神足勝記を追って

「御料地の地籍を確定した神足勝記」を起点として「戦前の天皇・皇室・宮内省の財政について」のあれこれをとりあげる

No.244 ペスタロッチ

2024-07-28 00:07:15 | 追憶
(1)きょう、夕食時に7時のニュースを見ようとテレビをつけると、オリンピックの柔道をやってました。見ると、男子60kg級の準々決勝でした。
 私も、中学の頃は柔道を少しやりましたから、一応のルールはわかります。
 観ていると、寝技に入り込んで、外国人選手が日本人選手を絞めはじめました。しかし、日本人選手が相手の足をしっかりとらえていて、膠着状態になっていました。
 こういう場合、審判は「待て」と宣告して立ち技からやり直しをさせるものですが、なかなか中断させません。状況をどう判定するかは審判次第です。ようやく「待て」と宣告しました。
 ところが、どうしたことか、外人選手は止めずに攻め続けました。その間3~5秒ありました。そうして二人の体が離れましたが、その時、日本人の選手は、一瞬畳の上にあおむけになりました。すると、審判は、「待て」の後も攻め続けた外国人選手を責めるのでなく、あおむけになった日本人選手をみて、「絞め技で落ちた」と判定したようで、相手選手の勝ちを宣告しました。
 これには当の日本人選手は納得がいかず、協議後の握手もしませんでしたし、長いこと畳の上を往復して抗議の意思を示していました。しかし、なすすべなく、受け入れざるを得ませんでした。
 見ていたかぎりでは、誤審と思いました。ただし、選手は、試合中は一瞬たりとも畳の上であおむけになるべきではありません。これは心構えの問題としてです。

(2)というわけで、昔から私が応援するとその選手はだいたい失敗するか負けるので、いまはもうほとんど見ません。見るのはニュースでくらいのものです。たまたまみても、それでも今日のようなことが起こりますから、後味が悪い・・・。

    

【コレクション 32】
(1)きょうはペスタロッチです。
 「No.236 アンナ」で『ペスタロッチにふさわしき妻アンナ』(ザイファルト著 長田新訳 玉川大学出版部 1957年)の記憶のことを書きました。
 ペスタロッチについては、いつのことであったか、古書店で『隠者の夕暮 シュタンツだより』(ペスタロッチー著 長田新訳 岩波文庫 1996年)に気が付いたので買って読んだくらいで、このほかには、ペスタロッチについても、教育についても語るだけのものは持っていません。しかし、確かパンフレットを持っていたはずだと気が付いて探したところ出てきました。次のものです。
 なお、私が記憶していた書名では「ペスタロッチ」でしたが、下のパンフレットも上の文庫版も「ペスタロッチー」です。
    

(2)このパンフレットは、B4判用紙を二つ折りしたものでB5判大で、表紙とも4㌻です。体裁は、
 1㌻ 上掲
 2㌻ 上段 岩波書店 復刻にあたって
    下段 長田新 ペスタロッチー傳を送り出して 〔下に掲載〕
 
 
 3㌻ 組方見本
 4㌻ 刊行案内 1985年1月刊 平均566㌻ 全5巻33000円 信山社
    装丁見本
 以上です。

(3)父は、小原国芳の「全人教育」という考え方に共鳴して、私を玉川学園の小学校に入学させたいと考えていたと話したことがありました。しかし、小学生に一人で親元を離れて、寮なり寄宿舎で生活させるなど、そもそも経済的にできるはずがありませんでしたから、次善の策として、少しでも町に近い母方の実家から藤岡市立藤岡小学校へ入学させる途を選んだのだと思われます。

(4)3年生からは一緒に住むようになりますが、1・2年は祖母のもとから通学したわけです。しかし、私の幼少時は野山を駆けずり廻るばかりの生活で、勉強する習慣がありませんでしたから、父はがっかりしたと思います。
 「父兄会」といわれた当時のこと、母が学校に面談に行くと、担任が「家でどのくらい勉強させているか」と聞いたそうで、これに対して「勉強などしたことがないです。帰るなりカバンを放り投げて遊びにいってしまいます」と答えたところ、「家で何もやらずに、学校の勉強だけであれだけ出来ればたいしたものだ」、「やればもっとできるようになる」と言ったとか・・・。

