないそして非常に慰めに満ちた真理です。天主があなたたちにそのことを理解させてくださいますように、そして天主があなたたちを祝福して下さいますように。アーメン。


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「救われる人々の数の少なさ」への注釈

霊の識別に関する第一の規則において、聖イグナティウスは、罪人たちの心を静めることは悪霊の典型であるということを示しています。それゆえに、われわれは主の無限の赦しと憐れみへの信頼と希望の義務とを絶えず説教し、そのことを生じさせなければなりません。なぜなら、回心は容易であり、そして主の恩寵は全能だからです。しかしわれわれはまた、「天主は嘲られることはない」ということ、そして習慣的に大罪の状態のうちに生きている人は永遠の地獄行きへの道にいるということを忘れてはなりません。

最後の瞬間の奇蹟があります。しかし、われわれが、奇蹟は一般的な事の成り行きであるということを主張しない限り、大罪の状態において生きている人々の大多数にとって最後に悔い改めないことが最もあり得る結末であるということに同意せざるを得ません。

ポート・モーリスの聖レオナードの諸々の理由はわれわれに説得的でした。それらの理由は傾聴に値します。雄弁と明白さをもって、それらは、1948年12月4日にカリアラでなされたイタリア共産党党首ヴェリオ・スパノ(Velio Spano)との公開討論会におけるロンバルディ神父(Father Lombardi)の考察を発展させています。「もしあなたがこのような仕方で続けられるならば、あなたが地獄へ落とされるだろうと考えて恐怖に打ちのめされます」とロンバルディ神父はマルクス主義者スパノに言いました。スパノは答えました:「私は地獄を信じない」と。そしてロンバルディ神父は再びこう言いました:「はっきり申します、あなたがその生き方をそのまま続けるならば、あなたは地獄行きの宣告を受けるでしょう。なぜなら、地獄行きの宣告を受けることを避けるためには、人は地獄を信じなければならないからです。」

われわれはロンバルディ神父の答を一般化することができるでしょう。おそらく、人々を、われわれの現代生活へのその適用においてポート・モーリスの聖レオナードの仕方で説教するという司牧的超越の深い理解へと達することから妨げているのはまさにそのような超越的信仰の欠如なのです。いずれにせよ、それは道徳が今あの有名な宣教師の時代よりも何かよりよいものであるからではありません。いかなる場合もわれわれにとってピエ枢機卿のこの叱責を適用することよりもすばらしくはあり得ないでしょう:「私は至るところに用心深さを見ます。間もなくわれわれはどこにも勇気を見なくなるでしょう。休息が保証されました。もしわれわれがこのような仕方で続けるならば、われわれは知恵の攻撃から死ぬでしょう。」確かに天主の智恵ではありません。確かに。なぜなら、ただ肉的で世間的な用心深さだけが中身のない知識を引き起こすからです。それは聖レオナードの説教をばかにします。

ポート・モーリスの聖レオナードの教説は時の終わりまで無数の霊魂を救って来たしまた救うでしょう。ここには教会が、聖レオナードの天上的な雄弁について話しながら、聖務日課第六の祈りにおいて言っていることがあります:「彼の言うことを聞いていると、鉄や銅の心の持ち主でさえ、その説教の驚くべき効果と説教師の燃えるような情熱のために、改悛へと強力に傾けさせられる。そして典礼の祈りにおいてわれわれは主に願い求める:説教の働きによってかたくなな罪人たちの心を改めさせて下さい、と。」

ポート・モーリスの聖レオナードによるこの説教は、この偉大な宣教師を非常に愛した教皇ベネディクト14世の在位期間中に行われました。


ファチマ・クルーセイダー

2012年12月24日 | Weblog

救われる人々の数の少なさ(続き)

The Fatima Crusader Issue 92, May 2009 より

ポート・モーリスの聖レオナード

天主の善性

おそらくあなたたちは私が今しがたあなたたちにお教えした恐るべき真理をまだ信じておられません。しかし、私を通じてあなたたちに話されたのは最も尊敬されている神学者たち、最も輝かしい教父たちです。それでは、あなたたちはどのようにして、そのように多くの例と聖書の言葉によって支持されている理屈に抵抗することができるのですか?それにもかかわらず、もしあなたがなお躊躇されるならば、そしてもしあなたの精神が反対の立場へと傾くならば、まさにその考察はあなたを震えさせるに十分ではないのでしょうか?おお、そのことは、あなたがあなたの救いのために全然配慮されていないということを示しています!この重要な問題においては、感受性のある人は、霊魂が関与していない他の事柄における全体的な破滅の証拠によってよりも、彼がおかす危険のほんの僅かな疑いによってもっと強く打たれます。われらの修道士たちの一人、福者ジルは、もしただ一人の人が地獄に落とされることになるとするならば、彼は自分がその人でないことを確信することができるためにあらゆることをするだろう、と言うのを習慣としてしていました。

それゆえ、われわれ、大多数の人が地獄に落とされようとしている、そしてそれはすべてのカトリック教徒の中からだけではない、ということを知っているわれわれ、は何をしなければならないでしょうか?われわれは何をしなければならないでしょうか?救われる人々の少数者に属する決心をしなさい。あなたはこう言います:もしキリストが私を地獄に落とすことを望み給うたのだとすれば、それではキリストはなぜ私を創造されたのか?と。お黙りなさい、軽はずみな舌よ!天主は地獄に落とすために誰一人創造なさいませんでした。しかし、地獄に落とされる人は誰であれ、彼が地獄に落とされることを望んでいるがゆえに地獄に落とされるのです。それゆえに、私は今私の天主の善性を擁護し、あらゆる非難からそれを放免するよう努めます。それが、第二の点の主題となるでしょう。

先へ進む前に、一方にルターとカルヴィンのすべての書物とすべての異端とを集め、他方にペラギウス派と半ペラギウス派の書物と異端とを集め、それらを焼くことにしましょう。あるものは恩寵を破壊し、他のものは自由を破壊します。そしてそれらすべてのものは諸々の誤謬に満ちています。それゆえ、それらを火の中に投げ込みましょう。地獄に落とされたすべての者は彼らの額に預言者ホゼアの託宣を帯びています。すなわち、汝が地獄に落とされるのは汝から来ていると。それは、彼らが、地獄に落とされる者は誰でも、彼自身の悪によって地獄に落とされるのであり、そして彼が地獄に落とされることを望んでいるがゆえにそうなのである、ということを理解するためです。

最初にこれら二つの否定し得ない真理を基礎として受け取りましょう:すなわち、「天主はすべての人が救われることを望んでおられる」、「すべての人は天主の恩寵を必要としている」ということです。ところで、もし私があなたたちに、天主はすべての人を救うことを望んでおられるということ、そしてこの目的のために天主は彼らすべてに天主の恩寵とその至高の目的を達成するために必要な他のすべての手段を与えておられるということ、を示すならば、あなたたちは、地獄に落とされる者は誰であれ、そのことを彼自身の悪意に帰さなければならないということ、そしてキリスト教徒の大多数が地獄に落とされるならば、それは彼らがそうされることを望んでいるからであるということに同意せざるを得ないでしょう。「汝が地獄へ落とされることは汝から来る。汝の救いはただわがうちにのみある。」

天主は御自分の聖なる御母、あわれみの聖母を送り給うた。聖母の御母としての配慮を通じてわれわれはイエズスにより近づくであろう。上の写真で、ファチマの聖母の栄誉を称える行列において、われわれはまたわれわれの生活を改めよという警告のメッセージを見る。

天主はすべての人が救われることを望んでおられる

聖書の中の100箇所において、天主はわれわれに、すべての人を救うことが真に天主のお望みであると告げておられます。「罪人が死ぬことが私の望みであるか?そして彼がその生き方から回心することが私の望みではないのか?...私は生きている、と主は言われる。私は罪人の死を望まない。回心して行きなさい。」ある人がある事柄を非常に望むとき、彼は欲望と共に死んでいる、と言われます。それは一つの誇張表現です。しかし、天主は、われわれの救いを大いに望まれましたし、また今なお望んでおられますから、望んでお亡くなりになりました。そして天主はわれわれに生命を与えるために亡くなられました。すべての人々を救うというこの意志はそれゆえに、天主における一つの影響を受けた、表面的なそして外見上の意志ではありません。それは一つの真実の、効果的なそして有益な意志です。なぜなら、天主はわれわれに、救われるためにわれわれにとって最も適切なすべての手段を提供なさっているからです。天主は、われわれが救いを達成することがないようにとそれらの手段をわれわれにお与えになっているのではありません。天主は一つの真摯な意志をもって、われわれがそれらの結界を得るという意図をもって、それらをわれわれにお与えになります。そしてもし彼らがそれを達成しないならば、天主はそれについて傷つけられ、感情を害された御自身をお示しになります。天主は地獄に落とされる者にさえ救われるためにそれらを用いるようにお命じになります。天主はそれを用いるように彼らを促されます。天主はそれを用いるように彼らに義務づけられます。そしてもし彼らがそうしないならば、彼らは罪を犯すのです。それゆえに、彼らはそれをすることができ、そしてこのようにして救われることができたでしょう。

