正林寺法華講員手引書

『折伏・家庭訪問・教化育成・法統相続・教学研鑚・邪義破折・支部組織の充実強化に活用』 法華講正林寺支部 正林編集部

必ず経験する生者必滅と会者定離

2005-11-21 | 手引書⑨

 日蓮大聖人は『聖愚問答抄』に、
 「悲しいかな生者(しょうじゃ)必滅の習ひなれば、設(たと)ひ長寿を得たりとも終には無常をのがるべからず」(御書404)
と「生者必滅」について仰せです。「生者必滅」とは、生ある者は必ず滅し、生まれてきた者は、必ず死を経験するという世の無常です。「会者定離」とは、会う者は離れる定めで、出会いがあれば、必ず別れる定めであることです。
 『涅槃経』に原点があり、
「夫れ盛んなるは必ず衰えること有り、合会には別離有り」
と説かれる文から出た言葉です。それが「生者必滅」と「会者定離」です。
 「生者必滅」と「会者定離」を経験するときは、必ず苦しみが伴います。三毒の貪瞋癡が命の中に生まれ、平静な気持ちや歓喜の気持ちを打ち消していきます。長生きしたいと願う貪欲、「生者必滅」と「会者定離」を縁とし、愚癡も瞋りも生まれ、心を汚していきます。そのために貪瞋癡の三毒というのです。
 「生者必滅」と「会者定離」は四苦八苦の一部です。「生者必滅」が死苦であり、「会者定離」が愛別離苦です。信心で苦しみを和らげることが出来ますが、信心を知らない人は、転重軽受の法門を知らないために、気持ちの中に生まれる死への恐怖と、愛する人への別離、失恋などに嘆き悲しみます。
 世の無常である「生者必滅」と「会者定離」は、転重軽受の法門を心得ることで、辛さと恐怖心を最小限に止め、成仏の糧に煩悩即菩提していきます。故に、自行化他に善知識として考えることです。自行には自己の成仏のために、「不自惜身命」の精神を身に付けるためと発心し、化他行である折伏においては、教化育成の智慧に活用し、相手の動執生疑を誘発させることに利用します。「生者必滅」と「会者定離」に伴う苦痛が、自行化他の智慧に変えられます。五感で感じた素直な気持ちが、相手の動執生疑を誘います。
 「生者必滅」と「会者定離」は、動執生疑を起こしやすい縁です。折伏に於ける家庭訪問では、「生者必滅」と「会者定離」を上手く組み合わせて話すことも大事です。そこに折伏成就に繋がる鍵があります。
 多くの人々は、生活が謗法からくる社会悪に左右され、眼前のことに執着し、「生者必滅」と「会者定離」を全く考えない姿があります。全く考えないと言うことは、実際に直面したとき、どの様にすればいいのか、迷い悩む原因がすでにあるわけです。
 信心を忘れ、生活や仕事に翻弄させられている状態は、謗法に染まりやすい生命にいることを認識すべきです。勤行唱題で自己を見つめ直し、日蓮大聖人が仰せになる教えに従って、生活や仕事をすべきです。そこに転重軽受があり、「生者必滅」と「会者定離」を自然と御本尊様の功徳を頂き、通り過ぎることが出来ます。それが有り難い「冥益」です。
 信心では、事前に日蓮大聖人から教えを頂き、心の準備を整えます。信心しない人は、この準備が出来ないままに「生者必滅」と「会者定離」を体験し悩み苦しむのです。折伏は、この点を話すことも必要でしょう。
 「生者必滅」と「会者定離」は、日蓮正宗の寺院へ参詣すれば適切な御指導を御住職様から頂くことが出来ます。そして生活を安穏にしていきます。それが「常寂光土」です。