(5)そればかりか、小学校高学年になるとますますそれが進んで、日々に化石・石器・土器などを探しにうろついているばかりか、おまけに、悪意はなかったものの、ひと騒ぎもふた騒ぎも起こしてしまうので、「自分の子はほかのことは違う」と自慢して育てようとしていた父も、辟易していたかもしれません。
 これは、自分が子育てをしてみてわかるようになったことです。同時に、『隠者の夕暮 シュタンツだより』を拾い読みして気が付いたことでもあります。
 子は親から様々な影響を受けますが、親も子から多くを学びます。ものごと、何か一方的に作用するということはありません。必ず相互作用の中にあります。そう考えると、父には気の毒なほど不出来な子であったかも知れないと思われ、この年になって申し訳なく思うことがあります。
 過ぎてしまったことではありますが、年の功で見えてくるものもありますねぇ。
 では、ここで。
 
    
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No.236 アンナ

2024-07-20 00:49:55 | 追憶

    北桔橋門脇

(1)きょうは宮内公文書館へ閲覧に行ってきました。
 この間、『例規録』という御料局(のち帝室林野局)内の制度・職員規定・会計手続きなどに関する文書の閲覧をしてきましたが、きょうようやく一覧し終りました。
 『御料局測量課長 神足勝記日記』(J-FIC)にも書きましたが、皇室財産というのは(ここでは宮殿とか離宮などのことでなく、御料地・御料林といわれている収益用の財産のことですが)、「皇室費の不足を補うために当時の官有財産・官有地から編入・設定されたもの」です。ですから、私は皇室財産のことを「皇室費を補完する官有財産」と呼んでいます。これには、のちには有価証券(国債・株券・社債券など)を編入し・買い入れして収益を図ります。つまり、片足は「金融資産による収益」において利殖を図り、もう一方の足は御料地経営に置いて収益を図りました。そして、御料地という場合に、原野や農地などもあり、その一部は貸し付けと払い下げをしましたが、大半は山林経営などで、それは、皇室財産とか宮内省とかいうと、何か国営事業のような印象を持たれるけれども、その実態は、成り立っていればよいという程度の経営ではなく、年々相当額の収益を求められた経営(今いうところの「ものをいう株主」がいる経営のさきがけ)で、しかもほかの一般企業に伍しての資本主義的経営をせざるを得なかったわけですから、その側面を突き詰めてみることが必要なはずです。 
 これについてまだ十分な解明がありませんから、その性格規定は今後の研究と解明によって変わる可能性がありますけれども、ともかく、その経営実態を資本としてを見てみる。御料局(帝室林野局)の事業を資本主義に即応すべく努力している過程とみて解明を図ってみる。これが当面のネライです。
 もちろん、天皇・宮内省という看板を背負っていますから、当時の財閥などとは違う側面を示すことが多々あります。しかし、まずは経営実態を見てみる。周りが資本主義経営をやっているときに、殿様経営では追いつかない・伍していけない、そこに御料局の持つ特殊性が見えてくるはずだ、というのが主眼です。
 その場合に、その特徴がどこに見えて来るかといえば、やはり制度面、これが差し当たりの焦点です。そして、その点についての文書を考えるなら『例規録』は重要な簿冊です。きょう、その一覧が終り、ようやく全体を視野に入れて考える準備作業ができたことになります。 
 民間企業と違う事業分析のネックが押さえられたというわけです。まだまだ、これからですが・・・。
 
【コレクション 25】
 きょうは、アンナです。
   
    アンナ 船越保武作 1970年
    水沢市 高野長英記念館所蔵

 これは、長崎の聖人像などで有名な船越保武氏の作品です。
 岩手県北上市の南西方向に遠谷幅〔とおやはば〕御料地ほかの小さな御料地がありました。
 旧御料地までは鉄道から少し離れているので、夏と冬の2回立ち寄りました。
 このうち、夏はミニサイクルを曳いて山奥の夏油〔げとう〕温泉まで遠足しました。また、冬は、冬も雪の中を途中まで行きましたが途中で止めて、水沢市にある高野長英記念館に行きました。Z項で知られた木村栄記念館や齋藤実記念館にも足を延ばしましたが、お目当ては高野長英でした。
 記念館に入るとすぐのところに上掲の像がありました。なんだろうと見ると、船越保武作とありましたから感動しましたが、高野長英との関わりはよくわからず、少し違和感を覚えながらの観覧となり、高野長英の印象が薄くなってしまいました。

