日蓮正宗以外の仏教各派は、正しい仏法を示す「法四依」によらず、名聞名利に汚染された、人師の邪な教えが全てです。仏様を蔑ろにした人師の考えは、当然人々を不幸にします。
「四依」とは、法四依のことであり、釈尊が説かれる『涅槃経』にあります。日蓮大聖人は『一代五時図』に、
「涅槃経六に出ず 法四依 法に依って人に依らざれ
義に依って語に依らざれ 智に依って識に依らざれ 了義経に依って不了義 経に依らざれ」(御書491)
と「法四依」について御教示です。
法に依って人に依らざれ(依法不依人)とは、修行する人は、教そのものを依りどころとして、教を説く人に依ってはならない。
義に依って語に依らざれ(依義不依語)とは、教の意義(元意)に従い、表現の文章に依ってはならない。
智に依って識に依らざれ(依智不依識)とは、真の智慧に依って、凡人の情識(仏法を知らない識者)に依ってはならない。
了義経に依って不了義経に依らざれ(依了義経不依不了義経)とは、中道実相の義を説いた了義経に依って、そうでない不了義経に依ってはならない。以上が、『涅槃経』に説かれる「法四依」であります。つまり、仏様である釈尊の遺言、経典に背いてはいけないということです。
日蓮大聖人は、念仏である浄土宗や浄土真宗が、釈尊の経典に背いていることを『依法不依人御書』に説かれています。
「仏は依法不依人(えほうふえにん)といましめ給へども、末代の諸人は依人不依法となりぬ。仏は依了義経・不依不了義経とはせいし給へども、濁世(じょくせ)の衆生は依不了義経・不依了義経の者となりぬ。(中略)当世の念仏者たとい諸経諸仏を念じ行ずとをもえども、道綽(どうしゃく)・善導(ぜんどう)・法然(ほうねん)等の心をすぎず。若(も)し爾(しか)らば道綽禅師が未有一人得者の釈、善導が千中無一の釈、法然が捨閉閣抛(しゃへいかくほう)の四字謬(あやま)りならば、たとえ一代聖教をそらにせる念仏者なりとも阿弥陀の本願にもすてられ、諸仏の御意にもそむき、法華経の其人命終入阿鼻獄(ごにんみょうじゅうにゅうあびごく)の者とならん事疑ひなし。これ偏(ひとえ)に依法不依人の仏の誓戒をそむいて、人によりぬる失(とが)のいたすところなり。」(御書806)
と法然が説く「捨閉閣抛」、念仏の思想が間違っていることを仰せです。
更に、念仏宗の明らかな矛盾点を破折されています。『四条金吾殿御返事』に、
「日本国の有智・無智仰いで此の義を信じて今に五十余年、一人も疑ひを加へず。唯日蓮の諸人にかはる所は、阿弥陀仏の本願には『唯五逆罪と誹謗正法とを除く』とちかひ、法華経には『若し人信ぜずして此の経を毀謗せば、則ち一切世間の仏種を断ず、乃至其の人命終して阿鼻獄に入らん』と説かれたり。此善導・法然謗法の者なれば、たのむところの阿弥陀仏にすてられをはんぬ。余仏余経においては我と抛(なげう)ちぬる上は救ひ給ふべきに及ばず。法華経の文の如きは無間地獄疑ひなしと云云。」(御書619)
と御教示のように、念仏の阿弥陀仏は、「五逆罪」と「正法誹謗」する人を救済することがないと本願を立てています。正法である『法華経』を誹謗する法然は、無間地獄行きであり、当然成仏することがありません。故に、浄土宗や浄土真宗を信仰する人は、正法誹謗により無間地獄が確定します。
未だ、正しい仏法を知らない人は、日蓮正宗に入信し、「法四依」に従い『法華経』を信じて、本当の成仏を目指すことが大切です。