けれど(Credo)

I:キリシタン信仰と殉教 II:ファチマと現代世界 III:カトリック典礼、グレゴリオ聖歌 IV:「聖と俗」雑感

ぱあてるのすてる(3)

2006年05月31日 | Weblog
 「されば汝ら、かく祈るべし。天にましますわれらの父よ、願わくは、み名の聖とせられんことを、み国の来らんことを、み旨の天に行なわるるごとく地にも 行なわれんことを。われらの日用の糧を今日われらに与え給え。われらが、おのれに負債(おいめ)ある人を許すごとく、われらの負債をも許し給え。われらを 試みに引き給うことなく、かえって悪より救い給え、アーメン。」(マテオ6:9-13)

 どちりなきりしたん:御代きたりたまへ。此こころはあくじとつみをのがれ、でうすとその御子ぜずきりしとよりげんぜ(現世)にをひてはがらさ(Graca=聖寵、恩寵)ごしやう(後生)にをひてはごらうりや(Gloria=栄光、光栄)をもてわれらをしんだい(進退)したまへといふぎなり。

 Adveniat regnum tuum: み国、御代と言われている regnum tuum は kingdom of heaven 天国のことである。洗者聖ヨハネが荒野で「汝ら改心せよ、天国は近づけり」(マテオ3:2)と叫び、キリストが真福八端の一つとして「幸いなるかな、心の 貧しき人、天国は彼らのものなればなり」(マテオ5:3)と言われた天国である。そのみ国、御代が来ますように祈れとぱあてるのすてるの第二の部分はわれ われに告げているのである。われわれはこの世でさまざまのものを願い求めるが、キリストは「汝らも何をか食い、何をか飲まんと求むることなかれ、また大望 を起こすことなかれ、けだし世の異邦人は、このいっさいのものを求むれども、汝らの父は汝らのこれを要するを知り給えばなり。されは、まず神の国と、その 義とを求めよ、さらばいっさいのものは汝らに加えらるべし」と諭された。

 神の国とはこの世にあってわれわれが悪と罪から解放されるために必要ながらさ・恩寵を豊かに受けて神的生命のうちに生きられる世界であり、死して天国において神のごらうりや・光栄が完成される世界である。凱旋の教会 Ecclesia triumphans (天国)に入るためにわれわれはこの地上では悪・罪と戦う教会 Ecclesia militans の一員でなければならい。


ぱあてるのすてる (2)

2006年05月30日 | Weblog
 「されば汝ら、かく祈るべし。天にましますわれらの父よ、願わくは、み名の聖とせられんことを、み国の来らんことを、み旨の天に行なわるるごとく地にも 行なわれんことを。われらの日用の糧を今日われらに与え給え。われらが、おのれに負債(おいめ)ある人を許すごとく、われらの負債をも許し給え。われらを 試みに引き給うことなく、かえって悪より救い給え、アーメン。」(マテオ6:9-13)

 どちりなきりしたん:てんにましますわれらが御おや御名をたつとまれたまへ。

 第一は御名をたつとまれ玉へと、此こころはでうすのみなと、御ほまれせかいにひろまり、一さいにんげんの御あるじでうすと、その御子御あるじぜずきりしと見しり奉り、うやまひとつとひ奉るやうにといふ心也。

 キリストが弟子たちに教えられた主の祈りの最初の部分は、ラテン語では Pater noster qui es in caelis であり、ぱあてる、父、御おやで始まっている。威厳と力強さを示す創造主、造物主という言葉ではなく、ぱあてる、 御おやという信頼と愛を呼び起こす言葉である。創造主なる神は他のすべての被造物とは異なるものとして人間を愛して御自分に似せて創造なさり、神の子とな さった。それゆえに神は正当に人間の父と言われるのである。神はすべての人間を御自分の愛子となさり、そのために父としての特別の配慮をなさる。 Providence 神の摂理とは神がすべての人間に対して特別に備え provide、示される配慮のことである。人祖アダムとエヴァは神の命令を無視し、禁令を破った。その結果として楽園から追放された。しかしそれでもな お「主なる天主は、アダムとその妻とに、皮衣を作りて着せ給」うたと創世記が録しているように、人間をお見捨てにならなかったのである。神は正義を貫徹な さるが、それだけではなく愛の手を人間に差し伸べられる。そのことは贖い主であるキリストを後にこの世にお遣わしになったことを見ても明らかである。神は 放蕩息子が財産を使い果たして帰宅した時に喜んで迎え牛をほふって宴会の準備をするよき父である。

