森の詞

元ゲームシナリオライター篠森京夜の小説、企画書、制作日記、コラム等

第四話 「青年と少女が宇宙の旅に出る話」 1

2007年12月15日 | 僕達の惑星へようこそ

 AM.11:25

 カナは白いシーツの上で目を開いた。
 薄暗い部屋の中、皺のついたシーツにはカナと男の匂いがこびりついている。厚手のカーテンの隙間から射し込む光の筋の中で、白い埃の群れが舞っている。カナはベッドから頭を浮かせて男の姿を見つめた。
 男は部屋の隅に置かれたソファーに座ってテレビを眺めていた。
「ねえ、終わったんだから帰っていい? 契約時間は十二時までになってるけど、何もしないんだったらいてもしょうがないでしょ?」
 男は三十分前に『終了』してから、ずっとテレビを眺めていた。

 カナと男が知り合ったのは……正確には、契約を交わしたのは昨日のことだ。クミの話によると、男は別の町の一流商社に勤めるサラリーマンとのことだった。クミはカナの安全を確保する為、仕事の前には必ず相手の身元を調べるようにしてくれている。
 男の身元は確かだった。彼は一週間程この町に出張に来ているらしい。出張ついでのちょっとした息抜きと言ったところだろう、とクミは言った。
「まあね、会社は一流でもその男が一流とは限らないしね」
 昨日の夜、カナはクミにふざけて言っていた。
「でもこの人、何でこんな朝早くにやりたいんだろうね?」
 翌日、眠い目を擦りながら待ち合わせの場所に行ったカナの前に現れた男は非常に気味の悪い男だった。
 見た目が悪かったわけではない。男は背が高く高級そうなコートを着ていたし、特徴的な所はないものの、顔立ちも整っていた。男は薄い唇の端を曲げ、少し高い声でカナに話しかけてきた。
 カナは男に、まるでスタートレックに出てくるアンドロイドの『データ』のような印象を持った。
 ……いや、『データ』の方がまだ人間らしい、とカナは頭の中で訂正した。
 男は小さな声でぼそぼそと話しながらカナについてくるように言った。
 男が顔を横に向けた時、カナは彼の左頬に三日月型の傷があることに気がついた。

 何が気持ち悪いのだろう?
 顔が悪いとか、変な臭いがするというのならカナも酷い例を体験したことがある。しかし男から与えられる不快感は、それらとは異なるものだった。
 男はホテルの前で立ち止まって振り返り、建物を指差して中に入るように言った。
 カナは午前中から予約を入れているのだから、もっと何処かに連れ回すのかと考えていた。若い女の子と1日中デートを楽しみたいと考える中年の男は結構多い。
 しかし、どうやら男は本当に今からやるつもりらしい。モーニングサービスがつくとでも思っているのだろうか?
 自分でホテルに入ると決めたくせに、隠れるように素早くホテルの中に滑り込んだ男が、まだ外にいるカナに早く来るように指図する。ゆっくりと歩いていくカナを、臆病そうな光を目に浮かべて見つめている。どうやら、この場に及んでカナが逃げ出すのではないかと考えているらしい。
 カナとホテルに入る所を人に見られたくもないようだ。こんな朝早くから少女を買う行為自体、十分に恥ずべきことだと思うのだが。
 カナが男に追いつくと、男は小さな声で文句を言った。カナが頷いて男の目を見つめると、男は慌てたように顔を背け、わかればいい、と呟いた。
 カナは先程から、この男に対する不快感の正体を突き止めようとしていたが、この場に至ってそれが男の態度からくるものだということに気がついた。カナは目を見ようとせずに話をされるのも嫌いだし、男が細かいことで文句を言うのも嫌いだった。何より、意気地のない男は大嫌いだった。
「料金は一時間単位で支払って貰うからね。一分でも延長したら追加料金。それと必ずコンドームをつけること、これを守れなかったら罰金だからね」
 エレベーターの中で、カナは営業用のやや冷たい口調で男に話しかけた。男が体を強張らせたのがわかる。
 カナは童顔なので客がつけあがることが多い。勿論カナはそのことを自覚していたし、普段ならもっと穏やかな回避法を使うのだが、今回は少し苛立っていたので脅しをかけることにした。
「最初にも言ったけど、もし規定の時間内に私から連絡が来なければ仲間の男達がここに押しかけて来るわ。だから変なことはしない方が身の為よ……まあ、そちらの御要望にはできる限り応じるけど? ……別料金でね」
 エレベーターが目的の階についた。カナは男よりも早くエレベーターを降りると、最近練習している『悪い女っぽい顔』で男にこう言った。
「おじさんは私とお医者さんごっこしたい?」
 男があからさまに動揺し、顔を激しく引き攣らせる。
 カナは満足し、男から見えない所で小さく舌を出した。