さらに、天主はわれわれが天主の助けなしには天主の恩寵を利用することさえ出来ないだろうということを御覧になるがゆえに、われわれに他の諸々の助けをお与えになります。そしてもし彼らがときどき効果のないままにとどまるならば、それはわれわれの責任です。なぜなら、これらの同じ助けでもって、ある人はそれらを悪用し、そしてそれらと共に地獄に落とされるかもしれませんし、またある人は正しいことを行い救われるかもしれないからです。彼はより強力でない助けをもってしてさえ救われるでしょう。そうなのです、われわれがより大きな恩寵を悪用してそして地獄に落とされ、一方で他の人がより少ない恩寵をもってして救われるということが起こり得るのです。

聖アウグスティヌスは次のよに叫んでいます:「それゆえに、もしある人が正義から身をそむけるならば、その人は自分の自由意志によって運ばれるのであり、自分の欲望によって導かれ、自分自身の説得によって欺かれるのである。」しかし神学を理解しない人々のためには、ここに私が彼らに言わなければならないことがあります:天主は非常に善なる御方でありますから、自分の破滅へ向かって走る一人の罪人を御覧になるとき、彼のあとを追いかけ、彼に呼びかけ、懇願し、地獄の門のところまでさえ彼に同伴なさいます。天主が彼を回心させるために何をなさらないでしょうか?天主は彼によき霊感と聖なる考えをお送りになります。そしてもし彼がそれらから教訓を得ないならば、お怒りになり、立腹なさいます。天主は彼のあとを追われます。天主は彼をお打ちになるでしょうか?いいえ。天主は空気を打ち、彼をお赦しになります。しかしその罪人はまだ回心しません。天主は彼に一つの致命的な病をお送りになります。それは確かに彼にとって終わりです。いいえ、兄弟の皆さん、天主は彼をお癒しになります。その罪人は悪に関して強情になります。そして天主はそのあわれみにおいて他の方法をお探しになります。天主は彼に他の年をお与えになります。そしてその年が過ぎ去るとき、天主は彼にさらに別の年をお与えになります。(続く)

 


ファチマ・クルーセイダー

2012年12月23日 | Weblog

救われる人々の数の少なさ(続き)

The Fatima Crusader Issue 92, May 2009 より

ポート・モーリスの聖レオナード

さまざまの生活の状態における救い

しかし、おお、私は、すべてを一般的にこのような仕方で話すことによって、私が要点を見失っていることが分かります。それゆえ、この真理をさまざまの状態に適用することにしましょう。そうすれば、あなたたちは、あなたたちが信徒の理由、経験そして良識を投げ捨てなければならないか、それとも、大多数のカトリック教徒が地獄に落とされると告白しなければならないかのどちらかであるということを理解するでしょう。その中では救いがより容易に思われ、またそれについて人々が、神の代理者である司祭たちのそれよりもより高い理想を持っている純潔にとってもっと好ましい何らかの状態が世の中にあるでしょうか?最初にちょっと見たところでは、誰が、彼らの大部分が単に善良であるばかりでなく、完全であるとさえ考えないでしょうか。にもかかわらず、聖ヒエロニムスが世界は司祭たちでいっぱいであるけれども、100人のうちかろうじて一人が彼の状態(召命)に一致した仕方で生きている、と宣言するのを私が聞くとき、自分は啓示によって、毎日地獄へと堕ちる司祭の数があまりにも多いので、彼には地上に残される誰かがいることは不可能と思われるということを学んだということを証言する天主の一人のしもべのことを私が聞くとき、目に涙を浮かべて「多くの司祭たちが救われるとは私は信じない。私はその反対のこと、すなわち、地獄へ落とされる者の数の方が多いと信じる」、と語気を強めて言う聖クリソストモスを聞くとき、私はショックを受けるのです。

なおもっと高いところをご覧なさい、そして聖なる教会の高位聖職者たち、霊魂を委ねられている司牧者たちを見てください。彼らのうちで救われる者の数は地獄に落とされる者の数よりも多いでしょうか?カンティンプレに聞いてください。彼はあなたたちに一つの出来事を話すでしょう。そうすればあなたたちは結論を引き出すでしょう。一つの教会会議がパリで開催されました。そして大勢の高位聖職者たち、霊魂を委ねられている司牧者たちが出席していました。王や王子たちもまた彼らの出席によってその会議に光彩を添えるために来ました。一人の有名な説教者が説教するために招かれていました。彼が説教を準備しているとき、恐ろしい悪魔が彼に出現し、こう言いました:「あなたの諸々の書物を脇へやりなさい。もしあなたがこれらの王子たちや高位聖職者たちに有益であろう説教をしようと欲するならば、彼らにわれわれの側に立って次のように告げることに満足しなさい。『暗闇の君であるわれわれは、あなたたち、すなわち王子たち、高位聖職者たち、そして霊魂の司牧者たちにあなたたちの怠慢のために、大勢の信徒たちが地獄に落とされていることを感謝する。また、われわれは、あなたたちが地獄でわれわれと一緒になるだろうとき、この引き立てに対するあなたたちへの報酬を蓄えつつある。』」

「私が天主の法廷の前に出頭したとき、6万人の人々が世界のあらゆる場所から同時に到着しました。その6万人のうちから、3人の人が煉獄に行くことによって救われました。そして残りのすべての人は地獄へ落とされました。」

他の人々に命令するあなたたちに災いあれ!もしそのように多くの人々があなたたちの落ち度よって地獄に落とされるならば、あなたたちには何が起こるでしょうか?もし、最初天主の教会にいる人々のうち少数の人しか救われないならば、あなたたちに何が起こるでしょうか?あらゆる状態、両性、すべての状態、すなわち、夫、妻、未亡人、若い女性、青年、軍人、商人、職人、裕福な人と貧しい人、貴族と平民、を考えてごらんなさい。われわれは、そのように悪い生き方をしているこれらすべての人々について何と言うべきでしょうか?聖ヴァンサン・フェレルからの次の話はそれについてあなたが何と考えればよいかをあなたに示すでしょう。彼は、リヨンの一人の副司教がその義務を放棄して罪の償いをするためにある砂漠のような場所に隠遁した、そして彼が聖ベルナルドと同じ日の同じ時刻に死んだ、と述べています。彼の死後、彼は彼の司教のところへ現れ、彼にこう言いました:「司教様、知ってください。私が亡くなったまさにその時刻に、3万3千人の人々もまた死にました。この数の中から、ベルナルドと私自身が遅れることなく天国へのぼりました。3人が煉獄へ行きました。そして他のすべての人々は地獄に落ちました。」

われわれの年代記はもっと恐ろしい出来事を述べています。その教えと聖性のために有名な、われわれのブラザーたちのうちの一人がドイツで説教をしていました。彼は不純の罪の醜さを非常に力強く描いたので、一人の女性は皆の前で悲しみのあまり死んだようになって倒れました。それから、生気を取り戻して彼女はこう言いました:「私が天主の法廷の前に出頭したとき、6万人の人々が世界のあらゆる場所から同時に到着しました。その6万人のうちから、3人の人が煉獄に行くことによって救われました。そして残りのすべての人は地獄へ落とされました。」

おお、天主の審判の深淵よ!3万人からただ5人だけが救われたのです!そして6万人からただ3人だけが天国へ行ったのです!私の話を聞いているあなたたち罪人はどの部類に数えられるのですか?...あなたたちは何と言いますか?...あなたたちはどう思いますか?...

私は、あなたたちのうちのほとんどすべての人々が驚きと恐怖に満たされてあなたたちの頭を垂れているのを見ます。しかしわれわれの麻痺状態を脱しましょう。そして自分自身にへつらう代わりに、われわれの恐怖から何らかの利益を引き出すように努めましょう。天国に導く二つの道がある、ということは真実ではないでしょうか?すなわち、それは純潔と悔い改めです。ところで、もし私があなたたちに、非常にわずかの人しかこれら二つの道のどちらか一つを取らないということを示すならば、あなたたちは理性的な人々として、非常にわずかの人しか救われないと、結論するでしょう。そしてその証明のことに触れるならば:どの年齢、仕事、あるは状態のうちに、あなたは、邪悪な人々の数が善人の数よりも百倍も多くはないということを見出すでしょうか、そしてそれについて人はひょっとすればこう言うのではないでしょうか

「善人はその数において非常にまれであり、そして悪人は非常に多い」と?

