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神足勝記を追って

「御料地の地籍を確定した神足勝記」を起点として「戦前の天皇・皇室・宮内省の財政について」のあれこれをとりあげる

No.514 藤岡市史 補遺3

2025-07-12 00:43:32 | あの日
(1)せっかくの機会ですから、もう一回、自分の思い出を書いておくことにしました。
 
(2)前回、紹介した講堂のうち、一つ目は藤岡小学校(町の中心部の鷹匠町)にありました。私が入学した頃はもうありませんでしたが、隣りに立っていた教室棟の造りは写真の講堂とよく似たがっちりとしたつくりでした。
 しかも、私のクラスは一番端の突き当りで、廊下と教室の仕切りを取り外した部屋でしたから、ゆったりとしていたというか、まるで講堂で勉強しているような感じでした。そのため、私は、講堂写真をみてしばらく、「これが自分たちの3年の時の教室だった」とずっと錯覚していました。

(3)記憶というのは危ういものですが、前回、「美九里小学校」へ転校したと書きましたが、正しくは「美九里西小学校」です。
 その「美九里西小」の講堂の南にはバスケット用のグラウンドがあり、そこからちょっと南側は三名川〔さんながわ〕が蛇行していました。

(4)三名川は、昭和5年頃に、上流に2kmほどのところに三名湖〔さんなこ〕という周囲4kmの農業用の貯水池(ため池)が作られて、そちらに水が引かれるようになりました。その結果、私が転校した昭和34年のころには、すでに子供でも歩けるくらいの水量しかありませんでした。
 ところが、台風の後など大雨の後に橋の上から見ると、どこから流れてきたかというほどの大きな丸太や石がゴロンゴロンと流れて、水の恐ろしさを思わされたものです。

(5)『藤岡市史』の口絵写真に次のものがありました。
 写真の下に「三名川の洪水で流失した緑野〔みどの〕馬車鉄道線路復旧工事」とつけられていますが、三名湖ができる20年以上前、藤岡から南の鬼石町にかけて馬車鉄道がありました。右下に線路が見えます。
 馬車鉄道のことは今日は端折りますが、三名川が豊富な水量を見せて滔々と流れている様子が見えます。川が左から右に流れていますから、南の保美〔ほみ〕側から神田〔じんだ〕方向を写した写真とわかります。
 これが、三名湖ができる前の、在りし日の三名川の流れなんですね。



(6)それから、向こうの神田の方に建物が見えますが、民家にしては立派なので、初期の小学校でしょうか。後の美九里西小のあたりとおもいますが・・・。

(7)もう一つ、私が小学3年生になった昭和34年4月に藤武橋〔とうぶばし〕ができました。「藤武」は藤岡市と武州(埼玉県)を結ぶ橋という意味です。次の口絵写真はその竣工式のものです。



(8)影のようすから、右が南、つまり、手前が藤岡市側、向こうが埼玉県側となります。
 私は、この日(と思いますが)、友達と橋を見に行きました。
 現在と違って交通量もまだ少なく、式も終わって閑散としたところで、新旧の橋を見比べた時のことをよく覚えています。
 その時の印象は、写真の新橋の下(写真の左脇)に小さく見える旧橋がいまにも落ちそうなに見えて、「こんな橋を渡ってたのか」と思ったことです。
 
   

(9)私は、あちこちに故郷があり、それぞれに思うとことがあります。だいぶ曖昧になって心許ないところもありますが、ここ何回かでまたいくらか書けました。藤岡市に興味ないという皆さんには申し訳ないことでしたが、ともかく多謝。

 もう時間が無くなりましたから、今日はここで。
 
   
    何ムシ?
    ソンキョしているみたいです。モモが太いです
   
 選挙、だいぶ排外主義の様相がひどくなりました。
 関東震災の時の朝鮮人虐殺みたいなことをやらかさないように気を付けましょう。
 かつて「風聞」、今は「SNS」、ウソ、デマ、思い込み、要注意。
 とにかく、根拠も言わず、大声で主張だけするのは危険☢。
 
 ここで負ければ、戦後80年の平和主義が泣く!
 理性ある人よ、良識の人よ、がんばれ!
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No.513 藤岡市史 補遺2

2025-07-10 00:40:05 | あの日
(1)よく、「つまらない」というと「小さき知恵袋なり」と返ってきたりしますが、これと同じで、自分の郷土のことを「何にもないところだ」といえば、それは「見ようとしないからだ」となりそうです。
 どこの地方もそれぞれ歴史があり、ゆっくり読めば面白いものです。

