森の詞

元ゲームシナリオライター篠森京夜の小説、企画書、制作日記、コラム等

レポート-4

2008年10月27日 | レポート

 サオリは新塚健児の最後の写真集が好きだ。
 それは彼が仕事の為に撮った作品ではなく、本当に個人的な作品集としてまとめたもの。何処にでもある風景、花や空の写真。特に目を惹くものが写っているわけではないし、派手な構図もない。見えるのは、世界の中心から少し離れた場所に立ち、寂し気な瞳で世界を眺めている一人の男の姿だけだ。
 この写真集には小説家の処女小説の表紙に使われた写真も含まれている。何でもその写真を気に入った小説家がタカハラを通して頼み込み、製版の際に使わせてもらったのだそうだ。
 逆光に照らされて輝く何処までも続く道。
 新塚健児の好んだモチーフだという。
 その写真を眺めながら、サオリは考える。
 人は何を知り、何を知ることができないのだろう、と。

 失踪した美人学生。
 その秘められた生い立ち。
 人を自殺へと導く宗教団体。
 その幹部でありながら自らは生き延びた男。
 一つ一つの要素を調べ上げるのは可能だ。それらはいつか結びつき、一つの形を作り上げるかもしれない。それが真実に近づくということなのかもしれない。
 だが、それはサオリから見た真実に過ぎない。
 アヤナにとっての真実は何処にあるのだろう。彼女を取り巻く問題の構造は解明できるかもしれない、だがそれは本当に彼女の問題なのか?
 他人から見れば問題に見えることが、その人にとっても問題であるとは限らない。他人の目には些細に映ることも、本人にとっては深刻な事態であるかもしれない。
 私は貴方ではなく、貴方は私ではない。
 人は他人のことを完全に理解することはできない。
 近づくことは出来ても真実が重なることはない。
 人の心は一つの世界のようなものなのかもしれない。
 時の流れは一つではなく、真実はその世界によって姿を変える。
 サオリにはサオリの世界があり、オカダにはオカダの世界があり、タカハラにはタカハラの世界がある。
 小説家には小説家の世界があり……アヤナにはアヤナの世界がある。

「私達は何を知ることができるんでしょうね。真実に辿り着けないならば、何を書く意味があるのでしょう?」
 最後にそう言い残し、小説家は立ち去った。彼もサオリと同じく真実を知ることの壁にぶつかったようだ。
 彼はこのことを小説に書くだろうか。材料は長編小説が書ける程に揃っているはずだ。推理小説にしてしまうのもいい。それともサスペンスものに仕上げるべきだろうか。あまりに現実離れしていて安っぽいものになってしまうかもしれない。だが彼は何らかの形でこれを文章にするだろう。同じ真実を求める者として。サオリはそう思った。
 科学者が実験を繰り返し、その結果を組み合わせて世界の形を確かめるように、小説家は自らの中に物語を作り、世界の形を確かめる。その作業はまた、サオリ達がホムンクルスを通じて生物の進化過程を突き止めようとすることにも似ているだろう。どちらも真実には至らない。だが実験を通し、文章を通し、物語を創り出すことによって、次の一歩を踏み出すことができるはずだ。
 それはまだ見ぬ誰かと出会う為に、宇宙へとロケットを飛ばすことに近いだろう。真実を求めることは、わかり合えぬ誰かに手を差し伸べることだ。
 いつまでもわかり合えないかもしれない。手が届くことはないのかもしれない。
 だが、手を伸ばし続けるのだ。

 サオリとオカダは数日前に婚約した。まだ早いかもしれないけどな、と言ってオカダは銀の指輪を差し出した。オカダは海外に渡りミュージシャン修行をしていた時期があり、その時に知り合ったブルースミュージシャンにこれを貰ったそうだ。元々は対になったシルバーリングで、そのミュージシャンはピアスにしてつけていたらしい。今はサオリの左手の薬指に輝いている。オカダは職業柄、指に物をつけられないので、肌身離さず持っているギターの弦にくくりつけている。
 今、オカダは長年の夢であるクラブの経営に向けてスタジオミュージシャンの仕事をこなしている。サオリは彼が夢を実現させることを願っているが、バンド活動が休止中なのは少し残念だと思っている。
 オカダは少し頼りない割に心配性だが、誠実にサオリのことを愛してくれている。サオリも精一杯彼の気持ちに応えるつもりだ。彼と出会う以前にタカハラと関係を持ったことについては、タカハラ自身と話し合っているし、サオリもあれは社会勉強のようなものだったと思っている。オカダは生涯のパートナーだと思う。そのパートナーと出会う前に多少なりとも経験を積めたことは、決してマイナスにはならないはずだ。
 タカハラはサオリを気遣ってか、最近は研究室に顔を出さない。だが口にこそ出さないが、彼もアヤナの帰りを待っているようだ。
 サオリも待ち続けている。
 ……どうして?
 それは自分自身にすらわからないことだ。

 アヤナの父親が残したノートに記されている一文がある。小説家の話によればフランスの作家の言葉を引用したもので、神の存在を失った時代の人間に対する言葉。
 牧師が引用するには相応しくない言葉だ。

『 幻想と光を奪われた宇宙で
  人は孤独な異邦人となる
  彼の追放は終わることはない
  何故なら彼は失われた故郷の記憶や
  約束の土地の希望さえも剥奪されているのだから 』

「……それでも、私はあの人を知っている」
 サオリは小さく呟いた。



                   Amen.


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