正林寺法華講員手引書

『折伏・家庭訪問・教化育成・法統相続・教学研鑚・邪義破折・支部組織の充実強化に活用』 法華講正林寺支部 正林編集部

広宣流布を目指す信心を

2005-11-20 | 手引書⑫

 「広宣流布」は、日蓮大聖人の正しい仏法を弘め、信心するように教導し、世の中を平和にする日蓮正宗の大目的です。全ての人々が、御題目の南無妙法蓮華経を本門戒壇の大御本尊様に、信心をもって唱えることを目指すのが「広宣流布」です。
 日蓮大聖人の正しい教えでない教義を弘めることを「広宣流布」とはいいません。日蓮正宗と似たような創価学会も、「広宣流布」をいいますが、全く異なった、創価教独特の教義を、説き弘めているのが現実です。創価学会の似非信心には注意しましょう。日蓮大聖人から正しく伝わり、御相伝による血脈の綺麗な功徳が、流れ通う教義を弘めることを「広宣流布」といいます。
 「広宣流布」の原点は、釈尊の『法華経』に説かれる「薬王菩薩本事品第二十三」に、
 「我滅度後。後五百歳中。広宣流布。於閻浮提。無令断絶(我が滅度の後、後五百歳の中(うち)、閻浮提に広宣流布して断絶せしむること無けん)」(法華経539)
と説かれています。釈尊が入滅されてから、五五百歳という末法時代にはいると、御題目の南無妙法蓮華経が「広宣流布」されることを、釈尊自らが予言されたのです。そこには、釈尊が説かれた教えでは救われないという意味があります。末法時代に経文の如く弘められる方は、外用の上行菩薩であり、御本仏日蓮大聖人です。
 故に日蓮大聖人は『三大秘法抄』に、
 「今日蓮が時に感じ此の法門広宣流布するなり」(御書1595)
と仰せでありますように、日蓮大聖人が釈尊から御相承を受けて、弘めるときであることを感じられ、御題目の南無妙法蓮華経を広宣流布されたのです。ここでの広宣流布の意味は、末法時代に、はじめて御題目を唱えられ、御本仏様がはじめて弘めるという重大な意義があります。本因妙という末法に一番相応しい、仏因を弘める意義であり、それがもう一つの「広宣流布」であります。
 私達は、御本尊様を信じ、大聖人の仰せのまま修行するところ、地涌の菩薩の眷属となり、「広宣流布」のお役に立たせて頂く、有り難い使命を賜ることが出来ます。地涌の菩薩としての使命を頂いたときには、第二祖日興上人は『日興遺誡置文』に、
  「未だ広宣流布せざる間は身命を捨てゝ随力弘通を致すべき事」(御書1884)
と仰せのように、信心をする私達は、この心構えを常に意識しなければいけません。「身命を捨てる」とは、「下種三宝尊」に私達の命を捧げ、広宣流布のために、随力弘通という折伏をすることです。
 更に『日興跡条々事』に、
 「大石寺は御堂と云ひ墓所と云ひ日目之を管領し、修理を加へ勤行を致して広宣流布を待つべきなり」(御書1883)
と仰せのように、日蓮正宗の伝統は、広宣流布の暁まで、総本山大石寺において、丑寅勤行を時の御法主上人が御導師をされ、広宣流布を待つのであります。丑寅勤行は、広宣流布に向かう準備をし、具体的な方法を御本尊様から智慧を頂き、実行する非常に大事な修行です。
 丑寅勤行を広宣流布の暁まで行うところ、確実に正しい仏法を弘めることが出来るのです。丑寅勤行を軽視する人は、師子身中の虫が、退転させようとしていることに気付くべきであり、反省し正信に目覚めましょう。
 私達は、「広宣流布」という最大の目的を見失うことなく、「下種三宝尊」にお仕えし「不惜身命」の精神で信心することです。その精神が私達の成仏に繋がります。