教を知る

2005-11-21 | 手引書⑨

 日蓮大聖人は「教」である、教えについて『教機時国抄』に、
 「一に教(きょう)とは、釈迦如来所説の一切の経律論五千四十八巻四百八十帙(ちつ)。天竺(てんじく)に流布すること一千年、仏の滅後一千一十五年に当たって震旦(しんだん)国に仏経渡る。(中 略)此の一切の経律論の中に小乗・大乗・権経・実経・顕教・密教あり。此等を弁(わきま)ふべし。」(御書269)
と仰せです。仏教でも是れだけ多くの教えがあります。世間法を考えた場合、更に多くの教えが散在しています。人生を有意義にする教えや不幸にする教えなど、正邪を見極める判断力を備えなければいけません。信心において、明らかに御本尊様から智慧を頂き見ていくことが大事です。教えの勝劣・浅深・正邪を明らかにするところに安穏な生活があります。
 では「教」の意義を考えてみましょう。「教」という教えは、生きていく上で非常に大事です。教えがなければ生きていくことが出来ません。私達は無意識のうちに学び、自分自身が生きていく知識にしています。幸福になる教えを学び生活に活かせば問題ありませんが、不幸になる教えを身に付けた場合、大変なことです。この幸福と不幸になる教えを、日蓮正宗の寺院で学ぶ必要があります。学ぶことで、本当の幸福を生活にもたらすのです。
 信念や努力というものも、幸福になる教えにそって、信念や努力を注ぎ込めば大成しますが、不幸になる教えに基づいて信念や努力をしても、不幸になる一方です。信心では、この点を明確にして不幸になる教えを全て排除し、幸福になる教えだけを信じて、信念と努力を無駄にしないよう勤めるのであります。
 世の中に氾濫する教えの意義を、日蓮大聖人の御指南のもと、明らかに見ていけば心配ありません。一生涯、日蓮大聖人の教えのもとに強盛な信心を貫けば、冥益を得て不動の幸福境界を得ることが出来ます。顕益という、明らかに見える利益は、すぐ消える可能性が強いですが、冥益の場合は違います。冥益は、地道に地盤を築いた分、非常に壊れにくいのです。正しく現当二世といわれる、現在と未来に、確実な幸福を生む利益が冥益なのです。目に見えない分、一度築いたら壊されず、御本尊様を受持する「金剛宝器戒」という、由縁がそこにあるのです。
 教えを得るには具体的に、日蓮正宗の寺院に参詣し、御住職様から御指導を賜ることであり、毎月の御講には必ず参詣します。御講の場で、正しい教えをうかがうことが出来るのです。
 勤行唱題の中で、世間に沢山ある教えの価値を御本尊様から智慧を頂き、明らかに見ていきます。時として、世間的に立派な人の意見に迷う場合があります。大聖人の御指南に照らした場合、どのような価値があるのか、御本尊様の前で落ち着いて唱題するところに、自然とその価値が見えるはずです。御本尊様を信じ、私達の迷い煩悩・業・苦の三道が、法身・般若・解脱という三徳に変わり、その人の意見の価値を明らかにして下さいます。三毒を払拭させ、歓喜の気持ちで全身が満ちあふれたとき、御本尊様から有り難い智慧が頂けるはずです。瞋の気持ちや愚癡、貪欲は正しい価値判断を鈍らせます。
 日蓮大聖人の正しい仏法(教)を知り信じていけば、最高の幸福境界、常寂光土が現実になります。