われわれは、サルヴィアーヌスが彼の時代について言ったことをわれわれの時代について言うことができるでしょう:すなわち、あらゆる種類の罪悪の中に完全に浸された罪人たちの数え切れないほどの多数を見出すことは、少数の純潔な人々を見出すことよりも容易である、と。

何人の使用人たちが彼らの諸々の義務において完全に正直で忠実でしょうか?何人の商人たちが彼らの商売において公正で公平でしょうか?何人の職人たちが正確で正直でしょうか?何人の販売員たちが公平無私で誠実でしょうか?何人の法律家が公正な決定を見捨てないでしょうか?何人の軍人たちが純潔を踏みにじらないでしょうか?何人の主人が彼らに仕える人々の給料を不正に与えずにおかないでしょうか?あるいは彼らより地位の低い人々を支配しようとしないでしょうか?

いたるところで、善人は数においてまれであり、悪人は多いのです。今日、分別のある男たちの間でそのように多くの放蕩が、若い女性たちの間で気儘が、女性たちの間で虚栄が、貴族階級のうちにみだらさが、中流階級のうちに堕落が、人々のうちに離婚が、貧しい人々の間に図々しさがあるということを誰が知らないでしょうか。人はダヴィドが彼の時代について言ったことを言うことができるでしょう:すなわち、「すべての人が同じように正道からそれてしまった...善を行う者は一人もいない、ひとりもいない。」と。

通りや広場の中へ、宮殿や家の中へ、都市や地方の中へ、裁判所や法廷の中へ、天主の神殿の中へさえ、入ってごらんなさい。あなたはどこに徳を見出すでしょうか?サルヴィアーヌスはこう叫んでいます:「悪を逃れている非常に少数の人々を除いて、キリスト教徒たちの集会は、悪徳の汚水だめでないとしたら、何であるか?」と。

われわれがいたるところで見出すことができるすべては、自分本位、野心、貪欲そして贅沢です。男たちの大部分は不潔の悪徳によって汚されているのではないでしょうか?そして「世界全体が邪悪さのうちに住んでいる」と言う聖ヨハネは正しくないでしょうか?私があなたたちに告げているのではありません。理性はあなたたちに、そのように悪い生活を送っている人々の中から非常に僅かの人しか救われないということを信じることを余儀なくさせるのです。

しかしあなたたちはこう言うでしょう:告解が純潔の喪失を有利に償うことができるのではないか?と。そのことはその通りです、私はそのことを認めます。しかし、私はまた、告解は実践においては非常に困難であり、われわれがその習慣をそのように完全に失っており、またそれが罪人たちによってそのように悪しく乱用されていて、その結果そのことだけでも、非常に僅かの人しかその道によっては救われないということをあなたたちに確信させるに十分であろう、ということをも知っています。おお、それはどのように見るに険しく、狭く棘の多いそして恐ろしいか、そして登るにどのように困難であることでしょうか!いたるところで、われわれは見ます、われわれは血の跡と悲しい諸々の記憶を思い起こさせる諸々の事柄を見ます。多くの人はそれを見ただけで弱くなります。多くの人はそもそもの出発点で退却します。多くの人は中間点で弱さから倒れます。そして多くの人は最終地点で惨めに断念します。そしてそれを死に至るまで堪え忍ぶ人のなんと少ないことでしょう!聖アンブロシウスは、適切な告解をした人を見つけることよりは、その純潔を守った人を見つけることの方が容易であると言っています。

告解の恐るべき乱用

あなたが告解の秘蹟を考察するならば、そこには非常に多くの歪められた告解、非常に多くの慎重に考えぬいた弁解、非常に多くの欺瞞に満ちた痛悔、非常に多くの偽りの約束、非常に多くの効果のない決心、非常に多くの無効の罪の赦免があることでしょう!不純の罪について自らを責め、しかもなおそれらの罪の機会を保持している誰かある人の告解をあなたは有効なものと見なすでしょうか?明らかな不正について自らを責め、しかもそれらについて何らの償いをする意図を持っていないある人の告解は?あるいは、告解に行ったその直後に同じ罪へと再び陥る人の告解は?

おお、そのように偉大な秘蹟の恐るべき乱用!ある人は破門を避けるために告解をします。他の人は悔悟者としての評判を得るために告解します。ある人は自分の良心の呵責をしずめるためにその罪から解放されます。他の人は恥から自分の罪を隠します。ある人は悪意から罪を不完全に責めます。他の人は習慣から罪を表明します。ある人はその秘蹟の真の目的を心にとめていません。他の人は必要な悲しみを欠いています。そしてさらに他の人は堅固な目的を持っていません。哀れな告解聴聞司祭たちよ、あなたたちは、悔悟者たちの大多数をこれらの決心や行為に連れて来るために何をしたのでしょう。それなしには、告解は神聖冒涜であり、罪の赦しは断罪であり、そして悔悟は幻想なのです。

キリスト教徒たちの間で救われる人の数が地獄に落とされる人の数よりも多いと信じている人々、そして彼らの見解を権威づけるために、このように理屈をつける人々、すなわち、カトリックの大人たちの大部分は教会の諸々の秘蹟で武装された彼らのベッドで死ぬ、それゆえに、大部分のカトリックの大人たちは救われる、と理屈をつける人々は、今どこにいるのでしょうか?おお、それは何という立派な理屈でしょうか!あなたたちはまさにその正反対のことを言わなければなりません。大部分のカトリックの大人たちは死のときに悪い告解をします。それゆえに、彼らの大部分は地獄へ落とされます。私は「それだけ余計に確実である」と言います。なぜなら、健康状態がよいときによい告解をせずに死んで行く人は、彼が重い心とふらふらする頭、混乱した精神をもってベッドに横たわっているとき、彼がなお生きている諸々の対象によって、採用された諸習慣によって、そしてとりわけ、彼を地獄へ投げ込むためにあらゆる手段を探し求めている悪魔たちによって、多くの仕方で反対されているとき、いっそう困難な時を持つだろうからです。

ところで、もしあなたがこれらすべての偽りの悔悟者たちに、医師の無知のために、あるいは彼らの親族の落ち度によって、罪のうちに思いがけなく死ぬ、中毒から、あるいは地震において埋もれることから、あるいは打撃から、あるいは転倒から、あるいは戦場で、戦闘中に、罠にはまって、稲妻に打たれて、焼かれあるいは溺れて死ぬ、他のすべての罪人たちを加えるならば、大部分のキリスト教徒の大人たちは地獄に落とされると結論せざるを得ないのではないですか?

それは聖クリソストムスの論法です。この聖人は、大抵のキリスト教徒は彼らの生涯を通じてずっと地獄への道を歩いている、と言っています。それでは、なぜあなたは、大多数の人々が地獄へ行くことにそのように驚いているのですか?一つの扉のところへ来るためには、あなたはそこへと導く道を取らなければなりません。あなたはそのように強力な理由に何と答えますか?

その答は天主のあわれみは大きいということです、とあなたは私に言うでしょう。そうです、天主を畏れる人々にとっては、とその預言者は言います。しかし、天主を畏れない人にとっては天主の正義は大きい、そしてその正義はすべての強情な罪人たちを断罪します。

天国はただキリスト教徒たちのためにある

天国は、もちろん、キリスト教徒のためにあります。しかし、彼らの品位を辱めず、キリスト教徒として生きる人々のためにあるのです。さらに、天主の恩寵のうちに死ぬキリスト教の大人たちの数に、あなたがもし洗礼の後に、理性の年齢の達する前に死ぬ数え切れない多くの子どもたちを加えるならば、あなたは、使徒聖ヨハネが救われる人々について話しながら、「私は誰も数えることができなかった非常に多くの人々を見た」と言っていることに驚かないでしょう。

そしてこれはカトリック教徒の間で救われる人の数が、地獄に落とされる人の数よりも多いと言い張る人々を欺くことなのです...もしその数にあなたが無垢の衣を保った大人たち、あるいはそれを汚した後に、告解の涙のうちにそれを洗い清めた大人たちを加えるならば、より多くの人々が救われるということは確かです。そしてそのことは聖ヨハネの「私は非常に多くの人々を見た」という言葉を説明します。そして「多くの者が東から、また西から来るであろう。そして天の王国において、アブラハム、イザアクそしてヤコブと共に祝宴に連なるであろう」というわれらの主の言葉、そして通常その意見に賛成して引用される他の比喩をも説明します。



ほぼ8年前に9/11が思いがけなく襲いました。数日後、グルーナー神父はある消防士の遺物を祝福するために出席しました。多くの生命の喪失に対する深い痛恨がなお存在しましたが、しかし準備ができていなかった霊魂たちの喪失に対してはもっとそうでした。あなたの霊魂は審判の日のために準備ができていますか?あなたはあなたの9/11攻撃の前に聖なる告解、聖なるミサそして御聖体拝領を利用していますか?