(2)藤岡市は、いまはもう旧市街は言葉にならないくらい変貌してしまいましたが、その前の近世以降は繭集積の中心地として栄えました。ですから、三井のような江戸の大店も藤岡に拠点を定めて、埼玉県側は秩父方面まで、西上州の富岡、北の高崎方面まで手広く買い付けに出て行っていました。
 『藤岡市史』には、そういうことが書かれていますし、私が成人になるころまでは、その名残の伝統的なつくりの店や店の看板が見られました。

(3)その後、いつからでしょうか、市役所が市の中心から北のはずれに移転した頃でしょうか、次第に街並みが廃れて表通りの商店が姿を消しだしました。いまは直線になっている宮本町と鷹匠町を結ぶ道路がまだクランクで、狭いうえにずいぶん不便・危険でしたが、それが直線になり、バイパスのようになって、もうそのころにはずいぶん交通量も増えてました。
 そうこうするうちに、風呂屋がなくなり、思い出の果物屋・肉屋・荒物屋・本屋・おもちゃ屋・・・、そうだあのバス停もなくなった・・・。
 帰省するたびにそんなことを思い出しながら歩いていると、更地になった向こうに、たいそう立派な蔵が見えて、あんなのがあったのかと驚いたことがあります。
 ああ、きりがないな、途中だけどやめよう!

  

(4)とめどなく思い出されてたまらないから、かわりに、自分に引きつけて、『藤岡市史』の口絵に掲載されている思い出の写真を3枚紹介しましょう。

1.最初に、講堂2つです。
 上の講堂の右にケヤキが見えます。この木の向かって右側に3年の時の教室がありました。この時の担任は戸谷君代先生でした。
 戸谷先生には、思い出すことがあります。
 当時、父の仕事の関係で、私は町に近い母の実家から藤岡小学校に通っていました。新学年になったころ、母が妹を連れて里帰りしてきました。妹が生まれたことは知っていましたが、見たのはこの時が初めてです。ずいぶん珍しいと思ったものです。
 前にもどこかで書きましたが、私は10円もらうとそれで羊羹を買ってペロッと食べる甘党でした。それなのに、給食のパンの微妙な甘さもうまいと思っていました。それで、少し残して持って帰り、妹に食べさせてみました。すると、そこそこに食べます。それに気をよくして、そのあとも何回か持って帰りました。すると、それに気が付いた先生が、「どうして残すの」と聴きましたから、訳を話すと、「じゃあ、先生のをあげるから、それは食べなさい」と分けてくれました。
 でも、こういうのは自分のを持って帰るからいいんで、もらったのではつまらない。しばらくしては母戻りましたから、2~3回でやめたはずです。おっと! 

    
2.3年生になった時に父が戻ってきたので、5月の連休明けに美九里小学校に転校しました。
 上の写真は、校庭の西にあった講堂です。付近の篤志家(同窓生の祖父?)が寄付したものだそうです。外見だけでなく内部も立派で、体育でも学芸会でもなんでも使用に耐えるもったいない造りでした。
 ところが、私のころには、教室が足りなくなったためか、正面左わきを仕切って音楽教室に使っていました。
 入り口の左に国会議事堂のミニチュアのような建造物があります。これは国旗掲揚塔です。左の木は記憶にありません。
 不謹慎にも、私を含め、生徒がこの上をずいぶん上り下りしたものです。
 6年生の頃のことです。休み時間にここで遊んでいたところ、隣りにある中学校へ通う女の子が登校してきました。
 「なんだ、今ごろ来たのか」と思いながら見ると、
 大きくなったお腹をカバンで隠しながら小走りで駆けていきました・・・。 
 どのあたりの子か知っていたので、忘れられないことです。

3.次に、八高線です。
 長くなりましたから、もう説明を端折ります。
 上側の写真は、小学校へ入学した年の八高線の雄姿です。これは少し上ってくる感じがしますから、藤岡駅の少し北を走っているところです。高崎から藤岡に向かってきて八王子に至る「上り」です。
 SLは、動くときに「ガッチャン」と音を立てるんですね。
 これに乗って、高崎の観音様へ遠足に行ったのですが、それはもうどこかで書きました・・・。
 それから下は、同じ年に導入されたジーゼルカーの八高線です。
 私はこちらの方がよりお世話になりました。

   

 まだあるのですが、残りはまたとしましょう。
 コレクションもとりやめて、きょうはここで。
 忙しい日でした。
  
   
    かわいいねぇ!