 ぱあてるのすてる:われらが御おや:神は「われ らの」父である。つまり、われわれは神の子としてお互いに兄弟である。人間は兄弟愛、隣人愛に目覚めるべきであるということがこの「われらが御おや」とい う呼びかけによって示されれている。自分のために祈る人よりは他者のために祈る人を神はお喜びになるということを「われらの父よ」という祈りは示してい る。


ぱあてるのすてる

2006年05月29日 | Weblog
どちりなきりしたん 第三 ぱあてるのすてるの事 

「されば汝ら、かく祈るべし。天にましますわれらの父よ、願わくは、み名の聖とせられんことを、み国の来らんことを、み旨の天に行なわるるごとく地にも行 なわれんことを。われらの日用の糧を今日われらに与え給え。われらが、おのれに負債(おいめ)ある人を許すごとく、われらの負債をも許し給え。われらを試 みに引き給うことなく、かえって悪より救い給え、アーメン。」(マテオ6:9-13)

  これは主キリスト御自身が弟子たちに教えられた祈り(おらしよ)であるがゆえに主祷文・ぱあてるのすてると 言われる。祈りとは神に心を挙げて神を賛美し、御恩を感謝し、罪の赦しと御恵みを願うために神に語りかけることである。神の被造物である人間は神に祈りを 捧げる義務があり、祈ることは神の御命令である。救霊を得るために最も必要なものである。キリスト御自身が御父に絶えず祈りを捧げられたその模範にならっ てわれわれはこの祈りを真剣に御父なる神に捧げなければならない。

 われわれは祈ることによって神に栄光を帰す。われわれは神の前に身を屈め、われわれ人間が神に従属していることを告白する。祈りは神がすべての善きもの の創造者であることを謙遜に認め、宣言する行為である。神はわれわれが最終的に希望を置くことができる方、われわれの唯一の避難所、われわれの永遠の救い の砦である。その方に栄光を帰し、賛美し、祈願することは人間として当然の義務であり、祈りを通してわれわれは神からの恵みを得ることができる。キリスト は「願え、さらば与えられん、探せ、さらば見出ださん、たたけ、さらば開かれん」(ルカ11:9)と言われた。祈りは天に通じる鍵である。人間の祈りは天 へ昇り、神の憐れみが地にくだる。

 どちりなきりしたんにおいて師は神が直接に人間に与え給う三つの善として、「ただしくしんじ奉るためのひいです(Fides=信徳)、よくたのみた奉るためのえすぺらんさ(Esperanca=望徳)、身もちをよくおさむるためのかりだあで(Charidade=愛徳)」を挙げている。ぱあてるのすてるおらしよは この第二の徳、すなわちよくたのみ奉るために肝要であると弟子に教えている。しかし一般的に言えば、祈りは三つの徳を育て強める。神を信じない人は正しく 祈ることができないし、逆に祈ることによって神に対する信仰を得、強めることができる。祈りはわれわれがますます神に信頼し、希望するようにその力を与え てくれる。われわれに永遠の生命とそれを得るための恩寵、恵みを神が必ず与えてくださるという望みを強める力を祈りは持っている。そしてあらゆる善とあら ゆる祝福の与え主である神を愛する心を祈りは涵養する。


まんだめんと 第九および第十

2006年05月28日 | Weblog
 どちりなきりしたん第七 十のまんだめんとす(Mandamentos=掟、戒律、十戒)

第九および第十のまんだめんとす:たのつまをこひすべからず。たもつをみだりにのぞむべからず。

 「汝隣人の家を貪るなかれ。またその妻をも、その僕婢をも、その牛、驢馬をも、そのすべての所有物をも、望むなかれ。」(出エジプト記20:17)。

  どちりなきりしたん:他人のつまをこひせず、そのほかれんぼにあたる事をのぞむべからず。いんらんのまうねんにくみせず、又はそれによろこび、しうぢやくする事もあるべからず。他人のざいほうをみだりにのぞむべからず。

