「化城即宝処」とは、『法華経』の「化城喩品第七」(法華経245)に説かれる法門です。仮の真理として説かれた化城(三乗)が、そのまま宝処(究極の真理である一仏乗)にほかならないということです。そのことを解り易く説明されたのが、七譬の一つ「化城喩品第七」に説かれる「化城宝処の譬え」になります。
化城宝処の譬えとは、宝処に向かって五百由旬の遠い路を旅する人々がいましたが、途中、険路が続いて皆疲れ切ってしまいました。その時、一人の導師が三百由旬を過ぎたところに方便力で化城をつくり、人々を休息させたのです。しかし、人々がそこに満足しているのを見た導師は、この城が仮の城であることを教えて、人々を真の宝処に導きました。
導師は仏、化城は二乗の涅槃、宝処は法華経の一仏乗に譬えられ、仏の化導によって二乗の衆生が一仏乗の境界にいたることを説います。これが「化城宝処の譬え」です。
「開三顕一」の哲理を譬えたもの、「化城即宝処」とは、無常即常住・九界即仏界・生死即涅槃を意味します。
「化城」とは、現実的に考えた場合、一時的な目先の目標です。教化育成においては、高い目標を掲げる前に、化城的な役割をなす、成し遂げやすい目標を立てることが大事です。着実に物事を成功させる要素にもなるわけであります。そして、最終的な大目標となる「宝処」を得ることが出来ます。それが「化城即宝処」であります。
私達が生きていく、人生の設計に於いても「化城即宝処」の応用が出来、非常に大事なことです。
「化城喩品第七」に、
「宝処在近。此城非実。我化作耳。(宝処は近きに在り、此の城は実に非ず。我が化作ならく耳)」(法華経281)
と説かれています。故に、爾前権教は実ではなく、法華経が「宝処」であることを促しています。
『御義口伝』に、「化城喩品七箇の大事」(御書1745)が説かれています。「第一 化城の事」「第二 大通智勝仏の事」「第三 諸母涕泣の事」「第四 其祖転輪聖王の事」「第五 十六王子の事」「第六 即滅化城の事」「第七 皆共至宝処の事」という七つの大事です。
「第一 化城の事」には、
「御義口伝に云はく、化とは色法(しきほう)なり、城とは心法(しんぽう)なり。此の色心二法を無常と説くは権教の心なり。法華経の意(こころ)は無常を常住と説くなり。化城即宝処なり。所詮今日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱へ奉る者は、色心を妙法と開くを化城即宝処と云ふなり。十界皆化城、十界各々宝処なり。化城は九界なり、宝処は仏界なり。化城を去って宝処に至ると云ふは五百由旬(ゆじゅん)の間なり。此の五百由旬とは見思・塵沙・無明なり。此の煩悩の五百由旬を妙法の五字と開くを化城即宝処と云ふなり。化城即宝処とは即の一字は南無妙法蓮華経なり。」(御書1745)
と仰せであります。「化城即宝処」とは、御本尊様に御題目を唱える勤行唱題にあります。自行においては、成仏を目指す上での用法を説かれ、化他行於いては、「化城」が爾前権教であることを諭し、「宝処」が法華経であると折伏することであります。