未得謂得 未証謂証

2005-11-20 | 手引書⑫

 「未得謂得 未証謂証」とは、「未だ得ざるを得たりと謂い、未だ証せざるを証せりと謂えり」と読みます。未だに悟りを得ていないのに、得たと思い込むことであります。
 信心において、求道心を失わないように説かれた教えです。また、慢心や増上慢を起こさないようにする、戒めでもあります。
 この「未得謂得 未証謂証」は、向上心を無くし、成仏できなくなり、現状に満足するということです。その結果、最高の仏様が覚られた境界を知ることなく、人生を終わってしまうのであります。
 境界を高めるには、現状に満足することなく、目標を新たに立て、それに向かって行くことです。これは信心で非常に大切なことです。現状に満足すれば、そこから魔の働きが入り込み、三界六道の生活に戻ることになります。
 「未得謂得 未証謂証」の原点は、釈尊が説かれる『法華経』の「方便品第二」にあり、
 「説此語時。会中有比丘。比丘尼。優婆塞。優婆夷。五千人等。即従座起。礼仏而退。所以者何。此輩罪根深重。及増上慢。未得謂得。未証謂証。有如此失。是以不住。世尊黙然。而不制止(此の語を説きたもう時、会中に比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷、五千人等有り。即ち座より起って、仏を礼して退きぬ。所以は何ん。此の輩は罪根深重に、及び増上慢にして、未だ得ざるを得たりと謂い、未だ証せざるを証せりと謂えり。此の如き失有り、是を以て住せず。世尊黙然として、制止したまわず)」(法華経100)
 更に「勧持品第十三」では、
 「悪世中比丘、邪智心諂曲、未得謂為得、我慢心充満(悪世の中の比丘は 邪智にして心諂曲に 未だ得ざるを為れ得たりと謂い我慢の心充満せん)」(法華経375)
と説かれています。第六十七世日顕上人は「開目抄」の御説法の折に、
 「『未だ得ざるを為れ得たりと謂ふ』というのは、本当は悟っていないのだけれども、自慢・高慢の慢心によって自分では悟っていると思い込んでしまっておる」
と御指南であります。「自慢・高慢の慢心」が原因で、「未得謂得 未証謂証」を起こす原因には、共通して「慢」ということがいえます。「慢」は、修行において常に誡めながら、精進することが大事です。
 この「慢」は、完全に心の中から無くなることなく、縁に触れて生まれます。その都度、誡めながら信心をするところに、「慢」を成仏の糧にしていくことが出来ます。「慢」は、気持ちを非常に高ぶらせる覚醒作用があります。正邪と善悪の判断基準を見失わせる働きをします。この部分を阻害し、「慢」の善知識となる面を、利用するところに価値があります。「慢」の善知識となる部分は、絶望感や悲観的な心の暗さを、根底から払拭させる力があります。つまり、「慢」が変毒為薬されて薬になるところです。「慢」には、七慢・八慢・九慢があります。
 信心では、「慢」の薬になる部分を活用し、「未得謂得 未証謂証」を誡めながら、一生成仏を目指していきます。勤行唱題では、「慢」に紛動されることなく精進しましょう。そこに「水の信心」があります。


