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百歳に向かってもう一度歩いて世界一周

平成7年1月1日より歩いて世界一周に挑戦して居ますので引き続き続けますのでご照覧あれ!

日中国交正常化40周年記念式典中止を聞いて

2012年09月24日 08時54分07秒 | 日中友好

  9月23日 (日) のち 平成17年1月1日より 2,832日目
           歩いた歩数          その距離
本日      15, 855歩        11,099m
総計 39,715、160歩  27,800,612m
ドイツ・オランダ、ベルギー.、フランス.ロンドンを経てグラスゴーに向かう、後 46,895m

  今日中国側から「北京の人民大会堂で27日に開く予定だった日中国交正常化40周年の記念レセプションを中止すると日本側関係者に通告された、というニュースが入った。

 中国は「日本政府が中国の断固とし他反対にもかかわらず釣魚島を購入し、40周年記念の雰囲気を壊した」と尖閣諸島の国有化が原因だと指摘した。日本政府は東京都が尖閣諸島を買い入れて所有権を楯に勝手に工作を進められては日中間の友好に不和を来すと考え、所有者から譲り受けて国家が維持管理する事が周辺国との友好関係を保つに役立つと判断して買い取ったのだが、これが抑々の原因で意思疎通を欠いて、中国人民の愛国精神を刺激し、国有化に抗議する大規模な反日デモに発展してしまった。

 このことは日本だけではなく、中国にとっても被る損失は大きく、その上、両国の交流や文化的な催しが延期されたり、中止になったものさえある。中国当局はこのことを踏まえて、デモを抑え込む一方で日本に対しては強硬姿勢をとってきた。私は27日に催される日中国交正常化40周年記念事業は正常に開催されるものと信じていたし、それを機に国民感情の冷却化にも歯止めが掛かるものと期待してきた。

 しかし、日中国交正常化40周年記念レセプションの中止を通告してきたことで、これからの対日姿勢は【戦略的互恵関係】という友好を基軸にしたか路線から外れて行きかねない。私は終生の目標としてきた【日中友好育英基金」】の拡大強化の方針には些かのブレもなく推進してゆくことに変わりがない。貧困が原因で就学出来なかった児童への支援が細くなったり途切れたら、その児童の将来はない。義務教育を終わるまでは何としても支援して行かねばならない。続行を宣言する。

 

 

 


1990年 妻への便り (2)

2012年09月20日 17時59分53秒 | 日中友好

  9月20日 (木) 平成17年1月1日より 2,829日目
           歩いた歩数         その距離
本日      15, 286歩        10,700m
総計 39,669、720歩  27,768,804 m
ドイツ・オランダ、ベルギー.、フランス.ロンドンを経てグラスゴーに向かう、後 79,703m

 1990年の今日(9月20日)私は河北省でのボランティア活動を終って北京へ戻ることになっていた。しかし8月10日から今日まで40日間の中国滞在で芽生えた友情の絆は堅く結ばれてしまって、女々しくも今日も石家荘市に滞在することになってしまった。その経緯を書いた「妻への便り」を日中友好のシンボルとして転載することにした。

 九月二十日 気温15℃~24℃ (石家荘)
 河北省でのお別れパーティも済んで、今朝北京へ発つ日だったが、彼女達のすすめで、女々しくももう一日石家荘市に泊まる事になってしまった。KさんとLさんが、急遽役所を休んで(無断欠勤?)観光サービスをしてくれる事になった。午前7時40分、ホテルを出て臨城県の「白雲洞」へ向かう。梁くんを前の席に私たち三人は後ろの席。楽しいドライブ!梁くん曰く、「両手に花ネ」と。

 臨城県は石家荘より60キロ先で刑台地区の県。気づいたことだが、この地は未開放区。不安に思っていると、Kさんは勿論百も承知。「アナタはダマッテイテ」と。無断で未開放区へ入ることは許されない。尋問されれば私バかりか、彼女達も同罪のはず。彼女達の度胸の良さと好意には只々頭がさがる。臨城県で警官に道を尋ねると、車を止め、白雲洞へ勤務している女性を探してきて、強引に車に押しこめ、案内役とくれる。この間、随分ハラハラした。

 白雲洞は大行山脈のうちに属し、石灰岩に覆われたセメント工業の中心地に在る。近づくにつれて、カルスト台地特有の、羊の群れが放し飼いされて居るように見える風景だ。秋吉台と似ている。1988年、石灰石の採掘中、偶然に発見され、今年の7月、ようやく公開に漕ぎつけたという開店早々の鍾乳洞だ。それにしては案内ガールの説明は見事。Kさんは「アナタはダマッテ」と釘を差したにも関わらず、私に日本語に訳してくれる。それが洞窟の中で響いて不気味。ここで捕まったらと思うと気が気でない。

