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神足勝記を追って

「御料地の地籍を確定した神足勝記」を起点として「戦前の天皇・皇室・宮内省の財政について」のあれこれをとりあげる

No.393 大宝

2025-01-29 01:08:14 | 御料地
*今日はパソコンの動きが鈍く手間どっています。

(1)2~3日前「鉄道ひとり旅」という番組を見ていたところ「大宝(だいほう)」というところが出てきました。歴史で出て来る「大宝律令」は「たいほう」と読んだと思いますが、ここは「だいほう」と濁音になるようです。これを見ていて、ここが御猟場だったこと、その現場を見るために大分前にここを回ったことを思い出しました。テレビでは、御猟場のことは出てきませんでしたが、ちょっと紹介します。

(2)場所は下の地図をご覧ください。古い地図ですが、場所は茨城県です。
 地図の右に筑波町〔現つくば市〕と筑波山が見えます。大宝は、筑波町から西〔左〕へ進んで下妻市〔しもづまし〕に至り、南北に走る関東鉄道常総線で北上した最初の駅です。
 ちょっと先に全体を説明します。
 大宝から北へそのまま進むと下館市〔しもだてし〕に着きます。下館駅で乗り換えて西に行くと結城市〔ゆうきし〕を経て栃木県小山市〔おやまし〕、北へ進むと栃木県真岡市方向になります。


(3)私は、2010年10月に国立公文書館つくば分館に文書閲覧に行きました。資料については今日は触れませんが、行きは秋葉原からつくばエクスプレスに乗り、その際ミニサイクルを持っていって、帰りはミニサイクルで少し見て廻りました。

(4)明治の頃のことですが、大宝駅の西側(私が手書きしたところ)にY字形の大宝沼がありました。現在は干拓されて広い農地になっています。私が見た限りでは、もう当時の形跡はわかりませんでした。
 そして、この沼を中心とした周囲を赤く縁取りしておきましたが、ここが「鬼怒川筋御猟場」でした。御猟場というのは、漁労・接待・遊興などのために設けられていたもので、30ほどありました。
 『公文類聚第12篇 明治21年 第7巻』という文書が国立公文書館にありますが、この中の32番目の文書にここの編入のことが出てきます。編入後、明治期に9回使われた記録が出てきますが、詳しいことはわかりません。そしてその後は払い下げられて農地にされました。
 それから、「鬼怒川筋」という名前の理由は、この一帯の西の縁に沿って鬼怒川が流下しているところだからです。

(5)それから、上の地図の下館から北の真岡市から栃木県大田原市にかけては御料農地が広がっていました。この一帯の水利と農地経営についてはまたいずれ書くことにしたいと思いますが、ここは地形を確かめながら歩いた懐かしいところです。

【コレクション 153 人物20世紀】
 これは楽しいパンフです。
 大きさは縦280✕横225mmの変形です。この用紙4枚分の横長の用紙を左右から4分の1ずつを折り込み、さらに二つ折りした8㌻のパンフです。
 右から
 1㌻ 下に載せました。
 2・7㌻ 内容紹介
 3~6㌻ 代表的人物のピックアップ紹介
 8㌻ 刊行案内 体裁:A4変形 定価:15,000円 講談社刊 1998年
    

 
 以上です。
 今日はここまでです。
 パソコンがへそを曲げて、もうタイヘン。

   
    さざんか

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No.366 子持山

2024-12-16 23:46:20 | 御料地
(1)昨日載せた子持山(中央)の遠景です。ちょっと子持山のことを紹介しておきます。
   
    藤岡市稲荷山古墳上から

(2)下の図は子持山御料地測量図です。
 位置は群馬県北部で、東に利根川・上越線(敷島駅)・赤城山、南に渋川市・吾妻線、北に沼田市、西に中之条町があります。また、下の図の中央部、小野子〔おのご〕と横堀子持山の間を南北に渋川市と高山村をつなぐ道が南北に走っています。神足勝記はここを通って新潟の方へ作業を続けました。
 私は上越線の敷島駅で下車し、白井の南で利根川を渡って子持村に入って、林道の終点〔ここまで車で入れます〕から上がり、帰りは沼田市まで縦走しました。2006年頃のことです。

