通し狂言「伊勢音頭」は、何回見てもよく分かりません。
一幕を切り取って1本の演目として上演することがある歌舞伎を通しにすることで、客は全体像が理解できるため
歌舞伎普及に尽力する国立劇場では頻繁に行われていました。
ところが「伊勢音頭」だけは、なぜ最後は罪もない遊郭「油屋」の人たちまで殺されてしまうのか、さっぱり分からないのです。
「籠釣瓶」と同じく、江戸時代に起きた事件を題材にしたものだそうですが、あちらは妖刀を振り回して大量殺人に至る経緯が
実にうまくまとめられていて、「そんな啖呵切ってると殺されちゃうよ、いい加減にしないと」などと客はハラハラしながらも楽しめます。
主人公の怒りもまっとうというか、「そりゃ、そうなるよね」と理解できるのですが、「伊勢音頭」の福岡貢には何の共感も覚えません。
油屋仲居の万野に挑発されて最終的には殺してしまう場面は勢いというより刀の鞘が割れて、うっかり傷つけて引っ込みがつかなくなったという情けなさ。
こんな具合で、主役の福岡貢は「ぴんとこな」という柔らかみと強さを併せ持つイイ男の設定のはずなのに、誰が勤めても良いと思えないんですよね。
大きな疑問の一つが、なぜ万野は「貢が金に困っているから」という稚拙な嘘をついて油屋お鹿から金を巻き上げて、発覚すると
しらばっくれて貢に罪を着せて陥れたのかということ。
結局、それで万野は殺されてしまうわけですけど。
今回の魁春@万野で、私なりに納得できました。
貢をバカにしてて嘘をついてもアイツならどうにでもできると高をくくっていたのだな、と彼の芝居を見てそう感じたのです。
これまでは、万野も実は貢が好きで油屋お紺とイイ仲なんで嫉妬から意地悪をしているのか? と思ったこともありましたが、
そうではない、結局、万野って貢が嫌いなんだと。
魁春はおっとり品の良い芸風で、彼が底意地の悪い仲居を勤めるのは意外でしたが、先代の芝翫丈のも拝見して芸風的には同じ系統なので
どのように人物造形をするのか興味津々でした。
会話中、貢とあまり目を合わせない、遊郭に来ているのに金を使わず待ち合わせ場所のように使う貢に「なら、お帰り」と追い出そうと迫ったり、
仲居の自分を無視して料理人に刀を預けるのを見やり、「気ぃの悪いことやなぁ」と小声でブツブツ言ったり。
そこに愛はない。
素っ気ない態度や意地悪も「ああ、万野は貢が嫌いで心底鬱陶しく思っているんだなぁ」というふうに演じているように見えました。
歌舞伎は荒唐無稽な筋が多く、登場人物に何らかの感情移入ができないと楽しめません。
「伊勢音頭」の通しは長いし……。
今回は、魁春のリアルで静かな演技が一番の収穫でした。
本当なら主役の幸四郎を挙げるべきですが、キリキリイライラする貢のせわしなさや器の小ささが目立ち、万野と同じく鬱陶しさが募るだけ。
幸四郎のせいではなく、脚本自体の問題で気の毒ですが。
「まぁ、これだけ見てるんだから、たまにはあるよね、そういうのも」と歌舞伎歴24年目に入って一人呟く私。