しかしもしあなたがキリスト教徒の大人たちについて話しておられるならば、経験、理性、権威、礼節そして聖書はすべてより多くの人々が地獄に落とされるということを証明することにおいて一致しています。このことのゆえに、天国が空であると考えないでください。その反対に、天国は非常に人口の多い王国です。そしてもし地獄に落とされる人が「海辺の砂ほどに多い」ならば、救われる人は、「天の星ほどに多い」のです。すなわち、一方も他方も、非常に異なった割合においてではありますが、無数なのです。

ある日のこと、聖ヨハネ・クリソストムスはコンスタンティノープルの司教座聖堂で説教をしながら、そしてこれらの人々の割合を考えながら、恐怖に身震いし問わずにはいられませんでした、「これら多くの人々の中から、あなたたちはどれくらいの人々が救われると考えますか?」そして答を待たずに、彼はこうつけ加えました。「このように多くの人々のうちに、われわれは救われる百人の人々を見出さないでしょう。そして私はその百人についてさえ疑いを持っています。」何という恐ろしいことでしょう!この偉大な聖人はそのように多くの人々のうちわずか百人しか救われないだろうと信じていました。そしてそのときでさえ、彼はその数について確信を持てませんでした。私の話を聴いているあなたたちに何が起こるでしょうか?偉大な天主よ、私は身震いすることなしにそのことについて考えることはできません!兄弟の皆さん、救いの問題は一つの非常に困難な事柄です。なぜなら、神学者たちの諸々の格言に従えば、一つの目的が大きな努力を要求するとき、少数の人々だけがそれを達成する、からです。

それが、天使的博士聖トマスが、その巨大な学識において、賛成・反対のすべての理由を熟考した後に、カトリック教徒の大人たちの大多数が地獄に落とされると最終的に結論している理由です。彼はこう言っています:「永遠の至福は自然的状態を凌駕しているがゆえに、特に自然的状態は本来的な恩寵に恵まれていないからして、救われる人の数は僅かである。」

それゆえ、自己愛をもってあなたを盲目にし、天主の正義に関する非常に誤った考えをあなたに与えることによってそのように明白な真理を信じることを妨げている目隠し布をあなたの目から取り外しなさい。われらの主イエズス・キリストは「正しい御父よ、世はあなたを知りませんでした」と言われました。主は「全能の御父、最もよきそして憐れみに満ちた御父」とは言っておられません。主は「正しい御父」と言っておられます。それゆえ、われわれは天主のすべての属性の中から、天主の正義よりも知られていないものは何もないということを理解してもよいでしょう。なぜなら、人々は自分たちが受けることを恐れているものを信じることを拒否するからです。それゆえに、あなたの目を覆っている目隠し布を取り除き、そして涙ながらにこう言いなさい:

悲しいかな!カトリック教徒たちの大部分、ここに生きている人々の大部分、おそらくこの集まりにきている人々さえ、地獄に落とされるでしょう!あなたの涙にもっと値するどんな主題があり得るでしょうか?

クセルクセス王は、戦闘態勢についている10万人の彼の軍隊を見ながらある丘の上に立って、そして彼ら全員のうちから100年後には一人も生き残ってはいないであろうということを考えながら、その涙を抑えることができませんでした。非常に多くのカトリック教徒たちの中からその大多数が地獄に落とされるという考えに涙を流すもっと多くの理由をわれわれは持っていないのでしょうか?この考えはわれわれの目に涙の川を流れ出させる、あるいは少なくとも、われわれの心のうちに、一人のアウグスチノ会の修道士、聖ドミニコのヴェン・マルチェッルスによって感じられた同情の念を産み出さないでしょうか?ある日、彼が永遠の苦しみについて黙想していたとき、主は彼に、その瞬間にどのように多くの霊魂が地獄へ行っているかをお示しになりました。そして彼に地獄への一つの非常に広い道をお見せになりました:

2萬2千人の天主に見放された人々が、お互いに衝突し合いながら、深淵へ向かって走って行きました。天主のしもべはそれを見て驚愕し、こう叫びました。「おお、何という人数か!何という人数か!そしてもっと多くの人々がやって来る。おお、イエズスよ!おお、イエズスよ!何という狂気!」エレミアと共に私に繰り返させてください:「誰が私の頭に水を、私の目に涙の泉を与えてくれようか?そして私は私の民の娘たちの殺戮のために日夜泣くであろう」

哀れな霊魂たち!あなたたちはどのようにしてそのように速く地獄へ向かって走ることができるのですか?あわれみのために、立ち止まってしばらくの間私に耳を傾けてください!あなたは永遠にわたって救われること、そして地獄に落とされることが何を意味するかを理解しているか、それとも理解していないかのいずれかです。もしあなたが理解しているならば、そしてそれにもかかわらず、今日あなたの生活を変え、よい告解をし、世間を踏みにじる、一言で言うならば、救われる人々の少数の人数の中に数えられるためにあらゆる努力をする決心をしないのであれば、私は、あなたが信仰を持っていない、と言います。もしあなたがそのことを理解していないならば、あなたはより申し訳が立ちます。なぜなら、そのとき、人は、あなたが正気を失っている言わなければならないからです。永遠にわたって救われること、永遠にわたって地獄に落とされること、そして一方を避け、他方を確実にするあらゆる努力をしないことは信じられない何かある事柄です。(続く)

 


ファチマ・クルーセイダー

2012年12月22日 | Weblog
救われる人々の数の少なさ

The Fatima Crusader Issue 92, May 2009 より

ポート・モーリスの聖レオナード

聖レオナードの著作は、一度ではなく、二度あなたにあなたの良心を検討させ、告解の秘跡をもっと熱心にそしてもって頻繁に用いさせるであろう。
多くのキリスト教徒は彼らが天国においてそのような強力な友人と慈悲深い御母を持っていることにまったく気がついていない。マリアは、われわれが生まれる前からさえ、われわれをご覧になり、知っておられそして愛しておられた。そして聖母はそれ以来ずっとわれわれを愛し続けてこられた。
われらの主は御自分の御母が御自分にお求めになることを何一つ拒否なさらない。天主は御自分の御母の諸々の望みに従うことを愛しておられる。天主のすべての恩寵は御母の手の中にある。そして御母はそれらを、われわれが願うことができる以前にさえ、自由にわれわれの上に注がれる。天主はマリアに、マリアの助けを願うすべての罪人のために赦しを得る力をお与えになった。そしてマリアは天主の怒りから霊魂たちを守りながら、この力を十分にお使いになる。罪人たちはマリアの強力な愛の特別な対象である。すべての人は、どのような罪を彼らが犯したとしても、マリアのうちに安全を見出すことができる。この最も親切な御母の御心は、地獄への途上にある人々に対してさえ、憐れみに満ちている。悪魔どもはマリアに恐怖心を抱いている。そしてマリアは、自分の霊魂をあの最も悪辣な霊に売った一人の哀れな人間によって署名された契約を、御自分に取り戻させるために悪魔に強制なさる方として実際に知られてこられた。
あなたが天国において最も強力で最もあわれみに満ちた御母を持っているという知識のうちに安心しなさい。われわれはわれわれの救いをより安全にさえするために聖母への強力な信心を真心をこめて用いなければならない。茶色のスカプラリオに登録し、そしてそれを常に身につけなさい。毎日3回の「めでたし」の祈りをしよう。もっとよいことは、少なくともいとも聖なるロザリオの5連の祈りをしなさい。

ポート・モーリスの聖レオナードは教会の歴史の中で最も偉大な宣教修道会の一つであったフランシスコ会の最も聖なる修道士であった。祝せられたおとめの汚れなき御心に対する信心、祝せられた秘跡[御聖体]の礼拝そしてイエズスの聖心に対する尊敬は彼の擁護運動であった。彼は、彼の死後100年ほどしてなされた汚れなき御やどりの決定に対して少なからざる仕方で責任を負っていた。彼はまたわれわれに天主を讃える言葉と十字架の道行きの信心をも与えた。

彼が罪人たちの回心のために当てにしたこの説教は列聖訴訟手続きの間、教会法上の検討のために提出された。その中で彼はキリスト教徒のさまざまの生活状態を検討し、人間全体への関連において救われる人々の数の少なさをもって結論づけている。