      出典:『子持山御料地測量簿』。少し加工してあります。

(3)縦走した経路図や地図が見つかりませんが、頂上下の写真が出てきました。
 左側の板状のところが、溶岩の貫入があったところで、地質的に注目されるところだそうです。登山経路はここを右へ迂回して頂上へ向かいますが、いくらか険しいところがあります。まあ、山ですから、どこも要注意です。
    

 (4)子持山は思いのほか人気があるようです。私が上った時は、近在の村の消防団が訓練のために集団で登って来ていて一段とにぎやかでした。
 下の写真には、「往年のスター」が嬉しそうに立っていて見苦しいので、そこは削りましたが、青い揃いの制服を着た消防団の人たちが何人か写っています。子持山山頂1296mとあります。
    
 
 あとはまたのことにしましょう。

    

【コレクション 137 築地小劇場】
 演劇のことは本当にわかりません。良い演劇を見る機会がなかったからかもしれませんが、劇場へ行って演劇を見ているとき、出演者が歩いて床がギィーと鳴っただけで興ざめしてしまいます。
 オペラとか民間芸能のようなものはそういうこともなく、むしろ引き込まれることが多いものですが、ともかく演劇はどうも。
 それとは違いますが、役者がコマーシャルに出ているのを見ます。名前が知られるようになったからか、名前を売るためか、どちらでしょうか。ともかく、そうするとその人が登場する場面でコマーシャルの場面が浮かんできてつまらなくなります。悲しい場面でコマーシャルの大笑いの場面が浮かぶとか、歴史上の重要人物を馬鹿笑いしていた俳優が叱るのを見て、あまりの違和感のために今も頭から離れないということがあります。
 
 それはともかく、「築地小劇場」のパンフです。
 大きさは、A4判、8㌻です。A4判の4枚分の横長の用紙を、最初に左右から4分の1ずつを折り込み、さらに二つ折りするとできます。
 全体は、
 1㌻ 下に掲載
 2㌻・7㌻ 復刊の辞 装丁見本
 3~6㌻ 推薦の言葉と内容見本
      松本克平 待望されていた復刻
      水品春樹 劇団と劇場一体化
      飯沢匡 西洋への窓
      山本安英 よみがえる熱い活気 *下に掲載
      千田是也 忘れ得ぬ築地の舞台 *下に掲載
      滝沢修 我が青春の記念碑 *下に掲載
 8㌻ 刊行案内 内容:大正13年~昭和5年2月
      体裁:A5判・菊判 総ページ数:約4,000㌻ 揃定価:87,000円
      2002年10月 不二出版 

        1㌻     
 

          4㌻ 
         *千田是也さんの推薦文は5㌻に続きます。すぐ右下は別人のものです。

                       
        5㌻


 以上です。
 今日はここまで。 
 
 今日の月
     
      欠け初めて 寒空にわかに 静まれり    
 
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No.364 群馬の旧御料地

2024-12-14 23:58:12 | 御料地
(1)昨日紹介した赤城山〔あかぎやま〕も榛名山〔はるなさん〕も共に御料地でした。
 赤城山や榛名山を見て、「あそこは旧御料地だった」などと思う人は、営林管理局の人の中にいるかもしれませんが、通常は知られていません。その証拠として赤城山の測量図を一つだけ紹介しておくことにしましょう。昨日の写真でいうと、「中腹部から上」にあたります。全体としては菊のような格好をしていて、中心部に大沼・小沼〔おの・この〕が見えます。



(2)『御料局測量課長 神足勝記日記』(J-FIC)で出てきますが、神足勝記が指導し、部下が出張して測量しました。
 見てわかるように、犬牙錯雑〔けんがさくざつ〕、犬の歯のように入り組んでいます。内部の行政界も入り組んでいますが、周囲の裾野の方なもっと屈曲しています。平面図〔2次元〕ですらこう入り組んでいるのですから、3次元の現場はもっと大変です。しかも、測量期は5月頃から降雪が始まる時期までです。この時期は毒虫や野生動物も動く時期です。これを測量員はひとたび踏査・測量に着手すると年に200日くらいは倦むことなく作業を続けたわけです。