機を知る

2005-11-21 | 手引書⑨

 日蓮大聖人は「機」について『教機時国抄』に、
 「二に機とは、仏教を弘むる人は必ず機根を知るべし。(中 略)智慧第一の舎利弗すら尚(なお)機を知らず。何(いか)に況(いわ)んや末代の凡師(ぼんし)機を知り難し。(中 略)又謗法の者に向かっては一向に法華経を説くべし。毒鼓(どっく)の縁と成さんが為なり。例せば不軽菩薩の如し。亦(また)智者と成るべき機と知らば必ず先づ小乗を教へ、次に権大乗を教へ、後に実大乗を教ふべし。愚者と知らば必ず先づ実大乗を教ふべし。信謗(しんぼう)共に下種と為(な)ればなり。」(御書270)
と御教示であります。機とは、機根のことです。相手が理解して、受け入れられる器です。また気持ちや心の中など、外見では判断できない複雑な心理のことです。生活の中では、この心理状態を冷静になって見ていくことが大事です。
 信心をしない人は、お互いの「機」をよく理解しないため、自己中心的になり、人間関係や対人関係が縺(もつ)れ、「依正不二」により住む環境にも影響していきます。家族間の様々な問題は、正しく信心に立脚しない、我慢偏執からきており、御本尊様を信じない謗法から来ていることが明白です。
 自行化他において、「機」を十分に考えることです。御本尊様を信じ、異体同心して行くところに、お互いの正確な機根・性格を知ることが出来、人間関係を円滑にします。その結果、「我此土安穏」という住みよい環境に、御本尊様の利益によって実現します。
 「機」である機根を知ることは、折伏成就の要素にもなります。「己を知り敵を知る」という、自分自身のことは当然、相手のことも十分に理解することです。相手を取り巻く複雑な環境や、人間関係を観察し分析せず、自己中心的な我見の努力と信念だけで、認めてもらおうとしても焼け石に水です。相手の気持ちと相手を取り巻く対人関係によって、積み重ねた努力が、一瞬にして水蒸気と化してしまいます。その結果、御本尊様を疑い退転しかねません。十分に気を付けなければいけない点です。
 信心では水蒸気にならないよう、禅定を心がけて一歩踏みとどまり、相手の受け入れる素養や器、機根と周囲の状況など、その時の気分や心理状態を察して行きます。人間というものは常に心が変動しています。御本尊様のように平常心である禅定を持つのは、信心しない限り、一定に持つことは困難です。相手に納得させるには機会を窺い、勤行唱題で的確な機会を掴むことが大事です。そこに折伏成就があります。
 「機」を知るとは、相手の様々な因縁に依って生まれる、心の変化を知ることです。軽はずみに第一印象で判断してはいけないという、信心においての戒めがあります。それが、「機」を知ることになります。
 信心しない多くの人は、第一印象で相手の「機」という性格や度量を判断しがちです。素直な性格の人であれば、第一印象で判断しても問題ありませんが、第一印象を上手く利用して、裏では何をするか信用できない人もいます。末法濁悪世には、特に第一印象と裏腹な人々が横行する時代です。信心において、「機」を知るとは、この点を御本尊様から有り難い功徳を頂いて、明らかに見ていくことになります。そこに、即身成仏に繋がる尊い道が隠されています。
 信心では、「機」を明らかに見える眼を磨いていき、それが唱題行です。


時を知る

2005-11-21 | 手引書⑨

 日蓮大聖人は時について『教機時国抄』に、
  「三に時(じ)とは、仏教を弘めん人は必ず時(とき)を知るべし。譬へば農人(のうにん)の秋冬田作るに種と地と人の功労とは違(たが)はざれども一分(いちぶん)も益(やく)無く還(かえ)って損す、一段を作る者は少損(しょうそん)なり、一町二町等の者は大損(だいそん)なり、春夏耕作すれば上中下に随って皆分々(ぶんぶん)に益有るが如し。仏法も亦復(またまた)是くの如し。時を知らずして法を弘むれば益無き上還って悪道に堕(だ)するなり。」(御書270)
と御教示であります。仏法を弘めるには、時が大事であると仰せで、折伏は、時を重視して行うところ、成果に結びつきます。機根を十分に察した上、折伏する相手が、一番、話を聞いてくれやすい時を見逃さないことです。時を無視しては、到底、折伏成就を望むことは出来ません。逆縁は結べても、相手の速やかな発心を遠ざける結果になります。それが、『教機時国抄』の「時を知らずして法を弘むれば益無き上還って悪道に堕(だ)するなり」という日蓮大聖人の御指南です。私達は時として、焦りや感情が先走り、無謀な折伏をしかねません。勤行唱題を根本に、身口意の三業を調えて折伏することです。
 正しい仏法を弘める折伏以外にも、時を無視しては、生きていくことが出来ません。「時」を正確に知ることで人間関係を円滑にします。相手も時間によって動き、時間によって気持ちも変化します。時を知ると言うことは、機という相手の気持ちを知ることにも通じ、時に左右されて生きていることを理解しましょう。自己中心的な考えを払拭させるところに、時を正確に見る眼が養われます。 
 時を正確に掴んでいくことで、相手に気を使い、信心の異体同心を更に強力にします。時を知ることで、己自身の魔の働きを制止させ、悪道への道を閉ざす作用もあり、自己中心的な考えを改心させることが出来ます。 
 末法の衆生は、自分の主張を押し通そうとする傾向がありますが、その主張は、未来にどの様な影響を生むのか、厳密に考えていくべきです。そこに人間関係を円滑にする油が適度に注がれます。勤行唱題において、時を正確に読んでいく心がけを持つことで、自然と御本尊様から有り難い功徳が頂けるのです。 
 時を間違えると、私達が培った折角の努力と信念も、水の泡や焼け石に水となります。時を十分に知る事が大事です。時を正確に知って、タイミングを計り、自分が培った努力と信念を、その時だけに集中させれば、努力と信念も実を結ぶはずです。信心では、時を正確に掴み、努力と信念を確実にしていきます。
 信心における勤行唱題で、その時を見逃さないタイミングを計っていきます。御本尊様から必ずいいタイミングを、御仏智によって頂けるはずです。その時が見えたら、生活に於ける様々の場面で、自分が培った努力と信念に躊躇(ためら)うことなく、信心に立脚した確信を持ち、降り注ぐことです。折伏もこの時ということを勤行唱題で観察し、成果に結び付けることが大事でしょう。