 ちょっと話が変わりますが、アンナというと、むかし父の蔵書に『ペスタロッチにふさわしき妻アンナ』という本があったのを思い出します。
 父は、玉川大学の通信教育で小学校の教員免許を取得しようしたことがありました。そのために、朝4時起きをして新町駅(現群馬県高崎市)まで自転車を4kmこいで、それから東京の小田急線玉川学園まで通いましたが、その当時はまだSLで、片道4~5時間かけての通学には体がもたなかったのか、諦めたようです。
 しかし、玉川大学の小原国芳の教育理念である「全人教育」に多少共鳴したようで、関係する本が本箱にありました。『ペスタロッチにふさわしき妻アンナ』はその一冊だったのでしょう。不思議なタイトルの本だと思いながら、開いて見た日のことを思い出しした。
 では、ここで。

 
  クコ
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No.220 日本改造法案

2024-07-03 23:48:56 | 追憶
【コレクション 11】
    
    B5判 36ページ(本体24ページ、残りは予告や広告)

 これは、劇団民芸が1972年3月から7月にかけて上演した「日本改造法案 北一輝の死」のパンフレットの表紙部分です。
 原作は松本清張、演出は村山知義、出演は、北一輝に瀧沢修、譚人鳳に大滝秀治、大川周明に水谷貞雄、西田主税に鈴木智、池田斉彬に清水将夫の名が見えます。
 パンフの中のおもなものを上げると、
1.松本清張 私の北一輝論
2.村山知義 一つの悲劇
3.解説 日本改造法案<北一輝の死>
4.滝沢修 ふたたび革命家を
5.役者紹介 声のよくひびく俳優 水谷貞雄
       たくましい膚ざわりの鈴木智
6.舞台写真
7.対談 北一輝をめぐって (出席:久野収・松本清張/司会 宇野重吉) 

 以上、当時の名だたる人による作・演出・出演です。
 この当時、私は20歳そこそこですから、どの人も相当な年配の人たちと見えました。それから半世紀余を経た現在、ここに出ている人たちはいずれも現在の私の年齢と同じか下になりますから、こんなに若かったのかと驚きを禁じ得ません。
 私がこれをいつ見たのか、詳しい記憶はありませんが、このころ私は野村證券渋谷支店で相場書きのアルバイトをしていましたから、アルバイト仲間か、仲良くなった同年代の従業員の皆さんと一緒に、同じく渋谷にあった東横劇場へ行ったものとみられます。東京では東横劇場で4月4日から26日の間に上演していたことが上のパンフレットでわかります。
 実際、その時に会場で拾ったものと思われる、B4判より少し大きめで4ページの「月刊 民藝の仲間」という広報紙があります。紹介しましょう。
 周囲の余白と株の一部が欠けていますが、画像をできるだけ大きくしておきますから、読めそうなところを読ん見てください。左に出ている清張の写真が実に若いです。



 なお、パンフレットの対談のところに北の3兄弟の写真がありましたから、これも紹介しておくことにします。
   
     左から、昤吉・一輝・昌作

(1)きょう、画期的な最高裁判決が出ました。屈することなく意見を主張する人の思いがまた歴史を切り開きました。
    
    路傍の碑 道を説く 群馬県藤岡市浄法寺で

(2)「日本改造法案」の上演の頃、ベトナム戦争がひどかった。しかし、ベトナム人民は屈しなかった。こんな痛快のことはなかった。
 理不尽なものがまかり通るほど悔しいものはありません。今の日本はどうか。
 まず、都知事選。ひどすぎます。
 これをやめさせる方法は、皆で投票に行き、一番であるべき人を一番にすることです。
 そうすれば、次からはなくなります。きっと。

(3)首相の交代劇、作者も演出者も出演者もみな従来の政治を続けようという人たちです。
 従来の政治とは「アベ政治」のことです。
「アベ政治を許さない」という金子兜太さんの言葉を忘れないようにしましょう。
 そして、自分の中に染み込んでいる「アベ的なシミ」を洗い出しましょう。
「そのシミがアベ政治を延命させる原因」だからです。
 では。
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No.214 私は先生

