以前このブログで衆議院で移植法A案が通過したことを書きました。そのA案とは年齢制限は撤廃され、脳死を「人の死」とすることを前提とするA案です。今日の新聞(東京新聞)で『日本臓器移植ネットワークは十四日、富山大付属病院(富山市)に入院していた低酸素性脳症の六歳未満の男児が、家族の承諾により、改正臓器移植法に基づく脳死と判定されたと発表した。男児は書面などで提供の意思表示をしていないが、家族が「息子が誰かのからだの一部となって長く生きてくれるのではないか」と承諾した。移植ネットは、待機患者の中から優先度の高い患者を選定し、移植の準備を進めている。』という内容の記事が掲載されていました。 そこで再び読売新聞の記事とブログの記事を載せたいと思います。
『A案は脳死が「人の死」であることを前提として、臓器提供の条件について、書面による生前の意思表示と家族の同意を必要としている現行制度を大幅に緩和した。本人意思が不明でも生前の拒否がない限り家族の同意で臓器提供できるよう改める。現行では臓器提供の意思表示ができる年齢を15歳以上としているが、本人意思が不明でも臓器提供が可能になることで年齢制限は撤廃され、乳幼児からの臓器提供が可能となる。また親族への臓器の優先提供についても本人の意思表示ができると定めている。』(読売新聞)
本当にこれで良いのでしょうか。
脳死は、脳全体が機能を失った状態で、いかなる刺激にも反応せず、瞳孔は散大し、自発呼吸がなく脳幹反射が認められず、脳波も平坦である状態のことを示すと脳死判定法で決められています。
この中で、自発呼吸の消失を見るのに、10分間も人工呼吸器を止めるのは、医療行為として許されるのかという点が、問題になっていて常識的に考えても、10分も息を止めさせておけば身体に何らかの障害が現れそうなもので、それを意識障害の強い段階の人に対して行うことが果たして妥当であるかというということが問われています。
以前このブログで私の意見を書かせて頂きました。そこで、以前(2004年)に気になり書店で買い求めた本を紹介して皆さんにも一緒に考えて頂けたらと思いこの本の文章の一部をそのまま載せたいと思います。
PHP新書 小松美彦著「脳死・臓器移植の本当の話」より。
臓器提供者を撮った番組
そこで、別の番組に収録された臓器摘出シーンを見てみたい。ここで臓器提供者となった者は子供ではないが、摘出シーンであることに変わりはない。1990年12月15日に放映された「NHKスペシャル脳死」の一部である。番組のナレーションをよりどころに流れを追ってみよう。
1990年10月27日の夜、アメリカ・フロリダ州ジャクソンビルで、泥酔した若者が吐いたものを喉に詰まらせ、窒息し脳死と判断された。外傷はまったくなく、病院側からすべての臓器と組織の提供が家族にもちかけられた。
家族の承諾後、この病院のスタッフによって心臓や肝臓など、すべての臓器の摘出準備が始められた。隣町ゲインズビルのフロリダ大学病院から心臓移植チームが到着した。切開されてむき出しとなった心臓が大写しになる。力強く拍動している。電気メスでその心臓が摘出される。心臓は氷の詰まったクーラーボックスに入れられ、移植医は無言で持ち去っていく。ついで、肝臓移植チームの医師が現れ、同様の行為がなされる。取り出された肝臓は巨大な鶏のレバーを想像すればよい。黄褐色をしており、表面の脂肪などをぬぐった後のつややかな光沢が生々しい。こうして、腎臓、膵臓、リンパ節、動脈の一部が、それぞれのチームによって次々と取り出されると、お腹が縫い合わされる。膵臓の行き先はマイアミ、心臓の移植はもう始まっている頃である。
腹部を閉じ終わる頃、隣町のアイバンクのスタッフが現れた。両眼から角膜を摘出するのだ。その摘出シーンでは、脳死者の額には汗が無数の玉となって浮き上がっている。眼には涙があふれている。
最後に移植医ではなく組織バンクの人たちである。腕、足、皮膚、骨、関節、筋膜、それにアキレス腱など、利用できる組織はすべて無駄なく取り出される。そして、崩れた姿形を修復するために合成樹脂のパイプが入れられ、摘出手術は完了した。
