旬のはなし

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遅ればせながら ②

2009年08月18日 | 旅のこと
1昨日から昨日まで有馬温泉に行った。
今回は仕事ではなく、お客さんとしてだ。
有馬ビューホテルに宿泊。

なぜに有馬温泉なのか?
まあじっくり聞いて下され。
実は我父は亡くなりしが、その兄弟を中心とし、毎年「乙倉会」なるものを開いているのでござる。
で今回は有馬温泉、私の従兄弟が企画した次第。

なぜか以前この従兄弟が、有馬温泉周辺の地図をパソコンで見ている時、偶然にも「乙倉橋」たるものを見つけたのでござる。
これを前回の「乙倉会」の時に発表したら、皆が見たい、行きたいと相成し候。

乙倉なる性は非常に珍しく、私の父の代には岡山の君津、邑久郷に30件くらいしかなかった。
私の代になると、増えていると思うが、皆もとを正せばこの君津、邑久郷になる。
もともとは皆邑久郷に住んでいた。
津田永忠が江戸時代に岡山の南の海を干拓して、たくさんの農地を作った。
君津はその一地区だ。
この君津が出来てから、2年程して乙倉の何軒かが、邑久郷から移り住むようになった。
私の父も先祖を遡って、系図を作ったのだが、7代前、江戸時代中頃前までしか判らなかった。

しかしながら、25年程前に、親戚の一人が偶然にも淡路島に乙倉山金剛寺なる寺を見つけた。
乙倉家一族の中では大きく取り上げられ、皆でこの寺にお参りし、石碑まで建てた。
偶然かもしれないが、私の家も岡山の金剛寺というお寺の檀家である。

こんな事があって、私も一時期、図書館に通っては奈良、平安頃の古文書を調べていた。
結果、淡路島と乙倉の関係はかなり深くまで推測出来るようになったが、確実な証拠を見つける事は出来なかった。

それから数年経ち、今回「乙倉橋」の発見となった。
皆で見に行く。
有馬川にその橋は架かっていた。
昔、有馬温泉に人を呼ぶ為に、この橋の袂まで国鉄が来ていたそうだ。
比較的大きな橋だった。
橋を隅々まで見た後、この近くにある古い家を訪ねた。
橋の由来を聞く為だ。
が今一つはっきりしなかった。
ただこの近くに乙倉谷という谷があることがわかり、大きな収穫となった。
ホテルに泊まり翌日、有馬文庫なる処に行った。
地元の人から、ここの歴史等が書かれた本があると聞いたからだ。

ここでは所長さん事務のお姉さんが一生懸命調べてくれたが、該当する文献は見つからなかった。
ただお二人とも、乙倉性に感激し、わかる範囲で嬉々とし説明してくれるのが、楽しかった。

こうして2日間過ぎた。
有馬の乙倉橋と淡路島の乙倉山金剛寺、遠いと言えば遠いが近いと言えば近い。

謎が謎を呼ぶ旅となった。

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2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
乙倉の姓について (乙倉 正喜)
2012-04-15 22:08:44
乙倉俊様
私も乙倉姓の由来には、興味を持っています。
乙倉の姓は、続日本紀に出てきますよ!
「776年 従五位下 藤原朝臣 乙倉」
インターネットで検索確認できます。

私は、乙倉会に入っていませんが(新家が乙倉会に入れて貰っていたようですが、1軒だけ離れているので当番の翌年から辞退させてもらった、ウエーブ上なので具体的な地名は書きませんが)私の4代前が、邑久郷から豊田に移り住んだと思われます。(戸籍謄本で確認)
今も、お墓は、辰巳墓にあります。お寺は、牛窓の千手山東寿院です。
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コメント (乙倉俊)
2012-04-27 12:27:24
有難うございます。
私の亡き父も藤原朝臣乙倉について言ってましたので、私もどこから来たのか裏付け資料を探してみましたが、わかりませんでした。
有難うございます。
出来ればお会いして、もっとお話を聞かさせて貰えればと思います。
よろしくお願いします。
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