 選挙、トランプやプーチンやネタニヤフみたいな人でない人が選ばれてほしい。それから、自公的な体質の人でない人がいい。

 失言は、うっかりではなく、大体は本音。だから繰り返す。
 戦争好き・弱者蔑視・ほら吹き・事大主義・格差助長・・・は災いのもと。
 
 選挙後はどんな世界かなぁ!

 
 

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No.481 今は昔

2025-05-18 23:46:33 | あの日
(1)きょうは、下のパンフレットに出てくる一人一人の「人物像」思い浮かべて楽しみました。もちろん、思い出す人でここに出ていない人がいますから、男女ともずいぶんたくさんの人のことを思い出しました。その中で、ふとある場面が思い出されました。

(2)学生の頃のことです。私は新宿区上落合に住んでいました。そこは、地下鉄東西線の落合駅が最寄り駅でしたが、西武新宿線の中井駅にも近く、駅付近に友人がいましたから、時々は中井駅にも行き、付近で食事をしたりということがありました。

(3)ある雨の日、やはり友人を訪ねて中井駅の方に向かっていくと、演説が聴こえてきました。近づいていくと、ガード下の道路脇に男女二人が立っていて、若い女性が傘を差す隣りで高齢の男性が演説をしているが見えました。
 人通りのあまり多くない道端のせいか、周りには誰もいません。聴衆がいない中で、見えない聴衆に向かってとつとつと語り続けているのです。その声は、当時あちこちで見られたアジ演説ではなく、静かに語りかける耳にやさしい説得型のものでした。

(4)私の目的地の中井駅は、その手前を左折します。そこで、私は曲がりしなに二人をじっと見ました。すると、女性はわかりませんでしたが、男性は見覚えがありました。
 なんと、衆議院議員もやったことのある紺野与次郎(1910~1977,67歳)という日本共産党の幹部でした。

(5)政治家は演説するのは当然ですが、へたな人もいます。このごろのフェイクはいけませんが、演説がうまいといわれる人でも、中身がアジテーション(扇動)だけの人も結構います。でも、ほんの一部を聴いただけでしたが、人通りのないところで理路背然と説いていく語り口の紺野与次郎さんの姿に感動しました。

(6)私が紺野与次郎さんを知ったのは、確かコミンテルンの関係の歴史のものでだったように思いますが、このころ紺野さんはちょうど還暦だったわけです。

(7)ほんの一瞬のことでしたが、私にとって印象深いことでしたから、きょうまた、ありし日の印象深い一場面としてよみがえってきました。
 ちなみに、当の友人は今も豊中市で健在です。彼は、確か、Z会の国語の模試(150点満点)で149点とったという逸材でした。いまは・・・確実に昔の青年。

    脇を透る 人もあるかな 野辺の花  

   
    肝要峠ー武蔵五日市の下り道で見たあやめとバッタ

     
    同じく、ジャノメチョウ
    
     
    同じく、これは?

【コレクション 237 人間の記録】
 このパンフの大きさはA4判8㌻です。A4判4枚分の横長の用紙を、一度左右から4分の1ずつを折り込み、できたものをさらに二つ折りしてできています。
 下には、そのうちの1・8㌻を載せました。残りの2~7㌻は、8㌻にある100人紹介のタイトル名、代表的な10人の略紹介などですし、また、刊行案内などは8㌻にすべて出ていますから、説明は略します。

        1㌻      


      8㌻

   
 以上です。きょうはここで。
 きょうは、このブログへのとりつきが悪くなかったですか?
 私の方は、ここ3日ほど変です。
 
    
     尾根道を降りた沢沿いで見たアオオサムシ
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No.420 福富旅館

2025-02-27 23:40:43 | あの日
(1)大船渡の山火事、拡大するばかりで終息の見込みがまだ立たないようですね。
 大船渡というと、海岸べりの「福富旅館」のことが気掛かりです。一時の恩があるからです。
 
(2)3・11東日本大震災の後、私は、被災地を自分の眼で見て学生に話すのも支援と考えて、ミニサイクルを持参して出ました。
 この時は、一ノ関駅から大船渡線に乗って気仙沼に行きました。直ちに気仙沼の一帯を見て廻り、それから南下して陸前階上〔はしかみ〕駅や海洋高校があるあたりまで廻りました。
 本当は本吉町まで行くつもりでしたが、ミニサイクルでの長丁場はムリと諦めました。
 
