心身徒然話

治療家から観た心身や日頃感じた事柄を書きとめました。
(左にあるブックマークの「創健整体治療室」から概要に飛びます)

もったいない。

2016-08-26 14:09:03 | Weblog
政府広報を見ると日本では年間1900万トンの食料が廃棄処分になっているそうです。これは、7000万人が 1年間食べていける量だそうです。また民間の調査では、2700万トンという報告もあります。その中で、食べられるのに捨てられているものが、年間500〜900万トンあるといわれており、金額にすると111兆円にのぼるそうです。

ほとんどの食材を輸入に頼っている我が日本は、世界で一番それをやってはいけない国ではないでしょうか。
世界的に食糧危機が危惧されているこの時期に、もう一度以前日本人が皆持っていた「もったいない精神」を真剣に見直す時期に来ていると思うのです。
古くは江戸時代に、リサイクル機構が理想的に機能し本当に物を大事にしていた時代がありました。
いつ頃からでしょうか。賞味期限・消費期限があらゆる食品に明記されるようになり、それに依存し本来人間が備えている味覚・臭覚・視覚・触覚・聴覚などの感覚が鈍って来たのは。

その賞味期限は、ほとんど製造するメーカーが決めており、たいていは表品が変質するまでの期間の3分の2を目安にしているそうです。結果、まだまだ食べられる食品が何のためらいもなく捨てられている現実があります。

私の子供の頃はそんな期限もなく、納豆は糸が引かなくなったらもう食べてはいけないとか、ご飯は臭いで判断したりとか、パンや餅はカビが出ているからとか、その物の本来の味と違うとかで判断して自分の身を守って来ました。
その中でも傷んでいるからと言って全てを捨てるのではなく、傷んでいる部分だけ除き他は食べたものです。

スーパーやコンビニの店内に陳列してある食品を見るにつけ本当に今、食糧不足で苦しんでいる世界の人々を思うとき何不自由なく口に出来る生活に感謝しもっともつと食生活を見直していかなくてはと思うこの頃です。


親も子も何かおかしい

2016-08-24 17:50:21 | Weblog
最近の事件報道を見ると今、親も子も何かおかしいと感じる。子育ての本質は「信頼関係を育てること。」信頼関係が出来ていれば自制心が働きお互いを悲しませることはしないものと思う。そこで、我が師である野口春哉先生の詩を記しますので、お読み下されば幸甚に思います。
 
 丈夫な子供達は一心に積み木をして遊んでいる。積んでは壊し、壊しては積む。彼らはその行為そのものが楽しいのだ。大人が近づく、上手に積んだことを褒める。子供はその時から上手に積むことに興味を持ち、褒められるために積むようになる。自分の為にしたことを自分で楽しむことができなくなり、大人の目に上手に映るように積む。子供の楽しみを大人が奪ったのだ。
 褒められたい為に隣の子の上手に積んだのを壊したりする。上手な子に手伝って貰うことも覚える。結果の為に行動するようになって、行為そのものを楽しめなくなる。大人が子供達の天心を壊してゆくが、大人はこのことを知らない。子供達も勿論知らない。
 こうして人間は天心に生きることから離れてゆく、天心に気づくのは天心を失ったからである。天心に気づかないのは天心が残っているからである。天心を失って天心に気づくのは天心である。人間は結局天心に生きている。


治る力

2016-08-14 15:55:59 | Weblog
以前も載せましたが、大切なことと考えますので再度投稿しました。

日頃、治療をしていて感じることは、人は自らの力で快復する術を備えているということです。ただ人は、何らかの理由で本来備わっている能力を封印してしまっているのではと思うのです。そして、それに気がつくこともなく日々生活しています。

野生の世界では、医者もいないし患者もいません。日本では、出産にあたりお産が軽いと言われている犬にあやかり、戌の日に神社で安産祈祷をし、腹帯を巻いてもらうという習慣があります。神社で安産祈祷しない人でも、犬の日に神社にお参りをして安産のお守りを買ったり、腹帯ガードルを着けはじめたりします。犬の世界では、産科犬も産婆犬もいません。みんな、自分一人(一犬)で出産しその後の処理までしています。