 中程に明るい場所が有り、ここで記念写真を撮ろうという。彼女達の心臓の強さには呆れてしまう。未解放区へ証拠の写真まで残そうというのだから。3人で肩を組み、仲良く撮って貰う。イヤ、Kさんはその瞬間、肩から手を外していた。「アナタは家庭を大切に」と言った。

 帰途は車上の回転灯をつけ、サイレンを鳴らし、梁くんが赤旗を振って他車を抑え、超スピードで戻った。Kさん曰く。「あれはイタズラです」と。ホテル着は0:12。・・・(中略)

 夕食後、白酒をやってると、Kさん夫婦とLさん親子が別れのあいさつにやってきた。Kさんから絨毯と見事な観音様、菲菲ちゃんから貴ちゃんと真ちゃんにと小箱が贈られた。今回の訪中では、はじめから最後までお世話になった上、お土産まで頂いたことに、その好意に感謝すると共に、二人の出会いを作ってくれた天の神に感謝しなければとしみじみ思った。

 Lさんは、私の今回の訪中に感謝してと前置きして、私のためにチベット民謡を歌ってくれる。それがきっかけでみんなで合唱。Kさんも歌ってくれる。このテープは爪を切って永久保存とする。PM10:20名残を惜しみながら帰って行った。


1990年 妻への便り

2012年09月19日 17時35分04秒 | 日中友好

   9月19日 (水)一時 平成17年1月1日より 2,828日目
     歩いた歩数      その距離
本日      14, 531歩        10,172m
総計 39,654、434歩  27,758,104 m
ドイツ・オランダ、ベルギー.、フランス.ロンドンを経てグラスゴーに向かう、後 89,403m

 昨日の訪中の想い出は、驚くほどの過分な待遇で、日中友好の楽しかった夢の様な思い出して記したのだが、記憶はホントに正しかったか、妻に送った「中国だより」で確かめて見た。承徳からの第4便は「寛城県」から「興隆県」に向かう間の「隆化県」滞在の4日間が記されていた。昨日の記事は1990年8月23日に書かれていた。

 八月二十三日 晴 気温15℃~25℃(隆化)とある。
  今年の日本の気象からはトテモ考えられないが、中国から「承徳地区は日本の軽井沢のような涼しい所で清の皇帝が「避暑山荘」で夏の政務を摂った地にご案内致します」と特別に気遣って呉れた地区だ。私は「最高最低寒暖計」を持参して記録した。
 

(便りの抜粋)

 りんご園、さんざし園、ぶどう園の視察。所見を述べた後、英雄董存瑞同志の墓に詣でる。遥々日本から来た私に、資料館の係員から署名簿が出されたので、英雄を讃える句を付けて署名した。‥‥・(中略)・・・夕食後、肖さんと散歩に出て床屋を見つけたので散髪を頼む。「一元}と言った。私が日本人と判ると大勢の野次馬が集まってきた。椅子に掛け、風呂敷を被せられた私は「首だけだけはチョン切らないように・・・」と覚悟を決めて顔剃りを任せた。若い主人は大変丁寧に仕上げてくれた。そして「お金は要りません。店の名誉です!」と言った。恐縮して社会探訪を更に続けることにした。

 「天宮酒家」という看板を見て一杯やることになった。二人で飲んでいると、隅の青年たちから声が掛かった。「日本人か?」肖さんは私を紹介した。「日中友好!一緒にやろう!」ということになった。ご機嫌になって大いに飲んで、「お勘定を」と言うと、主人は「日中友好のため‥‥・サービス」と言うではないか。その言葉に参って、歌ったこともない歌を披露したり、民謡を唸って、友好ムードを盛り上げて帰ってきた。 

 八月二十四日 晴 気温19℃~25℃(隆化)‥・中略・・・お別れパーテーは県長以下、「ご教示のほどは忘れずに!来年も是非ご来駕を!」と言う。終って昨夜の床屋と酒家礼に行くと言うと、県長と委員会の主任が同行する。40万人の頂点に立つ二人をお供に従えての礼参りに、床屋の主人も酒家の人たち客までも恐れ入る。帰ってくると、承徳一の青年書家 呉さん。小生のために腕をふるって大奮闘。夜十一時、折から床屋の主人、感激して今度は手土産持参で礼に来る。・・・(下略)

 


中国の反日デモに想う

2012年09月18日 20時29分58秒 | 日中友好

  9月18日 (火) 平成17年1月1日より 2,827日目
           歩いた歩数        その距離
本日      15, 238歩      10,667m
総計 39,639、903歩  27,747,932m
ドイツ・オランダ、ベルギー.、フランス.ロンドンを経てグラスゴーに向かう、後 99,575m

