そらとうみとりくと

初めて一緒に暮らしたそらがお空に帰り、その後ポメキーちゃんを迎え、うーたんと穏やかに暮らしています。

ようやく解放です

2022年07月28日 | ご報告

今年も毎日のように会える神様とんぼ。

かなり近づいても逃げないんだよね。

どんなに見ていても飽きない神々しいお姿。

 

さて、前記事から5日。

優秀なコロナ患者は本日をもって療養期間解除です^^

3日目あたりから体調が回復してくると

長いなーとも思ったけど

よく考えたら、罪悪感を全く感じないで

だらだらできる10日なんて、すごいじゃん!

 

そらうみを侍らせて、だらだら。

うーたん、そらがくちゃいかもよ(苦笑)

 

ほら、さすがに避けた。

と思ったら、それなの?

 

後半26日にようやく梅雨が明けて、暑くなってきて

クール枕がお気に入りのそら。

 

でも冷た過ぎたのか、気づいたら外してた。

 

さすがに後半はだらだらも飽きて、本を読んだり

作りかけのものを仕上げたり。

 

襟付きのフレンチスリーブワンピース

襟が面倒臭くて、裁断してほおっておいてた。

 

こちらはひよこの二部式の浴衣。

生地は買ってあったけど、なかなかやる気が起きなくて

ゲッ!竿灯に間に合わなくなるよと

慌てて、取り掛かっていたもの。

下はサンドレスにするべきか、お腰みたいにするべきか

散々迷ったけど、こうやって邪道で着られるのも今だけかと

フリル付きのスカートにした。

Amazonで急遽買った兵児帯が思いの外しょぼくてショックだけど

また来年でも買い直せばいいよね。

 

この可愛いぽこぽこのリップル生地は

去年の夏の終わりにセールになってたもの。

108センチ巾150センチなら

二つ買えば、浴衣ができるかな?と目論んで買った。

元のお値段は…

たかっ!

半額以下?

今年も漁ってみようっと。

でも正直に言えば、この生地は印が全然見えなくて

たいそう縫い辛かった(涙)

めっちゃ、頑張った!

あひるの甚平も縫おうと思って、準備はしてるけど

可愛い生地が見つかるかな。

 

自分が感染してみて

いろいろ感じたこと書こうと思ってたけど

またまた盛りだくさんになっちゃうので

別記事で書きまーす。

また遊びに来てね♪

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季節外れの台風

2022年07月23日 | ご報告

今日23日は父の忌明けの法要でした。

いっぱいご馳走作ってもらって、よかったね。

 

当然、私も行く予定だったけど、訳あって

リモート参加(苦笑)

父はせっかちなお前らしいと苦笑いしてるでしょうね。

 

さて、前記事の「台風」はなんだったか。

もう、雪太郎さんには半分当てられちゃったけど

とりあえず、順を追って…

18日の海の日はあひるとひよこの七五三の写真の前撮り。

ぐずったり、恥ずかしがるのはひよこかなと心配していたけど

ドレスも着物も全部自分で選び

すっかりお姫様気取りでこちらは順調。

一方、あひるは足袋が痛いの、着物が苦しいのと

散々ぐずって、逃げ回って

多分、体調が悪かったんだね。

なんとか撮り終えて、家に帰った途端発熱。

 

前の週、あひるのクラスでコロナ感染者が出て、抗原検査を受けた上で

撮影に臨んだのに(泣)

潜伏期間だったんだね。

 

写真撮影中、私も喉がガサガサしていて、声が出しにくい。

あひるに声をかけ続けていたせいだと思ったけど

あひるの発熱見て確信。

2日前も一緒に過ごしていたのでね。

 

翌19日、あひると喉がおかしいという息子が小児科で陽性確定。

その時点で私は濃厚接触者となり、自宅待機。

でも午後から微熱が出てきたので、保健所へ電話。

(開業医でも検査はしてくれるけど、濃厚接触者はNGと言われたー泣)

この日は秋田が過去最高の830人を記録した日で

保健所もパンク状態。

検査は早くて翌日、下手したら翌々日もできるかどうか…って、そんな。

この日の夜は37.9℃まで、熱が上がり

超絶具合悪く、一睡もできず。

急変して、死んじゃう人って

こんな感じなのかなぁ。

 