国を知る

2005-11-21 | 手引書⑨

 日蓮大聖人は「国」について『教機時国抄』に、
 「四に国とは、仏教は必ず国に依(よ)って之を弘むべし。国には寒国・熱国・貧国・富国・中国・辺国・大国・小国、一向偸盗(ちゅうとうこく)国・一向殺生国・一向不孝国等之有り。又一向小乗の国・一向大乗の国・大小兼学の国も之有り。而(しか)るに日本国は一向に小乗の国か、一向に大乗の国か、大小兼学の国か、能く能く之を勘(かんが)ふべし」(御書271)
と仰せです。国とは、国土世間を意味し、大聖人も御指南のように、国も色々あるわけです。その国の状況を事前に鑑みていくことが、生きていく上で大事です。国によって価値観や常識が異なります。自分が培った努力と信念も、それぞれの国によって、どう受け入れられるのか、国情により、微妙に対応を変えなければいけない考慮が必要です。国を知るということは、自己中心的な気持ちを捨てて、相手の国の事情をよく考えるように説かれた教えです。国を知ることで、相手と友好関係を結び、異体同心をはかることが出来ます。
 国とは一般的な日本やアメリカ・中国などという意味を持ちますが、仏法で説く国土世間とは、更に奥の深いものがあります。日本の中でも都道府県によって地域性があります。更にそれぞれの県内でも、一つ市の境を超えると地域性が変わります。その町の中でも、町内という範囲、そして、それぞれの家庭という細かい国土世間があります。家族間にも、様々な繋がりが、そこに厳然と存在するのであります。信心では、御本尊様を受持するところ、以上の国土世間が、修行を深めていくところ、明らかに見ていくことが可能です。それが、正しく御本尊様から頂く尊い功徳であり、信心するところに、本当の国を知る意味が具わるのです。
 それぞれの国土世間において、相手国を知らないで、自分の努力と信念が全て受け入れられるとは、到底いえません。反対され批判を受けることが必ずあります。人は十人十色です。この反対と批判に耐えうる精神をつくることがまた大事です。信心では「柔和忍辱衣」を心に纏うことで乗り越えていきます。相手の国情を察しながら、同時にその国の風土に似合った、「柔和忍辱衣」という衣が出来上がります。柔和とは、水の信心といわれる、水の柔軟性を十分に発揮し、その国土に一番最適な忍辱衣へと、御本尊様の力用によって、命に刻まれます。
 これは、自分の努力と信念だけでつくることは出来ません。御本尊様の尊い力を頂いて「柔和忍辱衣」という衣を身に纏うことが出来ます。この点も十分考えなければいけません。信心をし日蓮大聖人の仏法を学べばここまで汲み取り、努力と信念を確実に実られる方向へ、御本尊様の力用によって導いて下さいます。
 国には、様々な状況があります。折伏においても、国情を知って「随方毘尼(ずいほうびに)」を心得ることが必要です。『月水御書』に、
 「日本国は神国なり。此の国の習ひとして、仏菩薩の垂迹不思議に経論にあいにぬ(相似)事も多く侍るに、是をそむけば現に当罰あり。委細に経論を考へ見るに、仏法の中に随方毘尼(ずいほうびに)と申す戒の法門は是に当たれり」(御書304)
と仰せのように、「随方毘尼」とは、正法が弘りにくい場所において、方便的に、その地域の風俗や習慣、時代の風習に従ってもよいということです。随方とは、随方随時という、時代や地域の風習に随うことです。毘尼とは、戒律のことで、仏法宣揚のため、時と所に応じた弘教方法の必要性を示したものです。
 信心では、国を知るところに、幸せな境遇があると説きます。日蓮大聖人の御指南のもと、信行学を志すところに、明らかな国を知ることが出来ます。


