goo blog サービス終了のお知らせ 

プロコフィエフの日本滞在日記

1918年、ロシアの若き天才作曲家が、大正期のニッポンで過ごした日々

モダン音楽

1918-07-13 | 日本滞在記
1918年7月13日(旧暦6月30日)

 イギリス人宅には、モダン音楽の素晴らしい楽譜コレクションがある。今日は作曲はしないで、レーガー〔マックス、1873~1916、ドイツの作曲家〕、ロジェ〔デュカス・ジャン、1873~1954、フランスの作曲家〕、ラヴェル〔モーリス、1875~1937、フランスの作曲家〕、メトネル〔ニコライ、1880~1954、ロシアの作曲家〕を弾いた。とても満足した。どの曲も、モダンという評判にもかかわらず、とても響きがよく、じつによくできていて心地よい。ただし深みがない。私のほうがもっといい。

徳川侯爵

1918-07-12 | 日本滞在記
1918年7月12日(旧暦6月29日)

 とあるイギリス人が、ベヒシュタインのピアノと空き部屋を提供してくれた。毎朝、弾きに行き始めた。ざっと書いたバイオリン・ソナタに目を通す。今までピアノで作曲することから遠ざかり、何もしていなかったが、このソナタはなかなかよくなりそうだ。第一楽章は最初から最後まで全部破棄。

 東京に行き、徳川侯爵のところで昼食をとった。若くて非常に面白い日本人で、西洋音楽にとても入れ込んでいる。日本の貴族とはどんなものか、興味をもって見たが、侯爵はまったくもってヨーロッパ的な人物で、じつに魅力的で飾り気がなく、東洋をまるで感じなかった。

心理的暴言

1918-07-11 | 日本滞在記
1918年7月11日(旧暦6月28日)

 ボツにした『ひきがえる』を新たに書き始め、うまく進んだ。会話文は要注意だ。もちろんこの手の諸人物はインテリふうにしゃべれないのだが、かといってスラングは使わないようにしないとならない。文体の問題ではなく、「心理的暴言」とも言うべきものを見つけなければ。

 ニューヨークからの電報はいつになるのだろう? お金は日々消えていくのに、肝心な一本の電報が遅れている。
 日本の芸者衆がとても気に入っている。

興行師去る

1918-07-10 | 日本滞在記
1918年7月10日(旧暦6月27日)

 ストロークが去った。彼に「良きことあれ」と言われたので、「何をおいても、良き興行師あれ」と答えてやった。彼は、暑さやらオフシーズンであることやらを引き合いにして、我々のコンサートがああも不名誉だったことに大いなる不満を示し、自分は常に「第一級のものしか」やらないのに、と言う。そこで私はこう答えた。「ある日、神があなたに本物の一流芸術家を遣わしたとしても、あなたには何ひとつできないでしょうね」

 古い知人のコーンシン家を訪ねた。横浜から電車で一時間のところに、大家族全員で住んでいる。とても楽しく一日を過ごした。陽気でとてもお洒落なお嬢さんや奥さんが何人もいた。


横浜公演

1918-07-09 | 日本滞在記
1918年7月9日(旧暦6月26日)

 夜、横浜グランドホテルの新しいホールでコンサート。プログラムは東京の初日と同じ。入場料5円。しかしこの値段は、多くの人が手が出せなくて帰ってしまうほど高かった。聴衆はとても少なかった(150人)が、とても興味をもって聞いてくれた。私の手取り収入は……41円。おまけにストロークは、神戸、大阪、そして東京での三度目のコンサートは開けないという手紙を受け取った。

 アメリカ行きのために期待した2000円は、このざまだ。かわりに財布には、850円しか入らない見込み。でも、ストロークと一緒に秋のコンサートを待つなんてまっぴらだ。退屈だし、窮屈だ。なんとしてもニューヨークに行く必要がある。かといってこの金じゃ、二等クラスでニューヨークにたどり着くこともできない。そこで私はホノルルに行って、コンサートを二度ほど開き、ドルの腹ごしらえをしてからニューヨークに行くことに決めた。