「お仕事行かないの?」のうーたん。

 

翌日も風邪ひいたときのようなだるーい1日。

(微熱、喉のガサガサ、鼻水、頭痛)

でも、夜になって、翌日日赤で検査受けてくださいとのこと。

あ、ありがたい。

この日あたりから、口の中が苦い感じがして、水くらいしか飲めない。

喉が痛くて、それも無理という人もいるらしいから

まだ、いいか。

2人とも持て余して、文句言ってます(苦笑)

 

そして、21日AM9:30からPCR検査。

日赤病院のプレハブという名の掘っ立て小屋で(爆)

めっちゃ、粗末なのよ。

そこで綿棒をぐっと鼻に突っ込まれて15秒。

苦しかった〜。

それでおしまい。

夕方、陽性の連絡。

かえってホッとしたわ。

でも、診察があるわけでも、もちろん投薬があるわけでもなく

体調はどうでしょうか?の電話も

パルスオキシメーターなる血中酸素を測る機械の話があるわけでもない。

ワタシ、最初に健康なフリしちゃった?

 

まぁ、この時すでに風邪のキツイとこ終わって

快方に向かうみたいな感じだったからいいけどさ。

ただ、二晩続けてよく眠れなくて

それは辛かったので

知り合いのヤクルトおばさんから

今や手に入らない、幻のヤクセン!

えぇ、効きましたよ。

ぐっすり、いつものように眠れました^^

 

そうそう、前日口の中が苦かったのが

この日はもう味覚を感じず。

嗅覚に至っては、鼻が詰まっているわけでもないのに、全く感じない。

恐ろしいわぁ。

ここは聞いてたとおりね。

 

ニトリの新しいクール布団でぐっすりのそら。

高さがあるので、1人では上り下りできないんだけどね(汗)

 

梅雨が明けなくて、ジトジトと変なお天気。

 

18日から症状があるので

翌日から数えて10日間が指定の療養期間。

今日は5日目、折り返しです。

周りの近い人は誰も罹ってないし

感染多発地域に住むブロ友さんも誰も罹ってないようなのに

私が先陣を切ってしまって、なんだか面目ないけれど

ただ、罹ってみてわかったのは

簡単には感染しないということ。

私はあひると朝から晩まで一緒にいて

昼ご飯と晩ご飯を一緒に食べて、マスクなしでおしゃべりして

これはもううつるよねと納得。

でも一緒にいて、今のとことーたんはなんでもないし(隣の部屋で隔離中)

毎日あひるとひよこと濃厚接触してるHARUちゃんもまだ陰性。

普通に暮らしてる大人なら

マスクをして、手指消毒をきちんとするなら

絶対罹らない!と私は思う。

だから、皆さんあまり恐れずに

夏の日々を楽しんでくださいね。

最後に私はもう元気です^^

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父と母のこと

2022年07月21日 | かーたんのひとり言

もう少し、父のことを書いておこうと思う。

どんどん忘れちゃうからね(苦笑)

 

あの日、深夜0:57に姪っ子から電話。

いつかかってきてもいいように、枕元に携帯を置いていたし

鳴った瞬間、「その時だ」ってわかったけど

動揺して、手が滑りなかなか電話に出られず。

姪っ子は意外にも落ち着いた声で

「血圧がね、もう下がってきているんだって」

私の方は声にならなかった「うん、わかった」

 

とーたんとはシュミレーションしていたんだよね。

夜中だったら、そらうみはどうするか。

とーたんは晩酌をしてしまっているから、お留守番してもらおうか…とか。

でも、電話の後は、迷いなくとーたんを起こし

着替えて準備。

友だちのアドバイスがあったから

いざという時の荷物はまとめてあった。

実家の方に居続ける場合の泊まりの準備。

喪服、靴。

でも、一刻も早く出よう、間に合いたいという思いで

何も持たずに家を出る。

(そらうみは朝まで大人しくしていてくれたみたい)

