きょうは、村尾履吉という人に関わって少し書きます。
村尾履吉氏は勝記の二女友子さんの夫だった人です。
『御料局測量課長 神足勝記日記 ―林野地籍の礎を築く―』-』日本林業調査会(J-FIC)では、40年5月18日に結婚したことと、大正9年5月17日に亡くなったことのほかは、ほとんど割愛しました。
その理由は、結婚直後から村尾氏と勝記の間で問題が生じ、両者の仲介の労を取った鈴木民作〔技手〕らを挟んで調停が図られるなどのことが度々ありましたが、その正確な理由がはっきりしないというのと、もちろん、家内の問題は測量事業とは直接の関係がないからです。
そのうえで、日記を編纂しての私の「印象」では、もめた「非は村尾氏にある」です。
重ねて言いますが『勝記日記』に記されている限りでです。
たとえば、友子さんが里帰りをして18時に帰宅予定であったものが、それより前でなく、遅れて帰ってきたことがありました。それを、時間を守ら守らないと考えたか、途中でなにか〔内緒・不義でも〕あったと考えたか、その辺がよくわかりませんが、少なくとも友子さんの身を心配してというよりも、勘繰る。そして、そういう躾〔しつけ〕をした親の育て方・・・というようなことで一方的に腹を立てる。それも、どうも勝記氏の我慢を超えるようなひどい言葉で言い立てたらしいのです。しかも、一度ならずそれがあったようです。
これには、結婚後になかなか子ができなかったことも理由があるように見受けられましたが、ともかく正確なことがわかりませんから、勝記にとっては重大な親族問題でしたが、思い切って割愛しました。
なお、友子さんの死についての勝記の考えがわかる5月17日のところは丸々残しましたから、これで推し量ってください。
調べたところ、村尾履吉氏については、関東大震災の際の朝鮮人被害者の埋葬で顕彰されるという別面があることがわかりました。
これは、神奈川県歴史教育者協議会のホームぺージに掲載されていることですが、同会が2014年11月29日に横浜市にある三沢墓地などを調査しました。
それを一部紹介しましょう。
「三沢墓地は、関東大震災で亡くなった朝鮮人の遺体が積まれていた空き地での跡です。道を隔てた向
かい側は当時海軍大佐だった村尾履吉氏の広い邸宅となっており、村尾大佐は近隣の方に閣下と呼ばれ
る人望のある人だったそうです。
・・・村尾氏は乱雑に扱われれる遺体を見て心を痛め、翌1924年9月1日そこに木搭を建て、近くの陽光院という寺で犠牲者を追悼する法要を営みました。
・・・その後1933年に、村尾履吉氏は三沢墓地の朝鮮人埋葬墓地の近くに2坪の土地を買い、朝鮮人墓地を建設しました。」
戦後後,1945年5月村尾氏は亡くなりますが、家を継ぐ男子がなかったこともあり、その遺骨は5年間自宅に於き、その後自ら建てた朝鮮人墓地に埋葬するように遺言しました。」
さて、遺体が自分の家の向かいに無造作に積まれるといったことがあれば、人間の遺体でなくとも、なにかをするのではないでしょうか。ましてや9月のことです。何もせずには住めない・・・。どうでしょうか。
それから、この最後の遺言はどういう意味でしょうか。
よく分かりませんが、関係者は、この朝鮮人墓地を村尾家の墓地に改装して村尾氏の遺骨をおさめ、朝鮮人の遺骨は東北区菊名にある蓮勝寺に移転させたということです。
?納得いきますか?
関東大震災は大正12〔1923〕年9月です。友子さんは大正9〔1920〕年に亡くなっています。
村尾氏が友子さん亡き後にどんな思いで生活していたかを知るすべはありません。また、多数の被災者を悼んで追悼するのは立派です。しかし、それをもってしても「人望がある人」という判断になるのかどうか、いささか違和感があります。
というのは、勝記のご子息勝孝氏の『勝孝日記』昭和15年9月23日の項に次のようにあります。
「・・・豊岡を経て・・・10時江原着。・・・11時、三方村芝の村尾・・・宅を訪ね、亡姉村尾友子墓に参
詣。墓所浄土寺にて昼食の馳なしになり・・・」
調べたところ、豊岡市飯高町芝に浄土寺がありました。ここに村尾家の墓所があり、友子さんはそこに埋葬されたのでしょう。それなのに、村尾氏は友子さんの近くに葬るようには遺言しなかったようですし、あるいは、自分の近くに友子さんを改葬するようにも遺言しなかったようです。
はて、このあたり、どう理解すればよいでしょうか・・・。
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