ローソクに火を灯す理由

2005-11-20 | 手引書⑫

 御本尊様に勤行唱題するときは、必ずローソクに火を灯します。理由は、私達が生きていく未来を、明るく照らすために行います。また、御先祖様の来世に於ける人生を、明るくする働きもあるのです。
 ローソクの蝋が白いのは、白い霧が人生の行く手にかかっており、ローソクに火を灯すことで、蝋が溶けて白い霧を完全に払うことが出来、未来を明るく照らすことを意味します。
 ローソクの蝋には仏法上、人生を揺さぶる悪縁などを意味し、また宿習や宿縁・宿業などを指します。間違った先入観や固定観念も蝋の固まりになります。ローソクに火を灯すことにより、悪い因縁を消滅させ、安心して成仏を目指すことが出来ます。更に、線香も供えることで効果が倍増します。
 蝋はすぐには溶けません。火を灯してから時間が必要です。時間が必要であるということは、持続する信心、「水の信心」が不可欠であるということです。そこに「冥益」へと通じる原理があります。人生の闇は、すぐには晴れず、時間を要します。落ち着いて冷静になり、蝋が溶けるように、気長に時を待つ気持ちが大切です。そこに、耐え忍ぶという「柔和忍辱」の精神が養われます。
 蝋が溶ける様子は、時間が経過しなければ解りません。長い人生も、移り変わりの激しい状態を、一時的な観点から判断するのではなく、蝋が溶けるように、長い時間のなかに、様々な様子を窺い知ることが出来ます。蝋は、音を立てることなく、いつの間にか溶けていきます。溶けるところに、「禅定」という意味が具わり、私達も信心をする過程において、御本尊様からローソクの蝋が溶けるような静けさのなかで、有り難い「冥益」を確実に頂いているのであります。
 仏法上、火の意義について『御義口伝』には、
 「火とは法性の智火なり。火の二義とは、一の照は随縁真如(ずいえんしんにょ)の智なり。一の焼は不変真如(ふへんしんにょ)の理なり。照焼の二字は本迹二門なり。さて火の能作として照焼の二徳を具(そな)ふる南無妙法蓮華経なり。今日蓮等の類(たぐい)南無妙法蓮華経と唱へ奉るは生死の闇を晴らして涅槃の智火明了(みょうりょう)なり。生死即涅槃と開覚するを「照は則ち闇(やみ)生ぜず」と云ふなり。煩悩の薪(たきぎ)を焼いて菩提の慧火(えか)現前(げんぜん)するなり。煩悩即菩提と開覚するを『焼は則ち物生ぜす』とは云ふなり。爰を以て之を案ずるに、陳如(じんにょ)は我等法華経の行者の煩悩即菩提・生死即涅槃を顕はしたり云云」(御書1721)
と仰せであります。火には「照と焼」があり、人生を明るく照らす火の意味と、人生の迷い悩みとなる煩悩を、消滅させ焼くという火の意味があります。御題目を唱えることで、生死の闇を晴らし、智慧の火を御本尊様から頂いて、灯しながら歩むところに、成仏の境界「常寂光土」があるのです。
 ローソクの蝋は、貪瞋癡の三毒や三惑の見思惑・塵沙惑・無明惑を意味し、火を灯すことにより、私達の心の毒と惑いを溶かし払うという意味もあります。
 以上の意味から、勤行唱題では御本尊様に、ローソクに火を灯すことが非常に大切なのであります。


業について

2005-11-20 | 手引書⑫

 私達は、過去世からの身口意の三業にわたる、行いの結果として今の姿があります。信じない方もいますが、仏法では、「業」に様々な悪道に縁する作用があると説き、如何に信心では、勤行唱題により宿業を転換するかに、成仏の道があります。
 「業」とは、身口意の三業にわたる種々の振る舞いです。未来にもたらされる結果の原因となるので業因ともいいます。過去世の業を宿業といい、現世の業を現業といいます。信心をしていくと人の振る舞いを察することで、人間性が御本尊様の利益により見えてきます。それが、「仏眼」に通じる有り難い利益です。
 「業」について、小乗の説と大乗唯識の説があります。小乗では、身体の造作を身業、音声の造作を語業としています。視聴覚的な身および語を直接さして業とします。大乗唯識では、身口意の三業が説かれ、業とは、第六識(意識)と相応して起こる思の心所をさしています。身を動作する思を身業、語を起こす思を語業、意を作動する思を意業とします。
 また、定業不定業の二業があります。定業が未来における苦楽の果報が定まっていることをいい、不定業とは、定まっていないことをいいます。
 日蓮大聖人の御指南を拝すると『一念三千理事』に、
 「業に二有り。一には牽引(けんいん)の業なり。我等が正(まさ)しく生を受くべき業を云ふなり。二には円満の業なり。余の一切の造業なり。所謂(いわゆる)足を折り手を切る先業を云ふなり。是は円満の業なり」(御書100)
と仰せです。倶舎論に説かれる「牽引の業」と「円満の業」があります。
 牽引の業が、引業ともいい、五趣である地獄・餓鬼・畜生・人・天と、四生である卵生・胎生・湿生・化生の果報を引く業のことです。人間界や畜生界などの各界に生まれさせる業因で、未来世に餓鬼・畜生・人・天などの生を誘引するを引業(総報業)というのです。
 円満の業が、満業ともいい、満業といわれる意味に、差別の果報を満たす業ということです。六根など身体の強弱・貧富・寿命の長短などの差別果報を満たすものをいい、つまり円満の業(別報業)です。更に男女・貴賎・美醜などの個々の区別を引き起こさせる業因も満業になります。
 故に、人にそれぞれ差別が厳然とあるのは、業が深く関係していることを証明しています。信心では御本尊様に勤行唱題するところ、自分自身の「業」を明らかに把握することが大切です。「業」を明らかに把握するということは、己自身を知るということです。性格や癖は、「業」によるのであります。性格や癖を直すには、未来に成す言動を変えることが大事です。
 つまり日蓮大聖人は同抄に、
 「如是因は心なり。止に云はく『因とは果を招くを因と為す、亦名づけて業と為す』文。如是縁止に云はく『縁とは縁は業を助くるに由る』文」(御書101)
と仰せです。生きていく上で、原因と縁を善いものに変えることです。信心をすることで、因と縁は善くなり、過去世からの業を完全に変えます。そこに宿命の転換や宿業転換があります。
 過去遠々劫の謗法罪障消滅は、この「業」を理解することが大事です。信心をして御題目を唱えれば、必ず宿業となって染み付いた謗法の垢も、宿命転換し罪障を消滅させることが出来るのです。