 これら最後の二つの掟は妻であれ、財産であれ、他人のものをむやみに欲しがってはならないという禁令である。自分の欲望に制限を設けないで、みだりに他 人のものを欲しがる者は神から自分に与えられた分を弁えず、与えられたものに対して神に感謝することを知らない。悪しき欲望はあらゆる悪の根である。第九 戒と第十戒は、第六戒と第七戒に関連している。第六戒と第七戒が破られるのは第九戒と第十戒がすでに犯されているからである。人間の外的行為、行動は夢遊 病的になされるのでない限り、行動に移される前にすでに心の中で悪しき欲望が肯定され、その実行の機会を狙っているわけである。

 原罪を否定し、性善説を主張する人々はなぜ人間の中に悪しき欲望が潜んでいるのか、罪を犯す行動に走るのかを説明することができない。人間は原罪によっ て罪への傾向を生まれつき持っているのである。われわれはその事態を謙虚に認めて、神の助けなしにはこの根強い悪への傾きを克服することができないということを知るべきであ る。現代社会は人間中心に物事を考えて神の掟を無視し、他人の妻を恋することを罪とは認めないで美徳として賛美する。

 欲望は人間が生きて行くために神から与えられたものであるから、あらゆる欲望を悪の根であると考えるのは間違いである。正しく秩序づけられた欲望の満足 はしかし原罪によって歪められた。人間は自由意志を与えられているので、思い、望み、言葉、行動、怠慢によって、悪しき欲望を満足させようとして神の掟に 背く、これが罪である。原罪はすべての人に生来具わっている悪・罪への傾向であり、各人は正しい教育や信仰によってその傾向に抵抗しなければ、そして神の 恩寵が得られなければ罪に陥るのである。生まれながらに神によって備えられた良心も社会の風潮や両親の教育、学校教育によって正常に働かない。現代社会は マスコミや小説・映画・インターネット等を通じて人間の良心を麻痺させ、善悪の判断を誤らせる。人権、自由が野放図に主張されて、神の掟、教会の正しい教 えが嘲笑される。「天にましますわれらの父よ、...われらを試みに引き給わざれ、われらを悪より救い給え。アーメン。」

まんだめんと 第八

2006年05月26日 | Weblog
 どちりなきりしたん第七 十のまんだめんとす(Mandamentos=掟、戒律、十戒)

第八のまんだめんと:人にざんげんをかくべからず。 

 「汝隣人に対して偽証するなかれ。」(出エジプト記20:16)。

  どちりなきりしたん:人にざんげんをいひかけず、そしらず、人のかくれたるとがをあらはすべからず。しかりといへどもその人のとがをひきかへさすべき心あてにてつかさたる人につげしらせ申事はかなふなり、人のうへにじやすいせず、きよごんをいふべからず。

 舌の罪はだれもが犯す罪である。そしてこの罪は無数の悪の源となる。公教要理ではこの第八戒によって禁じられていることとして、裁判などで偽って不実を 申し立てる偽証、言葉・行いによって他人をだます虚偽、無実の罪を他人に負わせる讒言、ゆえなく他人の欠点や過ちを言い現す誹謗、十分な証拠なしに他人に 罪ありと信じる邪推などを挙げている。要するに舌によって他人を陥れ、名誉を傷つけることである。これらはいずれも真実、事実に反する虚偽によって他人に 害を与える行為であり、人間関係を破壊する罪である。十戒はつづめれば神を愛し、隣人を愛すべしという二つの掟になるが、第八戒は真実を曲げ、虚偽を申し 立てることによって、神と隣人の両者に対して不正を働くのである。

 嘘や欺瞞は神が真実にましますがゆえに、神よって憎まれる行為である。悪魔が神から憎まれるのは彼が真理そのものであられる神に反逆し、真理に敵対する 「嘘の父」となったからである。嘘をつく者は他人に損害を与えるだけでなく、悪魔に与して神に敵対する者となるのである。神を否認する人々はこの嘘や欺瞞 を最大の武器として利用する。もちろん嘘や欺瞞を単純に並べても誰からも信用されないので、嘘や欺瞞を真実・事実と巧みに混ぜ合わせるのである。共産主義 者たちは旧ソビエトにおいても現共産中国においても真実に代えて虚偽を武器とし人々を巧みに騙して支配し、歴史を改竄してきた。嘘は武器であると述べたの はレーニンである。虚偽を流し続けた新聞の名が「プラウダ」(真理)とは何たる皮肉か。