(3)群馬県には、赤城山・榛名山のほかに、子持山御料地、碓氷〔うすい〕第1御料地、甘楽御料地ほかの大面積の御料地がありました。
 子持山は下の写真の中央の山です。右に見える裾野は赤城山です。榛名山はこの写真のすぐ左に隠れています。すぐ左奥に雲がかかって白く小さく見えるのが谷川岳です。
 子持山には南の敷島から上って沼田まで縦走したことがありますが、地質学的におもしろい山です。また、昇り方によってはかなり険しいところがある山です。


   稲荷山古墳の北方向:中央の白い建物が藤岡歴史館、その右向こうの木立が七輿〔ななこし〕山古墳

 それから、碓氷第1御料地は、下りの上越新幹線に乗ると安中榛名駅を出てすぐにトンネルに入りますが、その付近から北西方向に広がる尾根をたどった一帯にあった御料地です。
 また、甘楽御料地は、富岡市の南にある稲含山〔いなふくみさん〕の東側にあった小さな御料地です。すぐ南にある山に隠れていて、富岡市の市街からは見えません。
 なお、「甘楽御料地」ないしは「御料地形成過程の一断章(2)」で検索すると、私が調べたものが読めます。興味がある方はどうぞご覧ください。

    

【コレクション 135 マリリン・モンロー写真展】
 これは説明は無用でしょう。見ての通りチラシです。
 なお、大きさはB5判、1枚(2㌻)です。両面を載せます。

         表    


         裏

 ちなみに、忘れられない女優といえば、マリア・シェルとか、イングリット・バーグマンかな・・・。
 オット!今日はここで。

 1.八高線:群馬藤岡駅16:57
     

 2.稲荷山古墳から見た藤岡市市街
    

 3.稲荷山古墳付近から見た荒船山:頂上が平のところ
    

 4.今日の月:明日は満月
     

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No.210 『私の大学』 

2024-06-24 00:30:32 | 御料地
(1)【コレクション 3】
 あちこちに出かけたとき、宣伝や案内などのパンフレットが置いてあることがあります。そういうものの中には興味深いものもあったりするので、いそいでいなければだいたい見ます。そして、「いいな」と思ったものはもらってきて積んでおいて、あとからゆっくり見て楽しんでいます。雑古紙として処分してしまうものもありますが、思わぬ人が推薦者として登場していたりすることがあって、捨てがたいものが見つかることもあります。たとえば、次のものです。

   

 大きさはB5判です。どんな本かと興味を搔き立てられます。印象的です。
 このパンフレットをとってある理由は、もちろん、秩父事件に関心があるからですが、それとともに、家永三郎・遠山茂樹・江村栄一の各先生が推薦文を寄せられているからです。残念ながら、それをここに乗せるには場所が足りません。
 本について、写真の身を上げておきますから、県立図書館のようなところならあるはずですから、検索してみてください。

   

 なお、江村先生については、このブログのNo.44に相当する1月8日のあたりでも言及しました。

(2)このあと順に、いくらかほかのパンフレットも紹介する予定ですが、パンフレットがあること自体が気が付かないことも多く、ましてやそこに書かれていることなどを知る機会がないということが多いと思います。
 遊び心で、パンフレット集のような企画を受けてくれるところがないかなと思うので、その宣伝も兼ねて、このあともめぼしいのを紹介します。

   

(3)先日紹介した『言論』の関連ものです。棚から次のものが出てきました。
 『私の大学』というタイトルはゴーリキーの同名の作品を彷彿させますが、創刊は昭和21(1956)年2月です。
 手元には創刊号から6号までがあります。どの号もB5判大、50ページほどです。

   

(4)この雑誌の3号から井上清氏が農地解放関連の記事の掲載を始めていますが、上の5号で10ページに及ぶ長大なものを「皇室の小作人」のタイトルで書いています。5号は21年5月の発行です。内容は、栃木県の真岡地方にあった御料農地の実態を扱ったものです。
 御料農地は、おもにこの栃木県と北海道にありました。情報公開法によって宮内公文書館所蔵の帝室林野局の文書が見られるようになり、いくらかその実態解明の動きが出てきていますが、いまでも詳しいことは未解明で、私も『御料局測量課長 神足勝記日記』で手いっぱいで、文書収集には努めているものの、集めた文書の読み込みでさえ不十分な状態なので、井上氏の論稿には不満はあるものの、いまは言及を控えます。
 とはいえ、戦後の早い時期に、どのような調査に基づいて書かれたものかはまだわかりませんが、それも含めて重要な動向なので注目して読みました。研究される人は、ぜひ一読されたい。