とーたんが運転しようかと言ってくれたけど

万が一事故でも起こしたら、絶対酒気帯びだから、私が。

心臓が口から飛び出るような思いで、約40分。

父は待っていてくれた。

少しだけ、血圧は回復していたけれど

間遠になった呼吸は、そう長く続かないと思わせる。

母、兄夫婦、姪っ子とその夫くん

私たちと叔母夫婦も駆けつけて

4:25頃、呼吸が止まり

先生がようやくやってきて、4:40死亡確認。

 

忘れるから書くと言ったけど、実は何度も観た映画のように

思い出せるんだよね。

冷たくなっていく手足、苦しそうな呼吸。

それでも止まってしまえば、父はもう本当に逝ってしまうんだという絶望感。

”血を分けた” ”肉親”とはよく言ったもの。

悲しみとか寂しさは時間とともに少しずつ薄れるけど

気づけば「もういないんだ」という喪失感がとにかく大きい。

これは永久に消えないのかな。

 

父と母のことを少し書いておこう。

5月に入って、面会ができるようになって

その日も母と一緒に病院に行って、実家に送っていったとき

母が今まで聞いたことがない話をしだした。

要約すると

自分は農家に嫁ぐつもりはなかった。

(それは知ってた。だから、洋裁と和裁を習って、洋裁店にお勤めしてたんだものね)

でも親は食いっぱぐれがないからと勧めたんでしょうね。

 

来てみたら、案の定

仕事ができない嫁を姑はネチネチ言い

この当時は嫁いびりなんて普通のことで、母だけが特別ではないと思うけどね。

ちなみに祖母は私たちにはとってもいいばあちゃんだったよ。

それに私が知ってる母と祖母の関係は本当の母娘のようだったんだけどね。

それはたぶん後のこと。

その時、父はと言うと

これまたあるあるで、仕事のできない嫁のことを祖母にチクっていたらしい。

ひど~い!

(介護してるとき、たまに父を冷たくあしらったのはその仕返し?)

 

私は母と寝た記憶がない。

物心ついたときにはばあちゃんと一緒に寝てたもの。

もしかしたら、それもばあちゃんが意地悪して、母からとりあげたのかもね。

 

その頃の父と母。

この写真は初めて見たぞ。

姪っ子が見つけてきて、写メしてくれた。

若い!

そして父は兄に、母は私にそっくり(逆か?)

でもこの頃の母には一切笑顔がない。

 

幼い頃の私の写真は父が撮るせいか

ほとんど父と写ったものはない。

探して見つけたのは

小学校に入ったくらいかな?

めっちゃかわいい(爆)

 

このくらいの時だと思うけど、母がいない時期があった。

幼かったから、別居とか離婚とかという言葉も知らなかったけど

母は実家に帰っていたのだ。

嫁入り箪笥を運び出したのか、運び入れたのか曖昧だけど

その記憶もあって

母は「出てきた方がいい」という姉3人の意見より

「子どもを置いてきて、これからなんの幸せがあると思う」という

両親の説得で戻ってきたらしい。

 

「あの時戻らねば、おめ(あんた)なんか後妻にいじめられだべな」

と言いながら不敵な笑み。

その後、父や祖母が母に優しかったかどうかは

2人がすでに鬼籍に入ったため、時効といたします(爆)

 

この後、父母は前にも増して

懸命に働き、私たちを育て、家を建ててくれた。

なんでも新しいもの好きだった父は

車を持つのも、電子レンジなどの家電も

よその家よりかなり早かったし

8ミリのビデオカメラや

カメラ、カラオケとうちにはなんでもあったよ^^

(8ミリのビデオテープがあれば、小学生の私やなくなった祖父母に会えるんだよね)

 

これは中学校に入ったくらいかなぁ。

この頃から丈夫になり始め

高校に入る頃にはずいぶんと…お・デ・ブ

きっと母が撮ったんでしょうね、ピンボケだもの。

 

などと思い出に浸り、楽しく綴って

いざ更新!と予定していたら

なんとあひる一家を中心に巨大台風が!