まんだめんと 第七

2006年05月25日 | Weblog
 どちりなきりしたん第七 十のまんだめんとす(Mandamentos=掟、戒律、十戒)

 第七のまんだめんと:ちうたうすべからず。

  「汝盗むなかれ。」(出エジプト記20:15)。

  どちりなきりしたん:他人のざいほうをなになりともそのぬしのどうしんなくしてとる事も、とどめをく事もあるべからず、人にもこれらの事をすすめず、そのかうりよくをもせず、そのたよりともなるべからず。

 他人の所有物を盗み、横領し、それに損害を与えることがこの掟によって禁じられている。神は、人間がこの世に生きていくために必ず物を所有しなければな らないことを保証するために、財産を正当に所有する権利をお与えになり、その所有権を侵害することをこの掟によって禁じられた。これは人間に対する神の無 限の愛の現れである。人間の存在・生存に対する侵害である殺人、社会を構成する正しい男女関係の侵害である姦淫が第五戒、第六戒によって禁じられ、そして この第七戒によって神がそれによってわれわれ人間の現世での生存・生活を保護なさる所有権の侵害である盗みが禁じられているのである。

 各人に各人のものをということが正義であり、その侵害の一つが盗みである。盗みの禁止は神の掟であるとともに自然法でもある。人間の社会を転覆させないためには各人に正当に属する物の所有を各人に確保する必要があり、どの社会でも盗みは犯罪とされている。

 神の掟はしかし実際の盗みだけではなくて、その意志や欲望をも禁じている。さらに七戒に背く盗みの罪は痛悔や告白だけでは不十分で、他人に与えた害を償う義務がある。つまり損害の補償、賠償、返還が必要である。

 盗みの禁止はしかし他人の所有物を盗むという行為ばかりでなく、インチキや嘘によって人に物を売りつけ損害を与える商行為にも適用される。これは詐欺的 商行為であって、盗みの罪に虚言の罪が加わっている。現代資本主義社会は拝金主義的であり、巧妙な形でこの第七戒に背く事例に満ちている。公務員の汚職・ 賄賂や企業の談合による不正所得は、個人に損害を直接与えないとしても、社会に大きな損害を与えるがゆえに、すべて盗みの罪である。


  

まんだめんと 第六

2006年05月24日 | Weblog
 どちりなきりしたん第七 十のまんだめんとす(Mandamentos=掟、戒律、十戒)

  第六のまんだめんと:じゃいんををかすべからず。   

 「汝姦淫するなかれ。」(出エジプト記20:14)。
 
 どちりなきりしたん:ことばしよさをもてなんによともにいんらんのとがををかすべからず、又はみづからをかす事もおなしとがなり。

  男と女が結婚して夫婦となり、お互いに忠実を尽くして共同生活を営むべきことは神の定め給うた掟であり、この第六戒はまず第一にその夫婦間 の正しいあり方を阻害する姦淫を禁止し、精神と肉身の清さを保つべきことを命じている。カトリック教会は婚姻を秘跡の一つとしており、「神の合わせ給いし もの、人これを分かつべからず」(マテオ19:6)というキリストの命令にあるように、その信徒に婚姻を結んだ夫婦が離婚することを禁じている。また「た れにても妻を出だして他にめとるは、これかの女に対して姦淫を行なうなり。また妻、その夫を捨てて他に嫁ぐは、これ姦淫を行なうなり」(マルコ10:11 -12)とも定められている。これは人が自由に改廃できる実定法ではなくて、自然法と神法によって禁止されていることである。そのような夫婦の間で終生そ の縁を聖なるものとし、互いに相愛し、欠点を忍び、貞操を守ることが命じられているのである。従って男女いずれにとっても姦淫は神の掟に対する重大な違 反、すなわち大罪である。この自然法、神法は今日近代国家において破られている。キリスト教国といわれる欧米においてさえ離婚を合法としない国はもうない のではないか?

