神足勝記を追って

「御料地の地籍を確定した神足勝記」を起点として「戦前の天皇・皇室・宮内省の財政について」のあれこれをとりあげる

No.93 鶴岡行

2024-02-27 23:31:15 | 余録
 この日は、5時に目がさめ、6時に市内散策に出ました。戻ると旅宿の主人があやめ祭りをやっているからと勧めてくれ、7時半あやめ園へ行きました。まだ咲き初めたばかりでしたが、それでも堪能できました。9時戻って清水園に入りました。これも予期せぬ美しさで、これだけでも新発田市を再訪したいと思いつつ10時過ぎに出て、鶴岡市に向かいました。


 あやめ園:ずっと向こうまで

 乗ったのは、新潟10時14分発酒田行の「きらきら羽越」という全席指定席の快速電車で、それがちょうど10時40分に新発田駅を発車するところでした。
 運が良ければ、こういう電車にも予約も追加料金もなく乗れるところが「大人の休日倶楽部」の良いところです。おまけに、駅のみどりの窓口の駅員が見つけてくれた座席が「1号車2C席」、つまり先頭車両の前から2列目右列の通路側でした。展望車で前がよく見え、願ってもなかなか得られない申し分のない座席でした。
 
 ところがよいことばかりではありませんでした。
 最前列の前にコップが置けるくらいの台がついています。見るとそこに、コップでなく、男の土足が乗っていました。
 こういう列車の最前列などは、マニアや子供がなんとか取ろうとしてもそう簡単に取れるものではないと思うのですが、この人は目出度く取れたわけです。それにしても、マニアにしては行儀悪いなとも思ったので上からのぞき込むと、60~70くらいのジイサンが、二人分の席を陣取ってなにかのパンフを見ながら、逆立ちするように寝そべっていました。
 あまりに異様なので、「靴ぐらい脱いではどうですか」というと、「すみません」といって靴を脱ぎました。ところが、なんとこんどは靴下になって同じことをやり続けました。
 さすがにこれでは足が当って痛かったのでしょう。台から足を降ろしたかとおもったら、今度は前の壁の方へ片足を上げ始めました。ところが、靴下ですから滑って安定しません。右へ左へと滑るものですから、足を交互に代えてなんとか安定させようともがき続けましたが、やがてあきらめ、今度は売店へなんども往復を繰り返し始めました。
 目障りなことこの上ないのと、こういう人は得てして気が小さく、恨みを持ちやすいので、村上駅の辺りで後方の席が空いたのを見て、そこに移りました。

 
  タイサンボク

 今日はここからなんです。
 13時、鶴岡に到着しました。
 さっそく、大東町にある本鏡寺へ向かいました。本鏡寺は、鶴岡公園の南側の道をそのまま南東に進み、鶴岡天満宮の先の信号を北に入るとありました。途中、ミニサイクルのバルブが破裂するという珍事がありましたが、自転車屋がすぐ近くで見つかり、まあ、無事に着きました。
 このお寺には、三矢宮松(元帝室林野局長官:明治13(1880)年10月23日ー昭和34(1959)年1月10日)の墓所があります。(墓所の写真の掲載を控えます。)
 三矢宮松は、内務省に入り、朝鮮総督府警務局長などを経て大正15(1926)年9月に帝室林野局長官に就任し、昭和15(1940)年12月退官します。

 『御料局測量課長 神足勝記日記 ―林野地籍の礎を築く―』日本林業調査会(J-FIC)の「解題」の29~30ページ辺りで書いたように、御料地がほぼ確定してその後の見直しを経て新たな発展へ向かわんとして動き出したときの長官として具に研究されるべき人です。

 三矢についての細かいことはここでは略しますが、これより前、1978年の夏前、私が立教大学修士課程2年の時、もともと経済理論を勉強していた私は、理論や歴史の勉強は、専門とする予定でなくとも、継続しないといけないと思っていました。そのことを、院生のたまり場で某先輩に話したところ、「幅を広げるためには、耳学問もいいんだよ。先生にお願いしとくよ」といって仲介してくれ、アメリカ経済論の宇治田富造先生の演習に出席させていただけることになりました。
 そうして出席したところ、やがて研究テーマが話題になって、「天皇制の経済的基礎・・・」についての研究予定を話すと、宇治田先生が、突然「それなら、理学部の三矢さんは息子だよ」と話されました。そして、お名前が「篤(あつし)」であること、お会いする手立てなどをご教示くださいました。
 さっそく予約して理学部にお伺いすると、三矢先生はいろいろの思い出話をしてくださいました。しかし、結論は、「父は仕事を家に持ち帰ることはなかったから、何もないとおもう」でしたが、「物置に何かあるかなあ」とぼそっといわれたので、お伺いして探させていたくことにしました。
 結局、何もありませんでした。手帳が1冊出てきましたので、後日、電話で伺うと、仕事のことはなにもなく、ほかはお見せ出来ないというので、あきらめました。
 いま、本棚に旧版の『米欧回覧実記』がドンとあったことを思い出します。先生に「あれを下さい」といったらよかったとつくづく悔やまれます。
 なお、物置に、槙重博『林業実務叢書』がありました。槙は、帝室林野局旭川支局監理課長を勤め、戦後は上智大学法学部教授になった人です。その本の扉に槙の三矢宮松への献辞があったので、これはお願いして頂戴しました。いまも手元にあります。
 なお、槙先生にも同じ頃に研究室にお伺いしました。
 お会いして、テーマについて「天皇制の・・・」と説明をしだしたところ、「天皇制というのは日本の君主制のことですか・・・」と突っこまれ、ケンモホロロとはこのことかと思いながら帰ってきたのが忘れられません。いまなら展開できるでしょうけど、若いの頃の「良い思い出」です。

 だいぶ長くなりました。
 本鏡寺では、住職夫人に案内していただいて三矢氏の墓所を伺いました。広い墓所の正面右〔南〕に墓碑があり、その2行目に「宮松」の名がありました。そして、順に見ていって思わず驚きの声が出ました。そこには「篤」の名も刻まれていたのです。
 篤先生の没後、墓所は東京のどこかだろうと思いこんでいましたが、鶴岡にありました。当然といえば当然ですが、驚きでした。
 ここまでにします。

 
  高く
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