2024-06-28 00:03:13 | 追憶
   
  ねむの花:きょうの多摩川べりで。風のためにかなり痛んでます。
 No.91で長岡市の悠久山公園のねむの花を紹介しました。
 多摩川で気が付いたのはこれ1本だけです。豪華ですが、曇りだったので精彩がありません。
 晴れたらまたすぐ行くつもりですが、花にも明日はわかりません。

   

(1)私は、今でいう就活など何もせぬまま大学を卒業しました。本当です。
 しかし、そのままというわけにもいかないと思っていたので、4月末に新聞に載った小さな広告を見て、ある大学に採用面接に行きました。すると、講堂のようなところに160人以上も応募者が来ていました。どの人もみな就職試験用の問題集などを熱心に勉強していました。
 参加人数にも様子にも驚いて、受付にそっと「何人採用ですか」と訊くと、「図書館1人、教務課1人」と教えてくれたので、「石を投げて当った人を採用する方が速いですね」といって笑い合って、しばらくして帰ろうかと思っていると、あいうえお順だったのか、すぐに呼ばれ、面接室に入りました。

(2)面接官は事務長のほか事務員3人の計4人でした。
 面接は、事務長が「希望は図書館とありますけど、図書館でなければだめですか」と訊きましたから、「本が好きだから図書館と書いたのですけど、教務課でもいいです』と答えて始まりました。そのあとは、どうせ採用にならないだろうからと、自分の方から勝手にしゃべり、「大学へはロシア語を勉強するつもりで入ったけど、それができず、授業は、学生が暴れるとすぐにロック・アウト〔大学封鎖〕になり、おかげでろくろく受けられなかったこと、『資本論』のゼミに入って、それも全巻を読み終わらないうちに押し出されてしまった」旨を話すと、事務長が「理論なのになぜ『資本論』だけなのか。ほかのもやるべきじゃないか」と突っ込んできたので、これには答えに困って、「そうですね」と引き下がって終わりました。

   
    ユリが咲きました。

(3)自分の良いところは、本当に困ったときは反ってモノを考えないところです。そのまま事態を見やる、というとかっこいいですが、要するに無能。
 仕方なく部屋でひっくり返っていると、家主が「電話ですよ」と呼びました。
 このころはまだ一家に1台の電話でもなかったのです。
 電話に出ると、先ほどの事務長でした。そして、いきなり「来てくれますか。」というので、「はい」と答えると、「では、N病院で健康診断を受けてください。それで問題なければ、採用です」と。こうして、労せずして狭き門を通過しました。

   

(4)ところで、就職後に、図書館に採用されたもう一人と同期として飲みに行きました。そして、自分のことを棚に上げて、この人のどこを見て採用したのだろうと思ったので、「折り入って訊くけど、コネあった」というと、「あった」と。
 ということは、あとの160人余は教務課1人の枠を通るためにしのぎを削ったことになりますが、まず「図書館でないとイヤ」と回答した人はそれだけでボツとなったでしょう。しかし、残りが何人であるにせよ、自分が採用になったのはなぜなのか。これがずっと疑問でした。
 その理由は何か。年のせいか、最近わかりました。
 大人数が応募した中で、無神経に『資本論』のことをべらべらとしゃべるヤツだからです。
 これには、面接する側に当時はまだホネのある人がいたからと思われますが、そもそもは、自分がそんなことをやれるようなきっかけを作ってくれた、No.166に書いた「中村さんのおかげ」となります。
 
(5)でも、その後、そんなことも考える余裕はまだ当時はなく、秋には結婚し、翌年の6月末でボーナスをもらって退職してしまいました。そして、塾の数学の先生の仕事をとりあえず見つけて、大学院の受験生の生活に入りました。

(6)一方、塾ではやさしい先生を心がけました。ところが、塾長や教室長から「もっと厳しい先生になってほしい」といわれ、困りました。
 それで、あまりニコリともしないで説明して生徒を見て廻りましたが、見破られていたようです。たとえば、女子生徒がノートを指差すので質問かと思って覗き込むと、「私たちは先生のファンです」などとあります・・・。これには、テレもあり、当時のことなので、ゴツンと1発。
 表向きはともかく、内心は厳しい先生は無理だと思っていると、男子生徒がニヤニヤするので、「なんだ」というと、先生によく似た人の絵が表紙に描かれたノートがあるというので、買ってくるように言うと、持ってきました。

