神足勝記を追って

「御料地の地籍を確定した神足勝記」を起点として「戦前の天皇・皇室・宮内省の財政について」のあれこれをとりあげる

No.91 渡辺廉吉

2024-02-25 23:57:11 | 勝記日記
  
 24回目(12月19日)に同じ場所で撮ったのを載せました

 コロナの前、新潟から日本海沿いに北上してみることにして、まず長岡市を尋ねました。
 この時、昨日書いた運送会社のことについて、記憶をたどってみましたが、半世紀以上がたっている町並みをみても手掛かりは何もなく、あきらめて直ちに渡辺廉吉の記念館を尋ねることにしました。

 渡辺については、『御料局測量課長 神足勝記日記 ―林野地籍の礎を築く―』日本林業調査会(J-FIC)の「人名録」に挙げておきました。また、没後の大正14年2月16日の項に神足の「感慨」も出ていますから、ぜひご覧ください。

 渡辺は、嘉永7(1854)年に長岡で生まれ、大学南校で神足らと出会い、ともにドイツ語の部で学びます。その後は分かれて、行政・法制・政治の方に進んで活躍し、貴族院議員もつとめますが、不幸にして事故で亡くなります。
 
 渡辺の記念館は、長岡市御山町の「長岡市郷土資料館」にあります。JR長岡駅から東南方向に直線距離2kmちょっとのところにある悠久山公園の中にあります。記念館はお城の形をしていたような記憶があります。近くに長岡大学とあるのが見えますが、正確には「Map悠久山」で検索してみてください。

 館内には渡辺の遺品が展示されていました。
 写真左の「記念碑の置物」が渡辺の記念碑の模型です。下にその碑文の写真を挙げておきましたからご覧ください。ほかは渡辺の著書や身の回り所持品です。

 私が注目したのは、次の日記です。
 神足が日記を書き始めるのは明治6年からですが、渡辺は上京する明治4年9月から日記をつけていて、それを神足が借りて読んだことが出て来ます。残念ながら、初期のことなので、上記の『神足日記』ではその部分は割愛しましたが、神足がなぜ書き始めたのかはどこにも書いてないので、それを考えるためにも、ぜひ渡辺のもの〔後の人の筆写〕を見たいというのが訪れた理由でした。
 もちろん、現在は『渡辺廉吉日記』(小林宏・島義高・原田一明編)で翻刻されていますから読むことができますが、原本の所在が分からず、「この日記〔下の写真〕はすべて後人が筆写したもの」(上記『日記』の「解題」456ページ)です。


 郷土資料館を出て、公園の北の方にある渡辺の碑を見ました。
 全体を写したものは判読が難しいので、部分ですがこれをご覧ください。


 渡辺廉吉の碑
 公園を出てあちこち周辺も歩きました。
 レストランの庭付近に見えたのが上の花です。ねむの木でしょうか、よくわかりません。おそらく、この時初めて実物を見たのだろうと思います。
 何とも言えず繊細な感じを受けました。
 それから近くの池の脇で休んでいると、オカリナを吹いているのが聞こえてきて、ゆったりとした気分を味わうことができました。

 最後になりましたが、神足は明治19年9月に長岡に巡回に訪れています。そして、東の奥只見に入り、「八十里越」から只見町に入り、桧枝岐に向かい、さらに会津駒ケ岳に上り、降りて尾瀬に入ります。そして、尾瀬を抜けて群馬・伊香保へと巡回を続けました。
 今日はここまでとします。
 




 
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No.90 周遊

2024-02-25 00:08:55 | 余録
  朴:まだ蕾 
 1966年夏、8月私は自転車で新潟・長野を周遊に出ました。
 周遊というと聞こえがよいですが、手持ち資金が1500円しかなくて2泊3日を過ごすという野宿の旅です(アルバイトの時給が200円前後の時代です)。宿泊を予定しない、ともかく行って帰ってくるというだけの夢中の旅行でした。
 実は、これより前、高校に進学して八高線で通学することになり、駅までのアシとして自転車を新調することになりました。その際、普通の自転車ではなく、8段切替〔前2段✕後4段〕でドロップハンドルの自転車を買ってもらっていました。
「え! 思い立った理由?」
「セイシュンですよ」。


 ろうばい
 細かいことはまたいつかにして、行程だけ書きます。
 1日目:
 藤岡―前橋ー渋川ー沼田ー月夜野ー赤谷湖ー三国トンネルー二居トンネルー湯沢ー小出ー小千谷ー長岡
 感想:
 赤谷湖あたりが苦しかった~。
 三国トンネルを潜ったら、異郷へ来たことを思い、腹がすわりました。
 湯沢の辺りの眺望がよかった~。
 長岡へは暗くなって着いて、夜中に居ても怪しまれないところを探しました。
 結局、どこか不明ですが、運送屋のトラックの荷台に寝ました。
 ところが、寝付いたころ「プ~ン・プ~ン」と攻撃が始まって、追っては眠り、やられては起きての繰り替えしの末、「無事に」夜が明けました。

 2日目:
 長岡ー柏崎ー姉崎ー上越(高田―新井〕ー妙高ー野尻湖ー信濃町ー豊野ー長野ー更埴―坂城―上田
 感想:
 長岡を出て、田中角栄で有名となった「河川敷はどこか」と思いながら柏崎を目指し、佐渡へ行くフェリーの発着場に着きました。
 時間はあるけど手持ち不如意。乗降改札扉前で「いつか又来る」と決意して方向転換しました。
 もちろん「糸魚川へ行っちゃおうか」とも思いましたが、「理性」に勝てませんでした。
 妙高高原の辺りではひどい雨。坂道を登りながら転倒し、指先を車が通過して行きました。
 ナウマンゾウ発掘の野尻湖脇を通過、長野に入っても何も見ることなく、上田に着。
 上田では、長岡の経験を生かして?蚊が来ないところを探し、結局、駅の待合所の端っこに居ることにしました。快適でした。
 「御恩、forever! いまも忘れてません。」

 ちなみに、先年「上田に戻りたい」と学生が相談に来たので、無事に送り込みました。
 「元気でやっている」旨の報告を得ています。
 苦労した分だけ、私の指導力はたいしたもんです。(自画自賛)

 3日目: 
 上田ー小諸ー御代田―軽井沢ー碓氷峠ー松井田ー安中―富岡―吉井―藤岡
 感想:
 上田を出て、御代田の登りが苦しかった~。
 軽井沢は通過しただけ。碓氷峠はいまの旧道で、例の信越線の橋梁などを見ながら、なおかつ落石とダンプの通行を気遣い、自転車のブレーキがバカになるのを注意しながら無事下りました。

 なにかをやるときに、カッコから入る人がいます。余裕があるからできることなので、うらやましいといえばうらやましいことですが、私はそういうことがまずありません。思いついたら、あり合わせでまずやってみる。ですから、ときどきエラク場違いな感じの時があります。
 自分でいうのもナンですが、このブログもそうではありませんか。
 
 この時の周遊は、その後の自分の行動様式を象徴しているように思います。
 つづきは明日に。


 孫譲りの元首




 
 
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