 中国で反日デモが大分エスカレートしている。憂慮すべき事態だ。その原因は何故だろう。日本政府が尖閣諸島の所有権を個人所有者から取得したからだ。何故買ったのだろうか?「国のため、東京都が買う」と都知事が言ったからだ。

 尖閣諸島は、日本は基より中国も台湾も所有権を主張している。日本は占領国アメリカから沖縄県と共に日本本来の領土として変換されたものだから以来、日本の領土として占有しているので中国や台湾が主張しても「尖閣諸島に領土問題はない」と相手にはしていない。当然のことだが、日本と中国が国交を回復するときは、小平氏はこの問題は懸案として次世代に委ねようとした経過がある。以来尖閣諸島に問題が起きる度に、両国民はエキサイトするので、福田総理と胡錦濤国家主席が「戦略的互恵関係を築いて、尖閣諸島で起きた問題は局地的に解決して、「両国の友好関係」には及ぼさないと確認している筈だ。この島は韓国の竹島(独島)と共に「トゲ」なのだ。そっとして置くことが「東亜の安定・世界の平和・人類の幸福」のためなのだ。

 憂国(?)の政治家が「トゲ」を刺激したのが発端で、中国人民を興奮させ、デモはエスカレートして両国に与えた経済的損失は莫大なものとなり、世界経済にブレーキを掛けるまでになってしまった。直接暴力を振るった暴徒は処罰されて当然だが、この政治家も言動には責任を負って貰い、自重して欲しいと想う者は私独りだろうか?

 私は1990年、「中国農民のともしびとならん」と決意して中国に渡ったが、当時の農村は未開放地区で、日本人を「東洋鬼」との思いをもっ農民も多かったようだ。食事の時、「帽子のまま食事させて欲しい」と一言いった所、後ろの男性が私の帽子をひょいと取った。私の頭に角が生えていないのを知って群衆は帰って行った。

 その夜、通訳の肖さんと、床屋に行った。椅子に腰掛けると、カミソリ持った主人は「貴方(お前)は日本人か?」と聞いた。私は「日本人!」と答えた。主人は「日本人は初めて見たが、日本人が私の店に来たのは光栄です」といって理髪料をタダにしてくれた。気分良くなって飲食店で肖さんと白酒を飲んでいると、隅の若者たちの代表がやって来てまた「日本人か」と聞いてきた。肖さんが「そうだ」と言うと、若者たちは相談して「日中友好一杯やろう」と申し込んできた。「今まで呑んだカネはお互いに払って、あこれからの分はオレが払う」と言って無茶苦茶呑んだ。店主に会計をと言うと。店主は「日中友好、オカネは要りません」ととらなかった。

 この話を翌朝の食事で県長さんに話すと、「嬉しい話だ。その床屋と飲み屋に案内してくれ」となった。県長と科学技術委員会の主任を案内して顔を出したから、両人は驚いたり喜んだりして、その夜、ホテルにお土産持ってやってきた。「馬には乗ってみろ!人には添って見ろ!」という諺がある。真心もって話せば分かる!みんなイイ人達なのだ!!

 

 


第一回日中友好飯山日中マレットゴルフ大会

2012年08月26日 22時27分09秒 | 日中友好

 8月26日(日) 平成17年1月1日より 2,804日目       
        歩いた歩数      その距離   
        16,502歩     11,551m
総計 39,284,670歩 27,499,269m
ドイツ・オランダ、ベルギー.フランスパリ.ロンドン経てリバプールに向かう、後 18,161m

 恒例の日中友好協会のマレットゴルフ大会の看板を見てハットした。看板に「第一回」と書かれていたからだ。会長あいさつで解った。今年、飯山日中岳北日中が合併して初めてのマレットゴルフ大会だというのだ。新たの参加したのは2人のみというのはやはり寂しい。

 参加者は友好会員15名・中国関係19名のほか設営の役員さんで例年並み。コースは半分の18ホール。炎天下のコースだったが、数々のホールアウトにも関わらず熱戦、熱戦にしては友好ムードは大いに挙がる盛会となった。私たちの組みは3人で、栗岩氏に私、それに川本シャーリング研修生金慶くん。成績は栗岩氏82点私が88点金くんは104点。

 賞品授与式で真っ先に読み上げられたのが「金慶」くん。大きな賞品を貰ったので、驚いた私は「私にグループは正確に成績を記入してきたよ」と大声で彼の実力を評価した。それは、優勝賞品ではなくて、BB賞と判り苦笑い。合同歓迎会はビール・酒・焼酎まで出て大いに盛り上がり、私も出来上がって、「日中友好育英基金の拡大強化策」を声を大にして絶叫、共鳴を得た。

 盛会の後、会場から歩いて戻ってきたが、途中でダウン。妻に応援の電話をして迎えに来て貰う始末になってしまった。