宿業転換は御本尊様への境智冥合

2005-11-20 | 手引書⑫

 入信以前、身に付いた悪業多き私達の命は、三大秘法の御本尊様と心を同じにして、御題目を唱えて行くところ、宿業を転換することが出来ます。自分の過去世に作り上げた業は、到底凡眼凡智で推し量ることは困難です。この困難を回避し、宿業を打開するのが、御本尊様への「境智冥合」になります。
 「境智冥合」とは、悪業多き私達の境涯を、御本尊様の非常に崇高な境界と智慧を頂き、心を御本尊様に冥合させることです。冥合の冥とは、私達の目には見えない、御本尊様の有り難い力で、合とは、私達の心を御本尊様である仏様の境遇に合わせることです。
 日蓮大聖人は『当体義抄』に、
 「本地難思(ほんちなんし)の境智冥合(きょうちみょうごう)」(御書699)
と仰せです。私達の凡眼凡智では、到底仏様の本地は思い難く、信心で御本尊様に境智冥合するところ、思い難い仏様の本地が、以信代慧により智慧を頂いて、御本尊様と境地が一体となり、有り難い仏様の境界と智慧を賜ることが出来ます。
 日蓮大聖人は「境智」について『曽谷殿御返事』に、
 「夫(それ)法華経第一方便品に云はく『諸仏の智慧は甚深無量なり』云云。釈に云はく『境淵無辺(きょうえんむへん)なる故に甚深と云ひ、智水測り難き故に無量と云ふ』と。抑(そもそも)此の経釈の心は仏になる道は豈(あに)境智(きょうち)の二法にあらずや。されば境と云ふは万法の体(たい)を云ひ、智と云ふは自体顕照の姿を云ふなり。而るに境の淵(ふち)ほとりなくふかき時は、智慧の水ながるヽ事つヽがなし。此の境智合しぬれば即身成仏するなり。法華以前の経は、境智各別にして、而も権教方便なるが故に成仏せず。今法華経にして境智一如(いちにょ)なる間、開示悟入(かいじごにゅう)の四仏知見(しぶっちけん)をさとりて成仏するなり。(中 略)此の境智の二法は何物ぞ。但南無妙法蓮華経の五字なり。此の五字を地涌(じゆ)の大士(だいし)を召し出だして結要付嘱(けっちょうふぞく)せしめ給ふ。是を本化(ほんげ)付嘱の法門とは云ふなり」(御書1038)
と仰せです。法華経において、境と智が一所になり、爾前権教では、境と智が別々に存在します。別々になるということは、成仏できないことになります。権実相対を御教示されたところです。
 第二十六世日寛上人は『文底秘沈抄』に、
 「夫れ本尊とは所縁の境なり、境能く智を発し、智亦行を導く。故に境若し正しからざる則んば智行も亦随って正しからず。妙楽大師の謂えること有り「仮使発心真実ならざる者も正境に縁すれば功徳猶多し、若し正境に非ざれば縦い偽妄無けれども亦種と成らず」等云云。故に須く本尊を簡んで以て信行を励むべし。若し諸宗諸門の本尊は処々の文に散在せり、並びに是れ熟脱の本尊にして末法下種の本尊に非ず」(六巻抄42)
と御教示です。境とは、御本尊様であり、智とは、私達が唱題行で御本尊様から頂く智慧です。他宗の本尊では、熟脱の本尊であるために、境智冥合出来ず、末法下種の本尊でなければ、境智冥合できないのであります。
 末法下種の本尊とは、三大秘法の御本尊様であり、この御本尊様に境智冥合するところ、私達の宿業を転換することが確実に出来るのです。