この注目に値するテキストに関して熟考する読者はその議論の健全さを把握するであろう。それは教会の賞賛を勝ち得たものである。

さあ、人を感動させる聖レオナードの説教を読んでください。

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今日私が取り扱おうとしている主題は非常に重要な主題です。それは教会の支柱をさえ震わせ、最も偉大な聖人たちを恐怖で満たし、砂漠を隠遁者たちでいっぱいにしました。この教えの要点は、救われるキリスト教徒の数が地獄に落とされるキリスト教徒の数よりも多いか少ないかを決定することです。それが、天主の裁きについての救いに役立つ恐れをあなたたちのうちに産み出すことを私は希望します。

私が明白に話さなければならない理由

兄弟のみなさん、私があなたたちに対して持っている愛のゆえに、私は自分があなたたち一人ひとりに次のように言うことによって永遠の幸福の見込みでもってあなたたちを安心させることができたならばと望みます:すなわち、あなたたちは確実に天国へ行きます、キリスト教徒の大部分は救われます、それゆえ、あなたたちもまた救われるでしょう、と。しかし、もしあなたたちが、あたかもあなたたち自身の最悪の敵であるかのように天主の掟に対して反抗するならば、どのようにして私はあなたたちにこの甘美な保証を与えることができるでしょうか?私は天主のうちに、あなたたちを救おうとされる一つの真摯な御望みを見ます。しかし私はあなたたちのうちに地獄へ落とされる一つの決定された傾向を見出します。それゆえ、もし私がはっきりと話すならば、私は今日何をすることになるでしょうか?私はあなたたちにとって不快な者となるでしょう。しかしもし私が話さなければ、私は天主にとって不快な者となるでしょう。

それゆえに、私はこの主題を二つの点に分けようと思います。第一の主題において、あなたたちを恐怖で満たすために、私は神学者たちや教父たちにその問題に関して決定してもらい、キリスト教徒の成人の大多数が地獄に落とされるということを宣言してもらおうと思います。そしてあの恐ろしい神秘の沈黙の礼拝において私は私自身の意見を秘密にしておくつもりです。第二の点において、私は、あなたたちに、地獄に落とされる人々は、彼らが地獄に落とされることを欲したがゆえに、彼ら自身の悪意によって地獄に落とされるのであるということを証明することによって天主なき者に対して天主の寛大さを擁護しようと試みるつもりです。それゆえ、そのとき、ここには二つの非常に重要な真理があります。もし第一の真理があなたたちを驚かすならば、あたかも私があなたたちのために天国の道をもっと狭くすることを望んでいるかのように、そのことを私に対して主張しないでください。なぜなら、私はこの問題において中立的であることを望んでいるからです。むしろ、そのことを、理性の力によってこの真理をあなたの心の中に刻み込もうとしている神学者たちや教父たちに対して、主張してください。もしあなたたちが第二の真理によって幻滅を感じるならば、そのことについて天主に感謝してください。なぜなら、天主はただ一つのことだけ:すなわち、あなたたちが天主にあなたたちの心を完全に差し上げること、を望んでおられるからです。最後に、もしあなたたちが、私が考えていることをあなたたちにはっきりと告げるよう私を義務づけるならば、私はあなたたちの慰めのためにそうするつもりです。

この論題は最も重要である

天主のあわれみについて、そして回心することがいかに容易であるかについて常に語り、あらゆる種類の罪の状態にあって地獄への道でぐっすりと眠っている自由思想家たちの怠惰を驚くほどに保つことに役立ついくつかの真理を説教壇の高みから宣言することは無益な好奇心ではなくて、有益な用心です。彼らに幻滅を感じさせ、そして彼らの休眠状態(精神的な無活動状態)から目覚めさせるために、今日はこの重要な問題を検討しましょう:すなわち、救われるキリスト教徒たちの数は地獄に落とされるキリスト教徒たちの数よりも多いか?という問題です。

敬虔な霊魂たち、あなたたちは去ってもよろしい。この説教はあなたたちのためではありません。この説教の唯一の目的は天主に対する聖なる畏れを彼らの心から投げ出し、エウゼビウスの意見に従えば、彼らを安心させることによって霊魂たちを地獄に落とす悪魔の軍勢に加わる自由思想家たちの高慢を封じ込めることです。この疑いを解明するために、教父たち - ギリシャとラテンの両方の教父たち - を一方の側に置きましょう。他方の側には最も学識のある神学者たちと博学な歴史家たちを置きましょう。そしてすべてを見るために聖書を中央に置きましょう。さて、私があなたたちに言おうとすることに耳を貸さないでください - なぜなら、私はすでにあなたたちに、、私が私自身のために話すことを望んでいない、あるいは問題を決定することを望んでいないということをお話したからです。これらの偉大な精神の持ち主たちがあなたたちに告げなければならないことに耳を傾けてください。彼らは、人々が天国への道を踏み外すことがないように他の人々に光を与える、天主の教会における灯台です。このようにして、信仰、権威そして理性という三つの光によって導かれながら、われわれはこの重大な問題を確実に解決することができるでしょう。

最も有名な神学者たちは言っている

愛と同情にあふれたイエズスはわれわれに天国への道をお示しになっている。しかし多くの霊魂は邪悪さと悪魔の罠に巻き込まれ、地獄の深部へと下って行く悪魔の、人を惑わす道を辿る。

ここには全体としての人類の問題も、また区別なしのすべてのカトリック教徒の問題もないのであって、自由意志を持っており、そしてこのようにして彼らの救いにおいて協力することができるカトリックの成人の問題だけがあるということに十分注意してください。第一に、事柄を最も注意深く検討し、彼らの教えにおいて大げさに言わない者として認められている神学者たちに意見を求めてみましょう:二人の学識ある枢機卿たち、カエターヌスと(聖ロベルト)ベラルミンに耳を傾けてみましょう。彼らは、キリスト教徒の成人たちの大多数が地獄へ落とされると教えています。そしてもし彼らが自らをそれに基づかせている理由を指摘する時間が私にあったならば、あなたたちはそのことについてあなたたち自身で確信を持ったでしょう。しかし私はここではスアレス(偉大な神学者)を引用するにとどめます。すべての神学者たちに意見を求め、その問題について勤勉な研究をした後に、彼はこう書きました:「主張されている最も一般的な意見は、キリスト教徒の間では[救いへと]予め定められている霊魂たちよりも多くの地獄に落とされる霊魂たちがいる、ということである。」

ギリシャおよびラテンの教父たちはわれわれに教えている

神学者たちの権威にギリシャおよびラテンの教父たちの権威を加えてごらんなさい。そうすればあなたたちは、彼らのうちのほとんどすべての人々が、同じことを言っているということを見出すでしょう。これは聖テオドーレ、聖バシリウス、聖エフレムそして聖ヨハネ・クリソストムスの意見です。さらに、バロニウスによれば、この真理が聖シメオン・スティリテスにはっきりと示されたということ、そしてこのことが示された後に、彼が風雨にさらされて40年の間柱の頂上に立ちながら生活することを決心したのは彼の救いを確実なものとするためだったということをはギリシャ教父たちの間で一つの共通の意見でした。これはすべての人にとって痛悔と聖性の一つの模範です。今度はラテン教父たちの意見を求めましょう。あなたたちは次のようにはっきりとものを言う聖グレゴリオを聞くでしょう:「多くの人々は信仰にまで達するが、しかし天国にまで達する人はほとんどいない。」聖アンセルムスはこう宣言しています:「救われる人はほとんどいない。」聖アウグスティヌスはもっと明瞭にこう述べています:「それゆえに、地獄に落とされる人に比べて救われる人はほとんどいない。」しかしながら、最もすごいのは聖ヒエロニムスです。彼の生涯の終わりに、弟子たちのいるところで、彼は次のような非常に恐ろしい言葉を語っています:「その生活が常に悪かった100万人の人々の中から、あなたは免償に値する人をかろうじて一人見出すであろう。」

聖書の言葉

しかし、聖書が問題をそのように明確に述べているときに、教父たちや神学者たちの意見をどうして探し求めるのですか?旧約、新約聖書を見てごらんなさい、そうすればあなたたちはこの真理:すなわち、非常にわずかの人しか救われない、という真理を明確に指摘している多くの表象、象徴そして言葉を見出すでしょう。ノアの時代に全人類は大洪水によって沈められ、そしてただ8人の人々だけが箱船の中で救われました。聖ペトロはこう言っています:「この箱船は教会の象徴であった。」一方で聖アウグスティヌスはこうつけ加えています:「そして救われたこれら8人の人々は非常に少数のキリスト教徒たちが救われるということを象徴していた、なぜなら、世間を断念する人はごく少数しかいないからである、そして世間を言葉においてだけ断念する人々は箱船によって表された神秘には属していない」と。聖書はまたわれわれに、200万人の中からただ2人のヘブライ人だけがエジプトを出た後に約束の地に入った、そしてただ4人だけがソドムの火とそれと共に滅びた他の燃える諸都市から逃れた、と告げています。このすべてのことは、わらのように火の中へ投げ入れられるであろう地獄に落とされる人々の数は天の御父がいつか、貴重な小麦のように御自分の納屋の中へと集められるであろう、救われる人々の数よりもはるかに多い、ということを意味しています。

