正林寺法華講員手引書

『折伏・家庭訪問・教化育成・法統相続・教学研鑚・邪義破折・支部組織の充実強化に活用』 法華講正林寺支部 正林編集部

常楽我浄の四徳

2005-11-20 | 手引書⑫

 「常楽我浄」とは、私達が合掌するときに使用する、御念珠の珠である四菩薩の部分が「常楽我浄」の四徳を意味します。御念珠をした合掌の姿勢を崩すことなく、御本尊様に御題目を唱えるところ「常楽我浄」の四徳を具えることが出来ます。四徳を具えるところに成仏があるわけです。
 御本尊様の有り難い功徳を頂き、常に楽しく我の心が浄められ、人生を歩んでいくことが出来ることを「常楽我浄」といいます。
 「常楽我浄」の常徳とは、仏の境地・涅槃が永遠に不変不改であること。楽徳が、無上の安楽を意味し、我徳が、自我の生命が自由自在で他から何の束縛も受けないことです。浄徳が、煩悩のけがれのない清浄な命をいいます。
 反対に、常楽我浄の四顛倒があり、常楽我浄を正しく見ず、逆さまに見ること。四倒ともいい、四種類の誤った見方をいいます。四倒に二種あり、一つは、凡夫は生死の苦において常楽我浄に執着し、これを有為の四倒といいます。二つ目が、二乗は涅槃の悟りにおいて無常・無楽・無我・無浄に執着し、これを無為の四倒といいます。二乗は有為の四倒を断じ、菩薩は有・無為の八到を断ずるとされています。
 有為とは、因と縁によってつくられた生滅するもので、有為法ともいい、有為法には必ず生・住・異・滅の四相があり、常住でないと説かれています。無為とは、因縁によって作られることなく、生滅変化のない常住不変の真理のことです。
 第六十七世日顕上人は「顛倒」について、「御会式」において『如来寿量品第十六』の御説法の砌、
 「顛倒とは、一切の妄想、虚妄、虚偽に執われる逆さまの見解のことであります。すなわち、衆生が自らの性分に迷い、その妄想によって客観的な真理に迷い、また、妄業によって妄境に流転して、さらに苦しみを増す実体をいうのであります。これについて、四と八の顛倒があります。
 四つの顛倒とは、仏道の因縁を正しく識らぬ外道等が、一に無常の人生、世間の有為転変の法を常住と迷想し、二に苦を楽と執われ、三に不浄を浄と信じ、四に無我を我なりと執われて起こす迷見であり、世の中の衆生の一切の迷いは、概ね、このところから生じております。
 また、八顛倒とは、前の四顛倒にさらに加えて、仏法の大菩提の妙境として説かれる、無為にして常住不変の四徳たる常楽我浄について、一に常を無常と計し、二に楽を苦と執し、三に我を無我と考え、四に浄を不浄と妄想して、仏法真実の四徳に迷う四顛倒を合わせて八としたものであります。」(寿量品説法255)
と御指南であります。
 日蓮大聖人は『常楽我浄御書』に、
 「一切諸法は常楽我浄(じょうらくがじょう)と云云」(御書1673)
と仰せです。三大秘法の御本尊様に会入されるところ、全ての法が「常楽我浄」を具え、成仏に必要な教えに変わるのです。
 信心をすることで、迷いや悩みの気持ちが「常楽我浄」という安楽な境遇に変わります。