常楽我浄の四徳

2005-11-20 | 手引書⑫

 「常楽我浄」とは、私達が合掌するときに使用する、御念珠の珠である四菩薩の部分が「常楽我浄」の四徳を意味します。御念珠をした合掌の姿勢を崩すことなく、御本尊様に御題目を唱えるところ「常楽我浄」の四徳を具えることが出来ます。四徳を具えるところに成仏があるわけです。
 御本尊様の有り難い功徳を頂き、常に楽しく我の心が浄められ、人生を歩んでいくことが出来ることを「常楽我浄」といいます。
 「常楽我浄」の常徳とは、仏の境地・涅槃が永遠に不変不改であること。楽徳が、無上の安楽を意味し、我徳が、自我の生命が自由自在で他から何の束縛も受けないことです。浄徳が、煩悩のけがれのない清浄な命をいいます。
 反対に、常楽我浄の四顛倒があり、常楽我浄を正しく見ず、逆さまに見ること。四倒ともいい、四種類の誤った見方をいいます。四倒に二種あり、一つは、凡夫は生死の苦において常楽我浄に執着し、これを有為の四倒といいます。二つ目が、二乗は涅槃の悟りにおいて無常・無楽・無我・無浄に執着し、これを無為の四倒といいます。二乗は有為の四倒を断じ、菩薩は有・無為の八到を断ずるとされています。
 有為とは、因と縁によってつくられた生滅するもので、有為法ともいい、有為法には必ず生・住・異・滅の四相があり、常住でないと説かれています。無為とは、因縁によって作られることなく、生滅変化のない常住不変の真理のことです。
 第六十七世日顕上人は「顛倒」について、「御会式」において『如来寿量品第十六』の御説法の砌、
 「顛倒とは、一切の妄想、虚妄、虚偽に執われる逆さまの見解のことであります。すなわち、衆生が自らの性分に迷い、その妄想によって客観的な真理に迷い、また、妄業によって妄境に流転して、さらに苦しみを増す実体をいうのであります。これについて、四と八の顛倒があります。
 四つの顛倒とは、仏道の因縁を正しく識らぬ外道等が、一に無常の人生、世間の有為転変の法を常住と迷想し、二に苦を楽と執われ、三に不浄を浄と信じ、四に無我を我なりと執われて起こす迷見であり、世の中の衆生の一切の迷いは、概ね、このところから生じております。
 また、八顛倒とは、前の四顛倒にさらに加えて、仏法の大菩提の妙境として説かれる、無為にして常住不変の四徳たる常楽我浄について、一に常を無常と計し、二に楽を苦と執し、三に我を無我と考え、四に浄を不浄と妄想して、仏法真実の四徳に迷う四顛倒を合わせて八としたものであります。」(寿量品説法255)
と御指南であります。
 日蓮大聖人は『常楽我浄御書』に、
 「一切諸法は常楽我浄(じょうらくがじょう)と云云」(御書1673)
と仰せです。三大秘法の御本尊様に会入されるところ、全ての法が「常楽我浄」を具え、成仏に必要な教えに変わるのです。
 信心をすることで、迷いや悩みの気持ちが「常楽我浄」という安楽な境遇に変わります。


