24回目(12月19日)に同じ場所で撮ったのを載せました
コロナの前、新潟から日本海沿いに北上してみることにして、まず長岡市を尋ねました。
この時、昨日書いた運送会社のことについて、記憶をたどってみましたが、半世紀以上がたっている町並みをみても手掛かりは何もなく、あきらめて直ちに渡辺廉吉の記念館を尋ねることにしました。
渡辺については、『御料局測量課長 神足勝記日記 ―林野地籍の礎を築く―』日本林業調査会(J-FIC)の「人名録」に挙げておきました。また、没後の大正14年2月16日の項に神足の「感慨」も出ていますから、ぜひご覧ください。
渡辺は、嘉永7(1854)年に長岡で生まれ、大学南校で神足らと出会い、ともにドイツ語の部で学びます。その後は分かれて、行政・法制・政治の方に進んで活躍し、貴族院議員もつとめますが、不幸にして事故で亡くなります。
渡辺の記念館は、長岡市御山町の「長岡市郷土資料館」にあります。JR長岡駅から東南方向に直線距離2kmちょっとのところにある悠久山公園の中にあります。記念館はお城の形をしていたような記憶があります。近くに長岡大学とあるのが見えますが、正確には「Map悠久山」で検索してみてください。
館内には渡辺の遺品が展示されていました。
写真左の「記念碑の置物」が渡辺の記念碑の模型です。下にその碑文の写真を挙げておきましたからご覧ください。ほかは渡辺の著書や身の回り所持品です。
私が注目したのは、次の日記です。
神足が日記を書き始めるのは明治6年からですが、渡辺は上京する明治4年9月から日記をつけていて、それを神足が借りて読んだことが出て来ます。残念ながら、初期のことなので、上記の『神足日記』ではその部分は割愛しましたが、神足がなぜ書き始めたのかはどこにも書いてないので、それを考えるためにも、ぜひ渡辺のもの〔後の人の筆写〕を見たいというのが訪れた理由でした。
もちろん、現在は『渡辺廉吉日記』(小林宏・島義高・原田一明編)で翻刻されていますから読むことができますが、原本の所在が分からず、「この日記〔下の写真〕はすべて後人が筆写したもの」(上記『日記』の「解題」456ページ)です。
郷土資料館を出て、公園の北の方にある渡辺の碑を見ました。
全体を写したものは判読が難しいので、部分ですがこれをご覧ください。
渡辺廉吉の碑!
公園を出てあちこち周辺も歩きました。
レストランの庭付近に見えたのが上の花です。ねむの木でしょうか、よくわかりません。おそらく、この時初めて実物を見たのだろうと思います。
何とも言えず繊細な感じを受けました。
それから近くの池の脇で休んでいると、オカリナを吹いているのが聞こえてきて、ゆったりとした気分を味わうことができました。
最後になりましたが、神足は明治19年9月に長岡に巡回に訪れています。そして、東の奥只見に入り、「八十里越」から只見町に入り、桧枝岐に向かい、さらに会津駒ケ岳に上り、降りて尾瀬に入ります。そして、尾瀬を抜けて群馬・伊香保へと巡回を続けました。
今日はここまでとします。