次回に乞うご期待(誰もしてない?ー爆)

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父の旅立ち

2022年07月12日 | ご報告

先月中頃、いつもの産経新聞でこんな詩を見つけ

去年の春、母が過労で倒れ

父をショートステイに預けるときに

「大丈夫、一人でも大丈夫。どこにも行きたくない」

父が同じことを言ったことを思い出した。

「母さんが入院してる間、1ヶ月だけ」

その時はそれも本心だったけど

高齢の母には退院してきても、父の介護は無理だった。

 

と記事を書こうとしていた矢先

18日の深夜「血圧が下がっています」と呼ばれ

19日午前4時40分、父は旅立ちました。

 

家が大好きだった父。

90年近く暮らした家に一度も帰ることなく

施設と病院を行き来して

最後はなにも食べられなくなり

点滴のみで過ごした父。

ようやく面会ができるようになった時にはすでに意識は朦朧として

何かいいたげに口を動かすものの、言葉にはならず。

体はやせ細って、骨に皮をまとっているよう。

「点滴外して、静かに逝かせてあげてください!」

なんども言いたくなった。

 

でも、後で考えたら

あれはずっと家族に会えなかった父が大切な人に何度も会えた大切な時間。

そして、私たちが父に触れ、体をさすり

心の準備をして、父にお別れを言う貴重な時間であったのだ。

 

前日の18日も母と二人で面会に行った。

もう昏睡状態で、酸素マスクもつけていたけれど

「来週も来るから、頑張ってね」と声をかけて、別れたばかり。

早く楽にさせてあげたい気持ちと、いざとなったらという不安な気持ち。

 

そして、私はその頃、心の中でいつも父に2つの願い事をしていた。

「夜中には呼ばないでね」

心臓に悪いし、冷静に運転していける自信がない。

もう一つは21日までは頑張って。

だって、その日金農フィーバーを巻き起こした輝星くんが

日ハムの先発ピッチャーとして、秋田のマウンドに立つんだもの。

ずっと前からチケット準備して、楽しみにしてるんだよ…

 

でも、2つとも反故にされたわ(苦笑)

姪っ子から電話がかかってきたのは深夜0時57分。

そして21日は葬儀の日。

やだわ~。

もうちょっと頑張れよっていう父さんのエール?

 

ともあれ、兄夫婦と姪っ子と力を合わせ

葬儀を終え、その後の仏事ももう少し。

来週23日の忌明けの法要で一区切り。

亡くなってしまえば、どんどん月日だけが過ぎてゆく。

 

みんなで父の動画や写真を見て、泣いたり笑ったり。

2人の姪っ子は祖父母に育てられたようなものなので

いまだにとても仲良し。

笑えるような作品がいっぱい。

 

この写真は6~7年前かな?

まだ元気で若い父母(と言っても、父84歳、母80歳過ぎってとこかな)

敬老の日のプレゼントをもらって、にっこり。

 

そして85歳の年。

田んぼをやめたこと、結婚60周年になることから

みんなでお祝い。

 

これは2年前の夏。

かなり弱ってきて、母の介護を受けていたけれど

2人のひ孫を前ににっこり。

(あひる2歳8ヶ月、ひよこ1歳7ヶ月)

 

その後は歩行器に頼らなければ、歩けなくなり

それでも、ひ孫の介助が嬉しそう。

 

その冬かな。

どんどん弱っていったね。

 

そして、春4月、母が倒れて急遽ショートスティへ。

その後、8月に

糖尿病の検査入院を経て、今度は特養に入るため

ショートステイに一時入所するときの1枚。

かなり痩せて、少し認知も進んだみたい。

なかなか、笑顔を見せてくれない。

もう家へは帰れないと覚悟してしまったのかな。

一度も家に連れて行ってあげられなくて、本当にごめんね。

 

どの写真もブログに載せたね。

元気な二人のことを書いていた時期が懐かしい。

 

葬儀は父が望んだように家族葬。

父はとってもイケメンなので

「おくりびと」さんに整えてもらったお顔はとってもきれいで穏やかだった。

遺影は10年くらい前に、自分で遺影用に撮ったというもの。

いい写真^^

 

子と孫、ひ孫に囲まれて、喜んでるかな?

 

1人でいると、いろいろ思い出して涙が出たり

もっとああしてあげればとかの後悔もあるけれど

それでも私たちができる精一杯だったのかな。

90歳まで生きてくれたこと

私の父であったこと

感謝です。

 

お留守番が続いたそらうみ。

一時体調を崩したりもあったけど、元気。

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