成仏を妨げる先入観と固定観念

2005-11-20 | 手引書⑫

 先入観とは、初めに知ったことによって作り上げられた固定的な観念や見解。それが自由な思考を妨げる場合にいいます。先入見。先入主ともいわれます。 
 固定観念とは、固着観念のことであり、絶えず意識を支配し、それによって主として行動が決定されるような観念。強迫観念とは違って病的な感じはありません。過価観念ともいいます。
 先入観と固定観念が、私達の迷い貪瞋癡の三毒や見思・塵沙・無明という三惑と深く関係しています。
 先入観について、着眼してみますと、その人が生まれてから、現在に至るまで、疑うことなく信じて学び身に付けてきた人生観です。先入観は、我見を作り上げる要素を持ちます。その人生観がどのような経過をたどり、更に思想的な勝劣浅深という物差しで測った場合、どれくらいの価値があるのか、信心において考えることが大事です。
 一度、命の中に入り込んだ先入観は、なかなか直しにくいものがあります。この先入観を正しい仏法と入れ替える作業に苦労するところですが、一度でき上がった人格は、相当な努力を要します。それがまた信心修行になり、成仏につながります。
 先入観の出来上がる仕組みについては、疑う気持ちが全くありません。折伏や教化育成・法統相続には、この先入観の要素を多分に活かすことが必要です。 
 邪宗教では、先入観の要素を利用して洗脳していきます。先入観には、善悪の判断基準は存在せず、吸い取り紙のように、命の中にすんなりと入り込みます。先入観が固定観念となって、自分自身の人生観へ変わり、現在と未来に大きな影響を持ちます。影響を持つと言うことは、生活に直接関わってきます。つまり、対人関係や人間関係の難しさには、お互いの先入観と固定観念が魔の働きとなり、様々な生活空間を作り上げるのです。相手の先入観と固定観念を、信心では勤行唱題に於いて、御本尊様から智慧を頂き明らかに見つめ、人間関係が円滑になるよう対処していきます。そこに「我此土安穏」があります。 
 先入観は、主に生まれた環境と、生きていく上で、五感に触れて自分自身が素直に感じたことにより出来上がります。そこにはまた、過去世に作り上げた業も深く関係してきます。業は、心で感じる部分で影響し、それぞれの性格や人格の違いとして明らかに見ることが出来ます。同じ環境で育っても、個人差が生まれる理由に、過去世の業が関わっていることがいえます。
 私達の成仏には、折伏が必要です。折伏では、相手の先入観を分析していく能力が要求されるわけであります。その分析力が、信心即生活により、生活の中で役立つことになります。折伏で養われた力を生活全般に応用することで、我此土安穏な境界へと変わっていくわけで、善と悪とを見分ける力が、折伏で養われます。生活を快適にする善と、生活を駄目にしてしまう悪を止めていくことに繋がります。
 他力本願的思想が世の中を覆う時代です。他力本願が先入観として多くの人々の心に入り込んでいます。如何に念仏的な考えが、信仰を持たない人の心に入り込んでいるかが窺えます。
 理想的な先入観と固定観念は、日蓮大聖人の教えを心肝に染めることです。大聖人の教えが先入観となり固定観念となれば、人生に於ける多くの苦しみを打開する力が身に付くのであります。その方法が、御本尊様に向かう勤行唱題となり、「信行学」に精進するところに築き上げられ、そこに成仏があります。