  双方が結婚している場合の姦淫も一方が結婚しており他方が未婚である場合の姦淫も、未婚者同士の姦淫もすべてこの第六戒に反する大罪であ る。男女の性的結合はな神聖な婚姻関係においてのみ許されているにもかかわらず、今日の社会、大人たちは青少年が結婚の外で性的関係を結ぶことを罪だと考 えさせないようにあらゆる手段を使って努力している。性教育と称して結婚前の性的交渉の結果として生じる女性の妊娠を防ぐために避妊の仕方を教えるなどと いうことが公教育で行われているというようなことは現代社会がいかに堕落し、神の前に恐るべき罪を犯しているかを示している。これはもはや個人の罪ではな くて、社会の罪である。

  男女間の性的関係の乱れだけでなく、かつては異常とされた同性愛、同性結婚というような自然に反する罪が国家や州の法律によって合法とされ るという狂気の時代が到来している。旧約聖書の時代からソドム・ゴモラの町においてこのような罪が犯されたという例はあったが、それらは大罪とされ神の怒 りを蒙って町全体が火で焼き尽くされた。しかし、国家が法律によってこのような反自然的な関係を公認し、一般の人々も嫌悪すべきこととしてではなく、人権 の名のもとにそれらを擁護するというような時代は歴史上初めてのことである。神の掟、自然の法を蹂躙して人権を主張する現代社会。神よ、われらを悪より救 い給え!

まんだめんと 第五

2006年05月23日 | Weblog
 どちりなきりしたん第七 十のまんだめんとす(Mandamentos=掟、戒律、十戒)

第五のまんだめんと:人をころすべからず。 

 「汝殺すなかれ。」(出エジプト記20:13)。

  どちりなきりしたん:人にたいしてあたをなさず、がいせず、きずをつけず、此等の悪事を人のうへにのぞまず、よろこばざるをもてたもつ者也。ゆへいかんとなれば人はみなでうすの御うつしにつくり玉えばなり。

 この掟は神の似姿として造られた人間、神の子としてすべてが同胞である人間について定められた掟である。どちりなきりしたんは「人をころすべからず」と正当に述べている。このまんだめんとによって禁止されているのは人間を殺すことである。神は人間に動物を食することを許しておられるからして、動物を殺すことが禁じられていると理解してはならない。

 また人を殺すべからずという掟は国家による正当な死刑を禁止していると理解してもならない。犯罪者を罰し、無実の者を保護するために、国家は正当にその 法律に基づいて人を殺すことができる。神が第五戒を定め給うたのは、人間の社会生活を守り、安全を確保するためであるからである。無法や暴力を抑制するた めに、不正が犯されたり、暴力が無法に行使されることを防ぐために、国家権力が最高罰として死刑を宣告、執行することは神の正義に反するどころか、社会の 安全を守る正当な処置である。

 同じように、正当な戦争において敵を殺す軍人は「人を殺すべからず」の第五戒を犯していると考えられるべきではない。国家の危急存亡に際して敵と戦闘し なけれならない軍人は個人的な野望や残虐性を満足させるために人を殺すのではなく、自国の安全を守るために戦い、敵を殺すのである。個人の場合でも、人か ら襲われて正当防衛として人を殺さざるを得ない場合にはこの第五戒に違反したとは考えられない。

 自殺、すなわち自分の生命を自分で奪うことはこの第五戒律の侵犯であり、神によって禁じられている。日本人は自殺を罪だと考えない傾向があると思われる が、それは天地の創造主、宇宙の支配者たる絶対神への信仰がないからであろう。自殺は殺人と全く同様に、上に述べた例外を除けば、神の掟に対する重大な違 反、大罪である。だから、第五戒は「汝他人を殺すべからず」ではなくて、自他を含めて端的に「汝殺すべからず」と述べているのである。

 他人の身体を害する殺人の中にはもちろん堕胎・中絶が入っている。人を殺す戦争に反対する多くの人々、平和を叫ぶ多くの人々が平気で堕胎・中絶を行って いる。世界中で現在堕胎・中絶がどれほど多く行われているか正確にはわからないが、少なくとも年間数千万の無実の赤ん坊が愛されるはずの母親の同意のもと に母親の胎内で殺されている現実に目を向けずに戦争反対を叫ぶ空しさにわれわれは気づくべきである。