(3)翌日、雨がしょぼつく中を、大型船が陸に置き去りになった気仙沼を出発し、唐桑トンネル(只越峠下)を潜って、やはり雨がしょぼしょぼと降る広田湾に沿って行くと、にわか作りの橋があり、渡って陸前高田市に入りました。
 しかし、市街の一角だったはずのところに近づいても何もなく、左の山の方の高台に家が見えるだけでした。右の方をみると、松林は流されてなくなって海が丸見え、その中に「奇跡の1本松」が霞んだ景色の中で立っているのが見えました。
 コンクリート製の建物(会社・集合住宅など)がありましたが、すべて中抜け状態でした。

(3)あえぎながら通岡峠を越えて、大船渡側に出ました。大船渡駅近くまでは高台だったので被害は見ませんでしたが、くだるにつれて被害が見えてきました。
 そのころになると雨も一層ひどく降り、着用していたポンチョのために汗で内側からも濡れて、ほとんどビショビショよれよれ状態でした。

(4)しかし、濡れついでに海岸沿いを見て廻りました。今日は、盛町の方へ行って泊まればいい考えていました。
 見て廻っていると、まわりは皆押し流されて廃墟になっている中に1軒だけきれいな「福富旅館」という看板の出た建物がありました。
 怪訝に思ったので入ってきくと、やはり被害を受けたがすぐに立て替えたのだと言いました。震災からまだ4~5ヶ月の時期だったので驚きましたが、常連客があるからとのことだったと記憶しています。
 それで、思い立って一泊お願いできるかと聞くと、やはりムリでした。そこで、着替えしたいので1~2時間だけ借りることはできないかときくと、それには応じてくれ、入り口脇の一部屋と、まだ湯がはってないが、シャワーだけでもと浴場を提供してくれました。
 料金をいうと、「縁ですから」といって受け取りませんでした。

(5)さっぱりして「福富旅館」を出て腹ごしらえのラーメンを食べていると、バス停が見えました。行って見ると、ちょうど仙台行きのバスがありました。
 情けないとは思いましたが、雨模様の中を峠を二つもこえたので、さっぱりして腹ごしらえができたとたんに気力の方が持たなくなり、仙台経由で帰ることにしました。
 しかし、そのバスは陸前高田の市街を通過しましたから、自分で辿った何倍もの被災状況を見ることになり、あらためてその全容を見ました。

(6)ニュースを見ながら、まだ恩になったままだと思うことしきりです。
 大船渡、頑張れ!

    
      うめ?もも? 今日の宮内公文書館前(No.416に20日のを載せました)

【コレクション 177 日本産魚類大図鑑】
 この本は1994年10月に東海大学出版会から出版されたものですが、もう30年前の出版ですから、あのにぎやかな「さかなクン」は関係してないでぎょざいましょうね?
 書名に「日本産」とありますが、この「日本」はどこまでかというと、パンフの内側に「主として琉球列島最南端および沖ノ鳥島からオホーツク海南部まで」と説明がついています。それから、海域を示す地図から、「オホーツク海南部」というのはエトロフ島のすぐ北側までとわかります。要するに、「日本近海で獲れる魚類大図鑑」ということです。
 lこのパンフレットの大きさはA4判タテで8㌻です。A4判タテの用紙4枚分の横長の用紙を左右の4分の1を折り込み、それをさらに二つ折りするとできます。下には、1・7㌻を載せました。
 全体は、
 1㌻ 下に載せました。
 2㌻ 下に載せた7㌻と同様の原寸見本で、サケ類8種が載せられています。
 3~6㌻ きららハゼの拡大見本を中央に、
      発刊に際して 上野輝弥 国立科学博物館研究室長・日本魚類学会会長
      日本周辺の略地図
      執筆陣31人の名称(略)
      内容紹介と内容見本
 7㌻ 下に掲載
 8㌻ 装丁紹介
    推薦文 
     渡辺文雄 前水産庁長官 魚類の保存と利用に果たす役割は極めて大きい
     宮原九一 全国魚業協同組合連合会長 漁業関係者の待望の魚類図鑑
     岩井 保 京都大学教授・日本魚類学会副会長 無謀な試みの成功に驚きを感ずる   
    刊行案内 A4判 ①図版編378㌻ ②和文解説編472㌻ ③3英文解説編460㌻
        定価①+② 40,000円、①+③ 40,000円 ①+②+③ 50,000円
        1994年10月 東海大学出版会
        1㌻ 

