音の四季~風の彩

作曲家、しの笛・龍笛奏者、ジャズピアニスト、城山如水の徒然日記。
オカリナ、フルートの事も・・・・

足利尊氏 と 播州室津軍議

2011年05月13日 | しの笛
足利尊氏は建武三年(1336年)京での合戦に敗れ、西へ九州に向けて敗走する。

しかしこの敗走には不思議な事態が起きる。敗者である尊氏軍に、勝者側の武士達が合流するという事態が。

尊氏については、戦国時代の武将達と源平の合戦に挟まれた時期ということもあり、また、逆賊尊氏、という歴史観なども災いして、正確な実像が知られていないように感じられる。

尊氏という武将について調べれば調べるほど、その資質の秀でた部分が見えてくる。

ある意味、並外れた力量を持った武将であると思える。それは武力ではなく、情報戦、総力戦という面における力量であり、決断力だ。

尊氏が九州に向けて敗走する途上においても支援する武将が集まったという事態には、当時の行き詰った北条幕府の状況もあったのだろうが、より大きな原因としては、尊氏が清和源氏の嫡流であった、という事情もあるようだ。

尊氏が並外れた力量を持った武将であったことを窺わせるのは、その情報収集力と、その分析・判断力だと思われる。

建武三年(1336年)一月に京での合戦に敗れ、二月打出・西ノ宮浜の戦いに敗れた尊氏は西に敗走し九州を目指す。そして二月、播州室津に上陸し、見性寺で、世に言う「室津軍議」を開く。

この軍議が、尊氏の並々ならぬ力量を垣間見せるものと云えるだろう。

この軍議で尊氏は、後の東上の為に中国・四国の軍備を再編したと伝えられている。

敗走する武将にとって、並の武将であれば、これほどの配備ができるものだろうか。

そして三月、九州、多々良が浜での合戦に勝利した尊氏は四月に京を目指して、早、東上を開始する。

瀬戸内海を東進する尊氏軍は五月、備後鞆津に着いたころには7千500余艘の大船団となっていた。

そして五月二十五日、湊川の合戦で楠正成軍を撃破して都に攻め入る。

この間、半年にも満たない形勢の大逆転だ。そして十一月には室町幕府の成立をみる。

これほどの戦を成し遂げた足利尊氏という武将の力量は想像を絶するものがある。

同じく九州、壇ノ浦を目指した平家とは全く異質の力量を感じる。
もちろん時代の趨勢が違っていたことが大きいと思うが。

この尊氏の例に倣って、九州で兵を養い、東上して天下を窺ったのが、わが、黒田官兵衛・如水ではあるが。

この尊氏の奇跡ともいえる形勢逆転をもたらしたのは、情報網であったといわれている。

優れた情報網を駆使して、正確な情報判断を下して逆転大勝を成し遂げた足利尊氏という武将の力量は、やはり並大抵のものではない。

この布石を打ったのが、播州室津・見性寺での軍議であった、というのは感慨深い史実だ。


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