それに比べて人間は、自分のことを自分で治そうとせずに病院に行き治してもらおうとします。本来、感覚として自分の体のことは自分が一番知っていなければならないし、知っているはずです。それが分からなくなって来て人任せになり、自身の感覚の鈍さを補うために検査のための医療機器や検査方法が発達して来ました。その結果、自分の感覚より検査データーを信頼し、診察室では患者の顔さえ見ないで、パソコンばかり見ている医者も中には居るという始末です。その医療に携わる医者でさえ、検査データーがないと診断がつかず、その後の治療方針を決めれない状態です。そんな検査機器が発達していない頃の医者は、聴診器一つで患者の異常を的確に診断したり、レントゲン写真一枚で内臓異常まで的確に診断したと聞きます。確かに、科学の進歩はすばらしく昔は助けることが出来なかった病気も、今では助けることが出来るようになって来ました。しかし、その中で私達は本来備わっている能力がどんどん退化して来ていることに、気がついていません。もう少し、心を澄まし自分の体の声を聴くことも大切ではないでしょうか。

昨年、治療室に居た私は、急に腹痛を覚えトイレに駆け込みました。段々強くなる痛みをこらえながら、何故痛くなったのか考えました。お昼に食べた物がいけなかったのかな?とか、または何かの病気なのかとか、いくら考えても分かりません。あまりの痛みに冷や汗が出る中、私は自分の体を信頼し、自然の働きによるこの症状の経過に身を委ねることにしました。その後にも、こんなに出るものだろうかと思う程、今まで経験したことが無い冷や汗は、着ている物を濡らし、トイレの床を水浸しにしていました。痛みをこらえ、1時間程経った頃にようやく腸が動き出しました。そして排泄の後、嘘の様な平安が訪れました。

この経験は、ある意味無謀な選択だったかもしれません。それくらい、途中救急車を呼ぼうか真剣に考えた程の痛みでした。しかし、自分の体を信頼し自然の経過に身を委ねた結果、何事も無かった様な清々しい気持ちが訪れたことへの体への感謝、今でも忘れることが出来ない経験でした。

人間関係で一番大切なことは、相手と如何に信頼関係を結べるかだと思います。そこで視点を変えて、自分の体との信頼関係も大切ではないかと思うのです。体の細胞一つ一つに意思も意識もあると思います。だからこそ、私達の意識・意思と関係なく体は、日々元気に生活出来る様に働いてくれています。そんな自分の体に感謝しないで、そんな働きを当たり前だと思い、他人にだけ感謝していませんか。私達みんなには、治る力があります。しかし、そこには信頼関係が重要だと考えます。


陰膳

2016-08-02 12:30:14 | Weblog
好きな時代劇「剣客商売」のシーンで、秋山小兵衛・大治郎夫婦とその仲間による宴に亡き友人の陰膳を用意し、思い出話に和気あいあいと時が流れるシーンがありました。

陰膳を辞書で調べてみると、陰膳(かげぜん)とは、旅行や出征その他に出た不在者のために、その者が旅行中に飢えたり、危害を加えられ安全を脅かされたりしないように祈り願って、留守番がその者のために留守宅で供える膳である。 安全祈願の呪術のひとつ。「 蔭膳」とも記す。 当人が在宅時の食事のときに座っていた場所や床の間に供える。

と記されていますが、このシーンでは亡くなっている人の為に供えておりました。私は、これはこれで良いのではないかと考えます。生きている者、亡くなっている者へ寄り添う愛情であり、念であると思います。特にあの世は、想念の世界と聞きます。肉体の衣を脱ぎ、魂の世界で生活している訳で、生前の仲間の楽しい宴に自分のお膳が用意していることは、嬉しいものではないかと思うのです。多分その時、微笑みを浮かべ同席しているのではないでしょうか。