        7㌻:A~Fはタイ G~Lはゴイ


 以上です。
 今日はここで。

    
      今日、竹橋脇のお堀で
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No.408 火災の記憶 

2025-02-13 22:23:24 | あの日
(1)今日は風が強いです。すでに火災が発生しているとのこと。火の用心!
 私は小さい時に、2度も大火を見ているので、先日のカリフォルニアの大火はもちろんですが、どんな小さな火災でも、火災というとこの時のことを思い出し、他人事とは思えません。
 このことは、一度書いた記憶がありますが、ダブってもよいので書いておきましょう。

(2)最初は、小学校入学前の6歳の頃で、「柏木の大火」といって群馬県の災害史にも出て来る歴史的な火災です。
 この火災は、神流〔かんな〕川を挟んで両岸に広がっていた柏木の集落と吊り橋がマルマル焼けるという大火でした。もう70年も前のことなので、今からみれば消防設備なども無いに等しく、もっぱら人手頼りの消化でしたから、ついには、ブキッチョの父親も自動車の荷台に乗って現場に向かいました。
 父がいつ帰宅したかの記憶はありませんが、家では、電気も止まってしまってろうそくの火を頼りに、母から、入学準備として、大澤の「お」の字を教わり、「上手だ」とおだてられながら練習していたことを思い出しました。

(3)ちなみに、自慢話になりますが、この復旧のために、竹筒の貯金箱に貯めていた700円を寄付しました。父の給料が当時まだ1万円くらいだったでしょうから、それなりの金額だったはずです。父に連れられて中里村神ケ原の西はずれにあった駐在所に届けに行ったこと、しばらくして町長から(型通りでしたが)感謝ハガキが届いたことを覚えています。
 えっ!700円はどうして貯めたかって?
 それはね、私が賢くメンコイ子供だったので、お客さんが来ると5円・10円・50円とお小遣いをくれたんです。でも、わたしは、毎日10円の羊羹を買ってぺろりと食べたあとはお金を使いませんでしたから、自然と貯まってたんですね。

(4)オット、火災でした。
 もう一度は、小学2年頃、母方の実家にいた時に、一軒おいて東隣から出火しました。
 この頃もまだ常備消防はなく、近くの公民館に1台、江戸時代のような古びた人力ポンプが大八車に乗っているだけの防火設備があるだけでしたから、ひとたび出荷すれば、誰かが火の見櫓に登ってカンカンカンと半鐘〔はんしょう〕を鳴らして周囲に知らせて、延焼を防ぐくらいのことしかできませんでした。
 延焼を免れない恐れがある場合は、被害を少しでも少なくするために、家財道具を運び出して避難させるわけです。小学生だった私もバケツやぞうきんを持って、運び出された箪笥などの脇に立って落ちてくる火の粉を監視したものです。
 それから、当時は、農家の大半はまだ藁屋根が部分が残っていましたから、出火すると火が風を呼び、風が燃え上がった藁を巻き上げます。これを消さないと、周辺の家に降り落ちて延焼原因になりますから、この時は、叔父がバケツと雑巾などをもって屋根に上がり、降りかかってきた火の粉を消して回りました。その様子は暗くてよく見えませんでしたが、あの緊張感はイヤものです。

(5)火災は、消化した後も大小のモエクジが出て来て、長く独特な臭いが残り、記憶からも消えませんね。
 もうじき春一番が吹くでしょうから、その時も注意しましょう。

     
     チーチーパッパ チーパッパ

【コレクション 167 近世子どもの絵本 江戸篇・上方篇】
 子どもや高齢者が大事にされない社会とはどういう社会でしょうか。それは、現役層が生きるのに必死な社会、最悪は戦乱の社会です。今どうでしょうか。だんだん、強いものが我を通す時代になっていないでしょうか。

 このパンフは、横長のA4判で4㌻です。言い直すと、横長のA4判2枚分の用紙を二つ折りしたものです。下には、1・2・3㌻を載せました。
 4㌻ 組見本 本書の特色
    刊行案内 A4判 2分冊 平均424㌻ 定価2万9千円

   1㌻


   2㌻:推薦文・収録作品


   3㌻:本文組方見本


 以上です。
 今日は、ここで。

   
     昨夜の月:満月

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