神足が芦川べりを通過した最後は、南の精進湖から北の右左口に抜けた巡回です。
この時のことは『御料局測量課長 神足勝記日記 ー林野地籍の礎を築く―』日本林業調査会(J-FIC)の182~3ページに出てきます。
それを簡単にたどると次のようになります。
11月26日に10日間の日程で静岡支庁と宇都宮事務所管内への出張を命ぜられます。このうち27~29日は栃木県の芳賀御料地を視察して帰ります。
ついで12月1日に静岡支庁管内へ出発します。
朝、新橋を出て、御殿場ー須走ー篭坂峠をたどり、山中湖西側の山中に泊まります。
(鳴沢・青木ヶ原 出典:富士山富士五湖Map)
2・3日は雨。鬼丸技手の作業地でおもに内業に従事します。『富士山御料地測量簿』によると、鬼丸技手は西湖への里道の事業を担当していました。
4・5日は、鳴沢村付近の青木ヶ原を通って精進湖・本栖湖に通じる里道を担当していた高津技手・仁科技手の事業を視察します。139号線の辺りと見られますが、私が歩いた舗装路でも、起伏がかなりあってしんどいです。
いよいよ6日に精進湖の北の「女坂」を越えて古関〔ふるせき〕に出ます。
峠を越えてからは、358号線の西にある寺川に沿う道に出て古関に下ったようです。古関は、明治14年の通過から17年がたっての再来ですから、さぞ懐かしかったでしょう。そこから芦川に沿って下り、右左口〔うばぐち〕峠を越えて甲府に出ました。
つまり、御殿場から甲府まで、篭坂・女坂・右左口のいずれも1000m超の3峠を越えて歩いたわけです。
神足のこの後の業務については日記をご覧ください。7日・8日・9日とも忙しく動いて帰宅しています。
なお、私は、ミニサイクルを持参して富士吉田から139号を精進湖までたどり、女坂を少し歩いてみてから、精進湖トンネルをくぐって358号を下り、そのまま右左口トンネルをくぐり、甲府へ出ました。
この時は、自転車のパンクもあって、かなりつらい旅となりました。
もう30年前になりますが、『山梨日日新聞』(1992年3月25日)に「皇太子御来村の日(中道)」という記事があり、読むと、村の長老が、「峠の道がよく整備されていたのはあの時じゃなかったか。いい道になった。後にも先にもあの時が一番良かった。」と回顧していました。
あの時というのは大正11(1922)年10月5日のことで、「その日、皇太子(のちの昭和天皇)が富士山麓周遊の帰路、精進から右左口峠を越え」たということです。
つまり、この回の神足の巡回が明治31年ですから、さらに24年近く後になって道が整備されたわけで、神足が通った道はどんな道だったのか、驚きます。
私はこれを自分の目で確かめたいと思いつつ、まだ果たせないままです。かならず女坂から走破したいと思っています。
さて、神足の芦川(古関・鶯宿)周辺の巡回はこの3回です。
そのうち3回目にあたる栃木・静岡・山梨の巡回は、『神足勝記日記』183ページにあるように、「年内に予定の結了を見るの覚束なきを以て、補助員派遣の儀を佐々木〔陽太郎〕主事へ稟議す」るべく、実地に実情を見るという必要性から行われたものであったようです。この点は、同『日記』38ページの「進程表」の「(10)富士山」の項を見る限りでも、かなり多勢が投入されていて、大事業地だったということがわかります。ぜひご覧ください。
ちなみに、この後、神足が行った塩山の大藤村は樋口一葉の父の出身地とのことです。神足がこれを知っていたということはないと思いますが、この地を訪れたときに撮ってきた写真がありますからこれを紹介しておきましょう。
なお、杉浦重剛と神足は大学南校での同窓生です。