教法流布の先後を知る

2005-11-21 | 手引書⑨

 日蓮大聖人は「教法流布の先後」について『教機時国抄』に、
 「五に教法流布(きょうほうるふ)の先後(せんご)とは、未だ仏法渡らざる国には未だ仏法を聴(き)かざる者あり。既に仏法渡れる国には仏法を信ずる者あり。必ず先に弘まる法を知りて後の法を弘むべし。先に小乗権大乗弘まらば後に必ず実大乗(じつだいじょう)を弘むべし。先に実大乗弘まらば後に小乗・権大乗を弘むべからず。瓦礫(がりゃく)を捨てゝ金珠(こんじゅ)を取るべし。金珠を捨てゝ瓦礫を取ること勿(なか)れ已上」(御書271)
と御指南であります。教法流布の先後とは、教と機と時と国は、前後次第、時の流れによって異なり変化します。この異なりを正確に、信心では御本尊様から仏眼を頂いて掴(つか)み、自分の信心で築いた、努力と信念を、確実に実らせるよう位置付けます。そこに、仏様の住まわれる、「常寂光土」の実現があります。この心がけは、信心と生活両面に必要なことです。
 教法流布の先後を、正確に見ていくには、時の御法主上人猊下の御指南に信伏随従することが鉄則です。そこに教と機と時と国の流れを、正しく拝していくことが出来ます。また、各末寺においては、御住職様の御指導のもとに、講中が異体同心していくところ、教法流布の先後の意義があります。
 折伏などの家庭訪問においては、その家庭の現時点に於ける、第一印象という外見だけで、安易に判断するのではなく、教法流布の先後といわれるように、御先祖様からの宗教に関する信仰の状態を、過去にさかのぼり窺うことが大事です。過去の信仰状態によって、私達が話す内容に対する理解が異なります。この点を回避するのが、教法流布の先後を知る重要なところです。
 また私達の一方的になりやすい、折伏姿勢を止めていく、防非止悪的な要素があります。落ち着いて、相手の出方に様子を見る意義があります。「所作仏事」を常に意識する戒めになります。家庭訪問に於ける、教法流布の先後の意義がそこにあるわけです。
 生活の場においても、教法流布の先後の応用があります。家庭訪問という、折伏で培った経験を生活に活かします。勤行唱題で御本尊様から智慧を賜り、仕事や家庭に様々な形で応用します。生活が必ず快適になるはずです。そこに「信心即生活」といういわれがあります。つまり「我此土安穏」へと、家庭環境が変わるのです。教法流布の先後を知ることで、我見による努力や信念も、確実に実を結ぶのであります。
 仏教に関わらず、広く考えた場合、相手にどれくらいの教養が身に付いているのか、鑑みなさいという意味があります。仕事はどれくらい出来る能力があるのか、それぞれ人によって違います。特に、職場の上司において要求される心構えが、この教法流布の先後の応用です。上司の方は、部下の素養も把握しないままに、信用していては、未来に思わぬ障害を招きかねません。信心に於ける、教法流布の先後という教えを、この様な形で仕事場に応用していきます。そこに、会社の発展があり、業績を上げる結果に繋がって、上司と部下の信頼関係を築くのです。
 信心では、勤行唱題根本に、その能力を最大限に引き出します。世間法では、現当二世に渡らない限界があります。信心では、その限界を回避し、世の中の微妙な変化を、御本尊様から仏眼という智慧を頂き、明らかに見ていくのです。そこに、正確な教法流布の先後という応用が成されるのであります。
 寺院での唱題行には、以上の意義を踏まえて参加することが大切です。教法流布の先後を正しく知るところ、日蓮大聖人の御境界に近付けるのであります。