   

 「まあ、こんなだったかもしれない」と今は思えて、懐かしい宝物です。
 こうして、「腕のいい数学の先生」として働くことから始まりました。
 つづきはまたいずれ。
 では。
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No.200  

2024-06-13 23:38:28 | 追憶
(1)きょうの西の空です。
 1.4時頃:


 2.6時頃:


 きょう、この辺はおおむね曇りで、さほど暑いということはありませんでしたが、夕方から雲が動きました。

(2)昔、国広正雄さん担当のNHKテレビ英語講座の中のあるスキットで、
  ”Routine is the same.”〔日常の仕事は同じ/毎日やることは変わらない〕
 と聞こえたセリフがあって、よく思い出します。
 いま、私の日常はまさにこれです。

(3)中学生の何年の時だったか、担任の先生が通知表に「評価は、まわりの人との相対評価で決まるから・・・」というようなことを書いてくれたことがあります。
 自分なりには一所懸命やっているつもりが、淡々とやっているように見えたのでしょう。
 しかし、私は、試験は、満点を目指すというよりも、80点より下でなければいいと思ってました。悪くても、75点以上なら「仕方ない」と思うくらいで、気にすることはなかったと思います。
 これは、80点でもまだ残りの20点分は勉強する余地があるわけですが、だれでもやりたいことはありますし、あれもこれも満点みたいなのは、かえって使えないものです。実際、そういう「秀才」が多いでしょう?

(4)これは、父親の影響があるかもしれません。
 というのは、父と話しているとき、父が、「満点取らなくてもいい」、「どんな簡単な試験でも間違いをすることはあるから、80点より上ならいい」、といっていたのをよく覚えているからです。
 実際、それで、父に「それじゃあ、80点以上取ったら、その点数分だけお金くれる?」と訊いたら、OKとなり、小テストも含めてなんでも、81点なら1円、90点なら10円、100点なら20円という計算で加算して小遣いをもらいました。

   

(5)脱線しますが、父から聴いたことで、今でも新しいノートを作う時に思い出すことがあります。
 父が、ノートを使い終わったから新しいのを買うお金をくれるように言うと、祖父はノートを見せろといい、白いところがあると、すぐにはお金をくれなかったそうです。
 そういう不都合な思い出があるためか、父は「ノートはぜいたくに使え」と言いました。
 時代のせいもあるでしょうけど、父は、自分が嫌だと思ったことを、私にはさせまいとしていました。自由にさせてくれました。しかし、その父が私に真っ向から怒ったことが2度あります。

(6)一度は、小学校5年頃のことです。
 私が、少し彫刻に興味を持って、お面を作りました。
 板を削っただけという程度の単純なものでしたが、それに絵の具で色を付けて、さらにニスを縫ると光沢が出て、サイケデリックな感じのものでした。自分なりに納得したので、みんなに見せて、帰りにそれを被って家に入ると、その日に限って父が早く帰ってきていました。
 それを見るや否や、カンカンに怒ってその場で、鉈で粉々に割ってしまいました。

(7)もう一回は、中学2年の時のことです。
 中間試験が終わって、のんびりとテレビを見ているところへ父が帰ってきました。
 早く帰ってきたのは、パチンコで負けたからに違いありませんが、入ってくるなり
 「なにしてるんだ」
 と不機嫌そうに聴きました。それで、
 「試験が終わったから休んでいるんだ」
 と答えると、
 「試験が終わった時こそ、やる所がよくわかるはずだだから、それをやれ」
 と殴り掛かってきました。
 私はとっさにそれを避けて逃れ出て、その日は、人目がつかないようにあちこちと移動して夜明かしをしました。

(8)あれまあ、何を話してましたか?
 そうです。 ”Routine is the same.”でした。

 私の毎日はいまこれです。
 でもね、これって大事なんですよ。
 たとえば、一滴一滴でもやがて穴をあけるでしょ?
 つまり、質的変化が伴って新しい事態が生まれるのです。

(9)捨てるほどの身はありませんが、やらなければならないことをいくつも抱えています。
 このブログ、出来はともかく、きょうはまだ「No.200」です。
 行雲流水、〽・・・のみもとに近寄らん

   
    ごはんですよ~:秋川べり
 
 この先もこの調子。では・・・

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