須賀尾:左方向は軽井沢 左上方向に須賀尾峠
「長野原草津口駅」から地図の左上の須賀尾峠に着くまで、休憩を兼ねて神足が歩いたと思われる旧道を探したり景色を見たりしましたが、それでも所要時間は2時間弱でしたからそれほどの難所ではないように思われるかもしれませんが、前回掲載の吾妻溪谷や丸岩に見られるように、沢筋が深く、そこを橋でつないで九十九折れに上る道なので、車道とはいえ急登で、ときどき追い越していく車もローで唸るようにして通過して行きました。
峠で
峠付近で丸岩へ行く道などあちこち見てからゆっくり下ると、20分くらいで須賀尾の入口につき、右かどに案内板、左向かいに「かどや酒店」がありました。
店番の老婦人がいたので、アイスクリームを買い、そこで座って食べさせてもらいながら、
「人探しできたのですけど、明治の頃の人で、高橋寛司という人です・・・」
というと、きょとんとしているように見えました。それで
「・・・息子さんは穂太郎さんといいます・・・」というとすぐに反応して、
「穂太郎先生なら、この下の方です。みんな教わりました」と。
予期せぬ反応に驚きながらさらに伺うと、穂太郎氏は書道の先生で、皆が教わったというくらい知られた人であること、上の地図中の「コスモ石油」より東へ下ったところに公民館があり、その近くに家があること、いまはだれも住んでいないこと、などを教えてくれました。
途中、郵便局や金物道具店などで位置や状況を聞き、ようやく到着しました。
家は、まだ人が住んでいておかしくない状態と思われましたが、やはり留守でした。そこで、隣家に入って伺うと、墓地は奥にあること、ご子息の巌氏が先の東吾妻町に住まわれていることを教えてもらえたので、とにかくお会いするべく急ぎました。そうして巌氏(83歳?)にも巡り合えたというわけです。
しかし、巌氏は、進学のため早くに家を出たこと、なおかつ穂太郎氏が55歳で亡くなったため、ほとんど来歴などを聴く機会がなく終わってしまったこと、などを話されただけで、詳しいことはわからずじまいでした。
なお、後日、巌氏からいただいたお手紙は達筆な毛筆書きでした。妹さんは中央の書道界でも知られた書道家である由ですが、名前を亡失した。
岩櫃山:直下から 、
もうちょっと書きます。
高橋寛司について「わからないなりにわかったこと」は、『明治十年 進退録 三』(宮内公文書館蔵)の中の
「第二号 村瀬義孝外二十八名加田範彦外十九名当分雇ニ雇用ノ件」
「第二七号 当分雇藤田一郎外五十六名解雇ノ件」
に名前が出て来ることです。
残念ながら、私はこの辺りの事情に通じていないのでうまく説明できませんが、この時期、明治9年の熊本神風連の乱や、10年の西南戦争などがあり、東京・皇居の守りが手薄になる・なったので県令に推薦させてそれを一時採用したということらしいです。
つまり、群馬県は「県令楫取〔かとり〕素彦」に命じて「群馬県平民高橋寛司」が採用されたわけです。
この間に、高橋の場合は、どういう経緯でか、神足の同郷人(熊本県)の川上虎雄と知り合い、その縁でつながりができたと見られます。
そして、要するに高橋寛司らは、就活のネットワークをたどり・たよって、あちこち駆け回った・まわり続けたわけです。これは「壮士」といわれた人たちの一端を示すものと思われますが、しかし、それでは家業に実が入らず、家族としては困ったものです。そういうこともあって、たびたび上京と帰郷を繰り返す高橋に対し、神足は、明治41年3月12日の項で、やって来た高橋に次のように言ったと書いています。
「高橋寛司に、郷地に在りて実業に専ら心を委すへきを勧告す。」
まだ、高橋寛司に関して正確な像を描けているわけではありません。あくまで「材料提供」という程度です。
巌氏から群馬県の「人物誌」のコピーを頂戴しました。私はまだ現物を見ていませんが、1300ページを超える大著です。そこには穂太郎氏のことも書かれています。寛司よりは詳しいですが、穂太郎氏のことも、書道の先生としてみんなが教わったというほどには調べられているとは言えません。ぜひ、郷土の正確な記録を頑張っていただきたいと思います。
ここまでにします。
花はみな「自分が主役」と咲いています。
人もそうであるべき・・・