「僕は日本でたったひとりのチベット医になった ヒマラヤの薬草が教えてくれたこと」(小川康著 2011年10月 径(こみち)書房 222p)を読みました。
東洋4大医学
(中国医学、インド医学、イスラム医学、チベット医学)の
1つであるチベット医学(だそうです)
のメンツィカン
(経営本部、製薬工場、文献研究部、翻訳部、疾病研究部、生薬研究部、暦法学部がある)の
教育部、つまり大学に入学した著者。
子ども時代
「勉強ができる」では人気者になれない
と悟った著者は
心の底で「勉強ができる」ことに価値のある場を求めていたのかもしれない。
メンツィカンこそはその場だった。
5年間の学びを終えると
アムチというチベット医になれる大学。
そこは「なぜ」という問いを発することを
捨てなければならない世界だった。
入試の問題自体が
・五大仏のお名前とご身体の色と玉座のある方角を述べよ
・現ダライラマ法王が初めてインドへ行かれたのは西暦何年か
またその目的は何か
などというものが3分の2
・人間の体において、どの部位が1番大切か、その理由も述べよ
というものもあるけれど。
もちろんチベット語で答えなくてはならない。
入学後の試験も過酷だ。
・六道輪廻のなかで、なぜ天衆界でも阿修羅界でも動物界でもなく
人間界を例にとって薬師如来は医学の教えを説いたのか
・ベーケンの病が生じる外因が記された「四部医典」の原文を正確に記しなさい
(チベット語で!)
卒業試験の3日後に行われる暗唱試験ギュースムも受ける。
「四部医典」全文4万字を暗誦するのだ。
高山に分け入っての薬草採集実習もある。
101種の薬草を識別する試験も。
途中で周囲とうまくいかなくなって心を病んだり
学長と喧嘩になって日本に帰って来たり
……
終始明るい調子で書いているけれど
ひとつひとつが過酷な5年間だっただろう。
過酷な日々を明るくしか書けないほど過酷だった
ことが想像されます。