 欲張って書いたのがあだとなり、きょうもまたかなりが消えいてしまいました。
 ようやくここまで修復できたので、終りにします。では。

     
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No.106 大菩薩嶺 

2024-03-11 23:45:44 | 御料地
 きのう、甲斐大和駅から大菩薩嶺へのバスを紹介しました。それに関連して、前に上がったコースの落穂拾いをしておくことにしました。まず、地図を見てください。



 地図の左に「大菩薩嶺」、その左下に「上日川峠」があります。
 右上隅に「小菅」があります。小菅から大菩薩へ2本のルートが書かれています。

 大菩薩へは、小菅から2回上がり、そのうち1回目は谷筋〔2本のうちの北の方〕を西にたどるコースを上がりました。この時は、30年ほど前で、子供を連れて上がることが目的でしたから、もう記憶が薄れています。しかし、
 最後の登りが思いのほか苦しかったこと、
 5月の連休なのに日陰がまだアイスバーン状態だったこと、
 多くの宿泊者に対応するため、晩飯のカレーが極端に薄められてスープのように流れたこと
などを覚えています。

 2回目は、小菅の南の尾根筋を上がるコースを歩きました。このコースは、登り始めてすぐが九十九〔つづら〕折れできついこと、最後の石丸峠直下が、だいぶ歩いてきてからの急登なのでかなり苦しいことがあります。しかし、コースとしては、下に見るようにおススメです。私が歩いたのは新緑の頃です。
 まず、九十九折れを上がっところに、前に紹介した朴が見えました。

  
   No.50で掲載

 つづら折れを上がれば、ずっと新緑の中をいきます。こもれびがきれいです
 


 まわりの景色も一枚お見せしましょう。秋の紅葉の時期もきっと素晴らしいはずです。


 そして、大ダワの分岐点から「牛ノ寝通り」に入ると、南側の木の間から「雁ヶ腹摺山」が見えてきます。
 
 
 それをしばらく歩くと 榧ノ尾山です。足元に気を取られて下を向いて歩いていると、気付かずに通り過ぎてしまいそうな山です。
 
  
 
 私がここを歩いて忘れられないものの一つが、次の写真です。

  
 
 逞しいですね。岩を掴んでます。この調子だと、やがて握りつぶしてしまうかもしれません。
「大丈夫」、「どこでも生きられる」といっているように見えませんか。
 ここを過ぎると、急登になります。

 では、3回目の、昨日出てきたバスで入るルートです。
 バスで来た登山者は、終点の「富士見平」まで乗って頂上を目指す人と、ここで下車して「石丸峠」を目指す人がいます。その比率は半々くらいでしょうか。
 石丸峠への道はやや急登ですが、バス半分くらいの人が上って行きますから、もたもたしているわけにはいきません。それにまだ体力がまだありますから、頑張っているうちに1時間ほどで着きます。
 少し上がると辺りが開けてきますから、振り返ると、次の景色が楽しめます。

 
        左上に富士山、右下に大菩薩湖(上日川ダム)
 
 石丸峠からは、北へと左折して「大菩薩峠」方向へ行く人、東へ直進して「牛ノ寝通り」を歩いて「松姫峠」方向へトレッキングする人、南へ右折して小金沢連嶺をたどる人に分かれます。

 このとき私は、雁ヶ腹摺山を左〔東〕に見ながら、小金沢連嶺を、小金沢山ー牛奥ノ雁ヶ腹摺山ー黒岳と歩いたあと、湯ノ沢峠から木賊〔とくさ〕に降り、神足勝記が泊まった天目山栖雲寺〔せいうんじ〕に寄って田野温泉まで歩きました。そこで、折よく温泉から出てきた人が「乗りませんか」と声をかけてくれ、甲斐大和駅まで便乗させていただきました。

 なお、前にも書きましたが、このあたりは神足勝記が巡回していますし、小金沢など御料地になったところでもあります。

 今日はここまでにします。

 



 
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