四つの誓願を志す信心「四弘誓願」

2005-11-20 | 手引書⑫

 私達は生きていく上で、目的や目標を持っています。目標を失えば、自然と生きる気力も失われ、人生に対し様々な迷いが生まれます。仏道に関わらず、人間社会には目的や目標となる「誓願」が非常に大事です。「誓願」を心に決めることで、自分自身の成長があり、当然、信心に於ける大目的の成仏には、「誓願」を持つことが必要です。
 日蓮正宗の信心では、四つの誓願である「四弘誓願」を立てます。「四弘誓願」とは、菩薩が修行を発心する時に立てる四つの大きな誓いのことです。衆生無辺誓願度・煩悩無数誓願断・法門無尽誓願知・仏道無上誓願成をいい、すべての菩薩が起こすので総願ともいいます。
 衆生無辺誓願度(しゅじょうむへんせいがんど)とは、生死の苦海に沈んでいる一切衆生をすべて成仏に導こうと誓うこと。煩悩無数誓願断(ぼんのうむしゅせいがんだん)とは、すべての煩悩を断じ尽くそうと誓うこと。法門無尽誓願知(ほうもんむじんせいがんち)とは、仏の教えをすべて学び、知ろうと誓うこと。仏道無上誓願成(ぶつどうむじょうせいがんじょう)とは、最上の仏道を修して悟りを成就しようと誓うこと。
 「四弘誓願」の具体的な日蓮大聖人の御指南は、『御講聞書』に仰せであります。「入末法四弘誓願の事」「四弘誓願応報如理と云ふ事」「本来の四弘の事」という事が説かれています。『御講聞書』に、
 「所詮四弘誓願の中には衆生無辺誓願度肝要なり。今日蓮等の類は南無妙法蓮華経を以て衆生を度する、是より外には所詮無きなり」(御書1862)
と仰せであります。これは、折伏の精神を御指南されたところです。「四弘誓願」のなかでも、特に衆生無辺誓願度が大事であるということです。
 他の三つの誓願である煩悩無数誓願断・法門無尽誓願知・仏道無上誓願成は、自行に於ける自分の成仏の誓願であり、末法に於いては、「自行化他に渡る」御題目を唱えていくことが必要であるため、衆生無辺誓願度が肝要になるのであります。
 三つの誓願である煩悩無数誓願断・法門無尽誓願知・仏道無上誓願成は、化他行の折伏に活用することが大事です。つまり衆生無辺誓願度に活かすことであります。そこで日蓮大聖人が『三大秘法抄』に、
 「末法に入って今日蓮が唱ふる所の題目は前代に異なり、自行化他に亘りて南無妙法蓮華経なり」(御書1594)
と仰せになるのであります。この御指南には非常に深い意味があり、人が生きていく上で経験する多くの苦悩を解決するために精進していくという基本的な姿勢の他に、地涌の菩薩としての使命がないと出来ないことを御教示になられるところです。末法に相応しい御題目の唱え方を仰せになられたところです。
 「四弘誓願」は自行化他において考えていくことが大事になります。日蓮正宗の「血脈相承」である時の御法主上人の御指南に信伏随従していくところ、自然と「四弘誓願」が理解できていくのであります。
 毎日の勤行唱題では、「四弘誓願」を忘れることなく地道に修行するところ、確実に成仏に向かい、広宣流布も着実に行われるのであります。


真の幸福とは

2005-11-20 | 手引書⑫

 日蓮正宗以外の宗教でも、「真の幸福」について説くところです。「真の幸福」とは、日蓮大聖人の教えを信じるところにあり、御本尊様に御題目を唱えていくところにあります。
 「真の幸福」は、一時的なものではなく、現当二世といわれる現在と未来に永遠と続く幸福が「真の幸福」です。日蓮正宗以外の宗派が説く幸福は、現在だけの幸福であり一時的なものです。
 世の中の多くの人は、一時的な幸福に満足しています。確実な幸福「真の幸福」を築くには、日蓮大聖人の教えを信じて生きていく以外にありません。「真の幸福」は、成仏を目指すところにあり、仏に成ることです。
 一般的な意味で幸福とは、心が満ち足りていること。また、そのさま、しあわせという意味になります。人それぞれに「幸福」の価値観が異なります。そのため、釈尊は八万四千といわれる膨大な御法門を残されたのです。しかし、末法といわれる現代は、釈尊の教えで「真の幸福」を掴むことが出来ません。釈尊自ら法華経に説かれています。その変わり日蓮大聖人が釈尊の本法を所持されて私達に、「真の幸福」を得る教えを弘められたのです。それが、御本尊様に御題目を唱えるという修行になります。
 世の中の全ての人は、「幸福」を求めて生きています。そのために仕事をもって働き生活を維持しています。仕事は永遠の幸福を維持できると、保証されるものではありません。そこには、仕事をするだけでは解決できない問題があります。それが人生の苦しみ「四苦八苦」であり「幸福」を邪魔するものです。「四苦八苦」は仕事を真面目にすれば、解決できる問題ではありません。そこに信心の必要性があります。生活を維持する仕事を、本当に安定させる秘訣が信心となります。仏様から智慧を頂いて生きていきます。
 信心をすることで、福運を身に付け悪縁を絶ち、善い縁だけを呼び寄せていきます。仕事に追われる毎日には、判断力が散漫し、私生活が乱れる可能性があります。散漫するということは、善と悪の見極め方がゆるむことに繋がり、そこから仕事の安定が失われ、「幸福」を得るはずの仕事が上手くいかなくなり、生活が不安定になるわけです。信心をしていれば、不安定を回避し、常に安泰な状態を維持していくことが出来ます。世の中は「無常」です。常に存在するものではありません。様々な縁により、目に見えるものが壊れていき、また新たなものが出来てきます。その変化に順応していく精神を付けるのが信心です。 
 信心をすれば、「福徳」が付いてきます。「福徳」とは、幸福と功徳のことで、善の行為によって得る福利・福報をいい、信心修行によって得る福運・功徳を意味します。つまり、御本尊様から頂く功徳です。御本尊様に御題目を唱えていくところに「真の幸福」を築いていくことが出来、未来まで生活を安定させることが出来ます。
 御本尊様の上の左脇に「有供養者 福過十号(うくようしゃ ふくかじゅうごう)」とあり、御本尊様から頂く有り難い功徳が認められています。無上の仏身を持つ功徳よりも勝れた功徳を頂くことが保証されています。それが「有供養者 福過十号(うくようしゃ ふくかじゅうごう)」ということになります。
 「真の幸福」は、三大秘法の御本尊様を受持するところと、一生成仏を心に誓うところにあります。信心をすることで、人生の苦悩を退け幸福を呼び寄せ、「真の幸福」を得られるのです。