イエズスの言葉

それによって聖書がこの真理を確証するすべての比喩をもし私が指摘しなければならないとすれば、私の話は終わらないでしょう。受肉された知恵そのものの生きた神託を聞くことで満足することにしましょう。われらの主は、次のように尋ねた福音書の中の好奇心の強いある人に何とお答えになったでしょうか?「主よ、救わるる人は少なきか?」主は沈黙を守られたでしょうか?主は躊躇してお答になったでしょうか?主は群衆をぞっとさせることを恐れて御自分の考えを隠されたでしょうか?いいえ。ただ一人の人によって質問されて、主はそこにいるすべての人々に言葉を向けられます。主は彼らにこう言われます:「汝われに救わるる人は少なきかと尋ぬ。これわが答なり:狭き門より入ることを努めよ、けだし、われ汝らに告ぐ、多くの人入ることを求むべけれども、しかもあたわざるべし。」ここで話しておられるのは誰でしょうか?それは天主の御子、永遠の真理であり、その方は他の機会にもっとはっきりとこう言っておられます:「多くの者呼ばる、されど選ばるる者少なし。」主はすべての者が呼ばれる、そしてすべての者の中から少数の者が選ばれるとは言っておられず、多くの者が呼ばれると言っておられます。そのことは、聖グレゴリウスが説明しているように、すべての人々の中から多くの人々が真の信仰へと呼ばれているが、しかし彼らのうちから少数の者が救われるということを意味しています。兄弟の皆さん、これらはわれらの主イエズス・キリストの言葉です。それらは明らかでしょうか?それらは真実です。ところで、あなたにとってあなたの心のうちに信仰を持ちそして震えないことが可能であるかどうか、私に言ってください。(続く)


ファチマ・クルーセイダー

2012年12月20日 | Weblog
第二バチカン公会議および新しいミサに対して警告された秘密

ファチマ・クルーセイダーのポール・クレイマー神父との独占的インタビュー

The Fatima Crusader Issue 92, May 2009 より

質問:オッタヴィアーニ枢機卿とは誰ですか?そして彼はファチマの第三の秘密について何を言ったのですか?

[クレイマー神父]アルフレド・オッタヴィアーニ枢機卿は検邪聖省[聖務聖省]の長官でした。そして同時に、検邪聖省はローマ聖庁の中でも抜群の聖庁でした。彼は正統性に関して宣告する人でした。また、彼は諸々の御出現の最終的な承認あるいは不承認に対する司法権を持っていました。彼はアントニアーヌムで彼が1967年に行った演説の中で、ファチマの第三の秘密は一枚の紙に書かれていると述べました。

質問:チアッピ枢機卿とは誰ですか?そして彼はファチマの第三の秘密について何を言ったのですか?

[クレイマー神父]マリオ・ルイジ・チアッピ枢機卿は教皇パウロ六世によって枢機卿とされたドミニコ会の司祭でした。彼はパウロ六世、ヨハネ・パウロ一世の下で、そして教皇ヨハネ・パウロ二世の在位期間の初期に、教皇付きの神学者でした。チアッピ枢機卿はバウムガルトナー教授宛の彼の手紙の中で、第三の秘密において、他のこともいろいろあるが、教会において大きな背教がトップのところで始まるであろうということが明らかにされている、と述べました。

質問:チアッピ枢機卿が真理を語っているということはあり得るでしょうか?「背教」は強すぎる言葉ではありませんか?

[クレイマー神父]教会の中に背教があり得る、あるいは教会の中に大背教があり得るという考えに何らかの困難を見出す何人かの人がいるということを私は知っています。ある人々は[背教という]その言葉がやや強いと考えているように思われます。

しかしながら、聖パウロにとっては、この言葉を用いることは強すぎるものではありませんでした。なぜなら、彼は、罪の人、アンチ・キリストの到来の前に、この大きな堕落、大背教があるであろう、ということを予告した人だからです。

それゆえ、ファチマの聖母が教会におけるこの背教について警告なさったことは驚くべきことではありません。なぜなら、このことは偉大な使徒自身、聖パウロによって聖書の中に正式にのべられた教えであるからです。

質問:聖母は、キリストのしみなき花嫁である教会それ自身が背教の時代に入るというようなそのような主張を決してなさらないであろうと言う人々にあなたはどのように答えますか?

[クレイマー神父]キリストの花嫁である教会が背教の時代に入ることができるというこの考えに困難を見出す人々に対して、私は、われらの主イエズス・キリストが次のように言っておられる、と答えます:すなわち、「見よ、私はあなたたちに予めこれらの事柄のすべてを告げておいた」と。神のみ言葉をわれわれはどのように疑問視することができるでしょうか?教会が、キリストの神秘体として、経験しなければならない苦しみは、例えば[旧約聖書の]哀歌の中に、預言的に書かれています。それは再び預言者ダニエルの書そして黙示録の中に書かれています。そこでは、われわれは大背教と信徒の残りの大迫害があるだろうということ、そして神が選ばれた者が保たれるように、彼らの信仰において彼らを保たれるであろうということを見ます。

質問:あなたはファチマの第三の秘密と新しいミサの導入との間に関連を見ますか?

[クレイマー神父]ファチマのシスター・ルチアはファチマのメッセージに関連して教会の中に悪魔的な方向感覚喪失が起こるでしょうと言いました。そして、見かけ上カトリック的な典礼の中に異質の諸原理を神聖なものとして大事にする一つの典礼革命をもたらすことができるそれ以上のものはありません。

実を言うと、悪魔的な方向感覚喪失の問題にはより大きな実質があります。私はこれまで明らかにされてこなかったファチマの第三の秘密の部分のことを言っているのです。私はこれが事実であるということを知っています。というのは、私はベネディクト教皇の長年の親友である一人のドイツ人神学者で神学校校長と個人的に話したからです。

カリフォルニア州ロスアンジェルスにおいて開催されたファチマ・センターの大使会議で講演を行うポール・クレイマー神父

ベネディクト教皇がまだラッツィンガー枢機卿であった1990年頃、彼は友人に、ファチマの第三の秘密の中で、聖母が典礼を変えないように、すなわち、文字通りには、カトリック典礼の中へ異質の無関係な諸要素を混合しないように、警告なさっている、ということを明らかにしました。

ジョゼフ・ゲリノー神父はミサの新しい典礼の立案者であるアンニバル・ブニーニ大司教の腹心でした。ゲリノー神父とブニーニ大司教は二人とも、ノーヴス・オルド・ミサは一つの新しい創作品である、ミサの古い典礼、ローマ典礼は破壊されてしまったということをはっきりと述べました。教皇パウロ六世は1969年11月に彼のミサはミサの新しい典礼であろうと告知されました。

それゆえ、新しい典礼 - ノーヴス・オルド典礼 - 何らかの仕方でローマ典礼の一つの改訂であり継続であるとうことには何の問題もないのでしょうか。そうではありません。それはカトリック典礼の伝統との断絶です。

それゆえに、ファチマの聖母は第三の秘密の中で、典礼におけるとりわけこの種の変更をしないように警告なさいました。にもかかわらず、教皇パウロ六世は先へと進み、とにかくこれらの変更を行われました。

聖母はまた、大きなスキャンダルを引き起こすであろう教会における悪しき公会議があるでしょう、と警告なさいました。そしてもちろんのこと、それは第二バチカン公会議からの諸文書 - 典礼憲章 - でした。それは教皇パウロ六世に対して、教会におけるそのような信仰の喪失と混乱とを引き起こしたそのような破滅を招く仕方において典礼を改革する刺激を与えました。

それゆえ、われわれは、これらの警告が、教皇パウロ六世がミサを変えられたまさにその仕方でミサを変えないようにとファチマの第三の秘密の中で聖母によって与えられたのだと、一人の親密な個人的友人に述べておられるラッツィンガー枢機卿を、持っているのです。

