プロコフィエフの日本滞在日記

1918年、ロシアの若き天才作曲家が、大正期のニッポンで過ごした日々

大田黒先生

1918-07-02 | 日本滞在記
1918年7月2日(旧暦6月19日)

 ストロークが東京公演二回あわせて出演料850円と提示してきた(500円は私、350円は彼のとり分)。あまりの安さに愕然としたが、彼いわく、シーズンでもないし昼公演なので、それ以上はとれないという。やむなく身を売ることにした。
 これはかなりまずい。アメリカに行くには1700~2000円かかるのに、そんなはした金では、全額かき集められない恐れがある。望みはまだホノルルにある。それにしても250ルーブルで演奏するなんて、これじゃ有名になる意味がないじゃないか!

 日本人ジャーナリストと日本料理店で昼食をとった。帝国劇場の支配人が、宣伝の意味もあって設定したのだ。大田黒〔元雄、1893~1979、音楽評論家〕が音楽や私について書いた本。これがマスコミに非常によい印象を与えた。大田黒先生はロシア音楽にきわめて精通しており、私たちは食事の間じゅう(英語で)話に花を咲かせた。食事は膝を曲げて座る日本式。芸者衆が踊り、客一人につき若くてきれいな日本女性二人がそばに座った。とても楽しかった。

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4 コメント

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大田黒先生の書いた本 (沼辺信一@千葉)
2005-08-06 02:31:24
プロコフィエフの日本滞在記が邦訳で読めるなんて、まさしく夢のよう! 感謝感激です。

さて標記の「私について書いた本」ですが、おそらく大田黒元雄8冊目の音楽書『続バッハよりシェーンベルヒ』(1918年4月刊)のことと思われます。同書では「近代作曲界の偉才」20人のひとりとして、プロコフィエフに一章が割かれているからです(235~241頁。初出は雑誌『音楽と文学』1917年6月号)。

それにしても、上記の本が出たわずか3か月後、東京で大田黒とプロコフィエフの邂逅が実現するとは、ちょっと出来過ぎなほどの偶然ですね。
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ありがとうございます! (訳者)
2005-08-08 15:54:57
ひょっとして「幻のロシア絵本」展の沼辺信一さんですか? 見ていただいて光栄です。本についてのご指摘と情報、どうもありがとうございます。本当に、わずか3ヶ月後に二人が出会うとは、出来過ぎた偶然ですね。必然だったのでしょうか。まだ20代の、才ある二人の出会いを想像するとゾクゾクしますね。
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必然でもあった「出会い」 (沼辺信一@千葉)
2005-08-08 23:45:24
「幻のロシア絵本」展の沼辺です。こちらこそ、お見知りおきいただいて光栄至極です。

プロコフィエフは1914年初夏、ディアギレフの招きでロンドンを訪れ、初めてバレエ・リュス公演を実見しています。留学中の大田黒は奇しくも同じこのロンドン公演に連日通いつめ、ストラヴィンスキーの音楽や、ナタリヤ・ゴンチャローワの舞台装置に目耳を奪われたのでした。

1918年7月、東京で巡り合った二人の青年は、当然のことながらバレエ・リュスについて熱く語り合っています。こうしてみると、偶然とみえた両者の出会いも、4年前にディアギレフの手で仕組まれた「必然」でもあったのだ、と言いたくなります。

このあたりの経緯については、1998年セゾン美術館で催された展覧会「ディアギレフのバレエ・リュス」カタログに「ニジンスキーを観た日本人たち」なる一文を寄稿しています。機会がありましたらぜひご一読下さい。

それではまた。



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ディアギレフ (訳者)
2005-08-09 23:30:55
沼辺さま。「幻のロシア絵本」展は芦屋と東京で拝見しましたが、西武の「革命と芸術」展以来の衝撃でした。うかつにも「ディアギレフのバレエ・リュス」展は見逃してしまいました!何をやっていたんでしょう。カタログ探してみます。

大田黒とプロコフィエフの出会いへの布石は、すでにロンドンでうたれていたのですね。20世紀初頭に心惹かれてやみません。
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