折伏は福田に下種をして育成が必要

2005-11-20 | 手引書⑫

 福田とは、田が作物を生ずるように、供養することにより福徳を生ずる対象。三福田(さんぷくでん)や八福田(はちふくでん)があります。
 三福田は、供養すれば福徳を得ることのできる三つの対象。敬田(三宝)・恩田(父母)・悲田(貧苦者)、または報恩福田(父母)・功徳福田(三宝)・貧窮福田(貧苦者)ということです。
 八福田が、(これらに施すとよく福を生むことを、田の稲を生ずることにたとえていう) 仏・聖人・和尚・阿闍梨あじやり・僧・父・母・病人に施すことです。異説もあります。
 日蓮正宗で説くところの「福田」を考えた場合、折伏や育成、そして法統相続に関係し、人の心の「田んぼ(福田)」に種を植え育てていきます。つまり「下種」です。縁ある人の「福田」に御題目の南無妙法蓮華経を植えていきます。末法は「本未有善」という、未だ善となる仏様の種が命に植えられていない人が生まれてくる時です。信心を知らない人に、御題目を教えていく時代です。「福田」に御題目の南無妙法蓮華経を、植えていくことが非常に大事であります。「福田」に植えられた種を育てるための肥料は、日蓮大聖人が説かれる教えでなければいけません。
 末法時代では、法華経以外やまた釈尊の法華経では、「福田」に種を植えたことになりません。末法に下種する種は、釈尊在世の教えでなく、日蓮大聖人の文底下種仏法でなければいけません。釈尊の仏法では、かえって毒となって不幸になります。それは釈尊自らが、大集経において説かれています。それが「白法隠没」ということで、日蓮大聖人は『上行菩薩結要付囑口伝』に、
 「今末法に入って仏滅後二千二百二十余年に当たりて聖人出世す。是は大集経の闘諍言訟(とうじょうごんしょう)・白法隠没(びゃくほうおんもつ)の時なり云云」(御書944)
と御教示のように、末法の人々の「福田」には、末法に出世される聖人が流布する種でなければならないのです。
 日蓮大聖人は『衆生心身御書』に、
 「ひへ(稗)のはん(飯)を辟支仏(びゃくしぶつ)に供養せし人は普明如来となる。つち(土)のもちゐ(餅)を仏に供養せしかば閻浮提の王となれり。設(たと)ひこう(功)をいたせども、まことならぬ事を供養すれば、大悪とはなれども善とならず。設ひ心をろ(愚)かにすこ(少)しきの物なれども、まことの人に供養すればこう(功)大なり。何に況んや心ざしありてまことの法を供養せん人々をや。其の上当世は世みだれて民の力よわ(弱)し。いとまなき時なれども心ざしのゆくところ、山中の法華経へまうそう(孟宗)がたかんな(笋)ををく(送)らせ給ふ。福田(ふくでん)によきたね(種)を下(くだ)させ給ふか。なみだ(涙)もとヾまらず。」(御書1217)
と仰せです。文底の法華経に基づいた最高の種を「福田」に植えれば、計り知れない功徳があると御教示なのです。
 「福田」に下種された種を育成するには、自行化他に精進することだけです。毎日の勤行唱題と折伏、寺院参詣や総本山への登山が大事です。それらを確実に行うことで、「福田」に植えられた種が育ち、成仏の境界へと向かいます。