以上が臓器移植のもう一つの現実である。5歳の女の子が心臓移植で助かった陰には、心臓を提供した子供が確実に存在する。前述のように、子供の心臓移植には子供の心臓が必要だからである。その摘出現場でもこれと同様の現実があったはずだ。あたたかな胸にメスが入れられ、動いている小さな心臓などが次々と抜き取られたのである。おそらくその子供も玉の汗をかき、眼には涙があふれていたのだろう。その子にも子供ながらの恋もあったのかもしれない。
『A案は脳死が「人の死」であることを前提として、臓器提供の条件について、書面による生前の意思表示と家族の同意を必要としている現行制度を大幅に緩和した。本人意思が不明でも生前の拒否がない限り家族の同意で臓器提供できるよう改める。現行では臓器提供の意思表示ができる年齢を15歳以上としているが、本人意思が不明でも臓器提供が可能になることで年齢制限は撤廃され、乳幼児からの臓器提供が可能となる。また親族への臓器の優先提供についても本人の意思表示ができると定めている。』(読売新聞)
本当にこれで良いのでしょうか。
脳死は、脳全体が機能を失った状態で、いかなる刺激にも反応せず、瞳孔は散大し、自発呼吸がなく脳幹反射が認められず、脳波も平坦である状態のことを示すと脳死判定法で決められています。
この中で、自発呼吸の消失を見るのに、10分間も人工呼吸器を止めるのは、医療行為として許されるのかという点が、問題になっていて常識的に考えても、10分も息を止めさせておけば身体に何らかの障害が現れそうなもので、それを意識障害の強い段階の人に対して行うことが果たして妥当であるかというということが問われています。
以前このブログで私の意見を書かせて頂きました。そこで、以前(2004年)に気になり書店で買い求めた本を紹介して皆さんにも一緒に考えて頂けたらと思いこの本の文章の一部をそのまま載せたいと思います。
PHP新書 小松美彦著「脳死・臓器移植の本当の話」より。
臓器提供者を撮った番組
そこで、別の番組に収録された臓器摘出シーンを見てみたい。ここで臓器提供者となった者は子供ではないが、摘出シーンであることに変わりはない。1990年12月15日に放映された「NHKスペシャル脳死」の一部である。番組のナレーションをよりどころに流れを追ってみよう。
1990年10月27日の夜、アメリカ・フロリダ州ジャクソンビルで、泥酔した若者が吐いたものを喉に詰まらせ、窒息し脳死と判断された。外傷はまったくなく、病院側からすべての臓器と組織の提供が家族にもちかけられた。
家族の承諾後、この病院のスタッフによって心臓や肝臓など、すべての臓器の摘出準備が始められた。隣町ゲインズビルのフロリダ大学病院から心臓移植チームが到着した。切開されてむき出しとなった心臓が大写しになる。力強く拍動している。電気メスでその心臓が摘出される。心臓は氷の詰まったクーラーボックスに入れられ、移植医は無言で持ち去っていく。ついで、肝臓移植チームの医師が現れ、同様の行為がなされる。取り出された肝臓は巨大な鶏のレバーを想像すればよい。黄褐色をしており、表面の脂肪などをぬぐった後のつややかな光沢が生々しい。こうして、腎臓、膵臓、リンパ節、動脈の一部が、それぞれのチームによって次々と取り出されると、お腹が縫い合わされる。膵臓の行き先はマイアミ、心臓の移植はもう始まっている頃である。
腹部を閉じ終わる頃、隣町のアイバンクのスタッフが現れた。両眼から角膜を摘出するのだ。その摘出シーンでは、脳死者の額には汗が無数の玉となって浮き上がっている。眼には涙があふれている。
最後に移植医ではなく組織バンクの人たちである。腕、足、皮膚、骨、関節、筋膜、それにアキレス腱など、利用できる組織はすべて無駄なく取り出される。そして、崩れた姿形を修復するために合成樹脂のパイプが入れられ、摘出手術は完了した。
以上が臓器移植のもう一つの現実である。5歳の女の子が心臓移植で助かった陰には、心臓を提供した子供が確実に存在する。前述のように、子供の心臓移植には子供の心臓が必要だからである。その摘出現場でもこれと同様の現実があったはずだ。あたたかな胸にメスが入れられ、動いている小さな心臓などが次々と抜き取られたのである。おそらくその子供も玉の汗をかき、眼には涙があふれていたのだろう。その子にも子供ながらの恋もあったのかもしれない。