ところで、このことが起こった後で、私が言及しているそのドイツ人神学者は彼が校長をしていた南米の国に帰りました。そして彼は一人の若い司祭に、ラッツィンガー枢機卿が彼に話したことを説明しました。そして彼が、聖母はミサを変えることに対して警告なさり、また教会において一つの悪しき公会議があるでしょうと警告なさったまさにそのときに、彼らは二人とも、床から羽毛のような煙が立ち上るのを見ました。ところでそれは大理石の床でした。これは自然的な現象の何らかの事柄ではあり得ませんでした。若い司祭と歳をとった校長は二人とも非常に強い印象を受けたので、彼らは一見書類を作成し、そしてそれをラッツィンガー枢機卿のところへ送りました。

それから、2000年6月26日に、ラッツィンガー枢機卿は世界に対して、秘密全部がこの文書の中で述べられていると主張する、「白い衣装を身につけた司教」の幻視を含んでいる[第三の秘密に関する]文書を公表されました。しかし、われわれが、彼は一つの心的留保を用いておられると言うときにのみ、それは理解され得ます。すなわち、聖母によってその御言葉のうちに述べられていることはすでに暗黙のうちに、その幻視において象徴的に含まれているのです。

ラッツィンガー枢機卿の長い間の個人的な友人であるその年配のドイツ人司祭は、第三の秘密のこの幻視が公表されたとき、それは、あれらの事柄、ラッツィンガー枢機卿がおよそ10年前に彼に明らかにされた第三の秘密のあれらの要素を含んでいなかったという事実を書き留めました。そのドイツ人司祭 - デリンガー神父 - は私に、彼の疑問は彼がラッツィンガー枢機卿と共同司式をした日に彼の心の中に燃え上がったと、語りました。デリンガー神父は私にこう言いました:「私はラッツィンガー枢機卿と面と向かい合いました。」そしてもちろん彼はラッツィンガー枢機卿に尋ねました:「どうしてこれが第三の秘密全体であり得るのですか?あなたが以前に私に語ったことを覚えていますか?」

ラッツィンガー枢機卿は心配そうでした。彼は何と言うべきかを知りませんでした。そしてそれゆえ彼はドイツ語で彼の友人にうっかりこう言いました。「Wirklich gebt das der etwas」その意味はこうです。「実際そこにはなにかそれ以上のことがあります。」これは、第三の秘密には何かそれ以上のことがある、ということを意味しています。枢機卿はこのことをまったくはっきりと述べられたのです。

質問:これは驚くべき話です。デリンガー神父は信用できる証人ですか?

[クレイマー神父]私はこのことをすっかり言うことができます:すなわち、われわれは一人の年配の司祭、ベネディクト教皇の長年の個人的な友人、ピエトレルチーナの聖ピオ[パードレ・ピオ]の長年の個人的知り合い、について話しています。事実、彼は私に、自分は58回もパードレ・ピオに告解に行ったと語りました。この人は多年にわたって南米の神学校の校長であり、高く評価された人間、教会において大きな名声を持っている人です。

私はまた、彼が働いていた司教区において、私が第三の秘密について言ったこと、ラッツィンガー枢機卿が彼に明らかにしたこと、はこの人物が校長であった時に神学生や助祭であった若い司祭達の間では共通の知識だったと、指摘してもよいでしょう。彼らは皆、ラッツィンガー枢機卿が彼に話した話を知っています。

私が述べたように、彼らは一緒に一件書類を作成し、それをラッツィンガー枢機卿のところへ送りさえしたました。それゆえ、彼は信用に値する大きな信頼性をもった人物です。彼は、架空の物語を作り上げたり、あるいは尊大さを誇張したりすることをしない非常に真面目な人物です。その人はそのような事柄を必要としませんでした。彼は最も信用のできる人物です。

ファチマ・クルーセイダー

2012年12月19日 | Weblog
天の元后喜び給え!アレルヤ!(続き)

The Fatima Crusader Issue 92, May 2009 より

ニコラス・グルーナー神父、B.Comm., S.T.L., S.T.D.(Cand.)

一つの希望に満ちたしるし

そのような情報は、彼らがファチマ・メッセージをほんの僅かでさえ真剣に受け取っていたと私は考えていなかったがゆえに、ある仕方で一つの希望に満ちたしるしである。しかし驚いたことに、枢機卿国務長官[ベルトーネ枢機卿]は実際にロシア正教会総主教に彼らが問題にするかどうかを尋ねたのである。

われわれが30年間にわたって置き去りにされていた荒廃した時代を考慮に入れて、一人の大司教が直接私に次のように語ったということを考慮に入れて、彼ら(バチカン)がそのことについて実際に考えているということは希望の一つのしるしである。

「グルーナー神父、あなたは荒野に叫ぶ一つの声です!私はあなたのために打席に立つために行こうと努力しました。私はバチカンにおける非常に高位の役職者たち(大司教たちと枢機卿たち)に話しました。そして彼らは聞くことを望まないのです。」

少なくとも一人の司教はそれは私、グルーナー神父ではないということを認めた。彼は私がしているすべてのことはファチマのメッセージを繰り返すことであるということを認めた。しかし彼らは私に耳を貸すことを望んでいない。

明らかに多くのバチカン高官たちは私の名を聞くことさえ望んでいない。彼らは、何らかの仕方でトラブルがただ行ってしまうことを望みながら、頭を砂の中に潜らせているダチョウのようになんとかしてなったのである。

私は単なるメッセンジャーである。私は扱いにくい者[the problem]ではない。問題は罪の重さ、信頼のおける司祭たち、司教たち、枢機卿たちの間に、バチカンにおいてさえ、- ことによると教皇の職務にも触れさえする - 進行している大きな背教である。教皇もまた、他のすべての人間以上にファチマの聖母に従う必要があるとは考えておられない。

唯一の脱出の道

ただ一つの脱出の道がある。それはロシア奉献の道である。しかし多くの人々にとって、そのことは一つの誇張のように見えるかもしれない。ファチマの聖母に献身していると主張する人々でさえ、もしファチマの聖母に直ちに従わないならば、数十億、すなわち、非常に多くの人々が永遠にわたって地獄に堕ちるであろうとわれわれが言うとき、われわれは誇張しているのだと考える。それは今日生きている人々、あなたが知っている人々、ことによるとあなたの家族の一人ひとり、ことによるとあなたが街で、あるいはあなたの仕事場で、あるいはあなたの小教区教会で出会う一人ひとりである。数十億人の霊魂である!彼らは、そのようなことをわれわれはどのようにして言うことができるのか、とわれわれに尋ねる。ある司祭たちはそのような発言によって憤慨をかっている。現在生きていて、永遠にわたって地獄に行く数十億の霊魂の喪失は、ロシアの奉献がごく近いうちになされないならば、そしてなされない限り、あるいは少なくとも第三の秘密がごく近いうちに完全に公表されない限り、非常にありそうなことである。

そのようなことをわれわれはどのようにして言うことができるのか?まず第一に、もし秋田のメッセージが天主からのものであるならば(そしてラッツィンガー枢機卿はそれが信じるに値するものであると言われた)、そしてもしそれが人類の大部分が来るべき懲罰の中で死ぬであろうとわれわれに告げているならば、そのことは少なくとも三十億人の人々、少なくとも世界人口の半分が死ぬであろうということを意味している。

ところで、唯一、聖、公、使徒伝承の教会の外では、誰も救われることはできないということはカトリック信仰の一つの教義であるから、救われことができる唯一の人々はカトリック教徒であるということが帰結する。そこでもしすべてのカトリック教徒がこの懲罰において死んだならば、突然死ぬであろうカトリック教徒ではない他の人々がなお二十億人いることになるであろう。

永遠にわたって来るべき懲罰において数十億人が地獄に落とされるということは非常に信じがたいことである。しかしもしあなたが[この号の]p.12 にあるポート・モーリスの聖レオナルドによって書かれた論攷「救われる人々の小さな数」を読まれるならば、あなたは、彼が他の多くの聖人たちと共に、成人のカトリック教徒の大部分は、彼らが自分たちの罪を痛悔しないがゆえに、あるいはよい告解をしないがゆえに、彼らが全然告解に行かないがゆえに、そして彼らが神の律法を守らないがゆえに、永遠にわたって地獄に落とされると主張しているのを見るであろう。

われわれが街で、仕事の実践において、新聞においてわれわれの周りに見ていることを眺めると - 不道徳、殺人、その多くの形式における罪が公的領域において、教会においてさえ、称賛され、正当化され、そして擁護されている。

背教のこの時代に、ポート・モーリスの聖レオナルドの時代よりももっと多くの霊魂たちが救われるということがどのようにして可能であり得るのか?

