(1)せっかくの機会ですから、もう一回、自分の思い出を書いておくことにしました。
(2)前回、紹介した講堂のうち、一つ目は藤岡小学校(町の中心部の鷹匠町)にありました。私が入学した頃はもうありませんでしたが、隣りに立っていた教室棟の造りは写真の講堂とよく似たがっちりとしたつくりでした。
しかも、私のクラスは一番端の突き当りで、廊下と教室の仕切りを取り外した部屋でしたから、ゆったりとしていたというか、まるで講堂で勉強しているような感じでした。そのため、私は、講堂写真をみてしばらく、「これが自分たちの3年の時の教室だった」とずっと錯覚していました。
(3)記憶というのは危ういものですが、前回、「美九里小学校」へ転校したと書きましたが、正しくは「美九里西小学校」です。
その「美九里西小」の講堂の南にはバスケット用のグラウンドがあり、そこからちょっと南側は三名川〔さんながわ〕が蛇行していました。
(4)三名川は、昭和5年頃に、上流に2kmほどのところに三名湖〔さんなこ〕という周囲4kmの農業用の貯水池(ため池)が作られて、そちらに水が引かれるようになりました。その結果、私が転校した昭和34年のころには、すでに子供でも歩けるくらいの水量しかありませんでした。
ところが、台風の後など大雨の後に橋の上から見ると、どこから流れてきたかというほどの大きな丸太や石がゴロンゴロンと流れて、水の恐ろしさを思わされたものです。
(5)『藤岡市史』の口絵写真に次のものがありました。
写真の下に「三名川の洪水で流失した緑野〔みどの〕馬車鉄道線路復旧工事」とつけられていますが、三名湖ができる20年以上前、藤岡から南の鬼石町にかけて馬車鉄道がありました。右下に線路が見えます。
馬車鉄道のことは今日は端折りますが、三名川が豊富な水量を見せて滔々と流れている様子が見えます。川が左から右に流れていますから、南の保美〔ほみ〕側から神田〔じんだ〕方向を写した写真とわかります。
これが、三名湖ができる前の、在りし日の三名川の流れなんですね。

(6)それから、向こうの神田の方に建物が見えますが、民家にしては立派なので、初期の小学校でしょうか。後の美九里西小のあたりとおもいますが・・・。
(7)もう一つ、私が小学3年生になった昭和34年4月に藤武橋〔とうぶばし〕ができました。「藤武」は藤岡市と武州(埼玉県)を結ぶ橋という意味です。次の口絵写真はその竣工式のものです。

(8)影のようすから、右が南、つまり、手前が藤岡市側、向こうが埼玉県側となります。
私は、この日(と思いますが)、友達と橋を見に行きました。
現在と違って交通量もまだ少なく、式も終わって閑散としたところで、新旧の橋を見比べた時のことをよく覚えています。
その時の印象は、写真の新橋の下(写真の左脇)に小さく見える旧橋がいまにも落ちそうなに見えて、「こんな橋を渡ってたのか」と思ったことです。

(9)私は、あちこちに故郷があり、それぞれに思うとことがあります。だいぶ曖昧になって心許ないところもありますが、ここ何回かでまたいくらか書けました。藤岡市に興味ないという皆さんには申し訳ないことでしたが、ともかく多謝。
もう時間が無くなりましたから、今日はここで。

何ムシ?
ソンキョしているみたいです。モモが太いです
選挙、だいぶ排外主義の様相がひどくなりました。
関東震災の時の朝鮮人虐殺みたいなことをやらかさないように気を付けましょう。
かつて「風聞」、今は「SNS」、ウソ、デマ、思い込み、要注意。
とにかく、根拠も言わず、大声で主張だけするのは危険☢。
ここで負ければ、戦後80年の平和主義が泣く!
理性ある人よ、良識の人よ、がんばれ!