神足勝記を追って

「御料地の地籍を確定した神足勝記」を起点として「戦前の天皇・皇室・宮内省の財政について」のあれこれをとりあげる

池辺源太郎・池辺義象

2023-12-12 00:13:13 | 勝記日記

 昨日は、神足勝記と池辺義象が5親等の親族であることを見ました。もともとの神足勝記の『日記』から『御料局測量課長 神足勝記日記 -林野地籍の礎を築く-』(日本林業調査会(J-FIC))を編纂するにあたって、私事(プライバシー)に関する関するところは割愛・削除しましたが、親族や熊本人の交友に関わる箇所は歴史資料としても重要と思われましたから、できるだけ残すようにしました。その一つが親族関係ですが、最終的にこの日記に関して把握できたものを家譜図としてまとめたものが次のものです。

 昨日も述べましたが、義象(よしかた)についてはいろいろと研究があって、その中で家族のことも言及されていますから、上の家譜図の様子は割合に容易につかめました。しかし、源太郎については何もわからずでした。ところが、2020年2月に、源太郎の四男の池辺武人の履歴・戸籍が『進退録8 昭和2年』(宮内公文書館蔵、識別番号20868-8)687号から見つかりました。

 池辺武人は明治34年1月に生まれ、大正7年熊本濟々黌卒業、大正12年東京帝大農学部林学実科卒業、同年4月から付属演習林嘱託、14年5月大日本山林会編集委員を兼任したのち、昭和2年宮内省内匠寮に入ります。

 武人が入省前に本多静六の下で小諸城懐古園の設計に従事したこと、戦後、日光田母沢御用邸の造営を担当したこと、新宿御苑に勤務したことなどの公的なことは、ウィキペディアなどでもまとめられていますが、源太郎や義象とは結び付きませんでした。それが、履歴書の発見によってつながりました。これは今後の研究でも役立つと思われます。ただし、ここではブログの容量もあり、人的構成だけにとどめます。

 まず、源太郎は、父軍次と母幾喜の長男(生年不明)として生まれました。のち、梅原波(慶応2(1866)年生)と結婚し、7人の子を儲けたようです。上から、芳江(長女:明治21年生)、万亀(二女:26年生)、栄弘(二男:29年生)、譣三(三男:31年生)、武人(四男:34年生)、軍治(五男:37年生)です。長男は不明。

 ところが、源太郎は、明治38年8月7日、脳溢血のため東京で亡くなります。このとき何歳であったかは不明ですが、長女17歳、次女12歳、二男9歳、三男7歳、四男4才、五男1歳でしたから、おそらく40歳くらいだったのではないかと思われます。勝記が悼んで「幼少の子女を残して、尚春秋の身を以て世を去る。遺憾に堪へさるへし」と述べていますが、身につまされます。

 そして、源太郎が亡くなったのを受けて、同日栄弘が戸主となり、戸籍が編成されるとそこに家族全員が入りました。武人が宮内省に提出したのはその戸籍だったということになります。

 なお、義象もこの戸籍に叔父として記載されています(末梢の赤バツがついていますが)。これはよく知られているように、義象は一度小中村家に入り、離縁して復帰します。その後分家しますが、それが残されていたものと見られます。これによって、義象の家族についてもチェックすることができましたが、ここでは略します。ただ、義象については、これはすでに知られていることですから、引用しても構わないでしょう。つぎのようになっています。(カタカナはひらがなにし、句読点を付しました。)

「明治31年3月12日、東京市本郷区西月町士族小中村清名父(亡養父清矩養子)離縁復帰す。明治35年8月30日、東京市麹町区麹町元園町1丁目12番地戸主士族野口忠正長女と婚姻届出。同日、東京市牛込区戸籍吏土方隆三郎受付。9月24日、届書発送、同26日受付。明治44年11月1日、東京市豊玉郡渋谷町大字下渋谷519番地へ分家届出、渋谷町戸籍吏岡谷精一受付。同月22日、届書及入籍通知書発送。同月25日受付除籍」

 最後に、幾喜の父親名のところを私は「加藤」として作成しましたが、これは弟の「堯敬」と「千勝」のどちらも「加藤」を名乗っていたからです。しかし、この戸籍を見ると父名の欄に「金山下」とあり、これは姓が「金山」、名が「下」と見られますが、よくわかりません(勝記の日記には、千勝が「金山」を名乗っている例もでてきます)。これはいずれ判明したときに書くことにしましょう。

 ちょっと荒いですが、ここまでです。

 

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