 肉身を害する殺人と同様に、人の霊魂を害する行為、言葉、行い、書物その他によって人を精神的に躓かせ殺すことも広い意味では第五戒に対する違反である。今日、マスコミや小説、映画がどれほど人の霊魂を殺し、人に罪を犯させているであろうか。

まんだめんと 第四 つづき

2006年05月22日 | Weblog

 現在家庭における父親の権威が失墜していることは誰もが認めるところであるが、これは第四のまんだめんとが 守られなくなったことに関連している。神の権威を認めない人間中心主義、ヒューマニズムが至上のものとされる近代においては、国家における君主の権威、社 会における長上の権威、夫婦関係における夫の権威、家庭における父母の権威等がないがしろにされる。悪しき平等主義が行き渡っている。これは革命のもつ毒 であろう。上下関係、支配・被支配の関係をすべて悪とする考え方が民主主義・平等主義として尊重される。これは神が定め給うた第四戒に対する罪であるが、 人間主義・近代主義はそれを罪とは考えず、むしろ人間の権利、人権であると考える。フランス革命の自由・平等・博愛のスローガンがこの第四戒を権威主義 的・非民主なものとして否定する。

 聖パウロはエフェゾ書5:22-23において「妻たる者はおのが夫に従うこと、主におけるがごとくにすべし、そは夫が妻の頭たること、キリストが教会の 頭にして、自らその体の救い主にましませるがごとくなればなり」と述べて、妻は夫に従うべしとしている。これは第四戒の適用である。教会がキリストに従う べきであるように、妻は夫に従うべきである、と。これは神の定め給うた逆転できない関係である。キリストが教会に従うのではないのと同じように、父は子 に、夫は妻に従うべきではない。

 バチカン公会議後、教会内部でも権威について混乱が起こっている。教皇の首位権が曖昧になり、ペトロがイエズスから与えられた至高の権威が司教団・枢機 卿団に分散され、低下する傾向が生じている。ローマ・カトリック教会として教皇の下に普遍的教会を形成してきた歴史はバチカン公会議後徐々に各国の司教団 の自律性を重んじる方向に変わってきた。各国の教会の自由・自主性の尊重ということで典礼をはじめとしてカトリック教会のカトリック性(普遍性)が失われ てきた。

 フェミニズムは教会の中にも浸透をはじめ、女性司祭を要望する点にまで進んでいるところさえあるという。男児しか認められなかったミサにおける侍者の役割も今では女児もごく普通に行っている。

 父母、教師、長上、目上に従うべしという神に由来する掟、命令は前に述べたように、彼らが神の掟に反することを命じた場合には従うべきではなく、拒否す べである。それゆえ、神の掟に反しない限りでという前提つきで命じられており、神を絶対者としてその掟に従うことが、第四戒の存在根拠である。神を否定す る革命的平等主義においては権威の正当な根拠はなくなるのではないか。フランス革命においても、ロシア共産主義革命においても、その他諸々の無神論的革命 政府は、神の地位に自分を置いて、彼らのスローガンの自由・平等・博愛とは正反対の抑圧と絶対的専制と憎しみとを産み出してきたことは歴史が示している。


まんだめんと 第四

2006年05月21日 | Weblog

 どちりなきりしたん第七 十のまんだめんとす(Mandamentos=掟、戒律、十戒)

第四のまんだめんと:ぶもにかうかうすべし。 

 「汝の父母を敬うべしさらば主汝の天主が汝に賜う地において、汝長寿(ながいき)することを得ん」(出エジプト記20:12)。

  第一戒から第三戒までが神に直接向けられた掟であるのに対して、第四戒以下の掟が対象とするのはわれわれが隣人に対して負っている愛の掟である。しかし、 隣人に対する愛の掟もまた神に対する愛の掟から導き出される掟である。われわれは神を愛するがゆえに隣人を愛しなければならない。あるいは神を愛すること なしに隣人を愛することはできない。また、目に見える隣人を愛することができない者は目に見えない神を愛することはできない。

 われわれの自然的な父母を愛すべしという掟は一般化されて目上、長上、権力・地位・働きにおいて上に立つ者にも適用される。彼らを尊敬し、敬愛し、その 命令に従うことが神に依って命じられている。もちろん、父母や長上は神の掟に反する命令を子どもや目下に与えることはできない。