 今日のコンサートのとき、ホテルの室内オーケストラで演奏している四人のロシア人音楽家が訪ねてきて、とても丁重にほめてくれた。彼らはホノルルに行ったことがあり、現地ではまともなコンサートが不足しているそうだ。

東京公演二日目

1918-07-07 | 日本滞在記
1918年7月7日(旧暦6月24日)

 二度目のコンサート。聴衆が増え、そのうえ支配人が無料招待券100枚を方々に配ったものだから、ホールはかなり埋まっていた。やはりとても礼儀正しく聞いている。当地の音楽家たちの要請で、彼らがたいそう気に入っている『悪魔的暗示』を今回のコンサートに加えた。好評だったのは、きわめて技巧的な曲。コンサートが盛況だったので、なんとか稼げた。そうでなければ、ストロークと合わせて300〔円〕しかもらえなかっただろう。
 夜は『ひきがえる』を書く。


〔参考*公演パンフレット、公演曲目より〕

第二日〔七月七日〕

一、第二ソナタ       プロコフィエフ

二、空想曲         シューマン
  何故?
  ノヴェレッテ

三、ノクターン       ショパン
  マズルカ
  ワルツ
  エチュード

四、行進曲 プロコフィエフ
  スケルツォ

五、逃げて行く幻影 プロコフィエフ
  幻想曲

【ヤマハピアノ使用】

東京公演初日

1918-07-06 | 日本滞在記
1918年7月6日(旧暦6月23日)

 朝はまあまあの気分で、少々用心してコンサートに出かけた。実務をこなすように淡々と弾いた。聴衆はとても少なかった(土曜の午後1時15分、しかも暑い)が、なんとか売れてよかった。客の大半が日本人で、とても礼儀正しく聞いていた。拍手は少なく、例外は技巧的な曲だけ。不協和音にはあまり当惑していなかった。というのも、まったく異質な音に慣れている日本人にとって、我々の協和音と不協和音の違いなどあまり感じないのだろう。


〔参考/公演パンフレットより〕

大正七年七月六日(土曜日)七日(日曜日)午後一時十五分開會

世界的大作曲家大洋琴家
セルギー・プロコフィエフ氏
ピアノ大演奏會

帝国劇場

入場料
特等=参円
一等=弐円五拾銭
二等=弐円
三等=壱円
四等=五拾銭

演奏曲目

第一日〔七月六日〕

一、第一ソナタ       プロコフィエフ

二、前奏曲         プロコフィエフ
  エチュード第四
  ガヴォット
  トッカタ

三、第三バラード      ショパン

四、エチュード三曲     ショパン

五、第三ソナタ       プロコフィエフ

六、批難          プロコフィエフ
  物語
  絶望
  悪魔的の暗示

公演前夜

1918-07-05 | 日本滞在記
1918年7月5日(旧暦6月22日)

『ひきがえる』という初めての静的描写の短編に挑み始めた。きのうの祝宴からアイデアが生まれたのだ。

 夜、腹をこわした。おそらく食べたものが悪かったのだろう。トイレに行く途中、意識を失ってしまった。ストロークは、明日のコンサートがだめになるのではないかと驚いて、献身的に世話してくれた。医者(タキシードを着たイギリス人)に見てもらったが、たいしたことはない、ここではよくあることなので明日は演奏できる、と言われた。

祝宴

1918-07-04 | 日本滞在記
1918年7月4日(旧暦6月21日)

 今日はアメリカの独立記念日なので、グランドホテルでは華やかなお祝いが開かれた。大勢の群集がホテルの前に集まり、それを眺めている。それを見たアメリカ人たちは、日本人が自分たちの民主的な祝日を祝っていると思っている。

 私はといえば、燕尾服を着て、ホテルの飾りつけたテラスやサロンを行き来し、きれいに正装してお洒落をした人々を眺めて楽しんだ。とにかく戦時中、ことに革命時、ロシアではこんな洒落た人だかりを見たことがなかった。知り合いがかなりたくさんいて、楽しそうにしていた。どこかの外交官の奥さんで、17歳の色黒のフィリピン女性がものすごく気に入って、知り合いになった。でも残念ながら……進展なし!