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プロコフィエフの日本滞在日記

1918年、ロシアの若き天才作曲家が、大正期のニッポンで過ごした日々

ピアノ練習

1918-07-03 | 日本滞在記
1918年7月3日(旧暦6月20日)

 毎朝ヴィソツキー家でピアノを練習し、昼間は一家とともに浜辺に出かけている。とても暑い。ホテルは快適で気持ちがいい。朝食は62皿もあるバイキング。腹を空かせた哀れなペトログラード市民たちに見せてやりたいものだ!

 ウラジオストックでチェコスロバキア軍がボリシェビキを倒した。シベリア全土で戦争だ。おそらくロシアでは新たなクーデターが起こるだろう。正常に向かうことはないのだろうか?
 ゲッセンがベルリンでまた雑誌『話』を出版した。復活してくれて嬉しい。

大田黒先生

1918-07-02 | 日本滞在記
1918年7月2日(旧暦6月19日)

 ストロークが東京公演二回あわせて出演料850円と提示してきた(500円は私、350円は彼のとり分)。あまりの安さに愕然としたが、彼いわく、シーズンでもないし昼公演なので、それ以上はとれないという。やむなく身を売ることにした。
 これはかなりまずい。アメリカに行くには1700~2000円かかるのに、そんなはした金では、全額かき集められない恐れがある。望みはまだホノルルにある。それにしても250ルーブルで演奏するなんて、これじゃ有名になる意味がないじゃないか!

 日本人ジャーナリストと日本料理店で昼食をとった。帝国劇場の支配人が、宣伝の意味もあって設定したのだ。大田黒〔元雄、1893~1979、音楽評論家〕が音楽や私について書いた本。これがマスコミに非常によい印象を与えた。大田黒先生はロシア音楽にきわめて精通しており、私たちは食事の間じゅう(英語で)話に花を咲かせた。食事は膝を曲げて座る日本式。芸者衆が踊り、客一人につき若くてきれいな日本女性二人がそばに座った。とても楽しかった。

サソリ座

1918-07-01 | 日本滞在記
1918年7月1日(旧暦6月18日)

 横浜のグランドホテルに移る。コンサートの前に少しお披露目をしなければならない。加えるに、こちらは涼しいし、ヨーロッパ人が多い。蒸し暑い日には、かげろうのように空に溶け込む水平線が、とてもきれいだ。夜の空には、赤いアンタレス星のある素晴らしいサソリ座。ここではあらゆる星座がはっきりと、恐ろしくて神秘的な獣そのものの姿で輝いている。

コンサート告知

1918-06-30 | 日本滞在記
1918年6月30日(旧暦6月17日)

 東京は暑くて埃っぽくて不愉快だ。横浜に行ってきたが、やはり向こうに移りたい。グランドホテルは値が張るが、居心地はいいし、太平洋を望むテラスがある。そのためだけに移ってもいいくらいだ。

 私のコンサートの最初の告知が出る。
 サンドイッチ諸島〔ハワイ〕とニューヨークに行きたくてたまらない。

フジヤマ

1918-06-29 | 日本滞在記
1918年6月29日(旧暦6月16日)

 朝、急行列車の展望車両に乗って、東京に向かった。美しく洒落た日本を満喫しながら再び日中移動する。土地という土地は、いい場所もさほどよくない場所も、ヨーロッパではお目にかかれないほど丹念に愛情こめて耕されている。カーブにさしかかったときにほんの何度か、フジヤマが霧のなかから姿を現した。円錐形で暗い感じだ。実物が見られて嬉しい。

 東京ステーションホテルの同じ部屋に泊まった。ロシアからは手紙一通来ていない。チェコスロバキア軍団によるシベリア鉄道〝封鎖〟のせいで、何も期待できそうにない。

再び京都

1918-06-28 | 日本滞在記
1918年6月28日(旧暦6月15日)

 明日は東京に発つので、京都に移動した。コンサートに備えてそろそろ練習しないと。もっともこんな客相手では努力に値しないのだが。それにしても、もう二ヵ月半もピアノを弾いていない。

 骨のない人間をテーマにした小説のアイデアが浮かぶ。

ショーペンハウエル

1918-06-27 | 日本滞在記
1918年6月27日(旧暦6月14日)

 生活は幾分もたつきながら、どしゃぶりの雨の中で続いている。ショーペンハウエルをとても興味深く読んでいる。最後の一冊『意志と表象としての世界』のことであるが、彼の悲観主義は受入れられない。

 私の友人たち、特にB・ヴェーリン、アサフィエフ〔ボリス・ウラジーミロヴィチ、1884~1949、作曲家・音楽史家〕、スフチンスキーのことを、とても懐かしく思い出す。

女友達

1918-06-26 | 日本滞在記
1918年6月26日(旧暦6月13日)

 今日、ピアストロと可愛いガールフレンドが内輪喧嘩をした。まったくもって、リーナもコーシツもエレオノーラ〔ダムスカヤ、ぺテルブルク音楽院の同級生でハープ奏者〕もここにいなくて本当によかった。結局のところ、二人はおとなしくなったけれど。

作家性

1918-06-25 | 日本滞在記
1918年6月25日(旧暦6月12日)

 自分の作家性をどう思うか? とにもかくにも言えることは、文章を書くことは、単純にとても好きだ。この答えだけで十分だろう。もしもそれに加えて、かなりいい線をいっているとしたら(困ったことに、単にいいものを書くのはまっぴらなのだが)私のしていることは極めて正しいことになる。作曲のための時間と労力を奪われることに関しては、率直にこう言える。最近私は数多くの曲をつくったし、今は小休止するとしても、それは有益な気分転換になるし、そのあとの仕事はもっとはかどるだろう、と。

 自分の作家性がそう優れたものではないことは認めるが、今はまだ、どこがどう悪いのか自分ではまるでわからない。


珍しい話

1918-06-24 | 日本滞在記
1918年6月24日(旧暦6月11日)

 ピアストロがマルーシャと一緒にやってくる。二人に会えて嬉しかった。散歩したり、カクテルを飲んだり、ビリアードをしたりした。ピアストロは、たびたびコンサートを開いたジャワやシャム、インドの珍しい話を聞かせてくれた。

 珍しい話といえば、ここのホテルの壁という壁には、風景画などの絵が飾ってあるが、今書いている小説のためにプリンス諸島を探そうとしてヨーロッパの地図を見たいと思ったのに、ヨーロッパの地図などどこにもないのだ。世界の中心たるヨーロッパなどご勝手に。ここの世界は、ヨーロッパなしで成り立っているのだ。