 クミはよく自分のことを棚上げにして、男には気をつけるようにとカナに言う。
 勿論、カナも用心はしているが、実際にはそれほど心配していない。男が女に勝っているのは基本的な体力だけで、男というものは女よりも単純で……純粋な生き物だとカナは考えている。
 よく女は仕事のプロになれないと言われるが、カナは少し違うように思っている。男はたった一つの仕事という愉しみに人生の全てを捧げられるほどに純粋で、女はたった一つの愉しみだけでは満足できないほどに欲深い存在なのだ。
 特に、男の『使命』とか『信念』などの苦痛さえ伴う信仰にも似た考え方は、カナにはいまいち理解できない。決して嫌いではないが、度が過ぎるとバカらしく思えるのだ。
 小さい頃、カナは近所の男の子達がテレビのヒーローごっこに夢中になる気持ちがよくわからなかった。遊び自体が嫌いなのではない。どうして内容をあそこまで忠実に再現する必要があるのだろうか? 遊びは遊びなのだから、自分達で勝手に設定を作って遊べばいいじゃないか。カナはそう考えていた。
 だが、今なら何となく『推察』できる。
 男の子達は遊びの愉しみよりも、自分達をテレビのヒーローに近づけるという作業に夢中だったのではないだろうか?
 カナはこれまでずっと大人というもの……特に中年のおじさんが嫌いだった。
 彼等はカナの考えや行動を認めず、古臭い習慣や形骸化した常識でカナを束縛しようとする。カナは常々、彼等は自分とは違う生物なんじゃないだろうかと考えていた。
 だが最近、おじさん達と接する機会が多くなり、カナはあの男の子達とおじさん達にそれほどの差がないことを発見した。
 おじさんと男の子の違いは遊び場の違いでしかない。男の子達は家や公園や学校で遊び、おじさん達は『社会』の中で遊ぶ。その目的は何でもいい。ヒーローのように世界を救うのでも、会社の売り上げを伸ばすのでも……国の経済力を上げるのでもいい。ようは一つの目的に向かって仲間と共に行動できればいいのだ。
 この点で見る限り、おじさん達と男の子達はまったく変わらない。あえて違いを挙げるなら、『社会』という枠組みの中には人が多過ぎてなかなか主役が回ってこない……それくらいだ。
 カナは、でっぷりと太って頭の禿げ上がったおじさん達の目の中に、ほんの一瞬同級生の男の子達と同じ輝きを見る度に、やっぱりこの人達と自分は同じ生物なんだな、と考えることがある。もっとも、未だに好きにはなれないが。
 ちなみに、小さい頃のカナは女の子と遊ぶことよりも男の子と遊ぶことが多く、ヒーローごっこの時のヒロイン役はカナの指定席だった。
 カナは男の子と一緒に走り回るのが好きで、グループのリーダー格でいつも主役をやる子が好きだった。特に「僕は大きくなったら絶対に正義の味方になるんだ」と言っている時の彼が好きだった。
 そして彼もカナのことが好きだと言っていた。しかしカナのことが好きだったのか、カナの演じるヒロインが好きだったのかは未だに疑問だ。

 カナが部屋に入ると、男は落ち着かないハツカネズミのように部屋の中を歩き回って何かを調べていた。カナは、もしかしたら部屋に仲間の男が大勢待ちかまえていてレイプでもされるのではないかと警戒していたが、どうやらそんなこともなさそうだった。
 これは知り合いの子に実際に起こったことなのでカナも気をつけているが、心の何処かでは、それはそれで楽しいかもしれないと思っているところがある。
 クミは変な本の読み過ぎだと言うが、カナは性的快感に対する探究心が強い。特に『行きずりの男に身も心も犯される』というのは……前に見た映画みたいで刺激的なシチュエーションではないだろうか?
 雑誌で読むところによると、女の性的快感のオルガニズムは男のものよりも遥かに深くて複雑だとの話だ。それなら、折角女の体に生まれたのだ、行ける所までは行ってみたい。
 こういう考え方を『退廃的』と言うのだろうな、とカナは考えた。
 ただ、実際に自分がそんな自虐的な快楽に身を委ねるかと考えると首を横に振らざるをえない。クミもよく言うが、カナはかなり自己中心的な人間だ。カナにはまだやりたいことが幾らでもある。『身も心も……』というような恋愛など、自分の行動の妨げだと考えてしまうだろう。本当に危険なのは、自分よりもむしろクミの方だ。カナはそう判断している。
 カナは自分の行動を制限されるのが嫌いだ。今までの客の中にも毎月かなりの金額を支払ってもいいから自分の愛人にならないかと誘った者がいたが、カナはきっぱりと断ってきた。
 肉体関係を持ったくらいで自分を思い通りにできると思われるのは吐き気がする。
 クミが一度、皮肉っぽく言った。貴女にとっては恋愛だって束縛なんでしょうね、と。
 カナはそれは違うと答えた。恋愛しても相手の奴隷になる気はないだけだ、と。
 今までの客はクミの選択が良かったおかげか、問題を起こしたことはなかったが、カナにエクスタシーのエの字くらいしか与えることはなかった。
 しかし今日の客は……それよりも酷そうだった。