それゆえ、われわれ一人ひとりにとって、まず第一に、われわれ自身の救いに注意することはよいことである。われわれはまた、われわれの友人たち、親族たち、隣人たち、司祭たちそして司教たちそしてわれらの教皇の他の多くの人々を救うために、彼らのために祈ることによって、彼らのために犠牲することによって、われわれ自身の救いそして次に彼らの救いを確保するためにわれわれができるすべてのことをすることによって、われわれができるすべてのことをしなければならないのである。聖ヤコブはわれわれに天主に近づくように、そうすれば天主はあなたに近づかれるであろうと告げている。

聖ペトロはこう言っている:「されば兄弟たちよ、汝らの召されしこと、選まれしことを善業をもっていよいよ固うするに努めよ、もし汝らこのことをなすならば、汝らいつも罪に陥ることなかるべし。」(ペトロ後書1:11)それが、私があなたに聖レオナルドの論攷を読むように勧める理由である。

私はまたあなたに、しばしばそして熱心にあなたのロザリオを祈るように、そして罪人たちのために祈りそして犠牲をするように、勧める。われらの主はファチマで子どもたちに、多くの霊魂たちは彼らのために祈り、あるいは彼らのために犠牲をする人が誰もいないがゆえに、地獄に行くだろうと告げられた。

やる気を失ってはいけない

あなたの霊魂を救うことの諸々の困難、道の険しさにやる気を失わないようにしよう。われらの主はシスター・ルチアに、人々が罪滅ぼしという言葉を聞くとき、彼らのうちの多くの者がやる気を失うようになる、と言われた。われらの主は、福音書の中でわれわれにこう告げておられる:「あなたたちがもし罪滅ぼしをしないならばあなたたちは皆同じように滅びるであろう。」それゆえわれわれはすべて年中金曜日に肉を慎むという罪滅ぼしに加えて、罪滅ぼしをする必要がある。教皇パウロ六世が次のように言われた時でさえ、そうである:

「もしその国の司教会議があなたたちに金曜日に肉を食べることを許可したならば、もしあなたたちがそうするならば、あなたたちは金曜日には他の罪滅ぼしを代わりに行わなければならない。」

それにもかかわらず、それよりももっと大きななすべき罪滅ぼしがある。

この点に関してシスター・ルチアはこう書いた:「よき主は御自身がなだめられることを許しておられます。しかし主は、主の律法の遵守が彼らに要求するものを何であれ喜んで断念する、主の恩寵のうちにある霊魂の数の少なさについて辛辣にそして悲しそうに不満をもらしておられます。」

シスター・ルチアはまた1943年の四旬節に、この主題に関してグルザの司教にこう書いた:

「これはよき主が今お求めになっている罪滅ぼしです:すなわち、すべての人が自分自身に課さなければならない犠牲は主の律法の遵守において正義の生活を送ることです。主は、この道が霊魂たちに知られるように要求しておられます。なぜなら、多くの人々は、『罪滅ぼし』という語が大きな禁欲生活を意味すると考え、彼ら自身のうちでこれらの生活に対する力あるいは寛大さを感じずに、熱意を失い、生ぬるさと罪の生活のうちにとどまっています。」

「先週の木曜日、真夜中に、上長の許可を得て礼拝堂にいました間に、われらの主は私にこう言われました:『すべての人に要求されている犠牲は生活における各自の諸々の義務を果たすこと、そして私の律法を守ることである。これが私が今求めている罪滅ぼしである。』」

われらの主は個人的にお出来になるすべてのことをなされた。主はご自分にお出来になる限りのことを苦しまれた。主は御自分の御母に、御母にお出来になる限り苦しむことをお許しになった。それはわれわれのためにできる限り多くの功徳を得るためであり、われわれが自分たちの霊魂を救うことをできる限り容易にするためであった。しかしわれわれはわれわれの役割を果たさなければならない。われわれは、単純に罪を犯すことを続け、われわれの義務を果たさないことを続け、愛徳的でないことを続け、言葉と行為において、われわれの家族、われわれの友人たち、われわれの仕事仲間たち、われわれの隣人たち、われわれの仲間の小教区民たちに対して正義においてわれわれの諸々の義務を果たさないことを続けることはできない。われわれは天主の十戒に従わなければならない。われわれはわれわれの罪のために償いをしなければならない。そしてわれわれにできる程度に応じて、ファチマのメッセージを促進しなければならない。これは一つの手段である。天主が人類にお与えになった唯一の手段 - 戦争を避けるため、絶滅を避けるため、奴隷化を避けるため、われわれの頭上に覆い被さっている大懲罰を避けるため、すでにわれわれの間で始まった、そして毎日力を獲得しつつある大背教を避けるため、もしわれわれがそれを止めないならば、聖書がわれわれに告げているように、3年半(42ヶ月)の間われわれの時代にアンチ・キリストの支配へと導くであろう大背教を避けるための - 唯一の手段である。

どれくらいの時間が残されているのか?

われわれはどれくらいの時間を持っているのか?そうだ、われわれのうちのある者にとって、そしておそらくわれわれすべてにとって、われわれは1年以上は持たないであろう。例えば、今日世界には4,700人のカトリック司教がおられる、それでも今から12ヶ月先には彼らのうちの多かれ少なかれ110人が亡くなられ、その報いを受けに行かれるだろう。他の司教たちはその地位を保たれるであろうが、しかし彼らにとってその時間は終わるだろう。彼らは間に合うようにロシアの奉献をもたらすために彼らができるすべてのことをなされなかったことに対して非常に重い精算を課されることになるだろう。

しかしこのことは司教たちにだけ当てはまることではない。それは同様にわれわれ一人一人に当てはまる。私はどれほどの時間を持っているか?あなたはどれほどの時間を持っているか?そしてわれわれは皆全部でどれほどの時間を持っているか?ただ天主のみが知り給う。それは1年より少ないかもしれないし、10年より少ないかもしれない。われわれはフランスの王が、彼と数百万人のフランス人を殺すフランス革命を妨げるためにその日までに100年を与えられたということを知っている。(1917年以来すでに90年が過ぎ去った。)彼は、荘厳で公的な仕方でイエズスの聖心に彼の国を奉献するようにというイエズスの命令に単純に従うことによってそれを妨げることができたのであった。彼はそうしなかった。残りのことは歴史である。しかし今日に至るまで、フランスとヨーロッパそして世界は、フランスの王が従うことを拒んだがゆえに、フランス王の聴罪司祭が事実上彼に従わないようにけしかけたがゆえに、苦しんでいる。

天主は彼らが今日どこにいるかを御存知である。しかし、もし教皇と司教たちが間に合うようにロシアを奉献することに従わないならば、もっと悪い、ずっと悪いことになろう。彼らにとってもっと悪い、全世界にとってもっと悪い。しかしまた、われわれがわれわれの手に解決を持っているということを知り、そしてそれについて何もしないわれわれにとってはもっと悪いであろう。われわれは自分たち自身でそれをすることはできない。しかしわれわれはそれについて他の人々に告げることができる。われわれはそのために祈り犠牲を捧げることができる。そしてわれわれは、権威のうちにある人々、ロシアの奉献をもたらすために彼らができるすべてのことをする影響力を持っている人々を勇気づけることができる。

なぜわれわれはこの重荷を負っているのか?

あなたはなぜこの重荷を負っているのか?それはわれらの主と聖母がそれをあなたにお与えになったからである。なぜ私はこの重荷を負っているのか?同じ理由でそうなのである。

われらの主があなたのために天主の御意志を受け入れるために御自分の十字架を抱きしめられたように、祝せられたおとめマリアが天主の御母、悲しみの御母、救世主の御母であること、そしてそのことが含んでいたすべての苦しみを受け入れられたように、あなたがあなたの十字架を抱きしめるためにできるすべてのことをするために、あなたはあなたのために置かれたあなたの義務を果たすようにと、私があなたに勧める理由はそれである。

われわれのうちのある人は、ローマにいるあの枢機卿たちと同じように、バチカンにいるあの司教たちと同じように、「私は何をすることができるか?」、「私は何もすることができない」と言うことができるか?いいえ、できない!われわれ一人ひとりは、何かをすることができる。われわれ一人ひとりはもっと多くのことをすることができる。私はただ一人の人間である。私はあらゆることをすることはできない、しかし私のできることを私はするつもりである。そしてもしわれわれ一人ひとりがわれわれのできることをするならば、われわれはこのことを変えることができる。われわれはそのとき、聖母の功績と恩寵とをもって、われわれはマリアの汚れなき御心の勝利をもたらす手助けをした、世界平和をもたらし、諸民族の絶滅を回避し、そして数十億の霊魂の喪失を回避するためにわれわれの役割を果たした、と言うことができる。

非常に多くの人々にとって永久に遅すぎることになる前に、間もなくマリアの汚れなき御心が勝利せんことを。