心身徒然話

治療家から観た心身や日頃感じた事柄を書きとめました。
(左にあるブックマークの「創健整体治療室」から概要に飛びます)

生きていればこそ

2017-09-30 15:56:50 | Weblog
キリストは、「人はパンのみにて生きるに非ず」と説いています。しかし、空気を吸い、食べ物を摂ることによって生きれているつもりになっている人が少なくありません。

人は食物を食べ、それを赤い血にし、黄色い糞にし、その赤い血を白い乳にもしながら生きているということを忘れている。

死んでいれば、食べ物を胃に押し込んでもそうはならない。しかるに、食べ物に人を活かす働きがあるのではない、人に食べ物を活かす働きがあるのです。どんなに栄養価の高い食べ物を食べても、それを吸収する力が体になければ、ただ体から出て行くだけです。

そして、人は食べなくても生きては行けますが、空気は10分も吸うことができなければ生きて行くことが出来ません。空気は、端的に生命の原動力かもしれません。

生きるとは、息をすること。その息とは、たんに空気を吸うのではなく、深く静かに息を吸うこと。それにて、虚心平気を保つことこそが、健康に生きるということと感じます。


信頼関係が大切

2017-09-27 13:06:27 | Weblog
日頃、治療をしていて感じることは、人は自らの力で快復する術を備えているということです。ただ人は、何らかの理由で本来備わっている能力を封印してしまっているのではと思うのです。そして、それに気がつくこともなく日々生活しています。

野生の世界では、医者もいないし患者もいません。日本では、出産にあたりお産が軽いと言われている犬にあやかり、戌の日に神社で安産祈祷をし、腹帯を巻いてもらうという習慣があります。神社で安産祈祷しない人でも、犬の日に神社にお参りをして安産のお守りを買ったり、腹帯ガードルを着けはじめたりします。犬の世界では、産科犬も産婆犬もいません。みんな、自分一人(一犬)で出産しその後の処理までしています。

それに比べて人間は、自分のことを自分で治そうとせずに病院に行き治してもらおうとします。本来、感覚として自分の体のことは自分が一番知っていなければならないし、知っているはずです。それが分からなくなって来て人任せになり、自身の感覚の鈍さを補うために検査のための医療機器や検査方法が発達して来ました。その結果、自分の感覚より検査データーを信頼し、診察室では患者の顔さえ見ないで、パソコンばかり見ている医者も中には居るという始末です。その医療に携わる医者でさえ、検査データーがないと診断がつかず、その後の治療方針を決めれない状態です。そんな検査機器が発達していない頃の医者は、聴診器一つで患者の異常を的確に診断したり、レントゲン写真一枚で内臓異常まで的確に診断したと聞きます。確かに、科学の進歩はすばらしく昔は助けることが出来なかった病気も、今では助けることが出来るようになって来ました。しかし、その中で私達は本来備わっている能力がどんどん退化して来ていることに、気がついていません。もう少し、心を澄まし自分の体の声を聴くことも大切ではないでしょうか。

昨年、治療室に居た私は、急に腹痛を覚えトイレに駆け込みました。段々強くなる痛みをこらえながら、何故痛くなったのか考えました。お昼に食べた物がいけなかったのかな?とか、または何かの病気なのかとか、いくら考えても分かりません。あまりの痛みに冷や汗が出る中、私は自分の体を信頼し、自然の働きによるこの症状の経過に身を委ねることにしました。その後にも、こんなに出るものだろうかと思う程、今まで経験したことが無い冷や汗は、着ている物を濡らし、トイレの床を水浸しにしていました。痛みをこらえ、1時間程経った頃にようやく腸が動き出しました。そして排泄の後、嘘の様な平安が訪れました。

この経験は、ある意味無謀な選択だったかもしれません。それくらい、途中救急車を呼ぼうか真剣に考えた程の痛みでした。しかし、自分の体を信頼し自然の経過に身を委ねた結果、何事も無かった様な清々しい気持ちが訪れたことへの体への感謝、今でも忘れることが出来ない経験でした。

人間関係で一番大切なことは、相手と如何に信頼関係を結べるかだと思います。そこで視点を変えて、自分の体との信頼関係も大切ではないかと思うのです。体の細胞一つ一つに意思も意識もあると思います。だからこそ、私達の意識・意思と関係なく体は、日々元気に生活出来る様に働いてくれています。そんな自分の体に感謝しないで、そんな働きを当たり前だと思い、他人にだけ感謝していませんか。私達みんなには、治る力があります。しかし、そこには信頼関係が重要だと考えます。