 男は部屋のチェックを終えると、カナをシャワールームに放り込み、出てきたところでそのままベッドに横たわらせた。
 カナは少し落ち着かない気分になった。自分の体に自信がないわけではないが、男の目からは欲望や劣情といったものがまったく感じられず、ただ測定用の機械のようにカナの体を眺めている。
「ねえ、立ってるだけじゃつまらないでしょ? 時間もなくなるし……ねえ」
 カナとしては不本意だが、この沈黙には耐えられそうになかった。普通の客なら、カナの体を見ればみっともないくらいの反応を示したはず……これは自惚れで言っているのではない。一流のセールスマンが自分の弁説に自信を持っているように、カナも商売の基礎となる自分の体の及ぼす効果については完璧に理解していた。
 商売をする上で最も重要なのは、売る側が買い手に対して心理的に上位に立つことだ。売りつける商品がつまらない瓶の蓋でもかまわない。大切なのは自分の売りたいという気持ちを伝えることではなく、相手に買いたいという気持ちを抱かせることなのだ。それに必要なのは、自分の商品に対する絶対の自信。自分がその商品にどれほどの自信を持っているかを伝えることができればいい。
 勿論、過剰に演出してはいけない。あくまでもさり気なく、だ。そうすれば相手は自分の自信に満ちた態度によって商品への欲望をかき立てられる。態度は低く、だが気持ちは高く……これがカナの考える商売のコツだ。
 更に上級のテクニックとして、相手に『売りたくない』という態度をとる、というものもある。人間は隠されると却ってそれが欲しくなる。隠すのは自慢するのと同じこと……一番いけないのは相手に媚びることだ。
 しかし、カナはそうは思いながらも、珍しく自分から誘う方法を選択した。
 自分は裸でベッドの上に転がっている。相手はそれを立ったまま眺めている。おまけに服を着たままだ。
 これでは自分がバカみたいではないか?
「ねえ、早くしようよ……ね? ……何かしてあげようか?」
 カナは相手が相変わらずの態度なので、これだけはやりたくないと思っていたが、知り合いのバカな女の口調を真似しながら男の下半身に手を伸ばした。
「やめろ!」
 男は突然反応し、カナの手をつかんで乱暴にベッドの上に突き飛ばした。男の瞳に言いようのない光が浮かび、蝋人形のような顔に血の気がさす。口元が痙攣したように震え引きつり、頬の三日月型の傷が醜く歪んだ。
「じゃあ……何がしたいって言うんですか?」
 カナはベッドの上で仰向けになったまま肘をついて上体を起こすと、初めて彼女本来の顔になって男を睨みつけた。
 男はしばらく血走った目でカナを見つめていたが、やがて低く唸るように呟いた。
「余計なことは言わなくていい……」
 それから男はカナの下半身に視線を這わせるとこう言った。
「後ろを向いて四つん這いになれ」
 最後に、男はカナに奇妙な命令を出した。
「そのまま動くな。何もしなくていい」
 一瞬、男の口調に怒りとも悲しみともつかない感情が含まれたような気がしたが、それはすぐに消えてしまった。
 カナは信じられなかった。これまでに『動いてくれ』と言った客はいても、『動くな』と言った客はいなかった。後ろからするのが好きな客はいた。前からが好きな者もいたし……下からが好きな者も、数秒ごとに姿勢を変えなければ気がすまない者もいた。
 しかし皆、相手の反応がないと不満そうだった。ある男などは、以前に買った娘がいかに無反応でつまらなかったかということを、カナに延々と語った。商売熱心なカナは無反応……あまり好きではない表現だが……マグロ状態は客に対して失礼だと考えているので、感じているふりをしてあげたところ、その客は規定の三倍の料金を支払ってくれた。
 良質なサービスは常に料金に反映される。言い換えれば、こちらの提示した料金が支払われる以上、売り手としてもその範囲内で最大限のサービスを提供すべきなのだ。
 今までの例外は六十近くの男で、これは彼が慢性のヘルニアを患っているせいだった。
 だが今回の男は、まだ若いのにカナが反応することを拒否した。それで本当に楽しいのだろうか? カナの今までの経験から考えても、それで楽しいとは思えないのだが……。
 男は服を脱ぎながら、カナに早く四つん這いになるように言った。
 カナはよくわからない得体の知れなさを感じながら、体の向きを変えようとした。
 その時、男が低い声でカナにへその所の蝶の模様は何かと尋ねた。
 それはカナが先週入れたタトゥーで、青の発色が綺麗で気に入っているものだった。カナが説明すると、男は軽く鼻で返事をした。
 カナは男がつまらなそうに小さく舌打ちするのを聞き逃さなかった。それはまるで、高い金を出して買った商品に傷を見つけたような反応だった。


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